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朝夕(あさゆう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 12:47:05  点击:  切换到繁體中文

わかればなしが持ちあがるのも、すべてはゆきなりの事だと、芯から声をあげて、嘉吉もなか子もあはあはあはと笑ひあつたのだが、嘉吉の心の中には、ゆきなりとは云ひぢよう、ゆきなりの事だと云ひきれないものがあつたし、なか子の心のうちには、これからひとり者になつてゆく淋しさを愉しんでゐるふうな、そんな吻つとしたところがあつた。で、ふたりが、いまさらゝしく声をたてゝ笑ひあふのも、これでおしまひだねと云つた風に、嘉吉は久須を引き寄せて、茶を淹れながら、ま、お前は気の軽い女だから俺ほどには思ふまいが、たよりだけは屡々くれるやうにと、二つの湯飲茶碗の糸底を、猫板の上にかつん、かつんと音をさせて並べた。
「まだ、あんたはそんなことを云つてゐるのね。わかれてしまふつて云つたところで、お互ひ、よくなつてゆけば、またかうして一緒になれるンですよ。あんまり※(「月+奏」、第3水準1-90-48)きめのこまかいこと云ふもンぢやないわよ、悲しくなるぢやないの‥‥」
「ふゝん、悲しくなるか、だが、わかればなしを持ちだしたのはあんたぢやないか」
 なか子は黙つてゐた。切角気持ちよく、さつきはあんなにあはあは笑へたのに一寸拍子が逆になると、嘉吉の方が弱り出してしまふので、それが、なか子には余計に歯がゆく思へる。――嘉吉はそこへ寝そべつて、いまさらゝしく四囲を眺めてゐたが、風に吹かれてゐるやうな女の顔を見ると、これが四年も連れ添つてゐた女なのかと思ひ、額に浮んでゐる小皺のやうなものにも、まるで、手擦れのした道具のやうな愛惜を感じた。
「ま、何でもいゝさ、お互ひ躯を丈夫にしてるこつたよ」
「厭ね、まだ、本当に別れてしまつたつて云ふわけぢやなし、そんなこと云ふのおかしいわよ」
「‥‥‥‥」
 こんどは嘉吉の方がむつゝりと黙つてしまつて、女の心のなかに何とない余裕のあることを見てとり、これは、案外、本当のわかればなしになつてしまふかも知れないぞと、頭を畳へおとして眼を絞るやうに固くとぢてしまふ。
「一寸、何? 灯火がまぶしいの?」
「‥‥‥‥」
 嘉吉が、顰め面をして瞼をとじてゐるので、なか子が灯火でもまぶしいのだらうと嘉吉の顔の上の電気を、くたびれたやうな蚊帳の吊手で引つぱつて、灯火を部屋の隅の方へ持つて行つてやつた。さうして立ちあがつた序手に、鏡台の前に坐り、蜂蜜[#「蜂蜜」は底本では「蜂密」]を小指にすくつて荒れた唇につけてゐる。――ふたりにとつて、別に派手なおもひ出もなかつたが、三四年も一緒だと、三四年の間の汐のしぶきが、どぶんどぶんと打ちよせて来て、鏡を見ながら、なか子は自分がづぶ濡れになつたやうな寒さを感じた。だが、いまさら、現在のやうな生活を続けてゆかうとは思はなかつたし、薄情のやうだけれども、嘉吉の性格には最早、飽き飽きさせられてゐた。「わかれるにしても、昔のやうに何でも自由になる時ならば寝覚めもいいけれど、いまのやうな一文なしになつてしまつて、あんたに何もしてやれないじやあ、どうにも気色が悪い」とわかればなしが出ると、嘉吉はそんな人情家ぶつたことを云つて、なか子に後の句をつがせなかつたが、なか子にとつては、それは擽ぐつたい話で、嘉吉が華かであつたからと云つて、別に愉しい思ひをしたわけではなし、なか子にとつてはむしろ地味すぎる位な生活で、四年の間、こんな男の世話になつて、よくも煤けてゐられたものだと考へる。――昔のやうに何でも自由になつてゐたら、と、嘉吉はよく云ひ云ひするけれども、たかゞ一軒立ての洋品屋で、それも大した繁昌とは思はれなかつたし、先妻の亡くなつたぢき後へ這入つて行つたので、なか子のやうな派手な女にとつては、陰気な暮しむきに見えた。先妻の使つてゐた鏡台の前に坐つても、妙に白いお化けが覗きこんで来るやうで仕方がない。――そのお化けの名はつると云つた。嘉吉が三十二で、亡妻のつるが二十九の時に神楽坂の藁店に、いまの小さい洋品店を開いたのだが間口三間ばかりの、北向きの引つこんだ家で、日あたりが悪いせいか、なか子は始めての冬に神経痛で寝ついてしまつた。
 洋品店と云つても、学生相手の安物ばかりで、襯衣とか、靴下とかの小物類が売れてゆく位で、陳列の中の鳥打帽子や、絹ポプリンのY襯衣なぞは、四年の間そこへ飾りつぱなしで、いくら陽がさゝぬとは云つても埃つぽくなつてしまつて色褪せてゐる。
