宗谷本線の瀧川と云ふ古い驛に降りた。黄昏で、しかも初めての土地で一人の知人もなかつた。隨分と用意深かく、行く先々の樣子は、旅行案内で調らべておくのだけれども、途中で氣が變つてしまつて、根室本線へ這入つてみたくなり、乘りかへ驛の瀧川と云ふ處に、周章てゝ降りてしまつた。ホームを歩きながら私は驛夫をつかまへて、此町ではどのやうな宿屋がよいかと云ふことを聞かなければならない。樺太以降東京まで直行のつもりでゐたので、最早私の懷もとぼしい。
町は寒かつた。毛織のスーツが結構間にあつた。
此町では三浦華園と云ふのがいゝだらうと驛夫に聞いた。荷物を三浦華園の宿引きに頼んで、私は暮れそめた瀧川の町を歩いて宿へ行つた。官吏とか商人とかゞ、足だまりに寄つて行きさうな小さい町である。宿へ着くと私は頭の先きから足元まで出迎へた女達に見られなければならない。
女で、しかも一人旅は不思議なことなのであらう。風呂に這入り夕食の膳を前にしたけれど、何としても佗しく、一合の酒を頼んだ。酒は二杯ばかりを唇にすると、最早胸につかへて苦しく、床をとらして眠つたが、床へ這入つたで急に眼がさえて來て眠れなかつた。
黄昏に降りた不用意な旅人のために、根室へ行く汽車もなくて、ふかくにも私は瀧川で一泊しなければならなくなつたのだけれど、これも仕方ない。枕元の水差しの盆の上には、此一夜泊りの客の爲に、小さい列車時間表が置いてあつた。裏をめくると、明治三十八年出版運命よりとして國木田獨歩の一章が書いてある。
――「何處までお出ですか」突然一人の男が余に聲を掛けた「空知太まで行くつもりです」
「さうですか、それでは空知太にお出になつたら、三浦屋と云ふ旅人宿に泊つて御覽なさい」――
獨歩が此三浦屋に泊つたのかどうかは判らないけれども、愛なく情なく見るもの荒凉寂寞たると嘆じた獨歩の一人旅を偶々面白く思つた。私も御同樣だ。明治三十八年と云へば私の生れたときだ。まだその頃の空知の國はもつと未開の地であつたに違ひない。
天井の燈を消して枕元のスタンドをつけた。何か本を讀んで此愛なく情なく荒凉寂寞たる自分の氣持ちに應へたかつたけれど、何も讀む氣がしない。夜更けて嬌聲を聞いたけれど、女中が迎へに來て云ふには、「うちではカフヱーもやつてゐるんで厶いますが、お厭でなかつたらいらつしやいませんか」その嬌聲は女給達の聲であつた。
妙に疲れてゐたので、そのまゝカフヱーにも行かないで枕元の燈火をつけたまゝ私は深く眠つてしまつた。
翌朝は不幸なことに曇つてゐた。九時十五分の汽車で根室線に這入る。
空知の風景は私には苦しすぎる位廣かつた。北海道の地圖は少しばかりコチヨウして小さくしてありはせぬかと思ふほど宏大で、空よりも平野が廣い。途中空知のぼんもじりより沛然たる雨で、澤梨の白い花が虹のやうに光つて見えた。黒くなつて畑を耕してゐる人達の、汗だらけの努力を、沁々として感謝せずにはゐられない。
朝から汽車へ乘りづめ、しかも此根室線には急行がないので、一驛一驛私は野原の中の驛々にお目にかゝれる。
釧路へ着いたのが八時頃で、驛を出ると、外國の港へでも降りたやうに潮霧がたちこめてゐた。雨と潮霧で私のメガネはたちまちくもつてしまふ。帶廣から乘り合はせた、轉任の鐵道員の家族が、町を歩いて行つた方が面白いですよと云つて、雨の中を子供を連れた家族達が私を案内してくれた。
