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ガリバー旅行記(ガリバーりょこうき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 13:42:57  点击:  切换到繁體中文


     3 楽しい家庭

 ある朝、迎えの使いが、私のところへやって来ました。行ってみると、主人が、
「まあ、そこに坐れ。」
 と言います。
「これまで、お前から聞いた話は、その後、まじめに考えてみたが、どうも、お前たちは、どういう風の吹きまわしか、たま/\爪のあかほどの理性を持っている一種の動物らしい。ところが、お前たちはせっかく、自然が与えてくれた立派な力は、捨てゝ見向きもしようとしないで、もとから持っている欠点ばかりをふやそうとしている。わざ/\骨を折っては、欠点をふやす工夫や発明をしているみたいなものだ。
 ところで、お前は、お前の国のヤーフどもの有様をいろ/\話してくれたが、お前たちと、この国のヤーフとは、身体の恰好がよく似ているだけでなく、心の方もよく似ていると思えるのだ。ヤーフどもがお互に憎み合うのは、ほかの動物には見られないほど猛烈なもので、それは誰でも知っていることなのだが、この国のヤーフどもの争いも、お前が言ったお前たちのその争いも、どちらも、どうもよく似ているのだ。
 もし、こゝにヤーフが五匹いるとして、そこへ五十人分ぐらいの肉を投げてやるとする。すると、彼等はおとなしく食べるどころか、一人で全部を取ろうとして、たちまち、ひどいつかみ合いがはじまる。だから、彼等が外で物を食べるときには、召使を一人そばに立たせておくことにするし、家にいるときは、お互に遠くへ離してつないでおく。
 また、牛が死んだりした場合、それをフウイヌムが家のヤーフのために買って戻ると、間もなく近所のヤーフどもが群をなして盗みに来る。そして、お前が言ったと同じような戦争がはじまる。爪で引っ掻き合って大怪我をする。たゞ幸いなことに、お前たちの発明したような、人殺し器械はないので、めったに死ぬようなことはない。また、あるときは、何の理由もないのに、近所同士のヤーフどもが、同じような戦争をはじめる。つまり近所同士で、折もあらば不意をおそってやろうと、隙をねらっているのだ。」
 それから、主人はさらに次のような珍しい話をしてくれました。
 この国の、ある地方の野原には、さま/″\の色に光る石があって、これがヤーフどもの大好物なのです。もし、この石が地面から半分ほど、のぞいていたりすると、ヤーフは何日でも、朝から晩まで爪で掘り返しています。そして家に持って帰ると、それを小屋の中にそっと隠しておきますが、まだそれでも、もしか仲間に嗅ぎ出されはしないかと、ギョロ/\と目を見張っています。
 主人は、どうしてまたこんな石をヤーフどもが大切がるのか、さっぱりわからなかったのですが、一度試しに、ヤーフが埋めている場所から、そっとこの石を取りのけておきました。すると、このさもしい動物は、宝がなくなっているのに気づいて、大声で泣きわめき、仲間をすっかりそこへ呼び集めました。そして、さも哀れげに悲しんでいるかとおもうと、たちまち誰彼の区別もなく噛みついたり、引っ掻いたり大騒ぎをします。それからだん/\元気がなくなって、物も食べなければ、眠りもしません。そこで主人は、その石をまたもとのところへ返してやりました。それを見ると、ヤーフはすぐ機嫌もよくなり、元気になったということです。
 この光る石がたくさん出る土地にかぎって、ヤーフどもは絶えず、その土地を争い合って、お互に戦争します。二匹のヤーフが野原で、この石を見つけると、互ににらみ合って争います。そこへもう一匹のヤーフが現れて、横取りすることもあるそうです。
 それから、ヤーフという奴は、とき/″\、気が変になるらしく、たゞ隅っこに引っ込んでしまい、寝ころがって、吠えたり唸ったり、誰かそばへ寄ると、たちまち蹴とばしてしまいます。まだ年も若いし、肉附きもいゝし、別に食物が欲しいわけでもないのです。一たいどこが悪いのか、さっぱりわかりません。ところが、こんな場合、ヤーフを無理にどん/\働かせると、この病気はケロリと治るそうです。
 こんなふうに、私は主人から、ヤーフの性質をいろ/\聞かされました。
 それではひとつぜひ、どこか近所のヤーフの群を訪問させてください、と私は頼みました。主人は快く承知して、召使の月毛の子馬を、私の附添いに命じました。この附添いがいなかったら、とても私はヤーフの近くに行くことはできなかったのです。私が最初この国に来たとき、この忌まわしい動物にいじめられたことは、前にも言ったとおりですが、その後も、私はうっかり短剣を忘れて外に出たときなど、三四度も危く爪にかけられるところでした。
 それに、どうやら彼等の方でも、私が同種族のものであることに、うす/\感づいていたようです。私は附添いと一しょにいるときなど、よく袖をまくりあげて、腕や胸を見せてやりました。すると彼等は、いつも私のすぐ傍まで来て、ちょうどあの猿の人まねと同じように、しきりに私の恰好をまねますが、いつも憎々しげな顔つきで、それをやるのでした。
 彼等は子供のときから、とても敏捷です。あるとき私は三歳の子を一匹捕えて、手なずけようとしましたが、相手は、恐ろしい勢いで、喚いたり、引っ掻いたり、噛みつくので、とう/\放してやりました。私の見たところでは、ヤーフほど教えにくい動物はいません。できることゝいえば、荷物を引いたり、かついだりすることぐらいです。
