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小さい花(ちいさいはな)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 13:06:22  点击:  切换到繁體中文

 1 ずゐぶん遠いむかしの話だけれど、由はうどんやの女中をした事がありました。短いあひだではありましたが、はじめての奉公なので、これがお前の寝るところだと云はれた暗い納戸のやうな部屋へ這入りますと、いつぺんに涙が噴きあげて体がちつとも動かないのです。
 そのうどんやは尾道と云ふ港町から船に乗つて小一時間位ありました。みんな「いんのしま」と云つてをりましたので、由は「犬の島」とでも書くのかと思つてをりましたところ、買つて貰つた切符には「因ノ島」と書いてありました。由は此島で短いながら淋しい三週間を過しました。
 バスケツトや行李のやうな高価なものは買つて貰へなかつたので、由の持ちものと云へば、襯衣の空箱に一二枚の着替へのものと、白いハガキが四五枚、それに馬琴の弓張月と云ふ、青く古ぼけた本とそれきりで、うどん粉の匂ひのする化粧水のやうなものも一本持つてゐたやうです。幼いうちにはしかを病んで顔にそばかすがありましたので、由の母親は「海辺に行くとお前のそばかすは濃くなる故これでも塗つたらええぞな」と云つて、何時買つたとも判らぬ、うどん粉の匂ひのするその化粧水をくれたのですが、此化粧水は島にをるあひだぢう塗つた事はありませんでした。陽のかつと当る昼間なぞ、そばかすが眼だつて見えましたが、皮膚が白いのでかへつてあいけうがあつて、ちつとも苦にしたり愧づかしいとも思つたりなぞしませんでした。――初めに島へあがりましても、そのうどんやまで行きますのに仲々気おくれがして、由はいつとき波止場で船を見て遊びました。もう秋も末の事で、海が空と同じやうにひつそりと光つてゐて、船着場のすぐ上の小高いところに白い病院がありました。窓と云ふ窓がみんな海の方へむいてゐましたので、その窓の硝子が眼鏡をかけた人のやうにキラキラ光つて大変ハイカラに見えました。病院の石の段々の下には、酢いさうな初なりの蜜柑を売つてゐる露店がありました。その露店の中にはラムネの壜が沢山並べてあつて、由とおなじ年恰好の娘が、垢で真黒になつた木の栓抜きでラムネのくちをその栓でいつしんに押してゐました。
「ありやア、ちつとも抜けんがア、どうしたんな、をばさん?」
「べつのオやつてみんしや」
 八ツ口からふくふくした腕を出してゐたのを、その女の子は腕をまた袖口へもどして、今度は袂を持ち添へて栓抜きの上から押すのです。下唇に黒子があつて眉の濃い娘でした。その娘は銀色の丈長と云ふのを掛けて、ひつつめの桃割れに結つてをりましたが、此島の置屋(芸者屋)の娘ででもあるのでせう、仲々はきはきとしたものごしで、何がをかしいのか、ラムネの栓を抜いてもくちにむせてばかりゐて、はかばかしくラムネの水が減つてゆきませんでした。もう、ぽつぽつとおぼろげながら、心の日蔭を持つやうになつてゐても、カラカラとラムネの玉の鳴るのをきいてをりますと、まるで子供のやうに由も飲みたくて仕方がないのです。ですが、奉公にやらされる位でありましたので切符を買つて貰つて、穴のあかない五銭白銅をもらつたのがせいぜいで、此五銭白銅は、どんな場合があるかも知れぬ故大切に持つてゐるのだと、母親にくれぐれも云はれても云はれてゐた金なのでありました。
「そのラムネ、なんぼうな?」
「三銭よウ」
 娘が白い歯をニッとみせて云ひました。由はそれでミカン水の方にでもしようと手を差し出しますと、娘は早もうラムネの壜を取つて、「わしに抜かしてつかアさい」と、又袂を持ちそへて、垢のついた木の栓抜きを面白さうにラムネのくちへ当てるのでした。
「ミカン水はなんぼう?」
「ありア一銭よウ、ラムネにせんのんかな、わしに抜かしなしやアよ」
 由は娘の云ふとほりラムネを飲むことにしました。抜いてもらつて、早く娘と同じやうにカラカラと壜の中で玉を転がしながら飲みたいと思つたので、「ラムネぢやア」と云ひますと、その声といつしよに娘は壜のくちに力を押して、ポオッスンと抜きました。
 二人は露店のみせさきで、ラムネの玉をカラカラと云はせて飲みました。
「ラムネの玉ア抜くの好きぢや」
 その娘は、まだほかにラムネを飲みに来る者はないだらうかと、キョロキョロ四囲を見まはして、土方が通つても、「あんたラムネでも飲んで行きなさらんの」と、まるで大人の女のやうな言ひぶりと、姿で笑ひかけるのです。「今度、誰かラムネ飲まんかいのウ。玉ア抜くの面白いがの‥‥」――二人は、それから色々の話を始めるやうになりましたが、行きしぶくつてゐる由をうどんやへ連れて行つてくれたのも此ラムネを抜いてくれた娘でありました。

