翌朝眼が覺めた時は、河も向う岸も滴るやうな新緑で、山の木立の影さへはつきり見えるかのやうに晴れてゐた。障子をあけて此美しい空に茫然とした。
すぐ山へ行く支度にかゝると、ホテルの遠藤氏が御案内しませうと云つて來られた。かへつて恐縮な氣持ちであつたけれど、快よく、三人で宿を出る。便利なことに摩周の湖までハイヤが通ると云ふことで、私達は自動車で山へむかつた。
此地帶は、山うるしや、どろの木、白樺、柏、澤梨、ゑんじゆのやうな樹木が多くて、緑の色は内地より淺い。
摩周山は海拔三百五十米位で、湖の深さは二百米ばかりあるとか聞いた。摩周山の中腹から見える湖の姿はぽつんと鏡を置いたやうであつた。此鏡のやうな湖心にはカムイシユと云ふ黒子のやうな島があり、まるで浮いてゐるやうであつた。去來する雲の姿が露西亞の映畫のやうに明るく見えて、波一ツない靜けさである。湖の向うには摩周の劔のやうな頂上が雲の中へ隱れてゐるやうに見えた。湖岸は降りてゆくにむづかしい絶壁で、遠く地底に眺める湖だけに暗く秀いでゝゐる。紅鱒やザリガニを放つてあると云ふことだが、あんまり波がないので、死んだ湖のやうに見える。足元は熊笹と白樺の若木で、風が下から吹きあげて來た。
此邊いつたいを阿寒地帶と云つて、私の立つてゐる熊笹の丘から雌雄の阿寒岳の峰や、斜里岳漂津の重なつた山々の姿がパノラマのやうに眼に這入つて來る。
雲のよ
雲の海かよ渦卷く霧に
煙る摩周湖七彩八變化
かはる姿のとなこ
おもしろや。
これは摩周湖小唄とでも云ふのであらうが、この唄では摩周の湖も氣の毒すぎる。私は北海道へ來て、興味を持つてゐる湖はこの摩周と、帶廣の奧の
然別湖であつた。摩周湖は自分の空想した湖よりも神々しかつた。渚に人を寄せつけない孤立した湖だけに、地味で雄大であつた。晴れ間に姿を現はしてゐる間はまことに束の間で、何時も霧か雲で姿を隱してゐると云ふことである。
摩周の湖へ出るには、釧路から
舌辛驛へ出て、阿寒湖めぐりをして、摩周湖へ着くのが風景がいゝらしい。――私達は、それより山を降りて、北見の國境近い
屈斜路湖へ向かつた。
山を降りると、もう天候が氣むづかしくなつて、雨氣をふくんだ風が沿道の森林の梢を氣味惡く圓く吹きあげて行く。
屈斜路湖は周圍四十七粁で、まるで海のやうにも見える。まづ南方の方から這入つて行つた。此邊の御料地にはポントウ、オサツペ、エントコマツプ、サツテキナイなぞの部落があつて、途中の和琴小學校では運動會があつた。運動場の木柵には馬もつないであつた。校舍をめぐらした紅白の鯨幕が風をはらんで獅子舞ひのやうに見えた。白い運動着の先生はメガホンを眼にあてたりしてゐた。校舍はぽつんと荒地の中にあつて、その小さい校舍の横には運動會相手の菓子屋が小さい店を張つてゐた。
私達は、此小部落を通つて
和琴半島へ這入つて行つた。渚には茹で玉子やせんべいを商ふ茶店が一軒あつた。茶店の前には野天の自然風呂があつて、岩と岩との割目に出來た浴槽にひたつて、部落のお神さんや子供達が茹でられたやうに紅い皮膚をして聲高く世間話をしてゐた。自然で何の工作もしてないだけに、私は夜の此天然温泉の風景も思ひ描く。月の明るい夜なぞどんなにいゝだらうかと思つた。岩の上には黄色の湯花がたまり、まるで菖蒲池に水浴してゐるやうにも見える。私は子供のやうに手をつつこんで見た。私のそばで背中を洗つてゐたお神さんは「今日は天氣のせゐか、えらい熱い湯で、ぢつとはいつてをられん」と云つてゐた。湯の湧口に掘立小屋があつて、そこには型ばかりの脱衣場もあつた。