 フウイヌムたちは、家から少し離れたところに、小屋を作って、ヤーフを飼っていますが、その他のヤーフは、すべて野原に放し飼いにされているのです。彼等はそこで、木の根を掘ったり、草を食ったり、肉をあさったり、ときには、いたちを捕えて食べます。そして丘などの側に、爪で深い穴を掘って、その中に寝ます。彼等は子供のときから、水泳ぎや、水潜りができます。こうしてよく魚を捕えては、牝が家に持って帰って、子供に食べさせます。
 ところで、なにしろ、私はこの国に三年も住んでいたのですから、この国の住民たちの風俗や習慣を、こゝに少し述べておきます。
 このフウイヌム族というのは、生れつき、非常に徳の高い性質を持っています。彼等の格言は、『理性を磨け。理性によって行え。』というのでした。
 友情と厚意は、フウイヌムの美徳です。どんな遠い国から来た知らない人でも、まるで友達のようにもてなされます。どこへ行っても、自分の家と同じように安心できます。みんなは、非常に上品で、つゝしみ深いのですが、ちょっとも、わざとらしいところがありません。自分の子供も他所の子供も、同じように可愛がります。子供の教育の仕方は、なか/\立派なのです。十八歳になるまでは、ある定まった日でなければ、からす麦など一粒も口にすることを許されません。夏は午前に二時間と、午後に二時間ずつ、草を食べさせてもらいますが、この規則を親たちもきちんと守ります。
 フウイヌムは、その子弟を強くするために、険しい山や石ころ道を走らせます。汗だくになると、今度は河の中にザンブリ頭から跳び込ませるのです。それから、一年に四回、若い男女が集って、駈けくらや、跳込み、そのほか、いろ/\の競技をします。勝った者には、それをほめる歌が与えられます。
 フウイヌムは文字というものを、まるで持っていません。知識は親から子へ口で伝えるのです。彼等は詩を作ることが、とても上手です。友情や善意を歌ったものと、運動の優勝者をほめたものと、なか/\美しい詩があります。
 フウイヌムたちは、病気にかゝるということがないので、医者はいません。しかし、怪我をしたときつける薬は、ちゃんと備えてあります。彼等は、病気にかゝつて死ぬようなことはなく、たゞ年をとって自然に衰えて死ぬのです。そして、死人は人目につかない場所にそっと葬られます。臨終だといって、誰も悲しんだりするものはありません。死んでゆく本人でさえ、ちょっとも悲しそうな顔はしていないのです。
 彼等は大てい、七十か七十五まで生きます。たまには八十まで生きるものもいます。死ぬ二三週間前になると、だん/\身体が弱ってきますが、別につらくはないのです。そうなると、友達が次々に訪ねて来ます。つまり、気楽にちょっと外出するようなことができないからです。いよ/\死ぬ十日前頃には、今度はそりに乗って、ヤーフどもに引かせて、ごく近所の人たちだけに答礼に出かけてゆきます。彼は答礼先へ着くと、まず、お別れの挨拶をのべるのですが、それはまるで、どこか遠いところへ旅行するときの別れのような恰好なのです。
 私は、主人の家から六ヤードばかり離れたところに、自分の室を一つ作らせてもらいました。
 壁は自分で塗り、床には自分で作ったむしろを敷きました。この国には麻が多いので、それを打って、蒲団のおゝいを作り、その中に鳥の羽毛を詰めました。骨の折れる仕事は子馬に手伝ってもらい、小刀で椅子を二つこしらえました。服が擦り切れると、これは兎の皮で代りを作りました。この皮からは、立派な靴下もできました。私はよく木のうろから蜜を取って来て、水に混ぜて飲んだり、パンにつけて食べました。
 私は、主人のところへ訪ねて来る、フウイヌムのお客たちとも、知り合いになりました。
 主人の部屋に、私の方から出かけて行くこともあり、ときには、主人やお客が、私の部屋に訪ねて来ることもあります。それから、またときには、主人のお供をして、お客の家に訪ねて行くこともありました。
 私は質問に答えるほかは、こちらから口を出して、しゃべったりするようなことはしなかったのです。たゞ、そばで彼等の話を聞いていれば、それだけで、私は気持よかったのです。
 彼等の話は、ちょっとも無駄なところがなく、簡単で、はっきりしていました。ちゃんと礼儀は守られていて、堅苦しいところがないのです。しゃべることは、話す方も楽しければ、聞く方も気持よくなるようなことばかりです。じゃまも入らねば、退屈もなく、のぼせたり、争ったりするようなことはないのです。
 彼等は大てい、友情とか、慈善とか、秩序とか、経済などのことを話し合います。それから、詩の話もよく出ます。私はヨーロッパで一番偉い人たちの集まりに出るよりも、ここで、フウイヌムの話を開いている方が、ずっと誇らしく思えました。
 私はこの国の住民たちの力と美と速さを感心しました。そして、このような穏やかな、立派な人格を、私はだん/\尊敬するようになりました。
 そして私は、自分の家族や友人、同胞などを考えてみると、とてもひどく恥かしくなりました。ヤーフと私たちが違うのは、たゞ人間の方は言葉が話せるということだけで、理性はかえって悪いことに使われています。よく、泉や湖にうつる自分の姿を見たときなど、私は思わず顔をそむけたくなりました。

