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大島行(おおしまゆき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 12:50:27  点击:  切换到繁體中文


 

眼とぢたり
瞼ひらけば火となりて
涙吾れをば燒く憶ひなり
 食事の後、座蒲團を枕にごろりと寢ころぶと、何時のまにかうたゝねしてしまつて、偶と眼が覺めた時、こんな歌が出來ました。海邊の風が心に沁みたのか、何でもないのに涙が溢ふれて、死ぬのだつたら、あのやうな煙の中よりこんな港の美しいところがいゝなと、疲れてゐたのでせう、中々うつつと夢のさかひがハッキリとしないで困つてしまひました。
 氣が弱くなつてゐる時に歌と云ふものは出來るでせうか……三時頃、また渡し船に乘つて、元村へ歸へるのですが、もう間伏まで乘合で歸へつた時は夕暮れ近かくで、雨さへ降つて來ました。二里の砂道を歩くのが困難なので宿場に待ち合はせてゐた馬に乘る事にしました。丁度、關西の人だと云ふお母さんを連れた若い男のひとが道連れになつて、三匹の馬は、ポクポク、波の飛ぶ汀を歩いて行くのですが、急に高い馬の背に乘つたので、私は子供のやうに嬉しくなつてしまひました。馬と云ふものにも始めて乘つてみました。
 海も美しいながら、山手の若葉は、佛蘭西の田舍で見た風景にも似てゐます。あゝあんな素直な仕事がしたい、あんな素直な女の心になりたいなんぞ、馬の背中の上からゼイタクな眺望をしながら、アワイ茶屋を越したのが、もう暮れ方の六時頃ででもありましたでせう。

    四信

 馬の賃金は二里半ばかりで壹圓五拾錢でした。天氣がよかつたら、實に歩くにいゝ道です。
 再び大島へ來るやうな事があつたならば、元村へ早朝着くのでせうから、歩いて岡田村に行き二三泊したい心組です。だが、一日か二日の旅だつたら、無理にでも、着いたらすぐ御神火を越して波浮へ出て泊りたいと思ふ位でした。
 疲れてヘトヘトになつて宿についた時の人情と云ふものは、中々身に應へるものですが去りぎはも亦、中々忘れがたいものです。
 海氣館では八疊の部屋だつたのですが、二晩めには隣室の六疊にうつされて、今まで居た部屋には三人連れの新らしいお客樣で、中々やゝこしいやりくりです。
 此新らしい隣室のお客樣も、襖一重で、子供連れなせいか、すぐ子供達と仲よくなつてしまつて、夜更けまで、女の子たちと話に花が咲きました。トランクに五六册も詰めて來た本なぞも、一度も展いて見る事なく、只下着を着かへるだけで、亦々無駄な荷物になりさうです。
 早朝五時には、下田へ行く東京灣汽船が出るので、次手に下田港へ行つてみるのもいゝだらうと、宿には宵の口に勘定を濟ませておきました。鑵へ這入つた椿油の小さいのを七ツ買つて來る。油屋のおしゆんさんと云ふのが美しい娘だから見てゐらつしやいと云はれたが、めんどくさくて船着き場の店で用をたしてしまひました。

 早朝三時半頃には女中が下田へ行く客を起こしに來ます。雨戸を開けると、硝子玉のはいつた櫛のやうな汽船が沖に止つてゐて、汽笛を鳴らしてゐました、まだ暗いので、船の電氣がキラキラ波に光つて、まるでお月樣が落ちてゐるやうだと、隣室の子供達が云つてゐます。朝、牛乳だけと頼んでおいたのに、牛乳も忘れられて、兎に角波止場へ出ました。東京から來た客を、ハシケで一々運んでから、下田行きの客が乘るのですが、下田行きの客も仲々相當な行列をつくつてゐました。迎へと送りを兼ねて、宿々の客引きが提灯をさげてズラリと波止場へ並んでゐるのですが、會話が面白い。
「××屋で厶います。オヤ素通りか」
「東京の客人は、宵越しの辨當を持つて山へ登るんだから、ガツチリしてゐるよ」
 あんなザツパクな人情では、むしろ宵越しの辨當でも持つて御神火を越した方が、よつぽどケンメイだと思ひます。島へ來て、三圓も四圓も出して湯豆腐を食べさせられるに至つてはあきれてしまうより仕方がない。――かうしてふつと憶ひ出してみると、我々にはやつぱり岡田村が素朴でよかつた。村は竹が澤山出來るのか、竹屋さんがかなり澤山ありました。石の段々の途中にコンクリートの雨水を貯めるところがあつて、そんなのも、ひどくナポリに似てゐる。ヴヱスビオの山の煙のやうに雄大でもないが、貧しいながらも、此岡田村から見る御神火は私の小ナポリです。

