雨が降つて暗い昼間であつた。堀には汚水がいつぱい溢れてゐた。床屋を出て雨傘を低く差しかけ、刈つて貰つた短い髪の毛にさはりながら歩いてゐると、後からぴちやぴちや汚水をはねて、「おばさん!」と言つて走つて来る子供があつた。
「何?」
振りかへると、赤と青の床屋のねじ棒が、眼に浸みるやうな色でぐるりぐるり床屋の店先きに廻つてゐる処から、汚れた紺飛白を着て、ゴム長をはいた小さい男の子が、にこにこ笑ひながら走つて来た。
「なアに?」
「お家へ帰るの?」
私は、この馴々しい子供に暫くとまどひした気持ちであつたが、
「ええ帰るのよ」
と言つた。
「どこの子? あンたは‥‥」
「僕? 遠い処なンだよ。あのね、昨日から御飯たべないの、おばさんおかねおくれよ」
その男の子は犬のやうな弱い眼をして私を見上げた。袖口が鼻汁で光つて、手には銹びた針金を持つてゐた。
「おかね?」
「あゝ、おばあさんがとても僕をいぢめて、昨日、僕に出て行けつて言つたンだよ。だから、僕は昨日から帰つてやらないンだよ」
「おうちでみんな心配するでしよ?」
「心配したつてかまはないさ、僕をいぢめるンだもの‥‥」
鼻が低くつて、耳が小さくつて、おかしな子供であつた。ふてぶてしさがあつて、時々立ちどまりながら、私の袖につかまり、ゴム長の靴をぬいでは、汚水を道へあけるのであつた。遠い道を歩いたのか、その汚水にまぢつて、葉つぱのやうなものも靴の中から出るので、私は、すこしばかり止まつてその子供のすることを眺めてゐた。子供は如何にも物馴れた手つきで、輪になつた針金を首に巻いて、片方づつ靴の中から水を吐き出させると、また私と並んで歩きながら、
「十銭でも五銭でもいいンだよ」
と言つた。
「貴方はさうして、色々なひとからお金を貰つて歩くの?」
男の子は太々しくニヤリと笑つて、「さうでもないよ」と言ふのであつた。
堀に添つて歩いてゐると、水の流れが急で、雨が音をたてゝ白い飛沫をあげてゐる。私は、歩きながら、呆んやり堀川の流れを見て歩いてゐた。腹の中では、この子供が、わざわざ自分を呼びとめたことにこだわり、太々しい子供に何か一矢むくひてやりたかつた。
「貴方がさう言つて歩くと、誰だつてお金をくれるでしよ?」
「‥‥‥」
「私は、情ぶかくはないのだから駄目よ」
「どうして?」
「どうしてつて、貴方の言ふこと嘘だかも判らないぢやないの、大人の私には、十銭だの五銭だの何でもありやしないのよ。だけど、厭なの、あなたが子供だからなほ厭なの」
「二銭でもいゝや」
「二銭でも厭! 私は子供がきらひよ。赤ん坊は好きだけど、子供はきらひ、嘘ばかり言ふから」
「嘘なんか言はないよ‥‥」
「さう、本当の事を言つてゐるの?」
「本当におなかがすいてンだよウ」
私は、この子供が、お金をおくれと言つた時に思ひ出したのであつた。一ヶ月程も前のこと、かきつばたの花を買つて、夜更けに花屋から出て来ると、十三四の男の子が、やつぱりこんな風に呼びかけて来て、お金をおくれと言つたことがあつた。お使ひに行つてお金を落してしまひ、いまゝで帰れないのだと言ふのであつた。落した金はどれほどと聞くと、十銭玉二つと言つた。どうして、私に呼びかけたのと聞くと、花を買ふやうなひとは金持ちだらうから言つてみたのだといふのであつた。夜も更けてゐたので、私はその悄気てゐる子供に十銭玉を二ツやつて、お使ひを済まして早くお帰りなさいと、踏切りのそばで別れたのであつたが、それは、本当にさうかも知れないと、その子供のふつくらした顔に信頼してかきつばたの花を活けながらも、いいことをしたとよろこんでゐたのであつた。
だが、一緒に歩いてゐる此子供は、花屋の前で逢つた子供よりも二ッ三ッ[#「二ッ三ッ」はママ]小さくて、話はあの子供よりこみいつたことを言ふのであつた。
「僕はおばあさんの家へ貰はれて行つたンだけどね。毎日いじめるンだもの、傘の修繕屋なんだよ。お金なンかないンだよ」
私は、そつと十銭玉を掌に出して、この子に何時渡してよいのかと考へてゐた。こんな厭な子供に、金をやるなんていまいましいと思つた。コンクリートの橋を渡ると、赤い看板を出した煙草屋があつた。私は急に掌にある十銭玉を出してチエリーを一つ買つた。子供はありありと悄気た顔になつて、また、歩き出してゐる私をつかまへ、「二銭おくれよ」と言つてついて来た。
