一
閻魔蟋蟀が二匹、重なるようにして這いまわっている。
啓吉は、草の繁った小暗いところまで行って、離れたまま対峙している蟋蟀たちの容子をじいっと見ていた。小さい雄が触角を伸ばして、太った雌の胴体に触れると、すぐ尻を向けて、りいりい……と優しく羽根を鳴らし始めた。その雄の、羽根を擦り合せている音は、まるで小声で女を呼ぶような、甘くて物悲しいものであったが、蟋蟀の雄には、それが何ともいえない愛撫の声なのであろう、りいりい……と鳴く雄の声を聴くと、太った艶々しい雌は、のそのそと雄の背中に這いあがって行った。太ったバッタのような雌は、前脚を草の根に支えて、躯の調子を計っていたが、やがて、二匹共ぜんまいの振動よりも早い運動を始め出した。
つくねんと土いじりしながらそれを視ていた啓吉は、吃驚した気持ちから、おぼろげな胸のとどろきを感じた。
雄は目に消えてしまいそうな小さい白い玉を、運動の止まった雌の横腹へ提灯のようにくっつけてしまうと、雌はすぐ土の上へ転び降りて、泥の上を這いずりながら、尻についた一粒の玉を何度か振りおとしそうに歩いた。すると小さい雄は、まるでその玉の番人か何かのように、暴れまわる雌の脚を叱るようにつつくのであった。
啓吉は、なんとなく秘密な愉しさを発見したように、その蟋蟀の上から、小さい植木鉢を伏せて置いた。
空はまぶしいほど澄み透って、遠くまでよく晴れている。光った土の上へ飛白のように落葉が乾いて散らかっていたが、啓吉は植木鉢を伏せたまま呆んやりしていた。
呆んやりしたのはぐらぐらと四囲が暗くなるようなめまいを感じるからだ。どこかでピアノが鳴り始めた。いい音色で木の葉の舞い落ちてゆくような爽やかさが啓吉の肌に浸みて来るのであったが、啓吉は少しも愉しくはなかった。
ぐらぐらとした暗さの中で、啓吉は不図母親の処へよくやって来る男の顔を思い浮べた。その男の顔は、目が大きくて、鼻の頭が脂肪で何時もぎらぎらしている様な顔であった。
啓吉が一番嫌いなのは、平気で母親に向って、「おいおい」と呼び捨てにすることや、けしからんことには、啓吉を「小僧小僧」といったり、全く、この男については何ともいいようのない胸悪さを持っていた。
「啓ちゃん!」
「…………」
「啓ちゃんてばッ、まだ泣いてンのかい?」
「…………」
「しぶとい子供だねえ、そんなとこに呆んやりしてないで、さっさと井戸端でお顔でも拭いていらっしゃい! ええ?」
母親の貞子は、そういって、歪んだ雨戸をがらがらと閉ざし始めた。啓吉は黙ったまま井戸端へまわったが、ポンプを押すのもかったるくて、ポンプに凭れたままさっきの蟋蟀のことを思い浮べていた。絵本を見るような動物の世界を、啓吉は不思議な程に愉しく思い、どこからかガラス鉢を盗んで、あの二匹の蟋蟀を飼ってやろうかと思った。
「兎に角、素敵に面白いからなア……」
と、ニヤリと笑うと、急に思いついたように、ギイコギイコポンプを押し始めた。
「啓ちゃん! 早くなさいよ、渋谷のおうちへ行くのよ……」
母親の貞子が、華やかな黄いろい帯を締めて、白い洋服の礼子の手をひいて裏口へまわって来た。
二
「あんたみたいなひとは、本当にお父様のお墓の中へでも行ってしまうといいんだよ! 何時でも牡蠣みたいな白目をむいて一寸どうかすれば、奉公人みたいな泣方をしてさア……ええ? どうしてそんななのかねえ、おじさんだって可愛がれないじゃないか……」
啓吉は知らん顔で母親の後から歩いていた。礼子は母親に抱かれたままで色んなひとりごとを言っている。
「さア、礼子ちゃん、ブウブウに乗りましょうね、自動車よ……」
啓吉は、どの家にも庭があって、花を植えている家や、鶏を飼っている家や、木を植えている家などを、珍しそうに眺めて歩いた。何しろこの一帯は、垣根の貧弱な家が多いので、小道から一目で、色々な家の庭が見られた。
日曜日なので、庭や空地などでは、啓吉の学校友達が沢山遊んでいた。啓吉は、その遊び友達の間を、髪を縮らせた若い母親と歩いていることが恥かしくて、大勢のいる遊び場を通るたび、冷汗の出るような縮まりようで歩いた。
