九月にはいつて急に末の妹の結婚がきまつた。妹と結婚をする相手は長い間上海の銀行に勤めてゐたひとで、妹とは十二三も年齡の違ふひとであつたが、何故だか末の妹の杉枝の方がひどくこのひとを好きになつてしまつて、急に自分がゆきたいと云ひ出した。
始めは長女の登美子にどうだらうかと仲人の與田さんが話を持つて來たのであつたが、登美子は今度も氣がすすまないと云つて、與田さんの話をそのままにして過してゐた。與田さんの方では、登美子の寫眞も相手方へ見せての上のことなので、何とかして話をまとめたいと熱心であつたが、登美子はもう見合ひはこりごりだと思つてゐた。
與田さんは登美子たちの女學校の先生で、三人姉妹とも優秀な成績で卒業してゐる上に、轉任當時、暫く登美子の家の借家に住んでゐた關係で、何時も何かあると、この三人姉妹のところへ遊びに來てゐた。與田さんもまだ若くて、津田英學塾を出ると、すぐ中國のこのS町の女學校に轉任をして來たのだけれども、すつかり海邊のこの町が氣に入つてしまつて、何時の間にか六年をこの町で過してゐた。與田さんの御主人は海軍の將校の方で、事變以來、二度ほど内地へ戻つて來られたきりで、ずつと與田さんはお留守をまもつて御主人のお母さんと女中さんとの三人暮しである。英語も達者だつたけれども、佛蘭西語もうまくて、時々ノアイユ夫人の詩なんかを譯して生徒に讀んできかせる粹なところもある先生であつた。生徒や先生達のうけもよかつたし、與田さんは年の若い割合に、お仲人も好きで、お母さんといつしよになつて、卒業してゆく生徒の嫁入口をあれこれと心配するのが評判であつた。與田さんは明朗なものが好きで、音樂にしてもバツハのものが好きだつたり、小説は漱石一點ばりで、何事にも明るい蔭のない少女のやうな呑氣な性格の先生であつた。
與田さんは、何故だか、登美子を非常に好いてゐて、もう、これで四回も登美子へ縁談を持つてきてくれた。登美子の母親も、もう二十四にもなる長女のことを考へると、いいかげんなところでお嫁に行つてくれないと、來年は二十五になつてしまふ。女も二十五を過ぎると、世間では婚期の遲れた娘として、もう、あまりやいやいと云はなくなるだらうし、次の娘の矢須子も結婚してしまつてゐるのに、どうして登美子だけが何時までも長閑にしてゐるのか娘の心の中が少しも解らなかつた。
今日も、登美子は二階で蒲團を干しながら、何時の間にか、その蒲團の上に寢ころんで、秋の陽のかんかん射しこんでゐるところで、與田先生から借りてきた漱石の草枕を讀んでゐた。ひとかどの見識を持つた、「余はかく思ふ」と云ふやうな余と自稱する小父さんが、人生を論じ、社會を諷し、浮世を厭と思へば、もう人間世界には住めなからう、人間世界に住めなければ人のゐないところへ行かなければならぬなどと、莫迦氣たことを書いてゐる。登美子は面白くてたまらなかつた。こんなひとと結婚をしたら、さだめし家の中はごちやごちやと理窟づくめで面白いだらうと思つた。地面につばき一つ吐くにしても余先生には何かひとかどの理窟がある。余先生は、鏡を眺めて、自分の顏をこつぴどくやつつけてゐながら、自分の顏には相當の自信を持つてゐるやうな逆モーシヨンの讚めかたも仄かにうかがへて、登美子はくすくす笑ひながら、此世にはもうゐないところの余先生である漱石をなつかしがつてゐる。
階下では杉枝が大きい聲で笑つてゐる。與田先生の御主人から送つて來た猿が、このごろ登美子の家のペツトになつてゐて、時々家ぢゆうのものを笑はせてゐるのだ。登美子はふつと、妹の鏡臺のところへ行き、安並敬太郎の寫眞を蒲團のところへ持つて來た。杉枝の良人となるべき人物も、ほんの一二週間前までは、自分の相手として話を持ちこまれたのだと思ふと、登美子は運命の不思議さを感じないではゐられない。平凡な顏だちで、登美子にとつてはむしろ好意のもてる顏だつたけれども、與田先生の持ちこんで來た話だと云ふことにこだはり、何故だか氣がすすまなかつたとも云へる。三十二歳で、早稻田の法科を出て、七年も上海に住んでゐるひと、軍籍はくじのがれだとかで一度も兵隊にはゆかないのださうだ。登美子は、寫眞の逞しい人物を眺めてゐて、この人がくじのがれだなンて不合理だと思ひ、こんな立派な躯をしてゐる人が、相當にくじのがれで殘つてゐるとするならば、日本もまだ頼もしいものだと登美子はそんな事を呆んやり考へてゐた。
笑つてゐるンだか、泣いてゐるンだか、猿が百舌のやうにかんだかく鳴いてゐる。うるさいほどだ。階下では此町一番だと云ふ美容師が來て、杉枝の衣裳を見立ててゐるのかも知れない。相當賑やかになつて來た。
