「子供がはじめて乗合馬車に乗せてもらって、川へ連れて行ってもらう。それから川で海老を獲るのだが、瓶のなかから海老が跳ねて子供は泣きだす」
妻の眼は大きく見ひらかれた。それは無心なものに視入ったり憧れたりするときの、一番懐しそうな眼だった。それから急に迸るような悦びが顔一ぱいにひろがった。
「お書きなさい、それはきっといいものが書けます」
その祈るような眼は遙か遠くにあるものに対って、不思議な透視を働かせているようだった。彼もまた弾む心で殆ど妻の透視しているものを信じてもいいとおもえたのだが……。
彼の妻は結婚の最初のその日から、やがて彼のうちに発展するだろうものを信じていた。それまで彼の書いたものを二つ三つ読んだだけで、もう彼女は彼の文学を疑わなかった。それから熱狂がはじまった。さりげない会話や日常の振舞の一つ一つにも彼をその方向へ振向け、そこへ駆り立てようとするのが窺われた。彼は若い女の心に転じられた夢の素直さに驚き、それからその親切に甘えた。だが、何の職業にも就けず、世間にも知られず、ひたすら自分ひとりで、ものを書いて行こうとする男には、身を斫りさいなむばかりの不安と焦躁が渦巻いていた。世の嘲笑や批難に堪えてゆけるだけの確乎たるものはなかったが、どうかすると、彼はよく昂然と、しかし、低く呟いた。
「たとえ全世界を喪おうとも……」
たとえ全世界を喪おうとも……それはそれでよかった。だが、眼の前に一人の女が信じようとしている男、その男が遂に何ものでもなかったとしたら……。
彼にとって、文学への宿願は少年の頃から根ざしてはいた。が、非力で薄弱な彼には、まだ、この頃になっても殆ど何の世界も築くことができなかった。世界は彼にとっては恐怖と苦悶に鎖されていた。が、その向側に夢みる世界だけが甘く清らかに澄んでいた。妻は彼の向側にあるものを引き寄せようとしているのかもしれなかった。彼はそのような妻の顔をぼんやりと眺める。するとむしろ、妻の顔の向側に何か分らないが驚くべきものがあるようにおもえた。
その年の夏が終る頃から、作品は少しずつ書かれていた。外部の喧騒から遮断されたところで読書と瞑想に耽ることもできたが、彼はいつも神経を斫り刻むおもいで、難渋を重ねながらペンをとった。……このようにして年月は流れて行った。だが、外部の世界と殆ど何の接触もなく静かに月日を送っていることは、却って鋭い不安を掻きたてていた。天井の板が夜ことりと音をたてただけでも、彼の心臓をどきりとさせたし、雨戸の節穴から差してくる月の光さえも神経を青ざめさせた。
それからやがて、あの常に脅かされていたものが遂にやって来たのだ。戦争は、ある年の夏、既にはじまっていた。彼はただ頑な姿勢で暗い年月を堪えてゆこうとした。が、次第に彼は茫然として思い耽るばかりだった。幼年時代に見た空の青かったこと、水の澄んでいたこと、そのような生存感ばかりが疼くように美しかった。茫然としてもの思いに耽っている彼を、妻はよくこう云った。
「エゴのない作家は嫌です。誰が何と云おうとも、たとえ全世界を捨てても……」
そういう妻の眼もギラギラと燃え光っていた。澱みやすい彼の気分を掻きまぜ沈む心をひき立てようとするのも彼女だった。それから妻は茶の湯の稽古などに通いだした。だが、その妻の挙動にも以前と違ういらだちが滲んで来た。
「淋しい、淋しい、何かお話して頂戴」
真夜なかに妻は甘えた。二人だけの佗住居を淋しがる彼女ではなかったのに、何かの異常なものの予感に堪えきれなくなったらしい。だが、それが何であるかは、彼にはまだ分らなかった。
その悲壮がやって来たのは、もう二年後のことだった。夏の終り頃、彼は一人で山の宿へ二三泊の旅をしたが、殆ど何一つ目も心も娯しますもののないのに驚いた。山の湖水の桟橋に遊覧用のモーター・ボートが着く。青い軍服を着た海軍士官の一隊が――彼の眼には編笠をかむって珠数繋ぎになっている囚人の姿に見えてくる。こうした憂鬱に沈みきって、悄然とむなしい旅から戻って来た。家へ戻ってからも彼は己れと己れの心に訝りながら佗しい旅の回想をしていた。