「おい、なか子、一寸来て御覧、うちの符牒を教へてあげるから‥‥」
 なか子が、嘉吉の家へ這入つて二日目であつた。早々と店を閉じてしまふと、レヂスターの横の卓子の上に、マフラアや、ハンカチや襯衣なぞの箱を並べて、うちの符牒は「つるまひおりたよしせマル」と云ふのだからよく覚えておくといゝと云つて、これはいくらだとか、これはどの位だとか、数理にはうといなか子へ「おる」は五二銭、「つま」は十三銭と早口に言つて応用させてみせるのであつた。
「此符牒は仕入れ値段の符牒だから、これから一割なり二割なり儲うけて云はなけりや駄目[#「駄目」は底本では「黙目」]だよ。先の奴は、何時でも符牒だと云ふことを忘れてしまふて、元々で売つてたことがあつたが、あはてゝ売らぬやうにしなきや駄目[#「駄目」は底本では「黙目」]だ」
 さう云つて、二三日は「つるまひおりたよしせ○」を、しつゝこい程、なか子へ尋づねてゐたが、なか子も、その符牒はあんまりひどいと云つて、もう、そんな符牒なんか面倒だと怒り出したことがあつた。なるほど考へてみれば、亡妻のつると、嘉吉の嘉の字を織りこんで、此符牒はあんまり芽出度すぎる。嘉吉は怒つてしまつて、むきにつんつんしてゐるなか子が、急に可愛くなつてしまつた。では、デパート並に、もう値段をちやんと入れておいてやらう、その方が買ふ方も売る方もさばさばしてよからうと、急にゴム印を買つて来て、符牒の上へ一々値段をくつゝけてくれた。だが、浮世ぐらしのやうななか子には、「はい、そのすてゝこは六十銭でございます」とか「その襯衣はゴム織の上等で、壱円二拾銭なら本当に高く戴いてないつもりでございます」なんぞ、芯から面倒で、第一、拾円札で壱円八拾九銭なぞと云ふ買物になると、一々奥の嘉吉へ「あなたやつて頂戴よ」と云つて走り込んで来た。始めの程は、嘉吉も笑つてゐたが、二年になつても三年になつても家の商売に馴れやうとはせずに、何時も家ぢゆうの陽のあたる処を見つけては、その陽溜りへ講談本なぞを展げてゐたり、夏になると、ひといちばい暑つがりやで、台所の板の間へ茣蓙を敷いて、まるで生魚のやうにごろんごろんとしてゐるのであつた。嘉吉も、これはひどい女を背負ひこんでしまつたものだと考へる時もあつたが、奇妙に、台所仕事が手綺麗で、何でもないやうな容子をしてゐて、案外膳の上には嘉吉の好きなお菜が一二品並び、商売のあつたやうな日なぞは、猫板の上に銚子が乗つてゐることもあつた。どつちかと云へば、嘉吉よりもなか子の方が仲々酒好きで、時々台所で冷酒をひつかけてゐるのを嘉吉は屡々とがめる事があつたが、「わたしは好きぢやないのよ、好きなのは腹の虫なンだから仕方がないわよ」と云つて、夜なぞ酔つたまぎれに寝床へ這入ると、きまつて、お化けだお化けだと唸つてみせた。――本当にお化けが出るのでもなければ、良心がとがめて、架空のお化けを感じて云ふと云ふのでもない。只酒を飲んで、「あゝいゝ気持ちだわ」と云ふことが、何となく亭主の前では憚ばかられて、口の先では、「お化けだよウ」と呶鳴り、心のうちでは牛の舌のやうな奴をべろんと出していゝ気持に、船底枕をごりごりゆすぶつて嘉吉を気味悪るがらせておくのであつた。嘉吉は嘉吉で、隣の寝床で「お化けだお化けだ」と云はれると、何となく、背中が冷たくなるのであつたが、こいつ、照れ隠くしかも知れぬと、云はせたいだけ云はせて森としてゐる。嘉吉が森としてゐると、なか子は「どうだ参いつたか」と、何時の間にか子供のやうに黙りこむのであつたが、今度はかへつて、亡くなつたお神さんと、毎晩こんな風に寝てゐたのだらうと、急に、背筋がぞくぞくしてしまつて、「起きてゝよ、ねえ」と云つて、嘉吉の枕を引つぱるのであつた。枕を引つぱられると、嘉吉も、そうそう寝た真以は出来ず、××××××で惰勢[#「惰勢」は底本では「楕勢」]に墜ちてしまふのであつたが、不思議に厭になつて来る女ではなかつた。寝物語りに他の男の事を考へてゐる時があるのよ、とまるで娼婦のやうなことを平気で云つたが、死んだ女房のやうに、とぼけて寝てしまふやうなことはしなかつたし、根が、小料理屋へ努めてゐた女なので、あけすけなのでもあらう、世の常の女房のやうに、×××××を時雨のやうに味気ないものだとは云はせないで、嘉吉に対して、まるでもう、野山でたわむれる獣か何かのやうなふるまひなのである。どこから、そのやうな力が湧いて来るのか、日中、嘉吉は襯衣箱や、鬼足袋の上にはたきをあてながら、不図、そんなことを凝つと考へてゐる折があつた。