「啓ちゃん!」
「うん?」
「何さ、そのお返事は……あのねえ、渋谷の叔母さんとこへ、四五日、啓ちゃんおあずけしとくんだけど、いいでしょ?」
「学校お休みするの?」
「ああ四五日お休みしたって、啓ちゃんはよく出来るんだから、すぐ追いつくわよ。叔母さんとこでおとなしく出来るウ?」
「ああ」
「叔母さんが色んな事聞いても、判ンないっていっとくのよ。――お前は莫迦なところがあるから、すぐお喋りしてしまいそうだけど、いい? 判った?」
「ああ」
「ああって本当に御返事してンの? 煮えたンだか煮えないンだか訳がわからないよ、啓ちゃんのお返事は……」
小道をはずれると、新開地らしい、道の広い新しい町があって、自動車がひっきりなしに走っていた。啓吉には三和土の道が、まるで河のように広く見える。
「さあさ、自動車よ、礼ちゃん眠っちゃ駄目よ、重いじゃないのさア」
啓吉が見上げると、母親の腕の中で、礼子が頭をがくんとおとしていた。耳朶に生毛が光っていて、唇が花のように薄紅く濡れている。啓吉とは似ても似つかない程、母親に似て愛らしかった。――貞子は、小奇麗な自動車を止めた。ふわふわしたクッションに腰を掛けると、半洋袴の啓吉は、泥に汚れた自分の脚を、母親に気取られないようにしては、唾でそっとしめした。
「いいお天気ねえ、運転手さん! 横浜までドライブしたら、どの位で行くの?」
髪を奇麗に分けた、衿足の白い運転手が、
「四五円でしょうね」
と、いった。
「そう、安いものね」
金もない癖に、貞子は飛んでもないおひゃらかしをよく言うのであったが、いまも、片方の手は袂へ入れて、心の中で、とぼしい財布の中から、一つ二つ三つ四つと穴のあいた拾銭玉を数えて、残りは、電車で帰る切符代がやっとだとわかると、先きは先きといった気持ちで、走る町を眺めながら、どんな口上で啓吉をあずけたものかと、もうそれが億劫で仕方がなかったのだ。
「いつか、叔母さんと行ったお風呂屋があるね」
啓吉が吃驚するような大きな声で言った。
「運転手さん! この辺でいいのよ」
自動車がぎいと急停車すると、よろよろと啓吉は母親の膝へたおれかかった。
三
コロッケ屋と花屋の路地を這入ると、突き当りが叔母の寛子の家で、溝板の上に立つと、台所で何を煮ているのか判る程浅い家である。
入口のコロッケ屋は馬鈴薯の山ばかり目立って、肉片がぶらさがっているのをかつて見たことがない程貧弱な構えで、啓吉が最初に寛子の家へあずけられた時、六ツで拾銭というコロッケをよくここへ買わされにやられたものであったが、揚鍋が小さいので、六ツ揚げて貰うには中々骨であった。
右側の花屋は、これは中々盛大で、薔薇や百合やカアネーションのような、お邸好みの花はなかったが、菊の盛りになれば、一握り五銭位の小菊が、その辺の二階住いや、喫茶店や、下宿の学生達に中々よく売れて行った。寛子も花が好きで、一寸した小銭が出来ると、花屋へ出掛けては半日も話しこんで、見事な雁来紅を何本もせしめて来ることがある。
貞子は、この貧しい妹に、自動車から降りるところは見せたくなかったのであろう。風呂屋の前で自動車を降りると、すっかり眠ってしまった礼子をかかえて、花屋とコロッケ屋の小さい路地を曲った。
「いる?」
「あら、いらっしゃい! 瘤つきで御入来か……」
「相変らず瘤つきさ、勘三さんいるの?」
「ううん、朝がた、あんまりお天気がいいからって、今日のようなお天気なら雑誌記者も機嫌がいいに違いないって原稿背負って行ったンだけど……」
「まア、背負って?」
「あの人が原稿売りに行く格好ったら、背負ってるって方が当ってるわよ、こう猫背でさア、背中の方へまで原稿詰めこんで、私一度でいいから、うちのひとがどんな格好で原稿ってものを売りつけてンのか見て見たいわ。一遍にあいその尽きるような風なんだろうと思うンだけど……」
「そんな事いうもンじゃないわよ。昨日や今日一緒になッたンじゃなし、子供もあってさ……」
