二十四
省線で、啓吉が渋谷の駅へ降りると、改札口を出て行く勘三の姿が目に止まった。勘三は花模様の羽織を着た若い女の連れがあった。
「叔父さん!」
啓吉は走って行ったが、勘三は女の人と熱心に何か話しているらしく、振り返りもしないでずんずん歩いて行った。啓吉は改札口で切符を返して小走りに追ってみたが、ランドセールが、がらがら音がするので、きまりが悪くなって立ち止まったりした。
だが、大きな甘栗屋の曲り角まで来ると、連れの女の方がひたと歩みを止めてしまった。勘三は、暗い顔をして時々地面を見たり遠くを眺めたりしている。
呼び止めていいのか、悪いのか、啓吉はおずおずしたが、勘三と道連れになって叔母の家へ行けば、何となく這入りいいような気がした。
「叔父さアん!」
それでも、啓吉の声が小さいのかまだ聞えないようだ。やがて、勘三と連れの女は、横町へ曲ってレコードの鳴っている喫茶店へ這入って行った。扉の中から奇麗な音色が流れて来た。
啓吉は待っていてやろうと思った。で、叔父達の出て来る間、ラジオ店の前へ、呆んやり立って見た。電気の笠や電気アイロンや、電気時計の飾ってある陳列窓の中は啓吉にとって愉しいものばかりで、見ているはしから色々の空想が湧いた。
店の前には小さいラジオが据えてあって、経済ニュースのようなものを放送していた。店の中には誰もいない容子だった。啓吉は、そっと、ラジオを手で擦って見た。どこに音が貯えてあるのか不思議だったし、まるで噴き井戸から無限に溢れる音のように、ラジオはよくお喋りしている。
黒いスイッチが三[#「三」は底本では「二」]ツついていた。一ツを捻ってみた。声が柔かくなった。真中のスイッチを捻ってみた。80だの90だのと数字が変って行く度に、声に波がついた。啓吉は面白くてたまらなかった。最後に残ったスイッチを捻ると声がはたと止んだ。啓吉は周章てて、そのスイッチを返し一番初めに捻ったスイッチを巻いて見たが、自分で愕く程な、大きな濁音だらけで、啓吉には手のほどこしようもない。狼狽の面持ちで、三つのスイッチを、あっちこっち捻ってみたが、音は出鱈目で、店の中から、吃驚したような声をたてて、
「馬鹿野郎!」と、頭の禿げた電気屋が飛び出して来た。
啓吉は横町へ隠れたが、電気屋はまだ追っかけて来た。啓吉は、たまらなくなって、叔父達のいる喫茶店の中へ飛び込んで行った。
勘三は頬杖をついていたが、啓吉がランドセールを背負った格好で飛び込んで来たので、驚いて立ちあがった。
「どうしたンだ? 叔母さんと来たのかい?」
「いいや……」
「どうしたンだ?」
「ラジオ屋で悪戯して叱られたンだよ」
「――どうしてこンなとこへ来たンだ?」
「駅んとこで、めっけたから、呼んだンだけど判らなかったンだよ……待ってたの……」
「そいで、ラジオ屋冷やかしてたンだな」
勘三は、「ああ吃驚した」といった顔つきで、腰を降ろしたが、
「沢崎さん、さっきの話、不快に思わないで下さい」
といった。沢崎といわれた女は、ニッコリして、
「まア、この方が、あのハンドバッグを拾って下さいましたの? よくお出来になるらしいのね」
と、自分の前にあった菓子を包んで、啓吉の汚れた手にそっと持たせてくれた。
二十五
沢崎という女のひとと別れて、勘三と二人で歩き出すと勘三は、
「あああ」
と溜息をついて、
「啓吉、いまの女のひと好きか?」
と、尋ねた。
「…………」
「どうだ、感じのいいひとだろう、ええ?」
「うん」
「叔母さんに、女のひとと歩いていたなンて、そんな事をいっちゃ駄目だよ」
「ああ」
啓吉は、菓子をくれた女のひとが、ハンドバッグをおとしたひとだったのだなと思った。非常に気取っているようなひとだと思った。勘三はまるで、浮腰のようなふわふわした歩き方をしていたが、不図、
「叔母さんへお使いで来たのかい?」
と尋ねた。お使いと尋ねられると、啓吉は九州へ行くといって学校へやって来た母親を想い出して、胸が痛くなった。白い手紙と五拾銭玉一ツ貰ったが、その白い手紙や五拾銭玉を貰ったために、母親とは一生逢えないような気がするのであった。