そうした、ある朝、彼は寝床で、隣室にいる妻がふと哀しげな咳をつづけているのを聞いた。何か絶え入るばかりの心細さが、彼を寝床から跳ね起させた。はじめて視るその血塊は美しい色をしていた。それは眼のなかで燃えるようにおもえた。妻はぐったりしていたが、悲痛に堪えようとする顔が初々しく、うわずっていた。妻はむしろ気軽とも思える位の調子で入院の準備をしだした。悲痛に打ちのめされていたのは彼の方であったかもしれない。妻のいなくなった部屋で、彼はがくんと蹲り茫然としていた。世界は彼の頭上で裂けて割れたようだった。やがて裂けて割れたものに壮烈が突立っていた。
病院に通う路上で、赤とんぼの群が無数に一方の空へ流れてゆくのを視て、彼はひとり地上に突離されているようにおもえた。
燃えて行った夏、燃えて行った夏……彼は晩夏のうっとりとした光線にみとれて、口誦んだ。夏はまだいたるところに美しく燃えたぎっているようであった。病院の入口の庭ではカンナが赤く天をめざして咲いていた。病室のベッドのなかで、妻は赤らんだ顔をしていた。その額は大きな夏の奔騰のように彼におもえた。やがて彼には周囲の殆どすべてのものが熱っぽく視えて来た。それは病苦と祈りを含んだ新しい日々のようであった。「どうなるのでしょう」と妻の眼はふるえる。彼も突離されたように、だが、その底で彼は却って烈しく美しいものを感じた。彼はとり縋るようにそれに視入っているのだった。
その後、妻が家に戻って来て、療養生活をつづけるようになってからも、烈しく突き離されたものと美しく灼きつけられたものが、いつも疼いていた。この時を覘うように、殺気立った世の波は彼の家に襲って来た。家政婦は不意に来なくなり、それからその次に雇った女中は二日目にものを盗んで去った。彼はがくんと蹲り祈りと怒りにうち震えた。その次に通いでやって来るようになった女中は何事もなく漸くこの家に馴れて来そうだった。
それから少しずつ穏かな日がつづいた。いつも彼の皮膚は病妻の容態をすぐ側で感じた。些細な刺戟も天候のちょっとした変動もすぐに妻の体に響くのだったが、脆弱い体質の彼にはそれがそのまま自分の容態のようにおもえた。無限に繊細で微妙な器と、それを置くことの出来る一つの絶対境を彼は夢みた。静謐が、心をかき乱されることのない安静が何よりも今は慕わしかった。……だが、ある夜、妻の夢では天上の星が悉く墜落して行った。
「県境へ行く道のあたりです。どうして、あの辺は茫々としているのでしょう」
妻はみた夢に脅え訝りながら彼に語った。その道は妻が健康だった頃、一緒に歩いたことのある道だった。山らしいものの一つも見えない空は冬でもかんかんと陽が照り亘り、干乾らびた轍の跡と茫々とした枯草が虚無のように拡っていた。殆ど彼も妻と同じ位、その夢に脅えながら悶えることができた。妖しげな天変地異の夢は何を意味し何の予感なのか、彼にはぼんやり解るようにおもえた。だが、彼は押黙ってそのことは妻に語らなかった。……寝つけない夜床の上で、彼はよく茫然と終末の日の予感におののいた。焚附を作るために、彼は朽木に斧をあてたことがある。すると無数の羽根蟻が足許の地面を匐い廻った。白い卵をかかえて、右往左往する昆虫はそのまま人間の群集の混乱の姿だった。都市が崩壊し暗黒になってしまっている図が時々彼の夢には現れるのだった。
妻はきびしい自制で深い不安と戦いながら身をいたわっていた。静かに少しずつ恢復へ向っているような兆も見えた。柔かい陽ざしが竹の若葉にゆらぐ真昼、彼女は縁側に坐って女中に髪を梳かせていた。すると彼には、そういう静かな時刻はそのまま宇宙の最高の系列のなかに停止してしまっているのではないかと思える。
気分のいい日には、妻は自然の恵みを一人で享けとっているかのように静臥椅子で沈黙していた。すべて過ぎて行った時間のうち最も美しいものが、すべて季節のうち最も優しいものだけが、それらが溶けあって、すぐ彼女のまわりに恍惚と存在している。そういう時には彼も静臥椅子のほとりでぼんやりと、しかし熱烈に夢みた。たとえ現在の生活が何ものかによって無惨に引裂かれるとしても、こうした生存がやがて消滅するとしても、地上のいとなみの悉くが焼き失せる日があるとしても……。
(昭和二十四年五・六月合併号『近代文学」)
●表記について
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