山形屋と云ふのに宿を取る。古くて汐くさいはたご屋であつたが、部屋には熊の毛皮が敷いてあつた。――町を歩いてゐても、宿へ着いても、三分おきに鳴つてゐる霧笛の音は、夜着いた土地であるだけに何となく淋しい。遠くで霧笛を聽くと夕燒けの中で牛が鳴いてゐるやうな氣がする。こゝでは朝日新聞の伊藤氏に紹介状を貰つて來てゐたけれど、伊藤氏には逢ひにもゆかずに、默つて宿屋へ着いてしまつた。宿では、無職と書いて怪しまれた。女中は老けた女で何となく固い。判で押したやうな宿屋の遲い夕飯を食べて、熊の毛皮の上に體を伸ばしてみる。まるで熊の背中に馬乘りになつてゐるやうでをかしい。手紙を書いてゐると、今日乘つた列車の食堂車に働いてゐた十六ばかりの二人の少女が、同じ宿に泊りあはせたからと遊びに來た。給仕服をぬぐと二人とも美しいので愕く。明日はまた十時の汽車で函館へ歸へるのだと云つてゐた。茶を淹れたり菓子を擴げたりして、何とない行きずりの語らひを愉しむ。月給が三拾圓で兩親がそろつてゐるとも云つてゐた。
風呂からあがると寢床が敷いてあつたが、熊の毛皮がこはくて、私は次の間へ寢床を引つぱつて行く、寢てゐると霧笛の音で眼がさえる。家が古いので妙におくびやうになる。夜更けて梅雨のやうな重たい雨が降つてゐた。
六月十六日。
北海道へ渡つて久しぶりに青い伸々とした空を見た。伊藤氏に電話して朝食をとる。土地へ行けばその土地の事を少しばかりくはしく聞いておかなければならないので、私は根室への列車の中で作つた私の旅のスケヂユールと地圖を擴げて用意をしておく。
伊藤周吉氏はなかなかいゝひとであつた。
お遇ひするが早いか、とにかく此宿屋を出ようではありせんか、こゝへ來たら「角大」と云ふ啄木の唄に出て來る女のひとの營むでゐる宿屋がありますと云つて、自動車を頼むでこられた。旅先きで貰つた紹介状ではあつたが、旅の情と云ふものは仲々身に沁みるものがある。
山形屋の拂ひを濟ませて道路へ出ると、宿の前がさいはての驛であつた。山形屋へ泊つたこともいゝではありませんかと、いまは肥料倉庫のやうなさいはての舊驛を眼前にして、私は啄木の唄をまるで自らの唄のやうにくちずさんでゐた。
「さいはての驛に降り立ち雪あかり、淋しき町に歩ゆみ入りにき」さいはての驛の前は道が泥々してゐて、雪の頃のすがれたやうな風景を眼の裏に思ひ出す事もできた。
啄木の唄つた女のひとは昔小奴と云つたが、いまは近江じんさんと云つて、角大と云ふ宿屋を營なんでゐた。新しくて大きい旅館で、舊市街と新市街の間のやうなところにあつた。おじんさんは四十五歳だと云つてゐた。小奴と云ふ女のひとを現在眼の前にすると、啄木もそんなに老けてはゐない年頃だつたと思ふ。生きてゐたら、たしか五十歳位ででもあらう。誰でもひとゝほりは聞くであらう啄木との情話よりも、啄木が優しい人であつたと云ふ、何でもない話を、私は大事にきいた。おじんさんは大柄で骨ばつた人であつたが、世の常の宿屋の主のやうにぎすぎすしたところがなかつた。美しい娘さんの寫眞を持つて來て、亡くなつてしまつたのだと嘆いてゐたけれど、誰でもが聞くだらう啄木の思ひ出話よりも、娘の話をするおじんさんは、何となく私には好ましかつた。
私は此宿屋で、釧路の町の色々な人達に遇つた。先住民族遺跡を研究してゐる吉田仁磨と云ふひとや、野尻と云ふ歌よみの人や、その他にも藤井と云ふ婦人記者の人なぞ、さうして樣々な町の歴史を此熱心な人達から聞いたのであつたが、雜記帳を持つて筆記をして歩くやうな氣持ちになる事を恐れ、私は一人で此地方の湖めぐりをしようと思ひたつた。晝飯をおじんさんに馳走になり、早々旅館を辭して、阿寒地帶の中の一番氣むづかしい湖へコースをとつた。
釧路の町は快晴で、天氣がいゝのか霧笛も鳴つてゐない。