     4 ヤーフ君、お大事に

 私はこの国にいつまでも住んでいたい、と思うようになりました。ところが、どうしても、この国を立ち去らねばならぬことがもちあがりました。
 この国では、四年ごとに全国から、代表者が集って、会議を開くのです。この会議は野原で、五六日つゞけられます。私の主人も、今度その会議に、代表者として、出て行ったのです。
 ところで、今度の会議で問題になったのは、ヤーフをこの地上に生かせておいて、いゝか悪いかという問題でした。
 一人の議員は次のように演説しました。
「およそ、世の中にヤーフほど、不潔で、いやらしいものはない。彼等はこっそり、牛の乳を吸うやら、猫を殺して食べるやら、畑を荒すやら、ろくなことはしない。
 このヤーフというものは、もとからこの国にいたものではない。伝説によると、あるとき、突然、山の上に二匹のヤーフが現れたという。これは、太陽の熱で腐った泥の中から生れたものかどうか、よくわからないが、一度生れて来ると、子供がずん/\ふえて、たちまち全国にひろがってしまった。
 そこでフウイヌムたちは大山狩をして、ヤーフたちを取り囲み、年とったものを殺してしまい、若いのだけ、フウイヌム一人について二匹ずつ、小屋を作って飼うことにした。そこで、あばれものゝ動物も、少しは馴らされ、とにかく物を引かせたり、運ばせたりするくらいの役には立つようになった。
 しかし、住民たちは、ヤーフを使っているうちに、ついうっかり驢馬をふやすことを忘れてしまった。驢馬はヤーフにくらべて、すばしこくはないが、その代り形もいゝし、おとなしくて、臭くもない。われ/\は、あのいやらしいヤーフは殺して、その代りに驢馬を使った方がいゝと思う。」
 これには賛成したものも大分ありましたが、私の主人は反対の意見をのべました。
「二匹のヤーフが山に現れたという伝説は、こんなふうに考えられる。あれは、確かに海を越えて、向うからやって来たもので、二匹は上陸すると、そのまゝ山の中へ逃げ込んだものらしい。それから時のたつとともに、だん/\野蛮になって、とう/\、あんなふうな動物になってしまったのだと思われる。その証拠には、私は不思議なヤーフを一匹持っている。」
 こういって、主人は、私を見つけたときのこと、洋服を着ていること、この国の言葉をおぼえてしまったこと、この国へ来るまでのことを自分で話して聞かせたことなど、いろいろ説明しました。
「こんなふうな、おとなしいヤーフもいるのだから、ヤーフをみな殺しにするのは可哀そうだ。それより、ヤーフの子供をふやさないようにして、驢馬の子をうんとふやすようにしたらいゝと思う。」
 と私の主人はこう演説したのでした。
 私はこの会議のことを主人から聞かされて、なんだか心配になりました。ヤーフをどうすることに決まったのか、それはまだ、はっきり聞かせてもらえなかったのです。
 ある朝、主人から迎えの使が来ました。行ってみると、主人は、どうも何から話し出したらいゝのか、困っている様子でした。が、やっと口を開いて言いました。
 それによると、今度の会議で、私はこの国から出て行ってほしい、ということに決まったのです。
 ヤーフを家に置いて、フウイヌム並みに扱っているとは実にけしからん、と主人は代表者たちから苦情を言われました。普通のヤーフのように働かすか、それとも、泳いで国へ帰らすか、どちらかにせよ、と言われるのです。だが、私を普通のヤーフの仲間に入れたら、ヤーフたちをそゝのかして、夜になると家畜をおそったり、どんな危険なことをやりだすかわからない、というので、やはり泳いで国へ帰らせた方がいゝと決まりました。主人は私に同情して、
