「お母さん、百円ばかり頂戴」
「あんな事いつてるツ、昨日も沢山持つて出て、このごろ、お前さん変だよ‥‥」
「上海のことを思へば、何でもないわ」
「こゝは日本ですよ‥‥」
「お金なくちやア、心細くて出掛けられやしないわ」
「大久保で、少し貰つて来るといいンだよ」
政子は黙つて母親を睨んだ。
丁度肉湯が煮えたつて、おあつらへ向きにガスが止まつた。
政子の方は、それでも支度が出来たのか、すつきりした、黄ろい麻のワンピースを着込んで立つたなり、フランネルで爪を磨いてゐる。
「定子ちやん、あとのことはいいわよ、早く支度なさい」
政子が優しい声で云つた。
「五郎君の姉さんはいくつ?」
「十八」
「美人かい?」
「きれいさ」
「そりや素敵だ。名前は何ていふの?」
国宗[#「国宗」は底本では「図宗」]が、七癖の一癖である、戸籍調べを始めてゐる。土産に牛の肝臓を百匁買つて来てくれたので、専造は中野の市場へ、野菜を買ひに行つた。
七輪の上では、鍋のなかに臓物がことこと煮えてゐる。漸くうまい匂ひがしだした。
「上海はいゝところかい?」
「いゝとこさ‥‥」
書架の本は、あらかた売り尽されて、棚の上には薄く埃が溜つてゐる。
国宗は、藤崎専造の中学の先輩で、早稲田の政治経済を出ると、すぐ兵隊に行き、この四月に復員して来て、或る新興の、小さい薬種会社に勤めてゐた。
復員して戻つて来てみると、友人のなかにはすでに戦死をしたものも幾人かあつたし、まだ復員して来ない者、田舎落ちをして、消息もよくは判らない者、それぞれに、敗戦のあとの人事は、まことに荒涼としてゐて、国宗は独力でやつと職をみつけたものの、身辺の淋しさをかこつ相手は、何といつても藤崎専造より他に友人がないのである。
専造も、兵隊にとられたが、福岡へ着くと同時に終戦となり、すぐ東京へ戻つて来た。まだ学生で帝大の英文科に籍を置いてゐる。――故郷の鹿児島の家も焼かれて、いまは仕送りも百円と限定されてゐるので、専造は、家庭教師と、小さい私塾の英語の教師をして糊口をしのいでゐた。
「やア、どうも遅くなつて‥‥」
専造は汗を拭き拭き戻つて来た。みかけによらずの軽いキヤベツ一箇。海軍ナイフで、それを洗ひもせず、ざくざく刻んで鍋へはふりこむ。塩と、貴重なマアガリンを少し入れて、
「あゝこれで、何も懼れるものなしだ」
専造は満足さうに手を拭いた。
「おい、何か、いゝニユースはないか?」
「ないねえ‥‥」
「何か、べらぼうに収入のある途といふものはないかねえ」
「まア、国宗と俺とで、二人組にでもなるかな‥‥」
「二人組か‥‥まア、それも長続きはしないな。――五郎君の、姉さんといふのは美人だつてねえ」
「うん、まだ少女だよ」
「少女はいゝぢやアないか。少女は現代の宝石だよ。世界到るところの少女と少年はいゝさ‥‥」
五郎は国民学校の六年生。一ヶ月前から専造と二人暮しだが、鹿児島にゐるよりはずつと明るい生活だつた。
二年前に、上海で父を亡ひ、すぐ、母と、姉の定子と、妹の峰子と、故郷の鹿児島へ戻つて来たが、過労と肺キシの為に、母は鹿児島へ戻つて間もなく亡くなつてしまつた。
をさない、三人の、財産といふものも、少しはあつたのだらうが、坂田のおばあさんが握つてはなさない。
定子は五郎を連れて、去年の暮れに、無段で東京へ逃げて来た。上海時代の知人である、政子の家を頼つて‥‥。
をさない二人は、捨身の情熱で生れた東京の土地を恋ひしたつて‥‥。
月にうき、雲はなにかぜ
おもふにまかせぬ世なりけり。
ちぎりしたことは夢に似て
はやくも、わかれとなりにけり。
破れ団扇のうらの、達筆な落書。
「君ぢやアないのだらう?」
「なに?」
「この文句さ、失恋だな、どう読んでも‥‥」
「さる、偉いおかたのものさ」
「さる、偉いおかたのものか‥‥」
鍋のものをさらへて、食べたあと、湯を足して、配給の粉をまるめたすゐとん、三人の有機体は海鼠のやうに平和になつた。
煙草は取つておきの、昨日の、大学煙草が三本、一本、一円三十銭だと思へば、仇やおろそかには吸へない。――国宗も珍重して吸ひながら、すぐ七癖の一癖がまた始つた。
「闇で煙草をどんどん売つてゐるくせに、配給がないといふのは、政府の最もずるいやりかただよ。――政府のやつてゐることで、科学性なンて何一つありやアしないぢやないか、神まうでと同じで、御利益の匂はせ主義だし、民衆が興奮すると、すぐ、殺虫剤みたいなものをふりかけるンだからねえ。――何日も主食物を配給しないでおいてさ、街に出てみろ、馬鈴薯なンか、山のやうに売つてるぜ‥‥」
人類は、自然のなかに愛されてゐるはずなのに、まづ、敗戦のあとの庶民には何の余沢もない。割のいゝものが、割のいゝ五十年の暮しをしてゐるだけのことだと、国宗はさかんに蔭弁慶の迷論を飛ばしてゐる。
