きんも熱海の別荘を売つた。手取り三十万近い金がはいると、その金でぼろ家を買つては手入れをして三、四倍には売つた。きんは、金にあわてると云ふ事をしなかつた。金銭と云ふものは、あわてさへしなければすくすくと雪だるまのやうにふくらんでくれる利徳のあるものだと云ふ事を長年の修業で心得てゐた。高利よりは安い利まはりで固い担保を取つて人にも貸した。戦争以来、銀行をあまり信用しなくなつたきんは、なるべく金を外へまはした。農家のやうに家へ積んで置く愚もしなかつた。その使ひにはすみ子の良人の浩義を使つた。幾割かの謝礼を払へば、人は小気味よく働いてくれるものだと云ふ事もきんは知つてゐた。女中との二人住ひで、四間ばかりの家うちは、外見には淋しかつたのだけれども、きんは少しも淋しくもなかつたし、外出ぎらひであつてみれば、二人暮しを不自由とも思はなかつた。泥棒の要心には犬を飼ふ事よりも、戸締りを固くすると云ふ事を信用してゐて、何処の家よりもきんの家は戸締りがよかつた。女中は唖なので、どんな男が尋ねて来ても他人に聞かれる心配はない。その癖きんは、時々、むごたらしい殺され方をしさうな自分の運命を時々空想する時があつた。息を殺してひつそりと静まり返つた家と云ふものを不安に思はないでもない。きんは、朝から晩までラジオをかける事を忘れなかつた。きんはその頃、千葉の松戸で花壇をつくつてゐる男と知りあつてゐた。熱海の別荘を買つた人の弟だとかで、戦争中はハノイで貿易の商社を起してゐたのだけれども、終戦後引揚げて来て、兄の資本で松戸で花の栽培を始めた。年はまだ四十歳そこそこであつたが、頭髪がつるりと禿げて、年よりは老けてみえた。板谷清次と云つた。二三度家の事できんを尋ねて来たけれども、板谷は何時の間にかきんの処へ週に一度は尋ねて来るやうになつてゐた。板谷が来始めてから、きんの家は美しい花々の土産で賑はつた。――今日もカスタニアンと云ふ黄いろい薔薇がざくりと床の間の花瓶に差されてゐる。銀杏の葉、すこし零れてなつかしき、薔薇の園生の霜じめりかな。黄いろい薔薇は年増ざかりの美しさを思はせた。誰かの歌にある。霜じめりした朝の薔薇の匂ひが、つうんときんの胸に思ひ出を誘ふ。田部から電話がかゝつてみると、板谷よりも、きんは若い田部の方に惹かれてゐる事を悟る。広島では辛かつたけれども、あの頃の田部は軍人であつたし、あの荒々しい若さも今になれば無理もなかつた事だとつまされて嬉しい思ひ出である。激しい思ひ出ほど、時がたてば何となくなつかしいものだ。――田部が尋ねて来たのは五時を大分過ぎてからであつたが、大きな包みをさげて来た。包みの中から、ウイスキーや、ハムや、チーズなぞを出して、長火鉢の前にどつかと坐つた。もう昔の青年らしさはおもかげもない。灰色の格子の背広に、黒つぽいグリンのズボンをはいてゐるのは如何にも此時代の機械屋さんと云つた感じだつた。「相変らず綺麗だな」「さう、有難う、でも、もう駄目ね」「いや、うちの細君より色つぽい」「奥さまお若いンでせう?」「若くても、田舎者だよ」きんは、田部の銀の煙草ケースから一本煙草を抜いて火をつけて貰つた。女中がウイスキーのグラスと、さつきのハムやチーズを盛りあはせた皿を持つて来た。「いゝ娘だね……」田部がにやにや笑ひながら云つた。「えゝ、でも唖なのよ」ほゝうと言つた表情で、田部はぢいつと女中の姿をみつめてゐた。柔和な眼もとで、女中は丁寧に田部に頭をさげた。きんは、ふつと、気にもかけなかつた女中の若さが目障りになつた。「御円満なのでせう?」田部はぷうと煙を吹きながら、あゝ僕ンとこかいと云つた顔で、「もう来月子供が生れるンだ」と言つた。へえ、さうなのと、きんはウイスキーの瓶を持つて、田部のグラスにすゝめた。田部は美味さうにきゆうとグラスを空けて、自分もきんのグラスにウイスキーをついでやつた。「いゝ生活だな」「あら、どうして?」「外は嵐がごうごうと吹き荒さんでゐるのにさ、君ばかりは何時までたつても変らない……不思議な人だよ。