「二銭で何を買ふの?」
「メンコ」
「メンコ? だつて、貴方はお腹がすいたつて私に言つたぢやないの、どうして嘘を言ふの、貴方は学校へ行つてゐるの?」
「学校なンか行かないや!」
その子は、最早あきらめたのか、私を憎々しさうに笑つて、足早に走り出すと、「断髪の馬鹿野郎!」と言つて走つて雨の降りこむ路地の中へ消えてしまつた。私はその路地の前を通るのが厭なので、引き返して煙草屋の横へ曲つてしまつた。道がせまいので、両側の痩せた樹の間から、霰のやうな音をたてゝ私の雨傘に雨粒があたつた。誰が、あんな憎たらしい子供に金なんかやるものかと私はチヱリーを買つたことを吻として考へたのだけれども、あの子供は、雨の中を濡れながら、あの髪を剪つた女はいまいましい奴だつたと、一時間や二時間は私を呪つてゐるのだらうと思つた。いや、あんな子供の事だから、当分は私のことを呪つてゐるかも知れないと思つた。身上話なんか聞かない前に、「おばさんはお金持つてないのよ」と、言つてやれば、あんな悪体もつかれずに別れられたものを、とその日は一日ぢゆう気持ちが悪くて、オルガンのある裏の家で、沢山の子供達が騒いでゐても、何だかおびえて仕方がなかつた。
その雨の日から暫くたつて、また或る雨の日、私は友達の出版記念会の招待を受けた。長い梅雨でくしやくしやしてゐたので、私は、その友人の出版記念会に出て、久しぶりに、色々な人達に会ひ、この梅雨のうつとうしさから吻としたいと思つたのであつたが、あひにくと、その日はふところがとぼしかつた。三円の会費なので、どうしても四五円はほしかつた。私は心安い女友達に借りに行かうと、道まで出たのであつたが、その女友達の留守の場合は[#「場合は」はママ]考へると、私は、雨の道を行つたり来たりするのが面倒なので、売れさうな本を五六冊書棚から抜いてメリンスの風呂敷に包み、駅の方へ歩いて行つた。女友達はこの雨の中を朝から外出してゐて留守であつたので、私は、重い本をぶらさげて、行きつけの本屋へ行つた。本屋の若い主人は、
「いまお売りになつても損ですから、おあづかりしときませう、五円位でしたらどうぞお持ちになつて下さいまし‥‥」
さう言つて、私の持つて行つた本をまたメリンスの風呂敷に包み、高い台の上にあげて、からからと鳴る小さい金庫の中から五円札を出して借してくれるのであつた。私は毎月七八円は此本屋に払ひをするので、本屋も安心して持つて行けと言ふのであらうと、その五円を気軽に受け取り、雨で湿つた店の書棚に眼をとほしてゐると、
「ねえ、雑誌買つとくれよ」
と、言つて一人の子供が新聞包みを持つて這入つて来た。どこかで見たやうな子供だと思つた。子供は新聞包みをごぞごぞと開けて、婦人雑誌を二冊出した。
「雑誌なンていくらにも売れやしないよ、月遅れぢやないか、屑屋へ持つて行くと、これだけで五銭位には買ふよ」
「そんな事を言はないで、ねえ、買つとくれよ」
「ここは判こがなくちや買へないンだぜ」
「爪印でいいンだらう?」
「爪印? こましやくれたこと言ふ子供だねえ、この雑誌、どうしたンだい?」
「うちの姉さんがくれたンだよ」
「莫迦言つちやいけないよ、こりや回読会の雑誌ぢやねえか、知れたら巡査に連れて行かれるぞ‥‥」
私は本屋の主人と子供の問答をきいてゐたが、その声には何だかきゝ覚えがあつた。文庫のはいつてゐる小さい本棚の横から覗いてみると、花屋の前で、私に金をくれと言つた愛らしい子供であつた。どうして、あの子供はあんなに幼いくせに金の心配ばかりしてゐるのだらうと、暫く、その子供の様子を見てゐると、子供は途方にくれたやうな顔で、
「ねえ、これを売つて帰らないと困るンだけど、ねえ、買つとくれよ。これで麦を買ふンだよ」
「ふん、麦を買ふ? この雑誌で何升買えると思つてるのかい?」
「一升買へばいゝンだよ」
「一升ねえ」
「あゝ一升二十銭だぜ」
「坊やの家ぢや随分ゼイタクな麦を食つてンだね。安麦でうまいのが一升十六銭だぜ」
本屋の主人は店先きでもぞもぞしてゐる子供相手が面倒になつたのか、銅銭を二ツ出して、