だが、闇の煙草はなかなかうまい。
五郎は、錻力や、木片をあつめてきて、こつこつと、電気の麺麭焼き箱をつくつてゐる。
「うまく出来るかい」
専造が破れ団扇をつかひながら見物といつた様子。
「これで、コードを少し買つてくれば出来るよ」
「よーし、買つてやらう。しかしふくらし粉は高値だなア」
「姉さんに貰つて来るよ」
「夏川つて家も、姉さんの話によるとけちんぼだつて云つてたよ」
「だつて、ふくらし粉位はあるだらう」
「あゝ、猛烈に甘い奴をたべたいなア。砂糖といふものの存在はどうなつたのかねえ。砂糖といふ奴は‥‥」
国宗が、出窓に腰をかけて、急に甘いものを思ひ出したやうだ。五郎は、硝子瓶にはいつた砂糖の白さを思つた。坂田のおばあさんの家で、大切にしてゐる白砂糖を峰子と二人で盗んでなめた事があつた。舌の上にじゆんと広がつてゆく甘さが忘れられない。ふつくりした柔い薄団にくるまつたやうな、ぽつてりした砂糖の味‥‥。
少しばかり紙に包んでおいて、峰子と二人で寝床でも嘗めた。灯火の下でみると、きらきらした光が硝子の屑のやうでもある。
「何しても、働く場所がないと云ふ事は憂欝だねえ。本郷の方も、当分駄目らしいんで弱つてゐる」
[#「」」は底本では「。」] 専造が如何にも弱つてゐる風に髪の毛をむしつた。
「まさか、路ばたでリユツクを下ろして、大学生が店を出すつてことも出来なからうしねえ」
「うん」
「いつそ、どうだい?学校の方をやめてしまつて、本格的に就職運動をしてみたら‥‥」
「生きるといふ事は、まづ難物だなア」
「死ねといつたつて、すぐ死ねもしないしさ‥‥」
「全くだ。僕達のやうな学生のことなンか、世の中は少しも考へてくれやしない。問題が多すぎると云へば多すぎるンだらうが、もつと何とかねえ、――どうしても、五百円はなくちやア勉強は出来ない」
「うん」
「君は、いつたい、サラリーはどの位貰つてるの?」
「まづ、昔の課長級かな」
「ぢやア、大した事もないな」
「まづそんなもンだ、――食にとぼしい生活といふものは、第一に張りがなくなるし、人生に夢がなくなるね、自分が、若いンだか、年寄りなンだか、さつぱり判らなくなつてしまつたよ。有耶無耶にして十年、このまゝでいつたら乞食の生活と大した変りはないね。生きながら冥府に旅をしてゐるも同じの生活だよ。だから呑気は呑気だ‥‥。人間、栄達、立身出世の野心がなければ、なかなか安気なものだ。毎日鞄をさげて出社して、夕べは茄子やトマトを買つて帰る。本は高いから買はないで、まア、朝の新聞の広告を、たンねんに、読んでゆくうちには眠くなつちまふ。眼が覚めるとまたまた鞄をさげて出社‥‥何のことはない、己れに逆ふものなしさ、氷屋のすだれの如き、さらさらした人生図だよ‥‥」
丁度焼野を越した向うを省線が走つてゐる。
眼の下の狭い空地には唐もろこしの籔。四畳半の二階、それでもこよなき天国だ。赤ちやけて芯のはみ出た畳だけれど、間代にはべらぼうな値段がついてゐる。破れ畳に寝るだけで、本を売りつくして、そのうち、本箱もこの畳に吸収されようとしてゐる一日一日、崩れてゆく部屋のかつかうが専造には妙で口惜しいのだ。貧弱な運命といふものが、眼にはみえないけれども、軒の風鈴のやうに風のまにまに涼やかに鳴つてゐる。
これで、五郎でもゐなければ、底なしに荒さんで行くのかも知れない。
時々、それこそ、天の川のやうな訪問のしかたで、定子が五郎が逢ひに来た。
[#「定子が五郎が逢ひに来た。」はママ]専造はそれが唯一の慰さめだつた。
「このまゝぢやア何とも淋しいねえ‥‥」
「妻君でも貰つたらどうなの?」
「食へないぢやアないか、女の干物は可愛想だよ」
ひどい見幕で国宗が坐りなほつた。
「藤崎さん配給ですよツ」
階下のお神さんが呼んでゐる。
「ものは何です?」
専造がたづねた。
「とろろこぶですつて‥‥」
「はア‥‥」
気が抜けたやうな返事をしたので、国宗も五郎もぷつと吹き出した。とろろこぶは重大であるかといふ問題が起きさうだ。
「僕、行つて来よう」
「またこの間みたいに高値いンぢやあないかな。お神さんに聞いてみて、高値いやうだつたら買はないで来るさ。――何しろ、べらぼうに配給品が高値いンだから変だよ。――君、コンニヤクの粉をもとにした代用粉と云ふものを食つた事あるかね? 一貫目八拾円と云ふンだが、どんなものかねえ‥‥」
「腹もちはいゝンだらうなア‥‥」
五郎は鍋を持つて階下へ降りて行つた。
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