「私はむろん一生でも喜んでお前を置いてやりたかったのだが、どうも仕方がない。泳いで帰るといっても、まさかお前の国まで泳げもすまい。だから、いつかお前の話した、海を渡る容れものをひとつ作ってみてはどうか。それなら私の召使や近所の召使にも手伝わせてやる。」
 私は主人にこう言いわたされると、悲しくなって、彼の足許にふら/\と倒れました。主人は私が死んでしまったのかと思ったほどでした。しかし、とにかく気を取りなおして、船を作ることに決めました。船ができるまで、二ヵ月待ってもらうことになりました。そして、私は召使の月毛を助手に貸してもらいました。
 私は月毛をつれて、あの海賊どもが私をむりやりに上陸させた海岸の方へ行ってみました。丘にのぼって、ずっと四方を見わたすと、東北の方向に島影のようなものが見えています。望遠鏡を出してのぞいてみると、確かに島です。距離は五リーグぐらいです。とにかく、この島が見つかった以上はもう大丈夫だ、後は運を天にまかせて、あの島まで流れて行こう、と私は決心しました。
 それから家に帰ると、月毛と相談して、今度は森へ出かけて行きました。私は小刀で、彼はフウイヌムの斧を使って、かしわの枝を幾本も切り落しました。それを私はいろ/\に細工しました。一番骨の折れるところは月毛が手伝ってくれて、六週間もすると、インド人の使うような独木舟カヌーが一せき出来上りました。
 船はヤーフの皮で張って、手製の麻糸で縫い合せました。帆もやはりヤーフの皮で作りました。兎と鳥の蒸肉、それに牛乳、水を入れた壷を二つ、それだけを船に積み込んでおきました。私はこの船を家の近くの大きな池に浮べてみて、悪いところをなおし、隙間にはヤーフの脂を詰めました。いよいよ、これで大丈夫になりました。そこで、今度は船を車に積み、ヤーフたちに引かせて、静かに海岸まで運んだのです。
 準備が出来上って、出発の日がやって来ました。私は主人夫妻と家族に別れを告げました。目は涙で一ぱいになり、心は悲しみで、掻きむしられるばかりでした。だが、主人は、私が船に乗るところが見たいと言って、近所の人々を誘って一しょにやって来ました。私は潮合を一時間ばかり待っていました。風工合もよくなったので、いよ/\向うの島へ渡ろうと思い、そこで、私は改めてまた主人に別れを告げました。私がひれ伏して、彼の蹄にキスしようとすると、彼は静かにそれを私の口許まで上げてくれました。ほかのフウイヌムたちにも、ていねいに挨拶して、舟に乗り込むと、私はいよいよ岸を離れたのです。
 私が岸を離れたのは、一七一四年二月十五日、朝の九時でした。主人や友人たちは、私の姿が見えなくなるまで、海岸に立って、見送ってくれていました。とき/″\、召使の月毛が、
「ヤーフ君、お大事にね。」
 と、どなってくれるのが聞えました。
 私はできることなら、どこか無人島を見つけたい、と思いました。そこで働きさえすれば、生きてゆける小さな島があったら、私は、ひとりで静かに暮したいのです。私はヨーロッパのヤーフたちの社会へ帰るのは、もう考えただけでも厭でした。
 その日の夕方、向うに小さな島が一つ見えてきて、私は間もなく、そこへ着きました。だが着いてみると、それは大きな岩だったのです。しかし、岩の上によじのぼってみると、東の方に陸地がずっと伸びているのが、はっきり見えました。その晩は舟の中で寝て、翌朝早く起きると、また航海をつづけました。七時間ばかりすると、ニューポランドの東南端に着きました。
 私は武器を持っていないので、奥へ進むのは心配でした。海岸で貝を拾いましたが、火をたいて土人に見つかるといけないので、生のまゝ食べました。三日間は牡蠣と貝ばかり食べていましたが、近くに綺麗な小川があったので、水の方は助かりました。
