三
「お酒は?」
「いや、晝酒はくれないンださうだ。おしきせで食べるンださうだよ」
鷄皿や茶碗を運んで來た小女が笑つてゐる。
小さい茶袱臺の横に白木のふちのついた七輪が來た。鍋に割下をついで鷄を入れるのは珍らしいことに大吉郎がこまめにしてくれてゐる。久江は、へえ、この人も變つたものだと、昔の意張屋だつた大吉郎と考へくらべてゐた。
「お母さん元氣かい?」
「えゝ、お蔭樣で‥‥」
「あのひとは小食だから、躯も丈夫なンだね。――清治は何ヶ月になるかねえ、もう‥‥」
「三ヶ月ですよ」
「遺品のやうなものは何か來たのかい?」
「え、この二日に、部隊の方から送つて來ました‥‥」
鷄が白く煮えて來た。
久江は、生麩がきらひだつた。大吉郎はそれをまだ覺えてゐたのか、紅い生麩が來てゐるのに、その小皿は茶袱臺の下へ置いたまゝだつた。
「實はねえ、清治のことなんだけど、ねえ‥‥」
「へえ‥‥」
「お前さんにはまことにいひづらいンだけど‥‥」
「何ですの?」
「清治に子供があるンで、その話なンだがね」
「まア!」
「いや、さう、きつと、吃驚すると思つた。――清治のことは、お前さん一人が一生懸命骨を折つてゐたンで、こんなことはいへたことぢやないンだが――大學の頃から、ちよくちよく俺の方へ來てくれてゝねえ――家のおそのの親類に福といふ娘がゐて、まア、清治といゝ仲になつたわけだ‥‥」
そのといふのは大吉郎を久江からうばつた女である。柳橋の待合の女中をしてゐたことのある女だとかで、久江は色の白いそのといふ女を一度、大吉郎が連れて歩いてゐたのを見たことがあつた。
「御冗談でせう! ――そんな、あのひとは、何だつて私に相談してゐましたし、それはまア、あなたのところへ清治が遊びに行つたかも知れませんけれども、――でも、それはおそのさんのいひがかりのやうなンで、お芝居ぢやありませんか。出征する時だつて、あのひとは萬一のことまでちやんといひおいて行つたのですからねえ――その時だつて、あなたのことなんか一言もいはないンですし、おそのさんがおせんべつ持つて來て下すつた時も、たゞ素直に貰つておいたゞけの話で‥‥そんな、そんな莫迦なことを今ごろになつて‥‥」
久江は腹が立つて來て指がぶるぶる震へてゐる。
「いや、そんなに、あんたが怒るのも無理はないさ、無理はないけれど、話は話だ」
清治と福が出來たのを知つたのはそのであつたが、そのは大吉郎には長い間知らせなかつた。久江との問題さへなければ、清治と福の間をうまくまとめてやりたいと思つてゐたのだつた。
「何か、そんな證據でもあるンですか?」
「うん、度々清治から俺のとこだの、福のところへ手紙が來てゐるンだよ――清治も、俺とお前さんのことをよく承知してゐるものだから、一人で今日までがんばつて來たお母さんへこんなことをいふのは辛いのだつたらうし、といつて、福はどうしても女房にしたいから、何とか、自然な方法でお母さんに話してくれないかといつて來てゐるンだよ。――戰死をきいた時、私もねえ、よつぽど子供と福を連れて行かうと思つたンだが、そんな時に行けば、かへつてとりこんでるあんたの氣持を怒らすやうなものだと默つてこらへてゐたンだ。――それだのこれだの福は氣を病んで二ヶ月ほど寢込んでしまふし、まア、今日まで延引[#「延引」はママ]してゐたンだが、何でも露月町ぢや家を賣つてしまふといふやうな話も出てるンだとかで、このさきはどんな風になるのか、俺も妙に心配だつたし、まア、まア、一應逢つて、とつくりと相談して、どうにでもお前さんの氣の濟むやうにと、今日はまア、厚かましい話を聞かせるンだがねえ‥‥」
「ほんとですかねえ‥‥信じられませんねえ、そんなこと‥‥」
