4 「この分ぢや随分つもるでせうねえ」
コンパクトで鼻の頭をパンパンと叩いてゐたせん子は思ひ出したやうに、そつと蓄音機のそばの直子のところへ話しかけて行つた。
「お粒さんどうかしてンのよ、気にかけない方がいゝわ。牧さんのことぢやア、随分ピリピリしてゐるらしいのね。かなひもしないくせに‥‥」
直子は薄く笑つてゐた。だが笑つてはゐるものゝ、心のうちでは何も彼も佗びしく浅ましく思へてしようがなかつた。――三人の男達は大分酔ひがまはつたらしく、時々直子の方を向いては何かヒソヒソと語りあつてゐる。
「ベッピンぢやないか」
「あれで、子供があるンだつて?」
「まるで娘だねえ、亭主が、へえ‥‥赤い方でやられてるツて口ぢやないのかい」
「未亡人だつて? そりやア可愛さうだね」
洪水のやうに湧きかへつて、時々思ひ出したやうに男達は声をひそめる。
お粒が、唇元に下品な皺を寄せて操と笑ひあつてゐた。――その汚い言葉の矢が、ハツシと直子の胸を射て来る。直子は急に胸の中が熱くなると、ゐたたまらなくなつて、足早やに扉を押してまた、雪の降つてゐる外へ出た。
「直子さん! 一寸待つてツ! 直子さんたらツ」
せん子が、直子を追つて外へ出ると、一時ワアツと笑ひ声が湧きあがつたが、すぐ花火のやうに消えてしまつて、森となつた。さすがに、森となると、何か妙にキマリの悪い思ひがして、操は子供つぽい冗談をいつては座を濁してゐた。
「随分、あのお粒つて女、意地が悪いのねえ、たまンないわ、あンなの‥‥どんなところにも悪型つてゐるものなのね。――ひとつには、あの牧さんをお直さんに取られたつて気持ちなンでせうが、根がゲスなやりくちだから――駄目なこと判りきつてツぢやないの」
百合子もサトミも、思はずお粒の方を振り返つた。
「あゝ‥‥たまンないわね、皆、同じやうな女がそろつてゐて、意張つたり、意張られたり‥‥」
「牧つてひと、何するひとなの?」
「あら、T大学の先生よウ」
「随分すつきりした人ねえ」
「お粒さん張りしたつて駄目よウ」
百合子の薬指には、また何時の間にかあのオパルの指輪がはまつてゐた。頬や髪をいらふたびに、オパルの石が、淡くキラキラと光つてゐる。
泣くだけ泣いてしまつたあとのやうに、戸外はそおッと雪がつもつてゐるきりで、空は晴れてゐた。たゞ舗道の上だけは雪が掃いてあるので、ひどく歩きよかつた。せん子は直子に寄りそつて、何時までも悲しみのをさまらない気持を、お互に感じあつてゐる。
「随分、人を馬鹿にしてるぢやないのツ、貴女がおとなしいからよウ、あンな時、何か云つてやるといゝンだのに‥‥」
直子は怒りと悲しみに体がガタ/\震へてゐた。
「私、今晩キリで止めようと思つてゐたところなンですの‥‥」
「まア、だつて、そんな事云はないでいらつしやいよ。皆、誰だつてあのひとに味方してる人ないんですもの――自分が随分苦労したつてこと自慢してるけれど、苦労してない証拠よ、まるで意地の悪いお女郎みたいぢやないの、元気をお出しなさいよ、元気を‥‥」
街角を曲ると、暗がりの小さな通りに、屋台や、占の提灯なぞが出てゐた。雪が止んでゐるので、いつそう寒さが耐へるのか、肩なぞはキリ/\と痛い。その癖二人とも羽織のない姿のまゝポク/\とあてもなく歩いてみたかつた。妙に、何も彼もが佗びしい気持ちであつた。
「直子さん、私、占を見て貰ひたくなつたわ。一寸待つてくれるウ」
提灯には「迷へる者来れ」と書いてあつた。――せん子はその「迷へる者来れ」の提灯の横に掌を翳ざして「私には病気の亭主と、七ツになる子供が一人あるンですが」と、云ふ話から始めてゐる。直子は、ヒイヤリとした気持ちで、青ざめて荒れてゐるせん子の掌を眺めた。
