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文学的自叙伝(ぶんがくてきじじょでん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 13:18:01  点击:335  切换到繁體中文

 岡山と広島の間にみちと云う小さな町があります。ほんの腰掛けのつもりで足を止めたこの尾の道と云う海岸町に、私は両親と三人で七年ばかり住んでいました。この町ではたった一つしかない市立の女学校に這入はいりました。女学校は小さい図書室を持っていて、『奥の細道』とか、『八犬伝』とか、吉屋信子よしやのぶこ女史の『屋根裏の二処女』とか云った本が置いてありました。学校の教室や、寄宿舎は、どれも眺めのいい窓を持っていましたのに、図書室だけは陰気で、運動具の亜鈴あれいや、鉄の輪のようなものまで置いてありましたので、何時いつ行ってもこの図書室は閑散でした。私はこの図書室で、ホワイト・ファングだの、鈴木三重吉すずきみえきちの『瓦』だのを読みました。平凡な娘がひととおりはそのようなものに眼を通す、そんな、感激のない日常でした。両親は、毎日、或いは泊りがけで、近くの町や村へ雑貨の行商に行っておりましたので、誰もいない家へ帰るのがいやで、私は女学校を卒業する四年の間、ほとんど、この陰気な図書室で暮らしておりました。目立たない生徒で、仲のいい友人も一人もありませんでした。無細工なおかしな娘だったので、自然と私も遠慮勝ちで友達をもとめなかったことと思います。二年生の時、椿姫の唄を唱歌室で聴きました。新任の亀井花子と云う音楽教師がレコードをかけてくれたのです。「ああそはかのひとか、うたげのなかに……」と云ったような言葉でしたが、唱歌の判らない私にも、その言葉は心が燃えるほど綺麗だったのです。上級にすすんで、私はウェルテル叢書を読むようになりました。だいだい色のような小さい赤い本で、マノン・レスコオだの、ポオルとヴィルジニイだの、カルメン、若きウェルテルの悲しみ、など読みふけりました。私たちの受持教師に森要人と云う、五十歳位の年配の方がいました。雨が降ると、詩と云うものを読んで聞かしてくれました。レールモントフと云うひとの少女の歌える歌とか云う、