 四日目の朝、私は少し遠くへ出かけてみました。ふと、前方の丘の上に、二三十人の土人の姿が見えました。男も女も子供も、真裸で、火を囲んでいるのです。一人がふと私の姿を見つけて、すぐほかの者に知らせたかとおもうと、五人の男がこちらへ近づいて来ました。私はもう一目散に海岸へ逃げて帰ると、舟に跳び乗って漕ぎ出しました。
 それから私は舟を北の方へ進めてみました。しばらくすると、向うに帆の影が一つ見えてきました。しかも、船はどん/\こちらへ近づいて来るのです。私はこのまゝ待っていようかしらと思いましたが、ヤーフのことを考えると、たまらなくなりました。そこで舟を漕いで一目散に逃げ出しました。そして私が朝出たあの島へまた戻って来ました。私は小川の傍の岩かげに隠れていました。
 後から追って来た舟は、ボートをおろして、この島へ水汲みにやって来ました。そして水夫が上陸するとき、私の独木舟カヌーに気づきました。持主がどこかにいるにちがいないと、彼等はそこらじゅうを探しまわりました。武装した四人の男が、とう/\、岩かげにすくんでいる私を見つけだしたのです。革の服、毛皮の靴下、私の奇妙な服装に、彼等は驚いたようです。
「立て、お前は何者だ。」
 と、水夫の一人が、ポルトガル語で尋ねました。ポルトガル語なら、私もよく知っているので、すぐ立ち上って答えてやりました。
「私はフウイヌムの国から追い出された哀れなヤーフです。だから、どうか、このまゝ、そっとしておいてください。」
 ポルトガル語ができるので彼等は驚きましたが、私がまるで馬のようにいなゝいてものを言うのに噴き出してしまいました。私はもう怖くてブル/\震えていました。逃がしてください、と言いながら、独木舟の方へ行こうとすると、彼等は私を捕えて、どこの国の者で、どこから来たかなど、いろんな質問をしかけます。
 彼等がものを言いだしたとき、私は犬や牛がものを言いだしたように、全く変な気持にさせられました。私が何度も逃げ出そうとするので、とう/\彼等は私をしばりあげて、ボートへ引きずりこみ、それから本船へつれて行かれました。そして私は船長室へ引っ張って行かれました。船長の名前はペドロといゝ、大へん、親切な男でした。
「どうか、あなたの身の上話を聞かせてください。食事はどんなものを召し上りますか。これからは私と同じ待遇にしてあげたいのです。」
 と、こんな親切なことを言ってくれます。しかし、私は相変らず黙り込んでいました。
 私は彼等の臭が厭でたまらなく、今にも倒れそうでした。しかし、彼等は私に一寝入せよと言って綺麗な部屋へ案内してくれました。私は服のまゝベッドに渡ころんでいましたが、三十分ばかりして、水夫たちの食事をしている隙に、そっと抜け出しました。こんなヤーフどもと暮すくらいなら、いっそ海へ飛び込もうと覚悟しているところを、船員の一人に見つけられました。そして、今度は船長室にとじこめられました。
「なぜあんな無謀なことをしようとしたのだ。自分は、できるだけのことをしてあげたいと思っているのに。」
 と船長はしみ/″\言ってくれます。
 私はごく簡単に、これまでの身の上話をしてやりました。すると、船長は夢の話でも聞いているような顔つきでした。しかし、彼はなか/\賢い男で、やがて私の話をだん/\わかってくれました。私も、もう二度と逃げ出すようなことはしないと約束しました。
 航海は順調に進みました。一七一五年十一月五日、船はリスボンに着きました。十一月二十四日にイギリス船で私はリスボンを発ち、十二月五日にダウンスに着きました。
 てっきり私を死んだものと思い込んでいた妻子たちは、大喜びで迎えてくれました。家に入ると、妻は私を両腕に抱いてキスしました。だが、なにしろこの数年間というものは、人間に触られたことがなかったので、一時間ばかり、私は気絶してしまいました。


