何かうっとりさせるような生温かい底に不思議に冷気を含んだ空気が、彼の頬に触れては動いてゆくようだった。図書館の窓からこちらへ流れてくる気流なのだが、凝と頬をその風にあてていると、魂は魅せられたように彼は何を考えるともなく思い耽っているのだった。一秒、一秒の静かな光線の足どりがここに立ちどまって、一秒、一秒のひそやかな空気がむこうから流れてくる。世界は澄みきっているのではあるまいか。それにしても、この澄みきった時刻がこんなにかなしく心に泌みるのはどうしたわけなのだろう……。
ふと、視線を窓の外の家屋の屋根にとめると、彼にはこの街から少し離れたところにある自分の家の姿がすぐ眼に浮んできた。その家のなかでは容態のおもわしくない妻が今も寝床にいる。妻も今の今、何かうっとりと魅せられた世界のなかに呼吸づいているのだろうか。容態のおもわしくない妻は、もう長い間の病床生活の慣わしから、澄みきった世界のなかに呼吸づくことも身につけているようだった。だが、荒々しいものや、暴れ狂うものは、日毎その家の塀の外まで押し寄せていた。塀の内の小さな庭には、小さな防空壕のまわりに繁るままに繁った雑草や、朱く色づいた酸漿や、萩の枝についた小粒の花が、――それはその年も季節があって夏の終ろうとすることを示していたが、――ひっそりと内側の世界のように静まっていた。それから、障子の内側には妻の病床をとりかこんで、見なれた調度や、小さな装飾品が、病人の神経を鎮めるような表情をもって静かに呼吸づいているのだ。――そうして、妻が病床にいるということだけが、現在彼の生きている世界のなかに、とにかく拠りどころを与えているようだった。
彼の呼吸づいている外側の世界は、ぼんやりと魔ものの影に覆われてもの悲しく廻転しているのだった。週に一度、電車に乗って彼は東京まで出掛けて行くのだが、人々の服装も表情も重苦しいものに満たされていた。その文化映画社に入社してまだ間もない彼には、そこの運転は漠然としかわからなかったが、ここでも何かもう追い詰められてゆくものの影があった。試写が終ると、演出課のルームで、だらだらと合評会がつづけられる。どの椅子からも、さまざまの言いまわしで何ごとかが論じられている。だが、それらは彼にとって、殆ど何のかかわりもないことのようだった。殆ど何のかかわりもない男が黙りこくって椅子に掛けている。その男の脳裏には、家に残した病妻と、それから、眼には見えないが、刻々に迫ってくる巨大な機械力の流れが描かれていた。すると、ある日その演出課のルームでは何か浮々と話が弾んでいた。フランスではじまったマキ匪団の抵抗が一しきり華やかな話題となっていたのだ。――彼はその映画会社の瀟洒な建物を出て、さびれた鋤道を歩いていると、日まわりの花が咲誇っていて、半裸体で遊んでいる子供の姿が目にとまる。まだ、日まわりの花はあって、子供もいる、と彼は目にとめて眺めた。都会の上に展がる夏空は嘘のように明るい光線だった。虚妄の世界は彼が歩いて行くあちこちにあった。黒い迷彩を施されてネオンの取除かれた劇場街の狭い路を人々はぞろぞろ歩いている。
「大変なことになるだろうね、今に……」
彼と一緒に歩いている友は低い声で呟いた。と、それは無限の嘆きと恐怖のこもった声となって彼の耳に残った。
混みあう階段や混濁したホームをくぐり抜けて、彼を乗せた電車が青々とした野づらに、出ると、窓から吹込んでくる風も吻と爽やかになる。だが、混濁した虚妄の世界は、やはり彼の脳裏にまつわりついていた。入社して彼に与えられた仕事は差当って書物を読み漁ることだけだった。が、遽か仕込みに集積される朧気な知識は焦点のない空白をさまよっていた。紙の上で学んだ機械の構造が、工場の組織が、技術の流れが……彼にはただ悪夢か何かのようにおもわれる。空白のなかを押進んでゆく機械力の流れ――それはやがて刻々に破滅にむかって突入している――その流れが、動揺する電車の床にも、彼の靴さきにも、ひびいてくるようだ。だが、電車を降りて彼の家の方へその露次を這入って行くと、疲労感とともに吻と何か甦える別のものがある。それが何であるかは彼には分りすぎるぐらい分っていた。