途中、啄木が勤めてゐたと云ふ釧路新聞社の前をとほつた。赤いレンガ建で、明治四十年頃の建物として相當新らしかつたのであらうが、いまは古色蒼然としてしまつて、何となくおさなびてゐてよかつた。
霧笛を鳴らしてゐる知人岬と云ふ所にも行つてみた。岬の丘に登ると、太平洋炭鑛埋立地が南の防波堤に續き、まるで海を二ツに切つたやうに見える。樺太でオホーツクの灰色の海ばかり見てゐた私には、釧路の海はるり色に光つてゐて天氣のいゝせいか一望にして港の中が眼にはいつて來る。
朱い煙突を持つた浚渫船が起重機から泥を吐きながら、まるで大雨のやうな音をたてゝ動いてゐた。内地の風景と違つてどこかに底冷たさがある。
港には船が澤山はいつてゐた。厚岸の海では海軍の演習があると云ふので此釧路の海も賑ふだらうと人々が話しあつてゐた。
釧路の驛へ行くと、午後三時半の網走行きがあつたので、その汽車へ乘る。こゝでは角大旅館で遇つた藤井と云ふ若い婦人記者のひとが私と旅を共にすると云つて合財袋を持つて一緒の列車に乘つて來たが、いゝ人達の親切は斷りの仕樣もない。
窓外は茫寞たる谷地で柏の木が多い。標茶の驛あたりより驟雨になつた。車内では川湯温泉の驛長さんが乘り合はしてゐて、色々な旅の話に興じた。
「摩周の湖は、すぐ霧がかゝつてしまうので、運がよくないとなかなか見られませんよ」
今日はとても見られまいとの話で、弟子屈温泉に泊ることにする。
弟子屈の山小屋のやうな小さい驛へ着くと、起伏のある部落の家々には早や灯がはいり、土を掘りかへすやうなすさまじい雨であつた。泥まみれなハイヤに荷物も何もいつしよくたに乘りこんで、伊藤氏に紹介された近水ホテルに行く。田上義也と云ふひとの建築になるとかでライト式だと云ふことである。だが山の温泉宿としては少々薄々とした建物でアパートのやうな氣がしないでもなかつた。私は洋室がきらひなので、日本の部屋へ案内をして貰ふ。いゝ部屋のつくりであつた。温泉へ着いて日本の部屋位有難いものはない。女中達は物靜かで優しかつた。
何よりも沛然と降る雨を眺め、雷のすさまじい音をきくのは、ぴしぴししたきびしいものを感じて爽かである。眼の下を小さい釧路川の上流がゆるく走つてゐる。雨の霽れ間を縫つて蜩がよく鳴いた。
私はだが不幸な旅人であるらしい。此樣な風景を見ても、私の心は先きへ先きへと走つて、同行の女性にも氣の毒なほど默りこくつてゐる。
二人で温泉へはいる。
湯舟は川へ突き出てゐて、赤いレンガを疊んだ圓い浴槽であつた。河の流れが黄昏れた大きい硝子窓に寫つてゐる。これで四圍に鬱蒼とした深い樹林があつたら素的だらうと思つた。ホテルの戸外は土地が若いせいか荒地にある感じで、此河だけがよかつた。ホテルの經營者遠藤清一氏は、軈て庭にも野菜や花を植ゑると云つてゐられたけれど、むしろあの庭には白樺や楡の木の亭々としてゐる方がふさはしいと思へる。
湯から上ると、窓をあけて明日登ると云ふ摩周の山々を見た。ピラオ山や雄阿寒岳、雌阿寒岳が、薄墨のやうにそれらの峰が遠く見える。その山の上に星も月もさえてゐた。月はまだ細かつた。東京を出て何日になるだらうと、不圖、そんなことを考へる。手紙の外は何も書かず、讀まず、その手紙もまるで日記ばかりで、その日その日の心を書きおくるだけで、不思議な位に空虚だつた。
床につくと、婦人記者のひとは色々自分の身上話を始めたが、私の想ひは、遠く外の事ばかりに心が走つてゐた。雨は何時までも止まなかつた。
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