「ねえ、母さんは九州へ行くっていったンだぜ。学校から早く帰ってみたンだけど、家内じゅう留守なのだもの……」
「へえ、九州へ行くって? 何時?」
「もう、行っちゃったンだよ」
啓吉は背中のランドセールを降ろして、母からの白い手紙を出して、叔父へ渡した。
「……そうか、ま、いいや」
勘三は封を開いて、中から手紙を抜き出したが、その手紙の中には拾円札が一枚折り込んであった。
「啓吉、お母さんは本当に九州へ行ったらしいよ……」
「……九州って遠いの?」
「ああとても遠いよ。長崎ってところだ。知ってるかい?」
「ああ港のあるところだろう?」
「そうだ」
啓吉は、地図の上でさえも遠い長崎という土地を心に描いて、はるばるとしたものを感じた。
「新しい父ちゃんと、礼子ちゃんと……」
勘三が何気なく言いかけると、啓吉は、手の甲で目をこすり始めた。
「莫迦野郎! 泣く奴があるか。啓坊はよく出来るンじゃないか。ええ? 元気を出して、一つ、うんと勉強して、皆を吃驚させてやれよ……」
波と風とにさそわれて
今日も原稿書いている……
啓吉が、ひどく
悄気ているのを見て、勇気づけてやろうと思ったのか、勘三が鼻唄まじりにうたい出したのだが、啓吉は、涙よりもひどいしゃっくりが出て困った。
「そンなに淋しがるな、ええ? 叔父さんだって、なんじゃ、もんじゃだ。判るかい? 面白いだろう。淋し淋しっていうンだ。しっかりしろ!」
しっかりしろといわれても、中々しゃっくりは止まらなかった。
「変なしゃっくりだなア、ぐっと息を呑み込んで御覧よ。ぐっと大きく……」
コロッケ屋と花屋の前へ来てもしゃっくりが止まらなかった。勘三の家では伸一郎が万歳をして迎えてくれた。
「まア、啓吉、また来たのかい?」
前掛で濡れ手を拭きながら出て来た寛子は、目立って鮮かな頬紅をつけていた。
「姉さんはとうとう都おちだぜ」
「都おち?」
「落ちゆく先きは九州
相良とか何とかいわなかったかね。――とうとう、水商売が身につかずさ、九州へ行っていったい何をするのかねえ……」
二十六
「だけど、それは本当でしょうか?」
「本当にも何にも、ほら、これを見て御覧よ。ええ? 拾円札封入してあります。よろしくお願いしますさ。姉さんにすれば、啓坊だって可愛いさ、腹を痛めて産んだ子供だものねえ……」
「可愛いければ何も……」
「連れて行けばいいっていうんだろう。だけど、姉さんにすれば身は一つさ、子供だって可愛いが、連れ添ってみれば御亭主も可愛いとなったら、君はどうする?」
「いくら新しい良人がいいったって、子供は離しませんよ」
「それは、まともな事だよ。だけど、良人がその子供を嫌がったら困るじゃないか」
「そんな無理をいう良人は持ちませんよ」
「そうか、そうすると、さしずめ、俺は無理をいわぬ、いい御亭主だな」
「何ですか、少しばかり懸賞金貰ったと思って厭に鼻息が荒くて……」
「まだ三百円貰えなかったことにこだわっているのだろう? 新しい雑誌社だもの、五拾円でも貰えれば、もって幸福とせにゃならん」
「ああ厭だ厭だ……」
寛子は、啓吉の方へ見向きもしないで、台所の方へ降りて行った。
啓吉は所在がないので、梯子段の上り口に腰を降ろして爪を噛んでいたが相変らずしゃっくりは止まらない。
勘三は、勘三でまた腹這いになって、
「俺だって、こんな生活は厭々なンだ」
と大きい声で呶鳴った。
「そうでしょう……貴方が厭だってことは、この二三日、私によく判っていますよッ」
「大きな口を利くなッ」
「そんな事をおっしゃるけれども、ちゃんと判るンですから……貴方の気持ちなんて……」
「うん、それで、頬紅なンぞつけてきげんとっているんだな?」
「あら厭だ、若い女に言うような冗談はいわないで下さい!」
「冗談か、ま、女って奴は、都合のいいようにばっかり理屈をくっつけたがる、奇妙なもンだ。――啓吉! 出てお出でッ」
啓吉は、さっとして立ちあがった。
寛子は、頬をふるわせて坐り込んでいたが、啓吉が、障子の陰から呆んやり出て来ると「何ですかッ、啓吉啓吉といってさ」と、
跫音荒く、二階へとんとん上って行った。