大吉郎は風呂敷の中から、自分や福に來た清治の手紙を出して久江の前に置いた。久江はそれを手にとつて、一つ一つ中味を拔いて讀んでいつた。正眞正銘の息子の字なので、久江は胸の中が熱くなつて來てゐる。(あなたの血を引いてゐるから‥‥)さうも眼の前のひとに心で怒つてみたりしたけれども、これほどまでに、自分に遠慮してゐたのかと、清治の氣持が何ともいぢらしくて仕方がない。
四
翌る朝、大吉郎との約束どほり、福といふ女が、赤ん坊を子守におぶはして久江を訪ねて來た。
久江のやうに小柄で、美人ではなかつたけれども、人好きのする柔和な顏だちをしてゐた。二十三ださうだけれども十八、九にしか見えない。裾みじかに矢羽根のお召を着て、白い足袋のさきがすつきりしてゐる。
羽織は紫しぼりの中々こつたものを着てゐた。
「さア、こつちへいらつしやい。――おばあさん、このひとがお福さんですよ」
昨夜、年寄りには何も彼も話してある。年寄りは、早くその男の子を見たいといつた。何も彼もすぎてしまつたことだし、清治が自分達に子供を形見に遺してくれたことは有難いことだと年寄はよろこぶのであつた。
昨夜、久江は話しながら涙をこぼしてゐた。自分に對しては、まるで腫物にでもさはるやうなあつかひかたをしてゐてくれた清治の思ひやりに、久江はいやいやと頭を振りうごかしてゐる。
昨夜はまんじりともしなかつたけれども、兎に角、一晩たつたといふことは、福へ對しての怒りを、ほどよく冷ますのに十分であつた。
今、眼の前に見る福といふ女は、久江にはきれいに見えた。赤ん坊もよくふとつて、清治に生うつしである。
富士山のやうに盛りあがつた小さい唇に、蟹のやうにつばきをためながら、青く澄んだ眼を久江へ呆んやり向けた。久江が思はず手を出すと、赤ん坊は思ひがけないあどけさで兩の手を久江の方へのばして來るのである。
福は佛壇の前へ行きたくて仕方がないやうな赧い顏をして襖のそばへきちんとかしこまつてゐた。
久江は兩手を出してる赤ん坊をそのまゝすくひあげるやうに抱きあげて、
「まア、一寸、お佛さま拜んで下さい。今日は甘いものをあげようと思つたンだけど」
さういつて、床の間のとこに坐つてゐる。[#「坐つてゐる。」はママ]赤いちやんちやんこのおばあさんの處へ、赤ん坊を抱いて行つてみせるのであつた。
福はしづかに佛壇の前へ行つてお線香に火をつけてゐる。襟足が初々しくて、しぽの太い白い襟から、首すぢの皮膚がうすあかく匂つてゐた。
福はしばらく疊に額をつけて拜んでゐた。
「昨夜もねえ、清治の學生のころの日記を出してみたら、あんたのことが書いてあつたのよ、十二月のところなンか、毎晩のやうに、夜福々々つて書いてあるンだけど、――あの頃、何だか、毎晩用事があつて、十二時近くでなきや戻つて來なかつたけど‥‥あのひとらしいと思つて、夜、福さんのとこへ行つたつて意味なンだらうね‥‥」
久江は、福を笑はせるつもりだつたが、福は默つて疊に額をすりつけたまゝ靜かに泣いてゐた。
赤ん坊は乳臭くて可愛かつた。
大森に住んでゐた頃、こんな風に清治を抱いて海を見に行つたことがあつたつけと、久江は赤ん坊の頬に、長い髮の毛のくつゝいてゐるのを唇で吹いて取つてやりながら、
「ねえ、お福さん、坊やの名前は何ていふの‥‥」
と優しく尋ねた。
廊下の處へおしめカヴアーをさげて坐つてゐた子守が、
「清太郎さんておつしやいます」
と教へてくれた。
大森にゐたころ、大吉郎は海苔屋をしてゐた。いまは海産問屋をしてゐるのだけれども、赤ん坊を抱いてゐると、羽二重の着物に、何とない海苔の匂ひがしてゐる。
久江は子供の柔かい頬に自分の額を押しつけてみたが、不意い、何とも名状しがたい熱い涙が湧くやうに、赤ん坊の着物に沁みていつた。
おばあさんは何かいひたさうに唇をもぐもぐさして、疊の上に落ちてゐる赤いセルロイドのがらがらをひらつて、それをにぶく振りながら子供のやうに呆んやり眺めてゐる。
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