その掌は荒れてはゐたが、非常に優さしく、すなほな格構であつた。占者は、歯のない唇をキンチャクのやうに結びながら、
「まづ肉親の縁うすくして、他郷に労するといふ相だな‥‥」
せん子の掌におかれた天眼鏡は、ひどく灰つぽくくもつて、雪に濡れてゐた。
「私、子供と離れてもいゝでせうか?」
「まづ、今年いつぱいは手元を離さぬ方がよろしからう‥‥病難のおそれがある」
「此商売は長く続けていゝでせうか‥‥」
「いや、長続きはよろしくない」
「まア‥‥」
「そちらの方、ひどく剣難が出てゐるが、‥‥見てあげませうかの」
直子は急に肩をあげて、焼鳥の屋台の蔭に犬のやうに隠れた。
5 自動車は快く京浜国道を走つてゐる。
雪晴れの温かい夕方、どこからか汐の香が鼻を打つて来る。――直子はその汐の香だけで満足したかのやうに、さつきから眼を伏してゐる。
「直子さんは、いま何を考へてゐる?」
「私? 何だか子供の頃のこと偶つと思ひ出してゐます」
「子供の頃のこと、直子さんの子供の頃はどんなだつたンだらう‥‥」
「もつと、いゝ生活が、清らかな暮らしが出来るやうに考へてゐましたわ」
「さう‥‥では、いまは清らかぢやない?」
「とても濁つてゐるやうに考へる時がありますわ。おしまひには死にたくなつてしまふし――」
「馬鹿なこといつちやアいけないよ、僕達は真面目にならなくちやアいけないね」
海が見え出した。二人とも沈黙つてしまふ。だが沈黙つてゐると、二人とも何かにせきたてられるやうな気持ちであつた。
二人とも強く愛しあつてゐながら、なぜか悲しいことに、各々の家庭のことを憶つてゐた。――直子は、庭の見えない三畳の部屋で、一人で積木をしてゐる子供の姿や、眼の薄くなつた母親の事を考へてゐた。
「もう五ツにもなつたのだから? 私が田舎へ連れて帰つて、何とか育てるから、お前は良い縁でもあつたら、かたづいておくれ」
孫の相手にヨネンのない母親の言葉が、妙に心に残つてゐた。だが、こんなに愛してゐる男には、妻があるではないか。子供が二人もあつた。
また、男は男で、長い間の家庭の習性を恐ろしく考へてゐた。
「お早うございます」
二人の子供と一緒に顔を洗つて、一緒に食卓について、「行つていらつしやいまし」と云ふ妻の言葉は時計のやうに何年か狂つたことがなかつた。つゝましく清らかな生活でありながら、妙に飄々と心の中に風が吹きこむこの気持ちはどうしたことだらう。
学生時代の思ひ出、外国生活の何年間か、みんな、妻にやましくない生活であつたが、今は、我命以上にも此料理店の給仕女を愛してゐる。
いつかも妻は、自分の傍に来て、子供のことにかこつけて云つたことがあつた。
「もう、お父さんの肌の温さは、坊や、私が寄りつけない程冷たくなりましたのね」
男は偶と心が痛くなつて頭を上げた。
「直子さんしつかりしてゐて下さい」
「えゝ」
頬が涙で冷たかつた。お互ひに家庭のことが通ひすぎたからだ。
「私、あの店を止める積りでをりますの」
「さう、それはいゝ――僕が、直子さんの生活位は引き受けますよ」
「いゝえそンなこと、私、母と子供がありますもの、どんなことをしたつて働かなければ――只、あのお店は、私にはやりきれないンです」
いひやうのないヒッパクした気持ちであつた。雪解けの、公園のやうになつた波止場の前に自動車が止つた。港に碇泊してゐる船の小旗が波の音と一緒に、パタパタきつく風に鳴つてゐる。小さい犬を連れた金髪の少女が白いベンチに凭れて唄をうたつてゐたり、黒ん坊の男が呆んやり立つてゐたり。
「このまゝ二人で外国へでも行くンだといゝナ」