 なか子が家へ入りこんで二年目位から、店のなかは砂が乾いてしまつたやうに品物が一つならべの状態で、ハンカチも半ダースと同じものを注文されると、ていさいの悪い断りやうをしなければならない程、品物がどうも手薄になつてしまつて、嘉吉の立居ふるまひにどう云ふものか活気がなくなつてゐた。――根からの小商人で、此様な店を出したのも、誰からも助けを受けたわけではなく、云へば、自分一人で造つた身代故、品物が手薄になつた処で誰もとがめる者はなかつたが、それだけに、嘉吉もなか子も、何となく、行末の短じかさを感じるのであつた。
「ねえ、私、もう一度前のお店へ行つて働いてみませうか?」
 何かしら、自分が働きさへすれば、金はすぐ、その日からでも転びこんで来るやうに、何となく昔の水商売をなつかしく考へ、折があつたら、もういちど、女中働きにでも出てみやうかと、風呂屋の帰へりや、八百屋の帰へりなぞに、なか子はそれとなく、お座敷女中入用の広告を見てまはることがあつた。
「莫迦なことを云つちやいけない。自分の年齢を考へて御覧よ。女も二十二三までだよ、そんな処で働くのは‥‥もう二十七八にもなつて、まだ娘みたいな気でゐるのかい?」
 さう云はれると、「どうせ、娘みたいなもンよ、私はまだ子供を生んでないンですもの」と口返答をして、無理には云はないよと云つた太々しさで、一日一日が過ぎるのであつた。――だが、二人が顔をつきあはせると何と云ふこともなくすぐわかればなしになつてしまつて、そのわかれ話が、夜更けまで持ちこしになると、たちまち、明日の日は、どこの家よりも店開きが遅くれてしまつて、小さな商ひを逃がす事が度々であつた。
 なか子が嘉吉と連れ添つて三年目の夏の初めには、たうとう一台ある自転車にまで手をつけ、売り払つてしまふと、店のなかはひねもの屋の陳列場みたいに、がらんとしてしまつて、メリヤスの空箱ばかりが、整然と並べられて、それが、また、妙に、此洋品店の左前を物語つてゐた。
 嘉吉は気の小さい男のくせに、意地つ張りで、なか子を家に入れた頃は、その意地つ張りも持ちこたへてゐたが、なか子のやうな女を背負ひこむと、前の女房ではどうやら持ちこたへてゐた商ひが、たちまち、一文商売のやうにつまらなく思へて来て、不図、相場と云ふものに手を出して見たりした。その相場も沢山な資本がないところから、みすみす悪い合百がふびやく師にひつかゝつて、すつてんてんになつたり、競馬にも凝り出したが、終ひには、新聞に出てゐる高利の金さへも当つてみやうと、眼を皿のやうにして、小さい金融会社を、あつちこつちと探がしてみるのであつた。あせればあせつてゆく程、砂地がずりさがつて行くやうに、何も彼も風にもつてゆかれて家の中ががらんとなつて行く。――店の中へ何も並べるものがなくなると、浅草あたりの化粧品問屋から、安いポマードや水白粉のやうなものを仕入れて来て、一つならべに陳列に出しておいたが、結局そんなことは、嘉吉のみえのやうなもので、家賃も一ヶ年あまりもとゞこほり、しまひには家主のお神さんが店の先きで泣いてしまふほどの詰りやうでどうにも首がまはらなくなつてしまつたのである。

 唇に蜂蜜を塗り、舌の先きで丁寧に嘗めまはしてゐたなか子は思ひ出したやうに立ちあがると、押入れから褞袍を出して嘉吉の裾へかけてやつた。嘉吉は、もう、女からわかればなしを持ちかけられるやうでは、男も下の下だわいと、瞼を閉じたまゝ不吉なことばかりを、あれこれと考へ耽けつてゐた。
「だつて、さつきの話ね、二人ともさばさばしてるンぢやないのさ、こんな店なんて未練なンか持たない方がいゝわ。第一、ハンカチ一つ買ふんだつて、デパートで買ひたがるンですもの、しかも、こんな小さな店なんか、こゝ二三千円がとこ、誰かがくれたつてどうにもたつてゆきやアしませんよね」
「そりやアさうさ。かう、百貨店がによきによき出来たり、少しばかりたつぷりした資本でもつて、マアケツトみたいなものをやられたンぢや、誰だつて、こんな陰気な店なんかふりむいちやくれないよ――時世が変はつてしまつたのだし、こゝ二三千円、誰かくれたとした処で、俺はこんな商売はもう止めだ」
「ぢや、何をするの?」
「何をするつて、先きだつものは金だよ、何をするにしたつて、何とか資本がなくちや、どうにも仕様がないさ‥‥」
「ねえ」
「うん‥‥」

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