「ほれ、お駄賃だ、この雑誌は屑屋へでも持つてきな」と言つた。
銅貨を貰ふと子供は走つて雨の中を出て行つた。若い主人は「此辺の子供は仕様がない」と言つて、立ちあがると、呆んやりつゝ立つてゐる私へ、馬琴の燕石襍志と云ふのを出して見せてくれた。和綴じの六冊本で、馬琴の覚書きのやうなものであつたが、西鶴のことについての小伝記は、立つて読んでゐる私にも大変面白かつた。
「これ、どの位なの?」
「案外安いンでございますよ。拾円位なら手放してもよろしうございます。虫ひとつ食つてないのですから珍らしうございますよ」
私は、その六冊の本を取つておいて貰ふことにして、本屋の主人の淹れてくれた茶を喫みながら、さつきの子供に、花屋の前で金をせびられた話をした。主人の話では、堀川ひとつ越した埋立の長屋の町では、子供達の間に色々なことを言はせて、道行くひとに金をせびらせてゐるといふことであつた。
私は、わざわざ、帰りにその埋立の町を通つて見た。「下駄の歯入れゐたします」といふ家や、釜や靴を店先きに並べた古道具屋だの、活動小舎の下足番とか人夫や、屑屋だの、家並が並んでゐた。雨が降つてゐるので、その長家の子供はのんびりした顔をして、唄をうたつたり、チンドン屋の真似をして遊んだりしてゐた。汚い子供達ばかりであつたが、どの子供達も頬がまるまるしてゐて幸福さうであつた。
床屋の帰りに呼びかけて来た子供や、花屋の店先きで私を呼んだやうな大人びた子供はひとりもゐなかつた。
私は歩きながら、いつたい、あの二人の子供たちのやうなのは、どこの町から出て来るのだらうと考へてゐた。
麦を一升買ふために、回読会の雑誌を売り歩いたり、判このかはりに爪印ではどうかと尋ねてゐる子供のことを考へると、何だか腹が立つやうに淋しかつた。本当に麦を一升買ふのならば、なぜ、あんな子供なンか、使ひによこすのだらう‥‥姉なり母親なりが、工面に歩けばいゝのに、あんな愛らしい子供が、「ねえ、買つとくれよ」と言つてゐるのを聞いてゐると、背筋に汗が流れるやうな冷々したものを感じるのであつた。
私に悪体をついて走り去つた子供にしても、何だか、大人を小馬鹿にしてゐる風な所があつた。私の袂をつかんで、ゴム長の靴にたまつた水をあけてみたりしてゐたのを思ひ出したが、今ではそんな子供を憎みきれない佗しいものを感じるのであつた。かへつて、子供の嘘に安々とだまされてやらなかつた自分に腹が立つて来て、こんなに、あの子供のことを思ひ出すのは、自分がまだあの子供に呪はれてゐるのだらうと思ふのだ――何時もの踏切の前まで来ると、サイレンが鳴り始めた。青い合羽を着た女の子が一人、カアキ色の合羽を着た男の子が二人、ぽつんと電車の通るのを待つてゐた。私は、その子供達の後へ行くと、
「いま学校の帰りなの?」
と尋ねて見た。
子供達は吃驚したやうな顔を私に向けたが、急に子供同志顔を見合せてくすりと笑つて、肩をちゞめた。子供に肩をすぼめられると私は困つた顔になり、遠くから地響きして走つて来る電車の方へ首をかしげるのであつた。電車の通りすぎるのを待つてゐる子供達は、たぶん堀向うの良家の子供達なのだらう、仲々馴れ親しまない誇りをみせて、もう、私のやうな大人なぞは忘れてしまつたかのやうに、一列に並んで電車を待つてゐた。
私達の前を荷物電車がすさまじい響きをたてゝ走り過ぎて行つた。三人の子供達は兵隊のやうに、左の空いた方のレールの上をたしかめて、鳥のやうに素早く私のそばから羽ばたいて走つて行つた。ヒラヒラしてゐる合羽の後姿には、あのゴム長の子供にないやうな時計のやうな富裕な生活の影がへばりついてゐる。
夜は、豪雨であつた。私は郊外の駅から自動車をひろつて会場へ行つた。会場は椅子も卓子も雨でべたべたしてゐた。集まつた人達もすくなかつた。友人は立ちあがつて、情熱のこもつた挨拶をした。私は箸をつかひながら、雨の降つてゐる片隅の町の色々な生活を考へ、麦を買ひたがつてゐた子供や、私に二銭でもいいからほしいと言つた子供が、いつたいこの夜を、何をしてゐるのだらうかと、そんな考へに沈んで行くのであつた。
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