[#改丁]






  著者から読者へに代えて


    あとがき

 ガリバーは十六年と七ヵ月の間、不思議な国々を旅行して来ました。私たちも、彼のあとについて、もう一度、その珍しい国々を廻ってみましょう。
 まず一番はじめに、リリパットの国へ来てみると、どうでしょう。うっかり歩けば、足の下に踏みつぶしてしまいそうな小人がうじょうじょしているではありませんか。小人なんか何でもないとあなどると大間違いです。ガリバーはあべこべに小人の王様の家来にされてしまいます。それから、ハンカチの上で騎兵を走らせたり、軍隊をまたの下に行進させたりします。こんな話なら、もう誰でも一度は絵本で見たり、人から聞かされて知っているはずです。私も子供のときリリパットの国の話を聞いて、縁側でありの行列を眺めていたら、自分がガリバーになったような気がしたものです。しかし、小人の国にも戦争があったり、政争があったりして、ガリバーはとうとうこの国を逃げ出してしまいます。
 それから、その次にブロブディンナグ国へ来てみると、ガリバーはまずきもをつぶします。今度はガリバーの方が小人になっているのです。いくら、ガリバーが強そうな振りをしても、自分の国の自慢をしてみても、この国の人から見れば、まるで虫けらのようなものです。だから、ガリバーは箱に入れられて、カナリヤのように可愛がられています。すると、その箱を鷲がつかんで海へ持って行きます。こうして、ガリバーは大人国ともお別れになります。
 今度はガリバーは飛島へやって来ます。どうもそこには奇妙な人間ばかり住んでいるので、ガリバーはうんざりしてしまいます。それから、バルニバービ国の学士院を見物したり、幽霊の国へ行ったり、死なない人間と会ってみたりします。それからガリバーははるばる日本へまでやって来ます。東京はまだ江戸といわれていた頃のことで、長崎では踏絵があったりします。
 最後にガリバーは馬の国へやって来ます。そこには人間そっくりのヤーフといういやらしい家畜がいるので、まずガリバーはそれを見てぞっとします。それからフウイヌムたちに会い、そこの言葉をおぼえ、そこの国に馴れてくるにしたがって、ガリバーはこの穏やかな理性の国がすっかり気に入ってしまいます。そして人間より馬の方がずっと立派だと思うようになります。だから、この国を彼が追放されたときの嘆きは大へんなものです。それから久し振りで人間と出会うと、ガリバーはたまらなくなって逃げ出そうとします。しかし、人間より馬の方が立派だなど、少し情ない話ではありませんか。ほんとにこれは情ない、奇妙な話にちがいありません。けれども、この話は奇妙でありながら、何か人の心に残るものがあります。読んだら忘れられない話のようです。

 では、こんな不思議な話を書いた人は、一たいどんな人なのでしょうか。
 今からおよそ二百年ばかり前、ジョナサン・スイフトという人がこれを書いたのです。彼は一六六七年、アイルランドのダブリンに生れました。頭の鋭い、野望家でした。はじめは、ロンドンに出てしきりに政治問題に筆を向け、政党にも加わっていました。生れつき諷刺の才能に恵まれていたので、『書物の戦争』とか『桶物語』とかいう本を書いて、当時の社会を皮肉っていました。しかし、後にはアイルランドに引っ込んで、そこで、教会の副監督をしながら、淋しく暮していたのです。
 さて、この『ガリバー旅行記』は一七二六年に書き上げられました。ちょうど、彼が五十九の年で、アイルランドに引退してから十四年目のことでした。
 痛ましいことに、彼はその後、次第に気が狂ってゆきました。一七四五年、七十七歳で、この世を去りました。
 この『ガリバー旅行記』は、これまで広く世界中の人々に親しまれてきた本です。大人にも、子供にも、これくらい、よく読まれてきた本はまれです。これからもまだ多くの人々に読まれてゆくことでしょう。


