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飢ゑ(うえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 13:38:58  点击:  切换到繁體中文


「もう起きてごそごそ動かないことです。義夫さん、寝てゐなさい、寝てゐなさい、食糧の配給があるまでは寝てゐなさい」
 この家の細君のひきつつた声に、その弟はのつそりと階段を昇つて行つた。それは恰度、僕がみじめな朝食を済ませた時であつたが、やがて僕も何かに脅かされたやうな気分で自分の部屋に引込んで行つた。ドアをあけて自分の部屋に入らうとしたとたん、僕は細目に開いてゐる窓から隣家の庭さきが見えた。青いひつそりとした葉蔭に紫陽花の花が咲いてゐて、縁側の障子はとざされてゐた。(紫陽花の花が咲いてゐるのか)僕はふと幸福をおもひださうとしてゐた。
 その翌朝だつた。雨雲の切れ目から、陽の光とねばつこい風が吹きつけて、妙に人をいらいらさせる朝だつた。たまたま僕は煙草を持つてゐたが、マツチがなかつた。佗しい食後の空腹状態で、無性に僕は煙草が吸つてみたくなつた。僕はじりじりしながら、ポケツトの隅々を探した。それから、ふとレンズを思ひついた。太陽の光線で点火することは罹災後寒村にゐた頃からやつてゐたことなのだ。僕は表へ出ると、その家の空地の陽のよくあたりさうな処を選んだ。薄雲が流れてゐて、なかなか火は点かなかつた。空地のすぐ向は他所の畑になつてゐたが、その境に暫く僕は佇んでゐた。家のすぐ前では配給ものの菜つぱを囲んで隣組の女たちが集まつてゐた。漸く煙草に点火すると、僕は吻として疲れながら屋内に戻つた。それから僕はそのことを細君から云はれる瞬間までは、自分のしたことを忘れてゐたのだが……。昼の食事に僕は階下に下りて椅子に腰かけた。すると、この家の細君がすぐ僕の側の椅子に腰をおろし、前屈みの姿勢でにじり寄つて来た。
「あんた、部屋移つたらどう」
 ぽつんと放たれた言葉で、僕はまだ何のことかよく分らなかつた。見ると、相手はもつと何か切出さうとして、いらいらしてゐる表情だつた。
「どこの部屋に移るのです」
「他所へ越してもらひたいのよ」
 僕は全く混乱してしまつた。殆ど息も塞がりさうになり、僕の心臓が急にぐつと搾縮されてゐることがわかつた。ふと見ると、細君の額には、じりじりと汗の玉が浮んでゐた。あ、今日は少し蒸暑いから気持がいらいらするのだな、瞬間、僕はそんな物凄い顔つきをしてゐる相手を気の毒におもつた。
「私はね、一度命令したことに背く奴は徹底的に憎悪してやります」
「どんな間違を僕が犯したのですか」僕は青ざめて聞きかへした。
「今朝あなたは畑のところで何をしてゐたのです」
 漸く僕には少し意味がわかつて来た。いつだつたか、理由は分らなかつたが、あまり家のまはりを出歩いてはいけないと言ひ渡されたことが、たしかにあつたやうだ。僕は煙草のことを説明しようと思つたが、言葉にはならなかつた。
「あなたが普通の人間でないことを知つてゐる人ならかまひませんが、何も知らない人はみんな吃驚しますよ。子供があきれて、あなたを見てゐました。この近所の子供は私がたつた一言、『あれはキチガヒだ』とそそのかせば、今後あなたを見るたびに石を投げます」
「………………」
「それに、あの畑の持主は、いつでも物蔭から見張りしてゐて、少しでも怪しげな奴が立つてゐれば、いきなり鍬で撲りつけます。つまりあなたは撲り殺されたいのですか」
 僕はもう平謝りに謝るより他はなかつた。黙つたまま細君は漸く椅子を離れた。
 僕の心臓はゆさぶられ、打ちのめされてしまつた。自分の部屋に戻ると、暫くごろんと寝転んでゐたが、何かに急きたてられ、さうだ、かうしてはゐられない、と立上つた。かうしてはゐられない、……とにかく、なんとかしなければ、と僕は何か的があるやうに外出の用意をした。といつて、何処にも行く場所はなかつたし、出勤の時間はまだ早かつたが、僕はいつものやうに電車に揉みくちやにされてゐた。……僕は思考力を失つてゐた。心臓ばかりがゆさぶられ、脅え上つて一睡もしようとしない神経があつた。昼間の衝撃が緩い緩い速度で回転してゐる。と思ふと、突然、路上に放り出されて喘いでゐる自分を見出すのだ。炎天の焔の中で死狂ふ人や、放り出されてこときれてゐる死骸が……。あの死骸は僕なのか。……あの時以来、僕は死ぬるならやはり何処かの軒の下で穏かに呼吸をひきとりたいと思つてゐた。ところが、ふと気がついたのだが、僕を容れてくれる屋根は今はもう何処にもないのだ。これははじめから分つてゐたはずだつた。僕の迂闊さがいけなかつたのだ。