此湖は、摩周湖のやうに孤獨氣でないだけに、派手で、渚の平地には、所々小さい温泉旅館があつた。南はチセヌプリ、イワタヌシの山岳に圍まれ、その後方に、コトニプリ、オサツペヌプリ、サマツケヌプリの山々が流れてゐる。
湖が廣いので一望に眺めることが出來ない。渚はまるで海のやうで砂地はどこを掘つても湯があふれた。水ぎはの波の色は糸を引いたやうな黄色い湯花の波で、不思議な景色だ。
和琴半島と云つても小さな半島で、大町桂月がつけたのだと聞いた。
歸途は屈斜路湖の沿岸をめぐつて、川湯の部落へ向つた。途中、私達は硫黄山へも登つた。這ひ松や、白い花を萬朶と咲かせた
いそつゝじのお花畑へ出た。
いそつゝじの花は頬をよせると、
ふくいくとした匂ひをはなつて、姿に似ず何時までも匂ひが浸みて來る。此お花畑は硫黄山麓十五六萬アールに亙つてゐる。
硫黄山には樹木が一本もなかつた。それなのに、中腹の柵の中には保安林と書いてあつた。どつとんどつとんまるで動いてゐるモーターの上を歩いてゐるやうなすさまじい活火山で、登りながら、硫氣を噴出してゐる氣孔の上へ石を投げると、面白い程その石がミヂンに碎け散るのであつた。銀製の指輪が眞黒になつた。山肌は白と黄とエメラルドグリンの苔で、何だか菓子でつくつた山へ登るやうであつた。山裾には硫黄の工場があつた。明治十九年頃、安田一家がこゝに硫黄採取事業を經營して、
標茶の驛まで運搬したものだと云ふことだ。
川湯温泉は、
弟子屈温泉より一つ向ふの驛で、網走へむかつた方である。部落中にふくいくとした
いそつゝじの花が咲いて、淺い枯れたやうな河床から湯が吹きこぼれてゐた。弟子屈への車中で、この川湯の驛長さんに遇つたのを思ひだしたが、あいにく雨が降り始めた。こゝには土産物を賣る店と自動車屋が二三軒ある。
黄いろいジヤケツを着た若い運轉手は「これは大雨になりさうですぜ」と、急いでハンドルをきり川湯から弟子屈への暗い森の中の沿道を、四十哩の速度を出して走らせた。
昨日よりもひどい雷で、雷光が走るとすぐ頭の上にすさまじい雷鳴がした。烏が幾十羽となく吃驚したやうに森の中へ逃げこんでゐる。雨に滴を拂らつて逃げまどふ烏の姿を私は何時までもふりかへつて見た。
「人の子にとつては、生れないこと、烈しい日の光を見ないことが、萬事にまさつてよいことである。しかしもし生れゝば、出來るだけ早くハイデースの門を過ぎ、厚い大地の衣の下に横はるに若くはない」
どう云ふ聯想か、私は北の果の森林の中で、しかも耳の破れるやうな雷鳴の中に、ブチアーの中のデスペラアトな一章を思ひ出した。だが、ついに元氣だ。私は常に雜談をして自分を考へない。旅空で瞑想をしてみたところで、所詮は底ぬけに小心者で、粕ばかりで何もない空虚な躯をもてあましてゐるにしかすぎない。
宿へ落ちつくと、婦人記者氏は人生について話しかけて來たけれど、私は此女性よりも本當はおとつてゐる。お菓子を頬ばつてゐるか眠るか雜談をしてゐるか。
温泉は一番愉しい。私は黄昏までに三度も躯を洗つた。
音樂が聽きたかつたが何もなかつた。
この宿へつひに二泊。
早朝四時半に起きて、釧路へ歸る仕度だ。
窓をあけると、もう蜩がなきたてゝゐる。
五時半の汽車で釧路へ向ふ。三等切符を二枚買つた。切符を切つてくれた驛長さんは、此二人の女連れに、
「もうお歸りですか」と云つた。
釧路へは八時頃着いた。驛に荷物をあづけて、驛の前の飮食店に這入る。私の横には陸軍の將校が一人辨當をたべてゐた。私も辨當がほしくなつて、うどんだの辨當だのを注文した。旅なれないと見えて婦人記者氏も疲れてゐる樣である。
辨當をすませて伊藤氏宅へ行つた。美しいおくさんや、小ちやい坊ちやんや孃ちやんに遇ふ。伊藤氏へ