   ガリヴァ旅行記
   ――K・Cに――

 この頃よく雨が降りますが、今日は雨のあがった空にむくむくと雲がただよっています。今日は八月六日、ヒロシマの惨劇から五年目です。僕は部屋にひとり寝転んで、何ももう考えたくないほど、ぼんやりしています。子供のとき、僕は姉からこんな怪談をきかされたのを、おもいだします。ある男が暗い夜道で、こわい怕いお化けと出逢う。無我夢中で逃げて行く。それから灯のついた一軒屋に飛込むと、そこには普通の人間がいる。ほっと安心して、彼はさきほど出逢ったお化けのことを相手に話しだす。すると、相手は「これはこんな風なお化けだろう」という。見ると、相手はさっきのお化けとそっくりなのだ。男はキャッと叫んで気絶する。――この話は子供心に私をぞっとさすものがありました。一度遇ったお化けに二度も遇わすなど、怪談というものも、なかなか手のこんだ構成法をとっているようです。
 先日から僕はスゥイフトのガリヴァ旅行記をかなり詳しく読み返してみました。小人国の話なら子供の頃から聞かされています。夏の日もうっとりして、よく僕は小人の世界を想像したものです。子供心には想像するものは、実在するものと殆ど同じように空間へ溶けあっていたようです。そういえば、少年の僕は、船乗りになりたかったのです。膝をかかえて、老水夫の話にきき入っている少年ウォター・ロレイの絵を御存知ですか。あの少年の顔は、少年の僕にとても気に入っていたのです。

地図を愛し版画を好む少年には宇宙はその広大なる食慾に等し。
ああ! ランプの光のもと世界はいかに大なることよ!
されど追憶の眼に映せばいかばかり小なる世界ぞ!

 ボードレールは「航海」という詩でこう嘆じていますが、僕自身は今でもまだ人生の航海を卒業していない人間のようです。
 しかし、近頃の新聞記事を読むと、何だか、この地球はリリパットのように、ちっぽけな存在に思えて来るのです。卵を割って食べるのに、小さい方の端を割るべきか、大きい方の端を割るべきかと、二つの意見の相違から絶えず戦争をくりかえさねばならないほど、小っぽけな世界に……
 だが、小人国から大人国、ラピュタ、馬の国と、つぎつぎに読んで行くうちに、僕はもっとさまざまのことを考えさせられました。この四つの世界は起承転結の配列によって、みごとに効果をあげているようですが、僕を少しぞっとさせるのは、あの怪談に似た手のこんだ構成法でした。
 小人国からの帰りに、ガリヴァは船長にむかって体験談をすると、てっきり頭がどうかしていると思われます。そこでポケットから小さな牛や羊をとり出して見せるのです。そして、その豆粒ほどの家畜をイギリスに持って帰って飼ったなどというところは、まだ軽い気分で読めます。しかし、大人国からの帰りには、ガリヴァは箱のなかにいて、鷲にさらわれて海に墜されて船で救われるのですが、ここでも船員たちとガリヴァとの感覚がまるで喰いちがっています。最初私を発見したとき何か大きな鳥でも飛んでいなかったかと、ガリヴァが訊ねると、船員の一人は鷲が三羽北を指して飛んでいるのを見た、が大きさは別に普通の鷲と変ったところはなかったと答えます。もっとも非常に高く飛んでいたので小さく見えたのだろうとガリヴァは考えるのですが、これは少し念が入りすぎているようです。そして、こんな手法は馬の国からの帰航では更らに陰欝の度を加えてくりかえされています。ここでは人間社会から逃げようと試みるガリヴァの悲痛な姿がまざまざと目に見えるほど真に迫って訴えて来ますが、奇妙なのは船長とガリヴァとの問答です。はじめ彼の話を疑っていた船長が、そういえばニューホランドの南の島に上陸して、ヤーフそっくりの五六匹の生物を一匹の馬が追いたててゆくのを見たという人の話をおもいだした、という一節があります。実に短かい一節ながら、ここを読まされると、何かぞっと厭やなものがひびいて来ます。何のために、こんな念の入ったフィクションをつくらねばならなかったのかと、僕には、何だか痛ましい気持さえしてくるのです。
 身振りで他国の言葉を覚えてゆくとか、物の大小の対比とか、そういう発想法はガリヴァ全篇のなかで繰返されています。この複雑な旅行記も、結局は五つか六つの回転する発想法に分類できそうです。だが、それにしても、一番、人をハッとさすのは、ヤーフが光る石(黄金)を熱狂的に好むというところでしょう。僕は戦時中、この馬の国の話を読んでいて、この一節につきあたり、ひどく陰惨な気持にされたものです。陰欝といえば、この物語を書いた作者が発狂して、死んで行ったということも、ゴーゴリの場合よりも、もっと凄惨な感じがします。
 また僕は五年前のことをおもい出しました。原爆あとの不思議な眺めのなかに――それは東練兵場でしたが――一匹の馬がいたのです。その馬は負傷もしていないのに、ひどく愁然と哲人のごとく首をうなだれていました。


