或る夜の、親子の寢物語りに、隆吉は、それとなく、亮太郎からの話だがねと、宮内はなとの縁談を妙子に話してみた。妙子は一寸眞生目な表情で父を見てゐたが、ふつと、唇邊にうす笑ひを浮べて、
「私、お父さんの幸福になる事なら何でもいいと思ふわ。でも、私一人でこゝに留守番するの厭よ。――私が、何處からか通つて來ていけないかしら……」と云つた。
「通ふつて、何處から通ふンだい?」
「うん、私、いゝところあるのよ。此間から、私、そこへ行きたいと思つてゐたンだけど、お父さんが叱ると思つて默つてゐたのよ……」
いゝところがあると云はれて、隆吉は何とも云へない氣持がした。いゝところと無雜作に云はれてみると、隆吉は、急に、妙子をあてにして來てゐるやうな客の顏が浮んだ。
あれでもない、これでもないと、一人々々のなじみの客を思ひ浮べてみる。いつたい、いゝところと云ふのは何處の誰のところであらうか……。不意にむほんをおこされたやうで、隆吉はしやくぜんとしない。
「學校の友達にでも遇つたのかね」
わざと逆手を考へて、隆吉が天井をむいたまゝたづねた。大きな物音で鼠がさわぎたててゐる。この界隈は馬鹿に鼠の多いところで、晝間でも平氣で臺所なぞに現はれて來る。
「うゝん、女のひとぢやないの、男のひとなのよ」
「ふうーん」と隆吉は唸つた。
まだ子供だと思つてゐた年頃が、急にぐつと大人になりすました感じである。
「誰だ? 店に來るひとかね?」
「一度きりしか來ないのよ。滿洲にゐたひとなの……道であつたの……」
「たつた一度や二度遇つて、お前に來いと云ふのか?」
「あら、もう、妙子、何度も遇つてゐるのよ。昨日も一緒に遊んだのよ」
なるほど云はれてみると、連日のやうに、何處かに出掛けてゐなくなる時がある。別に商賣にさしさはりのある程の長い時間ではなかつたので、隆吉は氣にもとめなかつたが、その時間が、男とあひびきの時だつたのかと、隆吉は肚の底でうーんと唸るばかりだ。
「お前の年頃ではまだ早いと思ふがね。どんな人物か知らんが、早く世帶を持つて苦勞をする事も考へもンだな。第一、經濟と云ふものがなりたつまい。――若い時は夢をみがちだ。別にどうしろと云ふわけぢやないが、お前のためを思ふから、お父さんは心配するンだよ」
妙子はくるりと腹這ひになつて、枕に頬杖を突くと、
「大丈夫よ。滿洲で妙子が死んだと思へばいいぢやアないの。部屋をみつけるつたつて、お父さん大變なのよ。いま、小さい部屋一つ借りるにしても何萬圓つて權利金がいるンですもの、宮内さんにはこゝへ來て貰つて、私がこゝへ通つて來るわ。私に月給をくれゝばいゝわ。さうすれば、私とても助かるンだもの……」
隆吉は、天井をむいたまゝ一言の言葉もない。妙子はぼんやりとした表情で、何かを考へてゐるらしかつたが、やがて口笛を吹き始めた。
「相手の男は何をするひとだね?」
隆吉がたづねた。
「新聞記者。新京で一寸知つてゐるのよ。奧さんと子供があつたンだけど、奧さんは死んぢやつて、女の子は親類へあづけてあるンだつて、アパートに獨りでゐるのよ。この近くなの……年は三十五ですつて……でもとても若く見えるひとなのよ。何處かお父さんの若い時に似てるひとよ」
隆吉はをかしくなつて眼をつぶつた。なるほど、わが娘ながら大したものである。躯の關係があるのかないのか、いゝ年をしてたづねてみるのもきまりが惡かつたけれども、そこまで話がついてゐる以上は、只事ではないにきまつてゐる。死んだと思へと云はれてみると、それもさうだと、隆吉は辛かつた。一年あまりの滿洲での苦勞を思ひ出さずにはゐられない。
「始めは口の惡いひとで、おこりつぽい人だつたンだけど、いまでは心の優しい人だつて判つたのよ。――お父さんをいゝひとだつて云つたわ。とても純情で、このごろは私の云ふとほりになるの……」
ほゝう……隆吉はまた眼を開けて天井を見た。小袋と小娘は油斷がならぬとはよく云つたものだと、その時期が來れば、自然に花粉を呼ぶしくみになつてゐる人間の世界が隆吉には面白くもある。娘と二人きりで働き、時時は昔がたりをして世をはかなむ愚はもうやめた方がよいのであらう。妙子は妙子なりに、この心細い親子の關係をたちきつて、自分のよりどころや、前途を考へるのも不思議はない。――急に宮内はなの細い眼もとを思ひ出した。
「お前とは、大分としが違ふね」
「えゝ、時々、そのひと笑ふのよ。お半長衞門だつて……お半長衞門つてなんだか知らないけど、そんな事どうでもいゝのよ。一緒にゐるのが幸福なンだもの……。少々ひもじい思ひをしても二人とも何ともないの。だから、私に月給をくれゝば、私はそこから通つて來て、みんなにじやんじやん酒を飮まして、崩浪亭をうんとまうけさしてあげるの……。お父さんだつて、宮内さんを貰へば幸福になるわ。もう鷄の聲をきかなくつても、宮内さんが慰さめてくれるでせう?」
妙子はくすりと笑つた。鷄の聲をきくと、お母さんの事を思ひ出すねと、口ぐせに云つてゐたのを妙子はちやんと覺えてゐたのである。