あいさつをして私は釧路をたつて帶廣へ行かうと思つた。
晝間の汽車にはまだ間があるので、支廳へ行き、先住民族の古跡を歩いて釧路の郊外にある
春採湖へ行つてみる。
春採湖は、摩周湖や屈斜路湖と違つて、ひどくアイヌ的で、ひなびてゐて賑やかな湖であつた。
私は此一月あまりの北への旅で、何だか、湖と平野と沼地と森林ばかりを見て暮らしてゐるやうだ。陽氣になりつゝある。知らない土地で遇ふ人達は案外肥つた方ですねと云つてくれる。十一貫の小さい私が、一貫目もふえたのだから、どつかへ肉がついたのだらう。平野と湖を眺め暮らし、宿屋では牛乳と鮭と蕗ばかり。この一ヶ月は、私を樂天家にしてくれたのかも知れない。生きてゐることは愉しいことだ。
釧路は午後一時半の汽車でたつた。また例の遲い列車で、來た時の驛々に一ツ一ツお目にかゝる事になる。狩勝峠は雨であつた。
帶廣には五時頃着いた。平原の町らしく晴々して、アカシアの並木が深い葉を垂れてゐた。釧路から伊藤氏が電話をかけておいて下すつたのか、こゝでは奧原と云ふ人の出迎へを受けた。
驛前の北海館と云ふのに這入る。
旅館へはいると、ぽつんと一人になつた氣持ちで伸々とする。宿の前はすぐ驛への通りで、果物屋や、十錢スタンドがあつた。夕飯前に、私は一人で帶廣の町を歩いてみる。がらんとした淋しい町であつた。
私は如何にも古くから此町には住んでゐるかのやうな容子で、町を歩いた。案外古本屋が多い。宿ではまた眠られないだらうと、一軒の古本屋にはいり、色々な本を手にしてみた。大正七年出來の
白樺の森と云ふのを三拾錢でもとめた。裝幀はリーチ氏のもので、口繪にはロダンの作品の寫眞が二三はいつてゐる。「或る小さき影」「巴里のゴロツキの顏」「ロダン夫人の塑像」なぞ、その外、ジオーンやラムの素描の繪がはいり何とも愉しかつた。
私は夕飯をぼそぼそ食べながら、その本を展げて讀んだ。有島武郎の
小さき者へが載つてゐる。志賀直哉氏の
網走までなぞ、實に面白く讀んだ。
夜はまた雨だ。
その雨の中を奧原氏が、町でも歩いてみませんかとたづねて來られた。
「あなたをお迎へに出て歸つてみたら、留守に、小樽へ轉任の通知が來てゐて愕きました」
「まあ、それはよかつたですね。では町にでも出てお祝ひでもしませう」
長雨になりさうな、しとしとした雨の町を歩いて、轉任でコオフンしてゐられるらしい奧原氏の爲に、さゝやかな料理店を探したが、結局二人とも雨で困じ果てゝ、喫茶店へアイスクリームを飮みにはいる。こゝでは北大の校歌のレコードをかけてゐたが、それは何かいゝ氣持だつた。
根室線へ這入つてから、滿足に天氣の日がない。明日は早朝
然別湖へ行かなければならないのだが、雨では途が絶えると云ふことであつた。
奧原氏に別れて、宿へ歸つたのが九時前。雨だつたら、
砂糖大根工場に行つてみよう。私は平野も湖も見飽きましたと、友達に書きおくりながら、何故か湖を追つて歩いてゐるやうだ。元氣でゐなくてはいけない。
枕元には、明日行く然別湖のあらゆる姿態をした繪葉書が私を慰さめてくれる。
夜更けに女中が、よく水のあがつた鈴蘭の花を持つて來てくれた。此女中は札幌にさへも行つた事がないと云つてゐた。
然別湖はまだ
洋燈ですよと、女中がいゝところだと云つてゐた。宿屋は一軒しかないさうだ。私はとぼしくなつた財布をひらいて、その宿屋はそんなに高くはないでせうねとたづねた。安かつたら二三日は泊りたいものである。
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