どうせ、君の事だから、いゝパトロンがゐるンだらうけど、女はいゝな」「それ、皮肉ですか? でも、私、別に、田部さんに、そんな風な事云はれる程、貴方に御厄介かけたつて事ないわね?」「憤つたの? さうぢやないンだよ。さうぢやないンだ。あンたは倖せな人だつて言ふンだよ。男の仕事つて辛いもンだから、つい、そンな事を云つたのさ。いまの世は、あだやおろそかには暮せない。喰ふか喰はれるかだ。僕なンか、毎日ばくちをして暮してゐるやうなもンだからね」「だつて、景気はいゝンでせう?」「よかないさ……あぶない綱渡り、耳鳴りがする位辛い金を使つてゐるンだぜ」きんは黙つてウイスキーをなめた。壁ぎはでこほろぎが啼いてゐるのがいやにしめつぽい。田部は、二杯目のウイスキーを飲むと、荒々しくきんの手を火鉢越しにつかんだ。指環をはめてゐない手が絹ハンカチのやうに頼りないほど柔い。きんは手の先きにある力をぢつと抜いて、息を殺してゐた。力の抜けてゐる手は無性に冷たくてぼつてりと柔い。田部の酔つた目には、昔の様々が渦をなし心に迫つて来る。昔のまゝの美しさで女が坐つてゐる。不思議な気がした。絶えず流れる歳月のなかに少しづつ経験が積み重なつてゆく。その流れのなかに、飛躍もあれば墜落もある。だが、昔の女は何の変化もなく太々しくそこに坐つてゐる。田部はぢいつときんの眼をみつめた。眼をかこむ小皺も昔のままだ。輪郭も崩れてはゐない。この女の生活の情態を知りたかつた。この女には社会的の反射は何の反応もなかつたのかもしれない。箪笥を飾り長火鉢を飾り、豪華に群生した薔薇の花も飾り、につこりと笑つて自分の前に坐つてゐる。もう、すでに五十は越してゐる筈だのに、匂ふばかりの女らしさである。田部はきんの本当の年齢を知らなかつた。アパート住ひの田部は、二十五歳になつたばかりの細君のそゝけた疲れた姿を瞼に浮べる。きんは火鉢のひき出しから、のべ銀の細い煙管を出して、小さくなつた両切りをさして火をつけた。田部が、時々膝頭をぶるぶるとゆすぶつてゐるのが、きんには気にかゝつた。金銭的に参つてゐる事でもあるのかも知れないと、きんはぢいつと田部の表情を観察した。広島へ行つた時のやうな一途な思ひはもうきんの心から薄れ去つてゐる。二人の長い空白が、きんには現実に逢つてみるとちぐはぐな気がする。さうしたちぐはぐな思ひが、きんにはもどかしく淋しかつた。どうにも昔のやうに心が燃えてゆかないのだ。この男の肉体をよく知つてゐると云ふ事で、自分にはもうこの男のすべてに魅力を失つてゐるのかしらとも考へる。雰囲気はあつたにしても、かんじんの心が燃えてゆかないと云ふ事に、きんは焦りを覚える。「誰か、君の世話で、四十万ほど貸してくれる人ない?」「あら、お金のこと? 四十万なンて大金ぢやないの?」「うん、いま、どうしても、それだけ欲しいンだよ。心当りはない?」「ないわ、第一、こんな無収入な暮しをしてゐる私に、そンな相談をしたつて無理ぢやないの……」「さうかなア、うんと、利子をつけるが、どうだらう?」「駄目! 私にそンな事おつしやつても無理よ」きんは、急に寒気だつやうな気がした。板谷との長閑な間柄が恋ひしくなつて来る。きんは、がつかりした気持ちで、しゆんしゆんと沸きたつてゐるあられの鉄瓶を取つて茶を淹れた。「二十万位でもどうにかならない? 恩にきるンだがなア……」「をかしな人ね? 私にお金のことをおつしやつたつて、私にはお金のない事よく判つていらつしやるぢやないの……。私がほしい位のものだわ。私に逢ひたい為に来て下すつたンぢやなく、お金の話で、私のとこへいらつしたの?」「いや、君に逢ひたい為さ、そりやア逢ひたい為だけど、君になら、何でも相談が出来ると思つたからなンだよ」「お兄様に相談なさればいゝのよ」「兄貴には話せない金なンだ」きんは返事もしないで、ふつと、自分の若さも、もうあと一二年だなと思ふ。