二階が六畳一間、階下が四畳半に二畳の小さい構えであったが、道具というものは、寛子の鏡台位のもので、勘三の机でさえも、原稿用紙が載っていないと、すぐ茶餉台に持って降りられる程な、抽斗のない子供机で、兎に角何もない。
「お茶淹れましょうかね」
「おやおや珍しい、瓦斯も電気も御健在ね」
「莫迦にしたもンじゃないわ、この間、一寸大金が這入ってさ……」
「へえ、何時のこと、それ?」
貞子は礼子を寝かしつけると、取っておきの電車代をそっとつまんで、
「啓ちゃんバットを一つ買っていらっしゃい。解ってるでしょ?」
と、いった。
啓吉は銅貨を七ツ握って表へ出て行った。
硝子戸を開けると、チンドン屋のおはら節が聴えて来る。
「啓吉! 後、きちんと閉めて行くのよッ[#「ッ」は底本では「ツ」]」
啓吉は、もう路地を抜けて走っていた。
「仕様がないね」
そう言って、貞子は、瀬戸火鉢の小さい火種をかきあつめたが、寛子が茶を淹れて来ると、
「あのね、また、お願いがあるンだけど……」
と、躯をもんで、その話を切り出した。
寛子は、押入れの中から、子供の伸一郎の小さい布団を出すと、
「姉さんのまたか」
といった顔つきで、寝ている礼子へそれを掛けてやった。
四
啓吉は賑やかな町へ来た事がうれしかった。路地を抜けると、食物の匂いのする商店が肩を擦り合うようにして並んでいる。豆レコードを売っている店では、始終唱歌が鳴っているし、赤や緑の広告ビラが何枚も貰えた。ピカピカした陳列箱が家ごとに並んでいて、頭でっかちで目の突き出た自分の小さい姿が写るのが恥ずかしかった。
掌では七ツの銅貨が汗ばんでいる。これで硝子壺は買えないかな。不図そんなことを考えて硝子屋の前に立ったが、どの正札も高い。やけくそで、ぴょんぴょんと片脚で溝を飛んで煙草屋へ這入ると、
「おおい啓ちゃん!」
と、呼ぶ者があった。
例の癖で、白目をぎょろりとさせて振り返ると、猫背の叔父さんが立っている。
「母さんと来たのかい?」
「ああさっき」
「何、煙草かい?」
「うん」
勘三は如何にも草疲れきったように、埃のかぶった頭髪をかきあげて、
「いいお天気だがなア」
とつぶやく。思わず啓吉は空を見上げたが、晴々しい黄昏で、点き初めた町の灯が水で濯いだように鮮かであった。
「煙草一本おくれよ」
「ああ」
小さい啓吉が煙草を差し出すと、勘三は丁寧に銀紙を破って、新しい煙草に火をつけた。
「叔父さん歩いて来たの?」
「ああ歩いて帰ったンだよ」
「遠いンだろう? 東京駅の方へ行ったの?」
「うん、色んなところへ行ったさ」
「面白かった?」
「面白かった? か、面白いもンか、どこも大入満員でさ、叔父さんの這入ってゆく余地は一寸もないンだよ」
「ふん。割引まで待てば空くンだろう?」
「腹がへって割引まで待てやせんよ。そんなに待ったらミイラにならア……」
勘三は煙草をうまそうにふうと吐くと、啓吉の大きな顔をおさえて、
「叔父さんが金でもはいったら、一つ何を啓坊に買ってやろうか?」
と言った。
「本当に、お金がはいったら買ってくれる?」
「ああ買ってやるとも、きんつばでも大福でもさ」
「そんな、女の子の好くようなもン厭だ」
「おンやこの野郎生意気だぞ! そいじゃ何がいいンだ?」
「あのね、あの硝子の平ぺったい壺が要るンだけど……」
「硝子の壺? 金魚でも飼うのかい?」
「…………」
「ま、いい、そんなもンなら安い御用だ。叔父さんが立派な奴を買ってやるよ」
コロッケ屋では、馬臭い油の匂いがしている。勘三が三尺帯をぐっとさげると腹がぐりぐり鳴った。啓吉はあおむいて、
「叔父さんのお腹よく泣くんだねえ」
と笑った。
「ふん、誰かみたいだね。叔母さん何か御馳走してなかったかい?」
「知らないよ」
「そうか、ま、兎に角七八里歩いたンだから腹も泣くさ……」
チンドン屋が、啓吉達の横をくぐって、抜け道のお稲荷さんの宮の中へ這入って行った。
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