軈て杉枝が青い蜜柑を盆へのせて持つて來た。
「あら、姉さんはまた小説を讀んでゐるの? 階下へいらつしやいよツ」
「うるさいから厭よ」
疊の上に寫眞が放つてあるのが杉枝の眼にとまつた。杉枝は立つたまま暫く蒲團のそばに放つてある安並の寫眞を見てゐた。だんだん顏が眞赤になると、急にそこへぺつたり坐つて袂を顏へあてた。登美子は寫眞のことで、このじやじや馬は腹をたててゐるのだらうと、いつとき默つてゐた。
「私、安並さんのところへ行くのやめてもいいのよ」
杉枝は泣いてはゐなかつたのか、洗つたやうな明るい顏を擧げて、小さい聲で登美子に云つた。登美子は何だか、この寫眞を疊へ放り出してゐるので、自分が誤解されたのだなと、厭な氣持で、
「やめてどうするの?」
と意地惡な問ひかたをしてみる。
「やめてどうするつて、お姉さんゆけはいいぢやアないの……」
「私がゆく? へーえ、そんな風に思つて、そんな事を云ふの? 何も、貴女の旦那さんの寫眞を私が見たからつて、私がゆきたいから見たとは限らないでせう? ――をかしいことを云ふひとだなア。安並さんがどんな人なのかとくと見聞しておくのも第三者としていいことぢやないの。私がゆくんだつたら、とつくに安並さんともうここの座敷に二人で並んでゐますよ。寫眞を見たのがいけなければ、これから見料を出して札を買つて見なくちや、あんたの家へは遊びにゆけない事になるぢやないの……」
氣嫌をなほしたのか杉枝はくすくす笑ひ出した。
「私、ここに放つてあるから、ひがんじまつたのよ」
「食物でひがむのなら判るけれど、まさか、旦那さまのことでひがむのないわねえ……」
登美子は寫眞を取つて、薄いびらびらの紙も丁寧にかぶせて、杉枝の膝に、
「大事になさいよ」
とそおつと置いた。
「姉さんは、安並さんの何處が氣に入らないの?」
安並の何處が氣に入らないかと訊かれて、いまもいま、何處と云つて厭なところはなく、案外立派なひとだと思つて見てゐたところだつただけに、一寸、難をつける説明がみあたらない。
「寫眞より實物の方がとてもいい方だわ。しつかりしてゐて、きつと、姉さんの好きになるやうな方なの……」
「そうかしら、でも、私、この寫眞の蝶ネクタイが氣に入らないわ。蝶ネクタイをしてゐるひとにろくな人がゐないもの……」
「あら、これはそうだけど、此間は違つてよ。とても澁いちやんとしたネクタイだつたわ」
○
杉枝は姉の結婚話のことは何も知らないで、與田先生の家へ遊びに行き、そこで始めて安並に逢つたのだ。無口で、その上大柄で何となくおつとりしてゐる安並が杉枝は好きで仕方がなかつた。男の兄弟と云へば中學一年の弟一人で、かうした逞しい青年の友人を一人も持たない杉枝は、一と目で安並が好きになり、それからは與田先生に何處か安並さんのやうなところへお嫁に行きたいと話をした。安並も杉枝ならば貰つていいし、杉枝の家でおゆるしさえあれば、九月中旬に式を擧げたいととんとん拍子に話がまとまつたのである。話がまとまつてから、杉枝はよそのひとに、あのひとはお姉さんと見合ひをする人だつたのだと聞かされて、なアんだそうだつたのかと、獨りで赧くなつてゐた。それでも、杉枝との話はまとまり、式の日もきまり、二三日のうちに、安並を招待して、内輪でみんなにひきあはせる夜を待ちませうと云ふことにまで到つて、杉枝は姉には上手に默つてゐた。
その安並を迎へる夜が來て、杉枝の家族はみんな客間へ集つて卓子をかこんだ。床の間には安並と杉枝達の父親。左右向ひあつては、與田先生と登美子、その他はごちやごちやと、中學生だの、母親だの、杉枝だの女中と並んでゐる。
登美子は白いブラウスに紺のスカートを着てゐた。安並もこれが與田先生に見せて貰つた寫眞の姉の登美子なのかと、紹介されてしみじみとあいさつを交してゐる。落ちついてゐて、杉枝のやうに艷なところはなかつたけれども、安並は長い間、このやうな品のいい女性を求めてゐたやうな氣がした。變屈で、無口で、華美なことのきらひな娘だと與田先生は登美子のことを話してゐたものだ。
面長だつたが顏はほどよく小さくて、眼が一座の誰よりも美しく輝いてゐる。時々おもひがけない時に非常なすばやさで千萬の言葉を語る熱情をその眼はたたへてゐた。唇はひきしまつてゐて、唇尻がいやしくなくゑくぼのやうにひつこんでゐる。父親の顏によく似てゐた。
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