昔の焼きつくやうな二人の恋が、いまになつてみると、お互ひの上に何の影響もなかつた事に気がついて来る。あれは恋ではなく、強く惹きあふ雌雄だけのつながりだつたのかも知れない。風に漂ふ落葉のやうなもろい男女のつながりだけで、こゝに坐つてゐる自分と田部は、只、何でもない知人のつながりとしてだけのものになつてゐる。きんの胸に冷やかなものが流れて来た。田部は思ひついたやうに、にやりとして、「泊つてもいゝ?」と小さい声で、茶を呑んでゐるきんに尋ねた。きんは吃驚した眼をして、「駄目よ。こんな私をからかはないで下さい」と、眼尻の皺をわざとちぢめるやうにして笑つた。美しい皓い入れ歯が光る。「いやに冷酷無情だな。もう、一切金の話はしない。一寸、昔のきんさんに甘つたれたンだ。でも、――こゝは別世界だものね。君は悪運の強い人だよ。どんな事があつたつてくたばらないのは偉い。いまの若い女なンか、そりやアみじめだからね。君、ダンスはしないの?」きんは、ふゝんと鼻の奥でわらつた。若い女がどうだつて云ふンだらう……。私の知つた事ぢやないわ。「ダンスなンて知らないわ。貴方なさるの?」「少しはね」「さう、いゝ方があるンでせう? それでお金がいるンじやないの?」「馬鹿だなア、女にみつぐ程、ぼろい金まうけはしてゐない」「あら、でも、とても、その身だしなみは紳士ぢやないのよ。相当なお仕事でなくちや、出来ない芸だわ」「これははつたりなンだ。ふところはぴいぴいなンだぜ。七転び八起きも此頃はあわたゞしくてね……」きんはふふふとふくみ笑ひをして、田部の房々とした黒髪にみとれてゐる。まだ、十分房々として額ぎはにたれてゐる。角帽の頃の匂ふ水々しさは失せてゐるけれども、頬のあたりがもう中年の仇めかしさを漂はせて、品のいゝ表情はないながらも、逞ましい何かがある。猛獣が遠くから匂ひを嗅ぎあつてゐるやうな観察のしかたで、きんは、田部にも茶を淹れてやつた。「ねえ、近いうちにお金の切りさげってあるつて本当なの?」きんは冗談めかして尋ねた。「心配するほど持つてるンだな?」「まア! すぐ、それだから、貴方つて変つたわね。そンな風評を人がしてるからなのよ」「さア、そンな無理なことはいまの日本ぢや出来ないだらうね。金のないものには、まづ、そンな心配はないさ」「本当ね……」きんはいそいそとウイスキーの瓶を田部のグラスに差した。「あゝ、箱根かどつか静かなところへ行きたいな。二三日そんな処でぐつすり寝てみたい」「疲れてるの」「うん、金の心配でね」「でも、金の心配なンて貴方らしくていゝじやアありませんの? なまじ、女の心配ぢやないだけ……」田部は、きんの取り澄してゐるのが憎々しかつた。上等の古物を見てゐるやうでをかしくもある。一緒に一夜を過したところで、ほどこしをしてやるやうなものだと、田部は、きんのあごのあたりを見つめた。しつかりしたあごの線が意志の強さを現はしてゐる。さつき見た唖の女中の水々しい若さが妙に瞼にだぶつて来た。美しい女ではないが、若いと云ふ事が、女に眼の肥えて来た田部には新鮮であつた。なまじ、この出逢ひが始めてならば、かうしたもどかしさもないのではないかと、田部は、さつきよりも疲れの見えて来たきんの顔に老いを感じる。きんは何かを察したのか、さつと立ちあがつて、隣室に行くと、鏡台の前に行き、ホルモンの注射器を取つて、ずぶりと腕に射した。肌を脱脂綿できつくこすりながら、鏡のなかをのぞいて、パフで鼻の上をおさへた。色めきたつ思ひのない男女が、かうしたつまらない出逢ひをしてゐると云ふ事に、きんは口惜しくなつて来て、思ひがけもしない通り魔のやうな涙を瞼に浮べた。板谷だつたら、膝に泣き伏すことも出来る。甘えることも出来る。長火鉢の前にゐる田部が、好きなのかきらひなのか少しも判らないのだ。帰つて貰ひたくもあり、もう少し、何かを相手の心に残したい焦りもある。田部の眼は、自分と別れて以来、沢山の女を見て来てゐるのだ。