二三日して、とぼしい手まはりのものを持つて妙子は隆吉におくられて、伊織のアパートに行つた。伊織はちやんと部屋の中を片づけて待つてゐた。妙子は宮内さんのつくつてくれた灰色のスーツを着こんで、いつになくめかしこんでゐた。大柄なせゐかはたち位にはみえた。腰つきもふくらみ、張りこんで隆吉が買つてやつた絹の沓下のかつかうも、まるで白人の女のやうにすんなりとしてゐる。ビロードの紅いざうり底の靴がなまめかしい感じだつた。
伊織は案外若々しい男で、背もぐんと高く、色白な廣い額が立派であつた。何よりも肉づきのあつい立派な體格が堂々としてゐた。大柄な妙子とはいゝとりあはせで、あまりによく似合ひすぎた一組であることに隆吉は内心非常な滿足を感じた。
青年はいゝものだと思つた。街でみかける弱々しい男とはかつぷくが違つてゐて、頼もしい風貌である。それに、伊織は、二十代の青年とは違つて、一度は女房もゐたし子供もあると云ふ男だけに非常に落ちついて、話も現實的で、常識もちやんと心得てゐた。何時の間にか、窓ぎはには、妙子の日常つかつてゐた小さい姫鏡臺も置いてある。
妙子がきびんに牛肉と野菜を買つて來てスキヤキの用意をした。何も彼もが、隆吉の昔の新世帶の思ひ出ならざるはない。看護婦をしてゐた糸子との世帶の持ちはじめが、またこゝにむしかへされてゐる。隆吉は酒に醉ひ、この若い者同志の心づくしに出あひ滿足であつた。――女の子は六つになるのださうである。細君は伊織の郷里の女で肺で亡くなつたのだと云つた。隆吉は同病相哀れむで、似たやうな夫婦もあるものだと思つた。伊織も醉つて、默つて妙子と事を運んだのはきまりが惡いのだと云つた。
サラリーは二千七百圓ほど取つてゐるのだけれども、毎月、子供の方へ五百圓づつ送らなければならないので、それだけ御承知下さいともはつきり云ふのである。隆吉は瞼がうるんで來るやうな氣持だつた。その正直さが得がたいものだとも思へた。
隆吉は、妙子を伊織のアパートにおくり、戻つて來るとすぐ亮太郎に宮内の話をすゝめて貰ひたい由をつげた。裏口に空地があるので、三疊をたたまし[#「たたまし」はママ]にかゝつた。ミシン二臺位と女の荷物はそこへはいるつもりであつた。建ましの許可もおり、大工もきまり、壁をこはしにかゝつて數日たつても、亮太郎のところからは何の返事もない。
妙子は毎日元氣よく夕方から崩浪亭へ通つて來た。
「お父さん、急におしやれになつたのね」
妙子は父をからかつたりしてゐる。
隆吉もまんざら惡い氣もしなかつたが、亮太郎から返事のないのが何となく不安であつた。――自分で出むいて行くのもきまりが惡かつたので、妙子を河邊のところへ使ひに出してみた。夜になつて戻つて來た妙子は、うかない顏つきで、
「お父さん、宮内さん駄目よ。あのひと、變なひとだわ……年下の好きなひとがあつたンですつて、急に何とも云はないで、横須賀へ行つちやつたンだつて……そのひとゝは一緒にゐないンだつて……でもね、宮内さん、お父さんの話は氣が變つたのよ。どうも、調子がよすぎるとは思つたけど、あの位の女のひとは、かへつて、娘よりもあつかひにくいものだつて河邊さんのをぢさん云つてたわ。迷ひの深いひとは、貰つてもお父さんが不幸だつて思つたから、私、お父さんもあきらめるでせうから、ことわつておいて下さいつて云つてきたの。をぢさん、またいゝひとがみつかつたらお世話しますつて、明日あたりうかゞふつて云つてましたわ」
隆吉は内心おだやかではなかつた。すつかり貰ふつもりで、愉しい夢を描いてゐた。鷄も二羽とも店につかふつもりで、新しい妻の寢ざめの心づかひまでしてゐた自分の氣持がみじめになつて來た。粗末な木口ではあつたが、木の香の匂ひが、いまでは不安をさそふ匂ひは[#「匂ひは」はママ]かはつた。
隆吉は、亮太郎にきいた横須賀の宮内の住居を尋ねてみべるく、思ひきつて、今日は東京驛まで來たのであつたが、幾度となく出這いりしてゐる電車や汽車のものすごい音に氣持が重く屈して來るのを感じた。
はずみだけで、この老人をつかまへて見合ひをさせられたのはやりきれない事だが、いまさら女を追つたところで、詮もないことであるに違ひない……。
暫くホームに立つて、賑やかな乘り降りの人の群をみてゐると、隆吉はしみじみと孤獨を感じた。いまさら實盛氣取でもあるまい。
このまゝ居酒屋崩浪亭の親爺で終ることもいゝではないかと、ふつと四圍をみ廻した。十一月の寒々とした氣配が、かうした草木のない驛のなかにも、ひそやかにたゞようてゐる。
乘る人降りる人、みなそれぞれに營みがある。隆吉は、また、明日から.鷄の時を告げる聲をきかなければならないだらう。それも亦まんざら愉しくない事はない……。
人間の心と云ふものは、いつまでたつても、かうしたはずみを食つてどうにもならぬほど氣持を追ひつめる時があるものだと、隆吉は人生五十年の自分の年齡の、燭火の佗しさに思ひ到り、冷たくなつた靴のさきをふみしめて省線のホームの方へ降りて行つた。
(一九四七・九・一七)
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