東京駅のホームは学生たちでいっぱいだった。わたしの三等寝台も上は全部学生で女と云えば、わたしと並んだ寝台に娘さんが一人だった。トランクに凭れて泣いているような鼻のすすりかたをしている。わたしは疲れていたので、枕もとのカアテンを引いてすぐ横になったが、眼をつぶらないうちに頭のところのカアテンが開いてしまって、三階の寝台で新聞を拡げている音がしている。三階から下まで通しになった一つのカアテンなので、一人が眠くなって灯をさえぎりたくても、上の方で眠くない人がカアテンを開けると、寝た顔は何時までも廊下の灯の方へ晒していなければならない。仕方がないので、ハンカチを顔へあてて眠ったが、なかなか寝つかれなかった。阿部ツヤコさんの三等寝台の随筆を読むと、近所同士がすぐ仲よくなれて愉しそうだったけれども、わたしの三等寝台はとっつきばのない近所同士だった。熱海あたりで眼が覚めると、前の娘さんは帯をといて寝巻きに着替える処だった。羽織と着物を袖だたみにして風呂敷に包むと、少時わたしの寝姿を見ていて横になった。
(どの辺かしら)わたしはひとりごとを云ってちょっと起きあがってみたが、娘さんは黙ったまま湿ったようなハンカチを顔へあてて鼻をすすっている。二階の寝台からは縄のようになったサスペンダーと、大きな手がぶらさがっている。気になってなかなか寝つかれなかった。ポーランドの三等列車にどこか似ている。――朝眼が覚めたのは大垣あたりだった。娘さんは床の上へハンカチを落してよく眠っていた。昨日は灯火が暗くてよく分らなかったけれども、本当に泣いたのだろう、瞼が紅くふくらんでいた。顔を洗いに行って帰って来ると、娘さんは起きて着物を着替えていたが、わたしの上の寝台からは、まだサスペンダーがぶらさがっている。娘さんと眼が合っても娘さんはにこりともしない。よっぽど考えることがあったのだろう。小さい鏡を出して髪かたちを調えると、また昨夜のようにトランクに肘をついて鼻をすすっていた。
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わたしは京都へ降りた。二等車からも、外国人が四、五人降りて来ていた。わたしは赤帽がみつからなかったので、ホームへ降ろしたトランクをさげて歩み出すと、「ヴァラ」と云って、わたしの小さい蝙蝠傘を背の低い男の外国人がひろってくれた。「メェルスィ・ビヤン!」そう応えて、わたしは思わず顔の赧くなるような気持ちを感じてたじたじとなってしまった。巴里にいたとき、何度かこんな片言を云っていたが、京都でこんな言葉を使うとはおもいもよらないことだ。関西に住み馴れた仏蘭西人なのだろう。橋を渡ってさっさと改札口へ行った。同じ席にいた鼻をすする娘さんも京都で降りてわたしの横を改札口の方へ歩いて行っている。
朝なので、駅の前はしっとりしていて気持ちがよかった。ホテルの旗をたてた人力車が何台もならんでいたりする。東京駅には人力車なんてなかったが、京都は人力車が随分多い処だ。――縄手の西竹と云う小宿へ行った。小ぢんまりとした日本宿だと人にきいていたので、どんな処かと考えていたが、数寄屋造りとでも云うのだろう、古くて落ちついた宿だった。前が阿波屋と云う下駄屋で、狭い往来はコンクリートの固い道だった。荷車に花を積んだ花売りが通る。赤い鉢巻きをした黒い牛が通る。朝の往来はすがすがしかった。わたしの部屋は朝だと云うのに暗くて、天井の低い部屋だった。裏は四条の電車の駅とかで、拡声機の声がひっきりなしに聴えて来る。わたしは小さい机に凭れて宿帳を書き、障子を開けてみたり、鏡台の前に坐ってみたりした。明日の講演さえなければ奈良の方へでも行ってみたいなとおもった。
障子を開けると、屋根の上に細い台がこしらえてあって、幾鉢か植木鉢が置いてある。白い花を持った躑躅や、紅い桃、ぎんなんの木、紅葉、苔の厚く敷いた植木鉢が薄陽をあびて青々としていた。庭が狭いので、屋根の上に植木を置いて愉しむ気持ちを面白いとおもった。如何にも京都の宿屋らしいと、わたしは、屋根にある桃の鉢を両手にかかえて机へ置いて眺めた。いい苔の色をしていて、素焼だけれど、鉢は備前焼のような土色をしていた。
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早いめに昼食を済ませて、わたしは山科の方へ行ってみた。十年位前だったかに、大津から疏水下りをしたことがあったが、その折に見た山科の青葉は心に浸みて忘れられなかったので、わたしはあの辺をぶらぶら歩いてみたいとおもった。円タクをひろってどこでもいい景色のいい疏水のほとりに降ろして下さいと云うと、都ホテルの下の道を自動車はゆるく登って行った。都ホテルの堤には、つぼみを持った躑躅の木が堤いっぱい繁っていた。自動車の運転手が、これが蹴上の躑躅だと教えてくれた。