「色ンな美しい国が、この海続きにはあるンでせうね、一人ぽつちだつたら、そンなところへでも行けるンでせうが――この儘、一生、私、こんな暮らし方なンでせう‥‥」
6 空がカラリと晴れてゐた。
広告飛行機が雪解けの銀座の舗道に風船を撒いて飛翔してゐる。
料理店リラの前の、赤く塗りたてた自動電話で、ながいこと、ガチヤガチヤ電話をかけてゐた男があつたが、何時までたつても、思ふやうに電話がかゝらないのか、男は荒々しく扉を蹴つて、まだ軒灯もつけてゐないリラの緑硝子の奥へ這入つて行つた。まだ三時頃なのでゝもあらう、店にはミサヲと百合子と二人きりで新聞を読んでゐた。
「まア早い、岡田さんどうしたンですか?」
「どうしたつて、かうしたつて、大変なンだよ、直さんは昨夜こゝへ出てゐた?」
「いゝえ、昨日は公休を取つたンですよ。どうかしたンですか?――牧さんとどつかい行つちやつたンでせう。ぢやない?」
ミサヲも百合子も眉も顰めながら、ひどく心にかゝる風であつた。
「今朝、牧の奥さんから電話なンだ。大将昨夜たうとう帰らないンだよ。初めての事なンで奥さん吃驚しちやつたンだらう」
「まア、さうですか! 間違つた事がなきやよござんすがね」
「大丈夫だとようござんすがね」
「さうさ‥‥二人で遊山に行つてたンさと、軽くいく奴なら心配はないンだが、――おとついの晩電話でもかゝつて来た?」
「かゝつて来たやうよ――これはお粒さんの話だけど、牧さんから直さんにかゝつて来たのを間の悪いお粒さんが取り次いで、まことにおふくれなンだから、あんなに当り散らして、果てはぐでんぐでんの大の字でせう‥‥やになつちやつたわ」
「おとつひの晩さア、お粒の奴、例のやうに直さんに大当りなんでせう[#「せう」は底本では「ねう」]‥‥それがまた、とてもゲスぽくつてたまンないのよ。――ところで、岡田さん、あんたも直子さんには参つてたンでせう」
「馬鹿云つてらア‥‥だが、嫌ひな女ぢやないさ――ところでだ二人で一緒にゐるとするならば、どつちも真面目な奴だから心配だナ」
「本当に‥‥」
三人が三人とも、心配だ心配だと口の先では云つてはゐても、このまゝ二人が遠くへ走つて行つてくれた方が可憐で面白いには面白いと三人三様に考へてもゐた。‥‥そこへ、田舎大尽風に狐の毛皮をふかふかつけたコートを着て、蒼ざめた顔色のお粒が這入つて来た。
「外は温いわ」
「どうだい二日酔ひは?」
「何時の二日酔ひなのさア、毎日酔つぱらつてツから判りませんよ」
コートをぬぎ、手袋をぬぎ、呆んやりとした眼でお粒は鏡の前に立つた。
「ねえ、随分トゲトゲした顔になつちやつたわ。なまじ恋なぞすまじきものね、岡田さん、私、このごろ、ヘトヘトに自分に疲れつちまつた‥‥」
岡田はもとより、百合子もサトミも、勝気でゲスなお粒の思ひがけない優しい言葉なので、とまどひしたやうに吃驚してしまつた。だがその驚きは妙にその場の空気をセンチメンタルにしてしまつて、ひどくしんみりとした雰囲気をかもし出してゐた。
「なまじ恋なぞすまじき事か、全くだ、大地震よりこはいからねえ」
偶と、サトミは蓄音機の前に立つてレコードをめくつた。
雲の飛ぶよな
今宵のあなた
みれんげもない
別れよう‥‥
お粒のきらつた唄ではあつたが、それが此場合ひどくしつくりとして、ジジ‥‥とレコードは廻転してゐる。
「だからさ時の流れを待つばかりね」
サトミが思ひ出したやうにこんな事を云ふと、お粒は鏡の中からニッコリして「さうでもしなくちや、やりきれないわ」とまるで少女のやうにすなほであつた。‥‥誰が悪いのでもない、みんな宿命なのだ、と、さう百合子もサトミの傍に歩んで行つて、香りの高い支那煙草のミュズに火を点じた。
