三
日光は、どこにでもあって、石も、木も、庭ぜんたいが幸福そうにあたためられていた。
小さな寒梅の鉢植を、自分で地に根下ろして、岡部美濃守は、手を土だらけにしていた。
背中に跫音を聞いて、ふり返った。
久野が、腰を屈めて近づいて来ていた。一人だと思ったのが、重なっていた十寸見が、うしろに動いて見えた。
そばまで来ないうちに、美濃守の大声だった。
「訊いてまいったか。」
「は。吉良様にはお眼通りかないませんでしたが、御用人をとおしまして――。」
ならんで立ち停まって、久野が答えた。
「天奏衆お宿坊の儀は広光院なそうにござります。」
美濃守は、大きな音を立てて、土を払った。
「広光院か。そんなことは、はじめからわかっておる。普請等手当て、掃除万端は、何といった?」
「は。」十寸見が、かわって、「修繕は、何も要りませんそうで。」
「なに、手入れはいらん?」
「ただ、お庭だけはちょっと掃除しておけばよいと申されました。」
「そうか。」美濃守は、青い空を仰いで考えていたが、「壁の塗りかえは?」
「質ねましたが、まったく不要との御返事でした。」
「障子の貼り替えは?」
「それも、心配いらぬとのことで――。」
「畳がえは、どうだな。」
「今のままで結構といわれましたが――。」
「廊下、厠などは、もとより丹念に磨かずばなるまい。」
「いえ、ざっと掃くだけでよいとの――。」
美濃守は、大きなからだを揺すぶって、上を向いて哄笑った。
「御苦労。いや、それでよくわかった。大儀、大儀――それではな、さっそく手配して、庭から屋内から、すっかり修理するようにいたせ。」
「しかし、」久野が不審気に、「そういう必要がないと吉良様が――。」
「よい。黙って聞け。壁は、なかなか乾かぬから、至急に塗りかえさせろ。」
「ですが、吉良さまがおっしゃるには――。」
「障子の貼りかえ、畳がえ、廊下、厠の掃除、万事念入りに、な。」
久野と十寸見が、不思議そうに、無言の顔を見合わせていると、美濃守が、神経をぴりりとさせて、
「早くせぬか。吉良は吉良、おれにはおれのやり方がある。」
そんなら訊かせになどやらなければいいのに、と、久野と十寸見は、不平だった。
四
広光院の内玄関に、人声が沸いて、吉良の一行が着いた。勅使の宿舎を、下検分に来たのだった。
その天奏の江戸入りの日も、近かった。吉良は、先日岡部から、この宿坊のことを訊きに来たとき、ざっと掃くくらいでよいといってやってあるので、手入れなどは何もできていないであろうから、それを機会に、美濃守をとっちめてやろうと、いくぶん今日をたのしみにしていた。
いうまでもなく、とり換え得るものはすべて新しくして、隅ずみまで細かい注意を払っておくべきなのだった。
今日になって騒いだとて、もうお着の日が迫っている。間に合わぬ――吉良は、完全に美濃守に復讐した気で、久しぶりに晴ればれと、広光院の門を潜った。
が、まず庭に、見事に手が届いているのが、吉良の腑に落ちなかった。そして玄関をはいると、新壁と、あたらしい畳のにおいが、鼻をついた。
「すっかりやってあるわい。」つぶやいた吉良は、裏切られたような別の怒りが、こみ上げてきた。「何からなにまで、法どおりに準備えおったらしいぞ。」
奥から、美濃守の大声が聞こえてきていたが、取次ぎが、吉良の来たことを知らせても、出てくる気配はなかった。
久野と十寸見に案内させて、各部屋を見て廻りながら、吉良は、歯を食いしばっていた。
「これでよい。何も申すことはござらぬ。美濃守は、手前以上に御存じでいらっしゃるから――。」
と、ふと、座敷の隅を見て、
「あそこには屏風が一双ほしいところじゃが――。」
閉めきった隣りの室から、声が聞こえてきた。
「兄上、ここを開けましたる次の部屋に置きます屏風は、狩野法眼永徳あたりが、出ず入らずのところと――。」
そのとおりだった。永徳とは、適ったことをいうやつ――誰だろう、と吉良は、不審に思った。
ぐっとつまって、立ちすくんだように黙っていると、隣室からは、美濃守の声で、
「これ、辰馬の申すように、永徳の屏風をひとつ、つぎの座敷へ入れておくのじゃ。」
係の者が、承知して、頭を下げているようすだった。
五
平茂が、目見得に伴れてきて、ちょっと顔を見た時から、吉良は、気に入ってはいた。
が、何となく、したしみ難いところがあった。といっても、妾奉公を承知で来ている女には違いなかったから、いずれは、先方から、そんな意味でのつとめを申し出るであろう、と、吉良は、そのままにして、迫らないでいるのだった。