かりする人のやりに似て
小舟は早くみどりなる
海のおもてを走るなり


 と云ったものや、ハイネ、ホイットマン、アイヘンドルフ、ノヴァリス、カアル・ブッセと云った外国の詩を読んでくれました。その外国の人たちがどんな詩を書いていたのか、みんな忘れてしまったけれども、随分心温かでした。生徒はみんなノートしているのに、私だけはノートもしないで、眼をつぶってその詩にききほれたものでした。ビヨルソンの詩とか、プウシキンのうぐいすと云う名前など、綺麗な唄なので覚えています。自然に、私は詩が大変好きになりました。燃えあがる悲しみやよろこばしさを、不自由もなく歌える詩と云うものを組しやすしと考えてか、らちもない風景詩をその頃書きつけてたのしんでいました。
 大正十一年の春、女学校生活が終ると、何の目的もなく、世の常の娘のように、私は身一つで東京へ出て参りました。汽車の煤煙が眼に這入って、半年も眼をわずらい、生活の不如意と、目的のない焦々いらいらしさで困ってしまいました。半年もすると、両親は尾の道を引きはらい、東京の私の処へやって参りました。私は東京へ来てから雑誌ひとつ見ることが出来ませんでした。また読みたいとも思わず、私は、大正十一年の秋、やっと職をみつけて、赤坂の小学新報社と云うのに、帯封おびふう書きにやとわれて行きました。日給が七拾銭位だったでしょう。東中野の川添と云う田圃たんぼの中の駄菓子屋の二階に両親といました。私は、このあたりから文学的自叙伝などとはおよそ縁遠い生活に這入り、ただ、働きたべるための月日をおくりました。日給がすくないので、株屋の事務員をしたりしました。日本橋に千代田橋と云うのがあります。白木屋しろきやのそばで繁華な街でした。橋のそばの日立商会と云う株屋さんに月給参拾円で通いましたが、ここも三、四ヶ月でくびになり、私は両親と一緒に神楽坂かくらざかだの道玄坂だのに雑貨の夜店を出すに至りました。初めのうちは大変はずかしかったのですけれども、れて来ると、私は両親と別れて、一人で夜店を出すようになりました。寒い晩などは、焼けるようなカイロを抱いて、古本に読み耽りました。私の読書ときたら乱読にちかく、ちつじょもないのですが、加能作次郎かのうさくじろうと云うひとのあられの降る日と云うのを不思議によく覚えています。いまでも、加能作次郎氏はいい作家だと思います。加能氏が牛屋ぎゅうや下足番げそくばんをされたと云うのを何かで読んでいたので、よけいに心打たれたのでしょう。私はその頃新潮社から出ていた文章倶楽部くらぶと云う雑誌が好きでした。室生犀星むろうさいせい氏が朝湯の好きな方だと云うことも、古本屋で買った文章倶楽部で知りました。室生氏が手拭てぬぐいをぶらさげて怒ったような顔で立っていられる写真を覚えています。私は室生氏の詩が大変好きでした。大正十二年震災に逢って、私たちは東京を去り、しばらく両親と四国地方を廻っておりました。暗澹あんたんとした日常で、何しろ、すすんで何かやりたいと云った熱情のない娘でしたので、住居すまいも定まらず親子三人で宿屋から宿屋を転々としながら、私は何時も母親に余計者だとののしられながら暮らしていました。大正十三年の春、また、私はひとりで東京へ舞い戻って来ました。セルロイド工場の女工になったり、毛糸店の売子になったり、或る区役所の前の代書屋に通ったりして生活していましたが、友人の紹介で、田辺若男たなべわかお氏を知りました。松井須磨子まついすまこたちと芝居をしていたひとです。私は、間もなく、この田辺氏と結婚しました。同棲二、三ヶ月の短い間でありましたが、私はこの結婚生活の間に、田辺氏の紹介で詩を書く色々な人たちに逢いました。萩原恭次郎はぎわらきょうじろう氏とか壺井繁治つぼいしげじ氏、岡本潤おかもとじゅん氏、高橋新吉たかはししんきち氏、友谷静栄ともやしずえさんなど、みんな元気がよくて、アナアキズムの詩を書いていました。夏の終り頃、田辺氏に去られて、私は友谷静栄さんと「二人」と云う詩の同人雑誌を出しました。いまその「二人」が手許てもとにないのでどんな詩を書いていたのか忘れてしまったけれども、なかでもお釈迦しゃか様と云うのを辻潤つじじゅん氏が大変讃めて下すったのを記憶しています。――本郷の肴町さかなまちにある南天堂と云う書店の二階が仏蘭西フランス風なレストランで、そこには毎晩のように色々な文人が集りました。辻潤氏や、宮嶋資夫みやじますけお氏や片岡鉄兵かたおかてっぺい氏などそこで知りました。ひとりになると、私はまた食べられないので、その頃は、神田のカフェーに勤めていました。大正琴のあるようなカフェーなので、そんなに収入はありませんでした。「二人」は金が続かないので五号位でめてしまいました。友谷静栄と云うひとは才能のあるひとで、その頃、新感覚派の雑誌、文学時代の編輯をも手伝っていました。私は、その頃童話のようなものを書いていましたが、これは愉しみで書くだけで少しも売れなかったのです。
 私にとって、一番苦しい月日が続きました。ある日、私は、菊富士ホテルにいられた宇野浩二うのこうじ氏をたずねて、教えを乞うたことがありましたが、宇野氏は寝床ねどこの中から、キチンと小さく坐っている私に、「話すようにお書きになればいいのですよ」と云って下すった。たった一度お訪ねしたきりでした。間もなく、私は野村吉哉のむらよしや氏と結婚しました。大変早くから詩壇に認められたひとで、二十歳の年には中央公論に論文を書いていました。その頃、草野心平くさのしんぺいさんが、上海から薄い同人雑誌を送ってよこしていました。――世田ヶ谷の奥に住んでいました時、まだ無名作家の平林たい子さんがあかい肩掛けをして訪ねて見えました。その頃、私におとらないように、たい子さんも大変苦労していられたようでした。野村氏とは二年ほどして別れた私は新宿のカフェーに住み込んだりして暮らしていました。カフェーで働くことも厭になると、私はその頃、ひとりぐらしになっていたたい子さんの二階がりへ転り住んで、しばらくたい子さんと二人で酒屋の二階で暮らしました。その頃、無産婦人同盟と云うのにも這入りましたが、私のような者には肌あいの馴れない婦人団体でした。その頃、童話を書くかたわら、私は文芸戦線に、創刊号から詩を書いていました。ところで、私の童話はまれにしか売れないのです。――
 私はその頃、徳田秋声とくだしゅうせい先生のお家にも行き馴れておりました。みすぼらしい私を厭がりもしないで、先生は何時行っても逢って下すったし、お金を無心して四拾円も下すったのを今だにザンキにたえなく思っています。徳田先生には一度も自分の小説は持参しなかったけれども、転々と持ちあるいて黄色くなった私の詩稿を先生にお見せした事があります。(これはまるでつくりごとのようだけれども)私の詩集を読んで眼鏡めがねずして先生は泣いていられました。私はその時、先生のお家で一生女中になりたいと思った位です。たった一言「いい詩だ」と云って下すったことが、やけになって、生きていたくもないと思っていた私を、どんなに勇ましくした事か……、私はうれしくて仕方がないので、先生のお家の玄関へある夜西瓜すいかを置いて来ました。あとで聞いたのだけれどもいつか徳田先生と私と順子さんと、来合わしていた青年のひとと散歩をしてお汁粉しるこを先生に御馳走になったのですが、その青年のひとが窪川鶴次郎くぼかわつるじろう氏だったりしました。私はひとりになると、よく徳田先生のお家へ行ったし、先生は、御飯を御馳走して下すったり落語をききに連れて行って下すったりしました。先生と二人で冬の寒い夜、本郷丸山町の深尾須磨子さんのお家を訪ねて行ったりして、お留守であった思い出もあるのですが、考えてみると、私を、今日のような道に誘って下すったのは徳田先生のような気がしてなりません。

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