   一匹の馬

 五年前のことである。
 私は八月六日と七日の二日、土の上に横たわり空をながめながら寝た。六日は河の堤のクボ地で、七日は東照宮の石垣の横で、――はじめの晩は、とにかく疲れないようにとおもって絶対安静の気持でいた。夜あけになると冷え冷えした空が明るくなってくるのに、かすかなのぞみがあるような気もした。しかし二日目の晩は土の上にじかに横たわっているとさすがにもう足腰が痛くてやりきれなかった。いつまでこのような状態がつづくのかわからないだけに憂ウツであった。だが周囲の悲惨な人々にくらべると、私はまだ幸福な方かもしれなかった。私はほとんど傷も受けなかったし、ピンと立って歩くことができたのだ。
 八日の朝があけると私は東練兵場を横切って広島駅をめざして歩いて行った、朝日がキラキラ輝いていた。見渡すかぎり、何とも異様なながめであった。
 駅の地点にたどりつくと、焼けた建物の脇で、水兵の一隊がシャベルを振り回して、破片のとりかたづけをしていた。非常に敏ショウで発ラツたる動作なのだ。ザザザザと破片をすくう音が私の耳にのこった。そこから少し離れた路上にテーブルが一つぽつんと置いてある。それが広島駅の事務所らしかった。私はその受付に行って汽車がいま開通しているものかどうか尋ねてみた。
 それから私は東照宮の方へ引かえしたのだが、ふと練兵場の柳の木のあたりに、一匹の馬がぼんやりたたずんでいる姿が目にうつった。これはクラもなにもしていない裸馬だった。見たところ、馬は別に負傷もしていないようだが、実にショウ然として首を低く下にさげている。何ごとかを驚き嘆いているような不思議な姿なのだ。
 私は東照宮の境内に引かえすと石垣の横の日陰に横臥していた。昼ごろ罹災証明がもらえて戻ってくると今度は間もなく三原市から救援のトラックがやって来た。
 私は大きなニギリ飯を二つてのひらに受けとって、石垣の日陰にもどった。ひもじかったので何気なく私は食べはじめた。しかしふとお前はいまここで平気で飯を食べておられるのか、という意識がなぜか切なく私の頭にひらめいた。と、それがいけなかった。たちまち私は「オウド」を感じてノドの奥がぎくりと揺らいできた。


 ガリヴァの歌

必死で逃げてゆくガリヴァにとって
巨大な雲は真紅に灼けただれ
その雲の裂け目より
屍体はパラパラと転がり墜つ
轟然と憫然と宇宙は沈黙す
されど後より後より迫まくってくる
ヤーフどもの哄笑と脅迫の爪
いかなればかくも生の恥辱に耐えて
生きながらえん と叫ばんとすれど
その声は馬のいななきとなりて悶絶す





底本:「ガリバー旅行記」講談社文芸文庫、講談社
   1995(平成7)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「定本原民喜全集2」青土社
   1978(昭和43)年9月
※底本の奥付には、原著作者の表示はありません。しかし、「あとがき」にある「ジョナサン・スイフトという人がこれを書いた」をもとに、このファイルでは、ジョナサン・スイフトを著者、原民喜を訳者としました。混在している「スイフト」と「スゥイフト」の内、著者名としては前者をとりました。
※底本の末尾には、「一九七七年一二月刊、晶文社版『原民喜のガリバー旅行記』の「あとがき」以下四篇を、「著者から読者へに代えて」として収録した。」とあります。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2003年5月3日作成
2004年3月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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