夜になって、吉良が寝につく世話をしてしまうと、女は、さっさと自分の部屋へ退って行った。側女として来ているのに、そうすることが当然であるような、女の態度だった。しかし、格別避けているようでもなかった。何でも、はきはき返辞をするし、愛想はいいのだった。
名を訊くと、お糸といった。請人の平茂の話では、親元は、長谷川町のほうで仏具師をしているとのことだった。吉良には、お糸がどんなつもりでいるかわからなかったが、了解しているはずのことをことごとしくいいだすのも業腹だったし、それに、食べようと思えばいつでも食べられるものを、眼のまえに見ながら、いつでも食べられるだけに、そして好きなものだけに、いつまでも食べないでいるのも、老人らしい吉良の趣味に合わないでもなかった。
「変った女だ――。」
こっちからは手出しをすまい。どういう気か、黙って見ていてやろうと吉良は思った。
で、吉良の床をとって帰って行くお糸を、一度も引きとめはしなかった。朝、洗面の手つだいに顔を出すまで、呼びもしなかった。名ばかりの妾のまま、日が経って行っていた。
馬鹿にされているような気がしないでもなかった。
吉良のこころに、女性とのあいだにそういう話をすすめるという、忘れていた、若わかしい興味も起こって、
「は、ははは、一つ、今夜あたり口説いてみるかな――。」
口のなかでつぶやいて、苦笑している時だった。
明るい色が、控えの間のさかいに動いて、そこに何の屈託もなさそうなお糸の顔があった。
通りすぎるほど通っている鼻すじだった。それが、すこし険のある表情にしているのかもしれなかった。
敷居に、三つ指をついていた。
重い髪を、ゆらりと上げかけて、
「あの、立花様から、お使者の方がお見えになりましてございます。夜中ながら、お役柄の儀につきまして、ちょっとお上に伺いたいことがございますとか――お通し申しましょうか。」
お糸の白い額を見ながら、いったい、取次ぎにこの女を雇ったはずではなかった、と、吉良は思った。
じっとお糸に眼を据えて、無言でうなずいていた。
六
玉虫靱負は、立花出雲守の公用人だった。一間に案内されて、待っていた。
正面のふすまが、左右にひらいて、ふところ手の吉良が、せかせかした足どりではいって来た。
腰元らしい女をひとりしたがえているのを、玉虫は、平伏しながら、上眼づかいに見ていた。
「どうもおそく参上いたしまして――。」
「いや、なに、かまいません。」
吉良が、痩せた膝を座蒲団にならべると、女も、そのうしろに引きそうように、すわった。
用談を持ってきた客には、吉良は、気が短かった。
「お役目のことといえば、御主人出雲殿の饗応お添役についてでしょうが、どういう――。」
すぐ、吉良からきりだした。
用人の左右田孫三郎が、縁の障子の根に、ななめに顔を見せていた。
「申し上げます。ただ今、立花様より、家老へ白銀十枚――。」
「これは、これは。そうたびたび、恐縮ですな。」
吉良は、礼のための礼のように、冷淡をよそおっても、出雲守へ好意を示したいこころが、声に滲んでいた。
「お役上、何か御不審でも――。」
「は。御饗応にさし上げますお料理のことでございます。」
「その料理を――。」
「当日は、清らかなお席、生臭を断って精進精物でございましょうか。」
「いや、精物というは、潔きものという意です。堂上方が、初春慶賀のため御下向なさる。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は必ず御精進はいたされません。魚類は結構、と申すより、魚類でなければなりません。」
「ありがとうございました。じつは、お精進ものであると申すものと、いや、魚類だという者と、二派に別れまして――そのため、たしかなことを承りに上りましたようなわけで。」
吉良は、権威者らしい微笑を漂わせていた。
「精進だなどと、どなたがそんなことをいったかしらんが、断じて精進ではない。今申したように、精進日でも、魚類です。」
吉良の背ろに控えているお糸が、玉虫と同じように、終始緊張して聴いていた。
礼を述べて、起とうとする玉虫へ、吉良が、いった。
「元来このお役は、難しいといえばいうようなものの、先例もあり、いくらお手前でも、万事は上野が引き受けます。お指図をいたしますから、何なりとお訊き下すって、大丈夫安心いたされまするよう。一度ならず丁寧な御挨拶に預かり、かえって痛みいります。出雲殿へ、よろしく、申し伝えられたい。」
お糸は、何か胸中にうなずいている態で、玉虫を送りに、つづいた。
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