家を一歩外にすれば、彼には殆ど絶え間なしに、どこかの片隅で妻の神経が働きかけ追かけてくるような気がした。寝たままで動けない姿勢の彼女が何を考え、何を感じているのか、頻りと何かに祈っているらしい気配が、それがいつも彼の方へ伝わってくる。どうかすると、彼は生の圧迫に堪えかねて、静かに死の岸に招かれたくなる。だが、そうした弱々しい神経の彼に、絶えず気をくばり励まそうとしているのは、寝たまま動けない妻であった。起きて動きまわっている彼の方がむしろ病人の心に似ていた。妻は彼が家の外の世界から身につけて戻って来る空気をすっかり吸集するのではないかとおもわれた。それから、彼が枕頭で語る言葉から、彼の読み漁っている本のなかの知織の輪郭まで感じとっているような気もした。
昨日も彼はリュックを肩にして、ある知りあいの農家のところまで茫々とした野らを歩いていた。茫々とした草原に細い白い路が走っていて、真昼の静謐はあたりの空気を麻痺させているようだった。が、ふと彼の眼の四五米彼方で、杉の木が小さく揺らいだかとおもうと、そのまま根元からパタリと倒れた。気がつくと誰かがそれを鋸で切倒していたのだが、今、青空を背景に斜に倒れてゆく静かな樹木の一瞬の姿は、フィルムの一齣ではないかとおもわれた。こんな、ひっそりとした死……それは一瞬そのまま鮮かに彼の感覚に残ったが、その一齣はそのまま家にいる妻の方に伝わっているのではないかとおもえた。……農家から頒けてもらったトマトは庭の防空壕の底に籠に入れて貯えられた。冷やりとする仄暗い地下におかれたトマトの赤い皮が、上から斜に洩れてくる陽の光のため彼の眼に泌みるようだった。すると、彼には寝床にいる妻にこの仄暗い場所の情景が透視できるのではないかしらとおもえた。
……生暖かい底に不思議な冷気を含んだ風がうっとりと何か現在を追憶させていた。彼はその街にある小さな図書館に入って、ぼんやりと憩うことが近頃の習慣となっていたのだ。
書物を閉じると、彼は窓際の椅子を離れて、受附のところへ歩いて行った。と、さきほどまで彼の頬に吹寄せていた生温かいが不思議に冷気を含んだ風の感触は消えていた。だが、何かわからないが彼のなかを貫いて行ったものは消えようとしなかった。閲覧室を出て、階段を下りて行きながらも、さきほどの風の感覚が彼のなかに残っていた。
それは沖から吹きよせてくる季節の信号なのだろうか。夏から秋へ移るひそかな兆なら彼は毎年見て知っていた。だが、さきほどの風は、まるでこの地球より、もっと遙かなところから流れて来て、遙かなところへ流れてゆくもののようだった。その中に身を置いておれば、何の不安も苦悩もなく、静かに宇宙のなかに溶け去ることもできそうだ。だが、それにしても何かかなしく心に泌みるものがあるのはどうしたわけなのだろう。
(人間の心に爽やかなものが立ちかえってくるのだろうか。)もしかすると何か全く新しいものの訪れの前ぶれなのだろうか。……彼はまだ、さきほどの風の感触に思い惑いながら往来に出て行った。人通りの少ない、こぢんまりした路は静かな光線のなかにあった。煉瓦塀や小さな溝川や楓の樹などが落着いた陰翳をもって、それは彼の記憶に残っている昔の郷里の街と似かよってきた。
ほとんど総ての物から 感受への合図が来る。
向きを変える毎に 追憶を吹き起す風が来る。
何気なく見逃がして過ぎた一日が