叔父のそばへつっ立っていると不思議にしゃっくりが止まった。
「叔母さんはよく怒るねえ」
「僕が来たからだろう?」
勘三は愕いたような目をして、啓吉を見上げたが、
「心配するな、叔父さんが後にひかえている。――子供のくせに、ええ? 心細がる奴があるかッ」
「…………」
「ああ、叔父さんだって、まごまごしちゃいられないんだ。啓坊も叔父さんもうんと勉強してさ、ねえ、――そこの煙草を取ってくれよ」
啓吉は銀紙のはみ出たバットを部屋の隅から取って来てやった。
「九州って遠いの?」
「九州か、そりゃッ遠いさ……行きたいか?」
「…………」
「母さんが一番いいんだろう……」
「だって、あのおじさんのいない時には、母さん、うんと僕たち、可愛いがるよ」
「いまに、礼子ちゃんと帰って来るさ、待てるだろう?」
啓吉は心の中で、「どこで待てばいいか」と訊きたかった。
二十七
啓吉は伸一郎を守りしながら、誰にも愛されないで、叔父の散らかしている本ばかりを読んで暮らした。
アンデルセンの絵なき絵本という本は、そっと自分のランドセールに隠してしまった位すきであった。
絵なき絵本を読むと、飛んでもない連想が湧いて、遠い長崎に行った母親を尋ねて行きたくなった。――長崎へ行くには、不思議な色々な道があるのに違いないと思った。
学校で、木のてっぺんに
もずが鳴いていた時のように、よく晴れた朝であった。
啓吉は、勝手をしている叔母や、朝寝をしている叔父達に黙って、ランドセールを背負ったままほつほつ西への道へ向って歩いた。
アドバルウンが、月のような色をして昇っている。啓吉は歩きながら、段々心細くなって来たが、それでも引きかえす気持ちはなかった。
ただ、啓吉の心をかすめてゆくものは、学校の庭の景色や伸一郎が壊してしまった硝子の壺の事や、ガレージの二階の尺八吹きの部屋のありさまなどで、肉親の事と言えば、やっぱり、母だけが泣きたい程、なつかしいのであった。
空が青くって奇麗だ。
自分の前へ進んで行く、柱のように長い自分の影を踏んで、啓吉は、学校へ行く時のようにランドセールをゆすぶりながら歩いた。
「おおいッ! あッ、あぶないッ」
誰かが啓吉の後から突き飛ばした。啓吉はよろよろ二三歩前へつんのめったが、前額部をがあんと道へ打つけたと思うと、後はそのまま、暫く何も覚えがなかった。
目の上に海のような空所が見える。血の筋が渦巻きのような模様を造って色々に描かれて行った。
「おおい!」
誰かが呼んでいるようだ。後から
鰐のような黒いものが啓吉の背中を突きとばした。啓吉は、痛くて痛くて耐えられなかった。自分のまわりに、色々な顔の人間達が、手をつないで、
「しっかり、しっかり」
と、勢いをつけてくれている。
だが
鰐の口が、ガリガリ音をたてて啓吉の肉のなかに食い込まれると、
「痛いよう!」
啓吉は、思わずうなり声をあげた。
自分のうなり声に、思わず瞼をあけると、白い部屋の真ん中に、啓吉は横になっていた。アンデルセンの物語りのなかのように、小さいながら清潔な部屋で、月のような若い看護婦が二人も、啓吉の枕元に立っていた。
枕元には海のように青い空だけ見える窓が一つあった。
「痛いですか?」
脣の奇麗な看護婦が訊いた。啓吉は顔を
歪めようとしたが、頭には包帯が巻いてあるらしく、顔が歪まなかった。
手も足も、動かせば、すぐずきんずきんと頭に響いた。看護婦達が、枕元で、窓の下を見て話しあっている。
「運がよかったのねえ、ランドセールが身代りに、まるでおせんべいみたいだったンですって……」
啓吉は、菓子の銀紙にする、鉛を積んだトラックにはねとばされたのであった。
啓吉は、うつらうつら薄目のままでまた深い眠りにおちたが、頭の中に、唄のような柔かい風が吹きこんで、蝶々も小鳥も、鰐も、草花も、太陽も、啓吉の夢のなかで、絵具が溶けるように、水のようなものの中にそれが拡がって行った。
(昭和九年十月二十三日―十一月二十一日 東京朝日新聞)
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