 これから下田です。
 船は、宿屋よりも居心地がよくて、門司と下關との連絡船によく似てゐます。大島の元村から二時間で下田の港です。晴天でしたので、下田の町をポツポツ歩きましたが、軒が底く、白い土塀の多い古風なところです。
 お吉が奉公してゐたと云ふ家も見ましたが、細い格子のはまつた、二階建てで倉なぞもありました。いまは空家なのか、人が住んでゐる樣子も見えません。港から、岬の裏がはの大浦の方に歩いてみました。よどむだやうな小さな河があつて、その河添ひには、簪のやうにきやしやな櫻の木が植つてもう花が散りかけてゐました。その河に添つて、なまめかしい格子の家が並んでゐて、夜になつたら、美しい女のひとがチラホラするのでせう、まことに情緒のある町です。
 大浦の海岸では、保養館と云ふ宿で休みました。伊勢海老と、あはびが中食に出たのですが、こゝでは自慢なのでせう。有島生馬氏が泊つてゐられたと云つて上さんが、宿の主の肖像なんぞを出して見せてくれました。――子供達と一緒にモータアボートに乘せて貰つて、下田の沖を走つたのですが、春の逝きかけた淺緑の山の手前を、波を蹴つて飛んで行くのは實に愉快です。吉田松陰と澁木松太郎が、黒船に乘る機會を長い間うかゞつてゐたと云ふ岬の岩穴も海の上から見ました。偶と、
「泣かんか愚人の如く、笑はんか惡漢の如し」と云つたと云ふ松陰の言葉をおもひ出します。
 海の上から見る山は美しい。中でも、女の寢たやうな寢姿山は、下田の町と妙にしつくりしてゐて、慰さめられる風景でした。ひどく海に飽いてしまつたのか、こゝでは休息だけにして、下田から東京までの切符を買つてしまひました。修善寺まで連絡の乘合自動車ですが、大變乘り心地のいゝものです。
 自動車はまるで、馬車屋さんのやうに、古風な喇叭をつけてゐて、大きな體で下田の町を拔けて行きます。
 寺の入口に地藏樣が並んやゐたり、生の椎茸が河ツぷちに干してあつたり、金色に光つた笹藪なぞが多く、下田の町はづれは、汽車が通じてゐないだけに、温く優さしいところで、旅人らしいくつろぎも、こんなところでこそ休めたいなど考へられます。
 下田から、修善寺まで三時間もあるのですが、此途中の風景は山峽の道だけに實に素晴らしく隨分いまゝでに色々な風景も見ましたけれど、此樣に美しい山峽をいまだかつて知りません。
 下田の町を出て、湯ヶ野を越すあたりから、山の屋根が濶達になつて、山肌一面山櫻の谷があつたり、瀧を眼近く眺めたりしました。自動車道は、割合廣いので、乘物にも乘れないなぐれた旅びとなぞが、トンネルの入口なぞから、ひよいと出て來たりして愕かせる時があります。
 伊豆の此旅は、同じ伊豆の中でありながら、大島の青葉とくらべて、瞼に緑が沁みると沁みないだけの違ひのやうです。湯ヶ野から湯ヶ島へかけての谷間の樹のしたみちは、顏も手も染まりさうに薄い緑で、笹藪のこんもりしたのなぞは、全く青春を包んだ喪の小屋のやうで、あの中を覗いたら、火花のやうなかげろふが散りさうです。私は、此樣に小説的な風景を見た事がありません。
 栂や栗、柳、松、櫻、杏、桃、梅、椎の木やにれの木、そんなのが何でもあるのでせうが、山を越えても越えても美しい樹が續いてゐます。