疏水のほとりで降りて、それから橋を渡り、流れに添ってぽくぽく歩いてみた。何と云う町なのか知らないけれども、郊外らしく展けていて、新らしい木口の家が沢山建っていた。それでも、時々、廃寺のような寺があったり、畑や空地などがあった。寺の門を配した豪奢な別荘もある。廃寺の庭は広々とした芝生で、少年が一人寝転んで呆んやり空を見ていた。白い雲が、疏水の水に影をおとして流れている。いい天気だった。堤の下の赤松越しに、四条行きの電車が走っている。電車道の人家の庭には白い卯の花がしだれて咲いている。磚茶の味のような風が吹く。ごろりと横になりたいような景色だった。蹲踞んで水の面をみていると、飛んでゆく鳥の影が、まるでかなんかが泳いでいるように見える。水色をした小さい蟹が、石崖の間を、螯をふりながら登って来ている。虻のような羽虫も飛んでいる。河上では釣をしている人もいる。何が釣れるのか知らない。底まで澄んでみえるような水の青さだった。時々、客を乗せた屋形船が下りて来る。大津へ帰る船は、船頭が綱を引っぱって、なぎさを船を引いて登って来ている。船は屠殺場行きの牛のようにゆるく河上へ登っている。水のほとりの桜はまだ咲いていた。青葉の間に散りぎわの悪い色褪せた花をのこして、なぎの日のような煙った淡さで咲いていた。
堤を降りて、道を探しながら電車道の方へ行くと、洋服を着た子供たちが、京言葉で泥あそびをしていた。
電車の駅近くへ出ると、小料理屋の間に挟まって、大石内蔵之助の住んでいたと云う、写真や高札を立てた家があった。黄昏ちかくて、くたびれきっていたが私は這入ってみた。家の中は暗くていい気持ちではなかった。入口から等身大の義士人形がずらりと並んでいた。打ち入りに使った色々なものがてすりの向うに飾ってあったが、暗くて詳しく眼に写って来なかった。小砂利が家じゅう敷きつめてあって、地獄極楽を観に来たような感じだった。義士人形は古いせいか、顔の色が褪せて、指がかけていたり、鼻がこぼれていたりして、気味の悪い姿だった。
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電車で宿へ帰ると、また風呂へ這入り、わたしは机の前に坐ってみたが、何となく落ちつかないで困ってしまった。明日の十二日は啄木の記念日だと云うのだけれども、啄木が生れた日なのか亡くなった日なのか、それさえわたしは知らない。読むにはどんな歌がいいだろうと、わたしはトランクから啄木歌集を出してあっちこっちめくってみた。
百年の長き眠りの覚めしごと
呻してまし
思ふことなしに
山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君をおもへり
こんな歌が眼にはいった。
辛くなるような気持ちだった。一条大宮と云う処はどんな処なのだろう。
羅生門と云う芝居を見ると、頭に花を戴いた
大原女が、わたしは一条大宮から
八瀬へ帰るものでござりますると云う処があったが、遠い昔、一条大宮と云う処はわたしになつかしい人の住んでいた町の名であった。
懶いので横になって啄木を読む。
空知川雪に埋れて
鳥も見えず
岸辺の林に人ひとりゐき
むかし空知の滝川と云う町にわたしも泊ったことがある。旅空でこんな歌を読んでいると、夙から旅にいるような気持ちだ。
十二日は朝から雨だった。紫竹桃の本町のお波さんへ電話をかける。正月大阪へ来た折に文楽の人形を頼んでおいたのが出来たかどうか。首がまだついていないけれども、衣装が美しいから早く見せたいと云う返事だった。「そんなら、神戸の帰りに寄りますけど、それまでには出来てる?」と訊くと、あんじょう出来てますと云う返事なので、わたしはすぐ雨の中を神戸へ行き、窪川鶴次郎氏、渡辺順三氏たちと逢い、啄木の講演を済ませて神戸の諏訪山の宿へ二泊して、十四日に尾道へ発って行った。ふと、海がみたくなったからだ。汽車が駅々へ着くたび昔聞き馴れた田舎言葉がなつかしく耳に響いて来る。わたしはさまざまな記憶で落ちついていられなかった。歓びで、胸がはずんでいた。幼い日の女友達に逢いたいとおもった。もう女学校を卒業して十年以上になるのだから、その人たちはみんな奥さんになって、子供があるに違いない。
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