 2 由の仕事は、家中の誰よりも早く起き出て、表戸や裏口を開けはなち、うどんのだしを煮る事でありました。朝早く船へ乗るひとや、船から降りるひとが、「うどん出来るかア」と云つて入つて来ますので、その客人を当てこんで早くから戸口を開けておくのです。昆布や、煮干を大きな木綿袋に入れ、五右衛門釜のやうな鉄釜にひたして、とろ火でいつときだしを取るのですが、その間、土間へ水を打つて、バンコ(腰掛)や台の上を拭いておくのが仕事なのでありました。台の上には、箸たてが置いてあるのですが、ここのお神さんは吝なので割箸は使はずに、洗つて何時までも使へる青竹色に塗つた箸をつかつてゐました。薬味のわけぎを小さく刻んで、山盛り皿に入れて出しておいて、戸口に椅子を持ち出し、だしの煮こぼれるまで、由は此椅子に呆んやりかけてゐるのです。椅子に腰をかけてゐますと、町が谷間のやうに卑屈なので、海辺でありながら、何時も暗い山の町の感じでした。両方から軒が低く重なりあつてゐるせゐか、眉に煤でもついてゐるやうなうつたうしさを感じるのです。由が、此様な町を見ながら、朝々椅子に呆んやりしてゐると、軒下を縫ふやうにして、ラムネを抜いてくれた娘が学校へ行きます。名前をひな子と云ひました。由の思つたとほりやつぱり置屋の娘でありましたが、このひな子にはもうひとつ名前があつて、それがあんまり変な名前なので、由は何時も気の毒に思つてゐました。その変な方の名前を、土方や俥夫たちが面白さうに呼んでも、ひな子は別に恥づかしがりもせずに、「なんなア?」と可愛い返事をするのです。
「ひなちやん、今日は裁縫があるんな?」
 由は朝の挨拶に、ひな子の学課を訊くのが愉しみでありました。ひな子は、暫く由の椅子のところにしやがんで、「しんどいがア」と荷物を由のひざの上にどかりと置くのです。
「今日は理科でのウ。春の草花を習ふんぢやけど、およツしやん、すみれの花の数ウ沢山知つとるな?」
「角力取草の事かの? わしや知らんが‥‥」
「ふん、沢山あるんぞな、云はうかア、あのなう、ふもとすみれぢやんで、それから、こすみれ、しろばすみれ、けまるばすみれ、あふひすみれ、やぶすみれ、それから ひなすみれ、ひかげすみれ、まるばすみれ、ながばのすみれさいしん、えいざんすみれ、ひめすみれ、たちつぼすみれ、つぼすみれ、こみやますみれ、どうな、ほら、沢山あらウがの」
 四ツ切りの黒ずんだ洋紙を赤い木綿糸でとぢた雑記帳を開いて、ひな子は、自分の描いたこれらのすみれの絵を見せるのでありましたが、どれもこれも兎の耳のやうで、[#「やうで、」は底本では「やうで」]満足なすみれの花は一ツも描いてありませんでした。
 只、そのあやし気なすみれの絵に説明がつけてあるので、やつと、まるばすみれだとか、ひなすみれなぞと判るのでした。ひかげすみれなぞは、花の絵に線を引つぱつて、ここ白なりと書いてあつて、――木かげの地に生じ、卵色の根より苗を生ずる特長ありて、無茎生で、その有柄葉は根生し、葉は楕円形でふちに鈍歯を有し、薄く毛があり、花は小さく少なく、色白く紫色の線あり――なぞと、判つたのか判らないのかむつかしい言葉で書いてありました。
「うちの先生、本にないのばア教へてむつかしいけエなう」
 何時もの癖のやうに八ツ口からむき出しの両腕を出して、「おほけに」と由のひざの荷物を持つて立ち上ります。
「おい、おかめ、何よウしよる、学校おくれてしまふぞ」
 床屋の男の子が同級生のくせにえらぶつて云ふのを、ひな子は、ニコニコ笑ひながら、「わしと並んで行きたいのぢやろウ」と、少女のなかにありやうもない嬌笑で云ひかへすのでした。おほかた、父親達が置屋へ行つて呼び馴れてゐるその名前を、自分達も何時とはなく覚えて呼びよくなるのでせう、町の男の子達は、ひな子のもうひとつの名を呼んで、「おかめおかめ」と云つてをりました。

 3 由にとつて初めの一週間は、極めて長い厭なものに思はれましたが、段々島の風景が眼に浸みて来ますと、仕方がないと云つた落ちつきも出て来るのでありました。それに此島では、海にひたひたの山の根に添つた町なので、夜になると暑くもないのに、どの家の戸口にも人が出てゐて、向うどうしや、隣りどうしで声高く世間話をするのでありました。その世間話は、たいてい島の中の話なのでありましたが、由が、一番よく耳にとめたのは、何と云つてもおりくさんと云ふ男女子の話でした。おりくさんと云ふのは、島でも一流の置屋の主人で、女のくせに髪を男のやうに短く刈り上げ、筒袖の意気な着物に角帯を締めて、その帯には煙草入れなぞぶらさげ、二三人の若い女を連れては、角力取りのやうにのつしのつしと歩いてゐる女のひとでした。男にしてみても仲々立派なもので、「景気はどうの?」と云つて人に挨拶をしてゐる後姿は、軒から首だけ上に出てゐるやうに、由には大きなひとに見えました。ひな子は此おりくさんの養女の一人でしたが、「うちのお父さんは暢気ぢやア」と、おりくさんの事を「お父さん」と呼んでゐるやうなのです。由は此おりくさんのうちへ、出前でよくうどんを持つて行くのでしたが、おりくさんがゐると、きまつて一銭銅貨を煙草入れの叺から出して投げてくれるのでありました。
 おりくさんについての町の世間話はもうまるで伝説みたいな存在になつてゐるのでせう、太ツ腹で、妾を二三人も持つて、それが皆仲良く助けあつて、一ツの大きな料理屋を営んでゐるのですから、小さい島の上では珍らしい事以上に、かへつて誇ででもある風にみんな話をしてをるのでした。

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