    五信

 まるで、何かを追ひ求めてゐるやうに、東京にも歸へらず、途中の湯ヶ島で乘合自動車を降りてしまひました。此青葉の風景に醉つてしまつたのでせう。――湯ヶ島は谷底に家があつて、カジカでもゐさうな落合川が、谷のあひだを白く流れてゐます。
 落合樓と云ふのに泊りました。こゝでは始めて灯の下に本を出して讀みたい氣持ちになりました。――温泉が豐富で人氣のない夜更けの風呂場に伸々と體を沈めてゐると、生きてゐる愉しさが、まるで風のやうに吹きあがつて來ます。あんなボコボコ石の煙の中へは、どんな考へで死に行くひとが多いのか、今日の新聞を見てゐると、三原山に飛びこんだ青年の事が出てゐますが、全く不思議な事だ。せめて死ぬときだけでも風景の美しいところに身を置きたいものです。
 溪流の音が、しみじみ山里へ來てゐる感じです。夜更けて珊瑚集を一册讀了しました。詩集の讀めるやうな風景と云ふものは、中々に得難く、眠るのがをしいので、枕元にヱハガキなぞを並べて子供のやうに愉しむのです。
 私は旅へ出ると、夜は早々に眠れるのですが、此樣に眠るのがをしいと思へるのは、あんまり靜かで落ちついてゐるからでせう。
 旅果てと云つた氣持ちです。もうこれでおしまひと云つた感じで、夜明けも早々に起きて、温泉に這入りに行きます。誰もまだ眠つてゐる時に、呆んやり湯につかつてゐられる、あのひつそりした氣持ちが好きです。悔いなくつかひ果した氣持ちで、大島で修學旅行のやうにあわただしかつた氣持も、此、伊豆の温泉に來てさつぱりしてしまひました。
 下田から、東京までの自動車の連絡があつて五圓あまりです。十二三里の山峽を、自動車で走つて行くのですが、風景のいゝのは湯ヶ野から湯ヶ島の間でせう。
 修善寺へ這入れば、もう風景とは云へなくなる。温泉宿のつくつた町の姿です。
 初夏の頃は素晴らしいと女中が云つてゐました。こゝの女中は大變しとやかでした。大きくても小さくても、宿屋の女中は素朴で口數のあまりたつしやでないのがいゝ。今だに、岡田村の宿屋の上さんのもてなしが、心いつぱいであつた事に、旅人らしい滿足をするのです。ポコポコした疊や、汐つぱい戸障子ながら、岡田村のあの宿へはもういちど行つても惡るくはない氣持ちです。
 朝食が濟むと、湯ヶ島の街道を歩いてみました。川端氏の小説にある、伊豆の踊り子のやうな旅藝人が、三味線を肩にして、二三人ポクポク下田の方へ歩いて行きます。十一里の道は、一日には仲々困難な事です。こゝも生椎茸やわさびが名産なのでせう。小さな自動車待合所に、そんなものがごたごた並べてありました。
 街道が、はざまの上にあるので、谷底の家並がひとめです。朝のせいか、湯煙りが川にたちこめてゐて、山の温泉らしさうです。
 下賀茂、蓮臺寺、河内などもいゝ温泉だと聞きました。本當は、こつとりこつとり歩きながら、此樣な地を探ぐつたら面白いだらうと思ひます。
 湯ヶ島は、元村の宿にくらべると、宿料も安い位だと思ひました。それに何も彼もが清潔です。

たそがれて
峽のまちを吾が自動車くるま
ひたに走りぬ愉しかりけり

山鳩の啼く谷道の
土ほこり
花火と散りてわれなつゝみそ

 このやうな歌二ツ出來たのですが、下手ながら、歌はずにはゐられないやうないゝ風景です。――今夜はいよいよ東京です。修善寺の驛へ出て、古ぼけた地圖を見てゐますと、「大島は再び行きたいところでもない」と云つた氣持ちです。
 それ程、下田から湯ヶ島へかけて、私の心をとらへてしまつたのでせう。ところで、驛で新聞を買つてみると、亦、大島での自殺の記事ですが、ひどく心を寒くします。もうあのやうな流行なぞは早く根をたつて、林專務の云つてゐられた、家族連れの小樂園が早く出來るといゝと思ひます。だが、お天氣のいゝ日の、一家族の天城越えなぞは、どんなに雄大で、愉しい思ひ出になるでせうか。
 夏には植物の採集なんかに、氣樂に天城の山に遊びたいなんぞ心に浮びます。





底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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