厠へ立つて、帰り、女中部屋を一寸のぞくと、きぬは、新聞紙の型紙をつくつて、洋裁の勉強を一生懸命にしてゐた。大きなお尻をぺつたりと畳につけて、かゞみ込むやうにして鋏をつかつてゐる。きつちり巻いた髪の襟元が、艶々と白くて、見惚れるやうにたつぷりとした肉づきであつた。きんはそのまゝまた長火鉢の前へ戻つた。田部は寝転んでゐた。きんは茶箪笥の上のラジオをかけた。思ひがけない大きい響きで第九が流れ出した。田部はむつくりと起きた。そしてまたウイスキーのグラスを唇につける。「君と、柴又の川甚へ行つた事があつたね。えらい雨に降りこめられて、飯のない鰻を食つた事があつたなア」「ええ、そンな事あつたわね、あの頃はもう、食べ物がとても不自由な時だつたわ。貴方が兵隊さんになる前よ、床の間に赤い鹿の子百合が咲いててさア、二人で、花瓶を引つくり返したこと覚えてゐる?」「そンな事あつたね……」きんの顔が急にふくらみ、若々しく表情が変つた。「何時かまた行かうか?」「えゝ、さうね、でももう、私、おくくふだわ……もう、あそこも、何でも食べさせるやうになつてるでせうね?」きんは、さつき泣いた感傷を消さないやうに、そつと、昔の思ひ出をたぐりよせようと努力してゐる。そのくせ、田部とは違ふ男の顔が心に浮ぶ。田部と柴又に行つたあと、終戦直後に、山崎と云ふ男と一度、柴又へ行つた記憶がある。山崎はつい先達胃の手術で死んでしまつた。晩夏でむし暑い日の江戸川べりの川甚の薄暗い部屋の景色が浮んで来る。こつとん、こつとん、水揚げをしてゐる自動ポンプの音が耳についてゐた。カナカナが鳴きたてて、窓べの高い江戸川堤の上を買ひ出しの自転車が競争のやうに銀輪を光らせて走つてゐたものだ。山崎とは二度目のあひゞきであつたが、女に初心な山崎の若さが、きんにはしみじみと神聖に感じられた。食べ物も豊富だつたし、終戦のあとの気の抜けた世相が、案外真空の中にゐるやうに静かだつた。帰りは夜で、新小岩へ広い軍道路をバスで戻つたのを覚えてゐる。「あれから、面白い人にめぐりあつた?」「私?」「うん……」「面白い人つて、貴方以外に何もありませんわ」「嘘つけ!」「あら、どうして、さうぢやないの? こんな私を、誰が相手にするものですか……」「信用しない」「さう……でも、私、これから咲き出すつもり、生きてゐる甲斐にね」「まだ、相当長生きだらうからね」「えゝ、長生きをして、ぼろぼろに老いさらばへるまで……」「浮気はやめない?」「まア、貴方つて云ふひとは、昔の純なとこ少しもなくなつたわね。どうして、そンな厭なことを云ふ人になつたんでせう? 昔の貴方は綺麗だつたわ」田部は、きんの銀の煙管を取つて吸つてみた。じゆつと苦味いやにが舌に来る。田部はハンカチを出して、べつとやにを吐いた。「掃除しないからつまつてるのよ」きんは笑ひながら、煙管を取りあげて、散り紙の上に小刻みに強く振つた。田部は、きんの生活を不思議に考へる。世相の残酷さが何一つ跡をとゞめてはいないと言ふ事だ。二三十万の金は何とか都合のつきさうな暮しむきだ。田部はきんの肉体に対しては何の未練もなかつたが、この暮しの底にかくれてゐる女の生活の豊かさに追ひすがる気持ちだつた。戦争から戻つて、只の血気だけで商売をしてみたが、兄からの資本は半年たらずですつかり使ひ果してゐたし、細君以外の女にもかゝはりがあつて、その女にもやがて子供が出来るのだ。昔のきんを思ひ出して、もしやと言ふ気持ちできんの処へ来たのだけれども、きんは、昔のやうな一途のところはなくなつてゐて、いやに分別を心得てゐた。田部との久々の出逢ひにも一向に燃えては来なかつた。体を崩さない、きちんとした表情が、田部には仲々近寄りがたいのである。もう一度、田部はきんの手を取つて固く握つてみた。きんはされるまゝになつてゐるだけである。火鉢に乗り出して来るでもなく、片手で煙管のやにを取つてゐる。
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