 悪いことに、僕はその頃から、ときどき変な咳をするやうになつてゐた。
「一度医者に診てもらつたらどうだ」この家の主人は僕を憐むやうな調子で云つてくれる。「今病気したら大変だからね、早いうちに養生した方がいい」僕はただ泣きたい気持でそれを聞いてゐた。……僕の怪しげな咳は暫くしておさまつてゐたが、いつの間にか僕は屋内の洗面所で口を漱ぐことを禁止されてゐた。僕は雨の朝の屋外の井戸の処で顔を洗ふことになつた。ところが暫くすると井戸端で顔を洗ふのも禁止されてしまつた。僕は一旦井戸で汲んだ洗面器を抱えて、今は塵捨場になつてゐる防空壕のところで顔を洗つた。……食事も既に大分前から僕のだけ分離されてゐた。いつも食事の時刻を見計つて僕が階段を降りて行くと、誰もゐない広い部屋の片隅に僕の食事がぽつんと置いてあつた。どうかすると膳の脇に、「タバコ、五円三十銭」と書いた紙片と配給ののぞみが置いてあつた。
 僕はもうこの家の細君と口をきくのが怕かつた。どうしても何かを口頭で依頼しなければならぬ時、僕はまるで犯人のやうにへどもどしてゐた。細君の顔は石のやうに平静だつたが、僕のおろおろ声がその耳に入つた時、一瞬相手の顔にさつと漲る怒気はまるで鋭利な刃もののやうにおもへた。……僕は自分の部屋にゐる時でも、絶えずこの家の神経に監視されてゐた。僕はじりじりと脅やかされ絶えず悶えた。それでも僕は卑屈にはなりたくなかつた。しかし、どうしてもこれでは卑屈にしかなれない。このまま、かうした生活をつづけて行くなら僕は結局、陰惨無類の人間にされてしまひさうだ。僕はそれが腹立たしく、時に何かヒステリツクな気持に駆られさうだつた。
 どんなに僕が打ちのめされてゐるかは、外へ出てみるとよくわかつた。たまに以前の友人を訪ねて行つたりすると、罹災してゐない家では、畳があつて、何もかも落着いてゐる。それだけでも僕には慰めのやうな気がしたが、その家では食事まで出してくれる。それも、僕一人がぽつんと餌食を与へられるのではなく、みんなが僕を忌避しないで食卓を囲む。こんなことがあり得るのだらうかと、僕は何だか眼の前に霧のやうなものがふるへだすのだつた。……霧のやうなものは、あまり親しくない人を訪ねて行つても、僕のなかでふるへてゐた。さういふ人と逢ふとき、僕はひどく感情が脅え、言葉が閊へたりするのだが、相手は僕を喫茶店へ誘つて珈琲を奢つてくれたりする。僕のやうな人間でも、あたりまへに扱つてくれる人がゐるのかと思ふと、急に泣きだしたくなる。いけない、いけない、これはまるでヒステリーの劣等感だ、と僕は自分にむかつて叫ぶ。だが、飢ゑと一緒に存在する涙もろいものは、僕の顔のすぐ下にあつて、どうにも出来なかつた。
 ある日も僕は昔の知人とめぐりあつて、その家で酒を御馳走になつた。はじめはやはり冷んやりと脅えがちのものが僕のなかに蟠つてゐたが、そのうちに酒の酔と旧知の情が僕をだんだんいい気持にさせた。すると、僕はお前が生きてゐた頃の昔の自分とまだちよつとも変つてゐないやうな気がした。帰つて行けば、ちやんと居心地のいい家が待つてゐてくれる、さういふ風な錯覚が僕の足どりを軽くした。だが、一歩そこの門を出ると、外は真の暗闇だつた。廃墟の死骸や狂犬やあらゆる不安と溶けあつてゐる茫々とした夜路をふらふらと僕は駅の方へ歩いて行つた。駅に来て僕は電車を三十分あまり待つた。それから乗替の駅ではもつともつと長く待たねばならなかつた。さうして夜の時刻が更けて行くのが切実な恐怖をかきたてながら、一方ではまだ昔の夢が疼くやうに僕のなかにあつた。いつもの駅で降りた時、既に人足は杜絶えてゐた。僕はその家の戸口に立つまではやはり何か満ちたりたやうな気分だつた。……灯を消したガラスの家はしーんとして深夜のなかに突立つてゐた。僕はその扉にまだ鍵が掛つてゐないのを知つて、まづ吻とした。それから内側に入つて、何気なく鍵を掛けようとした。ところが、どうしても鍵はうまく掛らなかつた。僕は扉を持上げては、鍵と鍵穴の位置を合はさうとした。すると、そのたびに扉はガタガタと音たて、鍵は反抗するのだつた。ゴトゴトといふもの音が僕を苛責と恐怖に突陥してゐた。僕はその時、奥の方の寝室でこの家の細君が何か歯ぎしりに似た呻き声を発したやうにおもふ。つづいて鈍い足音が近づき、暗闇の向から主人の声がした。