やがて自分へのはっきりとした贈りものに成って蘇る。
いつも頭に浮ぶリルケの詩の一節を繰返していた。
その春、その街の大学病院を退院して以来、自宅で養生をつづけるようになってからも、妻の容態はおもわしくなかった。夜ひどい咳の発作におそわれたり、衰弱は目に見えて著しかった。だが、彼の目には妻の「死」がどうしても、はっきりと目に見えて迫っては来なかった。その部屋一杯にこもっている病人の雰囲気も、どうかすると彼には馴れて安らかな空気のようにおもえた。と、夏が急に衰えて、秋の気配のただよう日がやって来た。その日、彼女の母親は東京へ用足しに出掛けて行ったので、家の中は久しぶりに彼と妻の二人きりになっていた。
寝たままで動けない姿勢で、妻は彼の方を見上げた。と、彼もまた寝たままで動けない姿勢で、何ものかを見上げているような心持がするのだったが……。
「死んで行ってしまった方がいいのでしょう。こんなに長わずらいをしているよりか」
それは弱々しい冗談の調子を含みながら、彼の返事を待ちうけている真面目な顔つきであった。だが、彼には死んでゆく妻というものが、まだ容易に考えられなかった。四年前の発病以来、寝たり起きたりの療養をつづけているその姿は、彼にとってはもう不変のもののようにさえ思えていたのだ。
「もとどおりの健康には戻れないかもしれないが、だが寝たり起きたり位の状態で、とにかく生きつづけていてもらいたいね」
それは彼にとって淡い慰めの言葉ではなかった。と妻の眼には吻と安心らしい翳りが拡った。
「お母さんもそれと同じことを云っていました」
今、家のうちはひっそりとして、庭さきには秋めいた陽光がチラついていた。そういう穏かな時刻なら、彼は昔から何度も巡りあっていた。だから、この屋根の下の暮しが、いつかぷつりと截ち切られる時のことは、それに脅かされながらも、どう想像していいのかわからなかった。
どうかすると妻の衰えた顔には微かながら活々とした閃きが現れ、弱々しい声のなかに一つの弾みが含まれている。すると、彼は昔のあふれるばかりのものが蘇ってくるのを夢みるのだった。まだ元気だった頃、一緒に旅をしたことがある、あの旅に出かける前の快活な身のこなしが、どこかに潜んでいるようにおもえた。綺麗好きの妻のまわりには、自然にこまごましたものが居心地よく整えられていたし、夜具もシイツも清潔な色を湛えていた。それらには長い病苦に耐えた時間の祈りがこもっているようだった。壁に掛けた小さな額縁には、蔦の絡んだバルコニーの上にくっきりと碧い空が覗いていた。それはいつか旅で見上げた碧空のように美しかった。
今にも降りだしそうな冷え冷えしたものが朝から空気のなかに顫えていた。電車の窓から見える泥海や野づらの調子が、ふと彼に昨年の秋を回想させるのだった。……一年前の秋、彼と妻の生活は二つに切離されていた。糖尿病を併発した妻は大学病院に入院したが、これからはじまる新しい療養生活に悲壮な決意の姿をしていた。その時から孤独のきびしい世界が二人の眼の前に見えて来たようだった。彼は追詰められた気分のなかにも何か新しく心が研がれて澄んでゆくようだった。それは多少の甘え心地を含んだ世界ではあったが、ぼんやりと夢のような救いがどこかに佇んでいるのではないかと思えた。……熱にうるんだ妻の眼はベッドのなかでふるえていた。
「こないだ、三階から身投げした女がいるのです。あなたの病気は死ななきゃ治らないと云われて……」
冷え冷えとした内庭に面した病室の窓から向側の棟をのぞむと、夕ぐれ近い乳白色の空気が硬い建物のまわりにおりて来て、内庭の柱の鈴蘭灯に、ほっと吐息のような灯がついていた。あのもの云わぬ灯の色は今でも彼の眼に残っているのだったが……。
[1] [2] 下一页 尾页