7 ――どんなになるかもわからないけれど、まだ生きてはゐます。一度、あなたに会ひたいと思ひながら、本意なく過ぎてゐます。この儘過ぎて行く事が恐い‥‥元気でゐて下さい。――雪がすつかり溶けてしまつた日、せん子は直子からこの様な手紙を受けとつた。子供があると云ふ境遇も似てゐたし、病身な夫を持つてゐたと云ふ事も同じであつた事から、せん子にだけは、直子は何でも云へるのであろう。せん子はせん子で、直子がゐなくなると、妙に、考へる事が多くなつた。
料理店リラのこのごろは、お粒が静かになつたのと一緒に、ひどく雰囲気がめいつて見えた。
今日もまた、雀をどりの唄が、女の唇から流れて来ると、地声の大きい操が、サトミや百合子の傍で悲鳴をあげてゐる。
「こんだけの沢山の女給と云ふものが、どンなになつて行くンでせうねえ。――私、昨夜、たうとう、ホラあの男と大森へ行つちやつたのよ、笑ふ? だつて仕方がないンだもの――」
百合子は眼を円くしてゐた。
サトミは冷いセルロイドの櫛で、百合子の断髪をくしけづつてゐた手を止めた。
「私生きてゐたくないわ。誰でも相手になつてくれる人があつたら死んでしまひたい」
夜になると、それでも料理店リラの内部は女のゐるなみに賑やかになつて、カンシャク玉なんぞが客のボックスの中から弾けてゐた。
「その男と来たら×××××××と来てるぢやないの、だもンだから一晩中私をいぢめてンのよ。いつそ結婚媒介所へでも行つてマネキンになつた方がいゝ位だわ」
操は、円い眼をクリクリさせて、さとみをつかまへて離さない。取りつき場もない程、すれつからしな風に見えて、芯は気弱なのかも知れない。
誰も彼も気弱な癖して自分に塀を囲んでゐるのであつた。その塀の中から、犬のやうな虚勢でもつて、誰彼となく吠えたてゝゐるのだ、塀をとつてしまへば、誰だつて、天真な美しい花園を持つてゐるのではないか。
ジャズのレコードが、十枚もまたふえると一緒に、さくらと云ふ女と、澄子と云ふ新しい女が這入つて来た。
さくらは三度目だといつてゐたが、澄子は始めてらしく、まだ肩揚げの似合ひさうな美しい少女であつた。――料理店リラの内部もまた女が変つて行くたびに客の筋もはじからはじから違つて行つて、このごろでは学生の校歌をうたふ唄が、リラの鎧戸風な窓から漏れてゐた。
「百合子さん、指輪早く売りなさいよ、そして、一日、二人で日光へでも行かない?」このごろ、ひどく黒つぽい服装になつたサトミが、冷たげな、百合子のオパルの石を見るたびに、百合子にせびつた。百合子は百合子で、「私、早くこんなところから足が洗ひたいわ。――今ごろいつたいチップがいくらくらゐになるンでせう。まるでキモノのために働いてるやうなもンぢやないの‥‥」
「仕方なしに働いてゐるのさ」
「ところでこの指輪、二三日中に片づけちやうわ、その金で日光よか、私、男の生活してる土地へ行つて、見て来てやりたいのよツ、つきあつてくれるウ」
「まア、凄い未練だなア‥‥」
「さうさア、一生懸命惚れてたンだもの、私、お粒さんみたいに、お次の恋人なンて手軽にやアいかないし、操さんみたいに、やぶれかぶれで大森修業も勿体ないわ‥‥」
「大森修業か、うまいこと云ふわねえ、ぢやア、私が大森修業をしたらどうする、軽蔑するかな‥‥」
「馬鹿! あンたが大森修業してたら、私尊敬するわよ」
澄子が、学生に取り巻かれて唄をうたつてゐる。段々、キヨウに雰囲気に染つてゐる姿は、サトミや百合子の眼に淋しく写つた。
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