「おう、いいよ、僕が掛ける」声の調子で僕は相手が怒つてゐないのを感じた。
「あ……」と曖昧な返答を残し僕はそのまま階段を昇つて行つた。
 僕が何十回試みても出来なかつた鍵を、彼は一回で完了した。あたりは再びしーんとなつた。
 僕が自分の部屋に入り、洋服掛に服を吊るさうとする、服掛がガタンと床に落ちた。木製の服掛は薄い板敷に(それはそのまま天井板になつてゐて、その下ではこの家の細君が寝てゐるのだ)あまりにも大きな音響をたてた。たちまち僕の耳は歯ぎしりに似た神経の脅威を聞いたやうな気がする。だが、それはこの家屋の不幸な呻吟のやうにもおもへた。……それから僕は部屋の片隅に積重ねてある夜具を敷かうとした。すると、机がはりに使用してゐる石油箱の上の灰皿がガタンと落ちた。重ね重ねの失策に僕はもう茫然としてしまつた。
 その翌朝はねばつこい烈風が日の光を掻き廻してゐて、恰度あの引越を言渡された厭な日とそつくりの天気だつた。僕はおそるおそる階段を降りて行つた。部屋の隅の椅子に腰掛けてゐたその家の主人と細君と弟の話は急に杜切れ、細君は石のやうな表情でつんと立上ると奧の部屋に消えてしまつた。それから、思ひきり力一杯ドアを閉める音がした。
「風あたりがひどいよ」
 主人が僕のぼんやり立つてゐるのを見て呟くと、細君の弟はちよつと薄ら笑ひをした。僕は何事かを了解した。瞬間、僕にはこのガラスの家がバラバラになつて頭上に崩れ墜ちたやうに思つた。それでゐて、僕の足もとを流れてゐるのは生温かい、そして妙に冷たいところのある気体だつた。僕はぼんやりした儘おづおづとしてゐた。何事かを弁解しようとすれば、唇のあたりが徒らに痙攣しさうになるのだつた。……かうして、僕はこの家の主人にも細君にも謝罪する機会を逸してしまつた。この家の主人が社用で遠方に出かけてから、僕にはまだ一通のたよりも来なかつた。

 僕は部屋に寝そべつて、出勤までの時間をぼんやりとしてゐる。かうして僕がここにゐるといふことは、一刻ごとに苛責の針を感じながら、つい僕の頭にはとてつもない夢想ばかりがはびこり勝ちなのだ。ふと、細目にひらいた窓の方を眺めると、向の畑の枝に残つた糸瓜が一つ、ふらふらと揺れてゐる。……時は流れた。ほんとに時は流れ去つてしまつた。僕はもつと恍惚した気分で、以前こんな時刻にめぐり合はなかつただらうか。お前と死にわかれる年の秋まで、何度僕はこんな風な小さな眺めのなかに時の流れを嘆じただらう。家の窓のすぐ外に糸瓜はみのり、それがさわさわと風に揺れてゐた。あれは、まだその儘、いたるところに残つてゐるではないか。
 ――と、何かひつそりとした影が、僕の見てゐる窓の下を横切る。殆ど何の音もたてず、黙々と今、畑のところを通りすぎて行くのは、長い鍬を肩にになつて前屈みの姿勢で重苦しく、ゆつくりと歩いて行く老人だつた。人間とも思へない位、これは不思議な調子の存在だ。だが、忽ち僕はあの鍬で脳天を叩き割られてゐる自分に脅える。谷間に似たこの附近一帯には陰々として怨霊の気が立罩めてゐるのだらうか。……耳を澄してゐると、階下にゐる家の細君の足音がわかる。ドアが開いて、今どうやら奧の間へ引込んだらしい。今のうちに、僕が外へ出かけて行くなら顔を逢はせなくて済む。さうだ、今のうちに……。





底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
※連作「原爆以後」の3作目。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:ジェラスガイ
校正:門田裕志
2002年9月20日作成
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