三
「いや、手前ども主人も、昨年、吉良殿には泣かされました。」
多湖外記は、亀井能登守の江戸家老だった。べっこうぶちの大眼鏡を額へ押し上げて、微笑の漂っている視線を、岡部辰馬のうえに据えた。
「今年は、お兄上岡部様が、御本役で、お添役は?」
「立花殿です。」
と、辰馬は、夜おそくこうして亀井の邸を訪ねて来た要むきに、早く触れたかった。
外記も、この客の要件をいろいろ推測しながら、
「立花出雲守さま――添役は、まあ、なんですが、本役となると、お察しします。」
辰馬は、態わざ頼みにきたことを、どう切り出していいかわからなくなった。で、黙っていると、外記がひとりでつづけて、
「気骨が折れて、出金が多い。それで、無事勤めたところで、戦場一番槍ほどの功にはならんのですから、一生に一度の、まず名誉かもしらんが、正直、ありがたくありませんな。ところで、申すまでもなく、そこらに抜かりはありますまいが、吉良さまのほうへ、いくらかお遣わしになった――。」
辰馬は、待っていた話題が来たので、四角くなった。
「兄に、何か考えがあるとみえて、吉良への進物は断じてならぬと申しますので、困っております。」
外記は、ぎょっとしたように、
「岡部様らしい。が、それはいかん。それは、危ない。」
「それにつきまして、じつは――。」
「最初の贈り額がたりませんでな。手前の主人も、さんざ吉良様にいじめ抜かれ、すんでのことで刃傷におよぶところ、手前が、遅ればせに、例の天瓜冬の届け直しをやって、はははは――。」
「おそれいりますが、」辰馬は、やっと用を口に出した。
「昨年の勅使お日取りが、お手元にありましたら、ちょっと借覧願いたいのですが――。」
「お易い御用。ありますはずです。」
外記は、そんなことだろうと思っていたといったように、せかせかと鈴を振って、用人を呼んだ。
四
野武士めいた、肩幅の広い美濃守のうしろ姿を、吉良が、憎悪をこめて凝視めている時、美濃守が、ふり返った。
眼が合うと、両方が立ち停まって、しげしげと眺めあった。それは、たがいに、珍奇きわまる生物を発見したとでもいうような、やゆと敵意の交錯した、視線の戦争だった。
吉良を見上げ見下ろしながら、美濃守が、厚い胸を張って、近づいて来た。
城の廊下で、いそがしく往き交う役人や坊主の影が、壁に明るかった。
「吉良殿、自分は、勅使取持役は不調法です、よろしく。」
吉良は、傍を向いて、小声に、いわでものことをいった。
「不調法なものを、なぜお受けなされた。」
美濃守が、聞き咎めた。
「これは、異なことを! 上野介殿はそのほうは専門家であるから、万事お手前の指図を仰ぐように、という、土屋相模守殿のお言葉添えがあったればこそ、お引受けしたものを――それを、とやかくいわるるなら、拙者は、これより相模守殿に申達して――。」
吉良は、取り合わずに、さっさと歩き出していた。美濃守の声が、追っかけた。
「お出迎えは、どこまで出るのですか。」
吉良を振り向かせるまでに、美濃守は、同じ問を根気よく、三、四度くり返した。
「お! 美濃守じゃったな。先日はまた、結構な扇箱を――お出迎えぐらいのことを御存じないとは、御冗談でしょう。」
「知っておれば訊きませぬ。知らぬから訊く。品川までかな?」
「品川にはおよびません。芝御霊屋の前あたりまで出られたら、よろしかろう。」
「しからば、」美濃守は、顔いっぱいに笑って、「品川までお出迎えいたしましょう。どうも自分は、吉良殿の逆を往くことが好きでな。」
ほんとうは、もちろん品川まで迎えに出なければならないのだった。
「御随意に。」
さっと赤くなった吉良は、すぐ蒼く、こまかくふるえて、美濃守に背中を見せた。
が、足をゆるめて、肩越しに、
「勅使院使のお日取り――御存じのうてはかないませぬぞ。」
美濃守は、首を傾げた。
「知りませんな。が、これだけのことは存じておる――勅使院使公家参向当日、お使い御老中、高家さしそえこれをつかわさる。御対顔につき、登城。摂家宮、門跡方、その他使者楽人、三職人御礼。溜詰御譜代衆、お役人出仕。御対顔済み、下され物あり。御饗応前、お能見物の儀、御三家、両番頭の内。御返答につき、公家衆地下一統出仕。おいとま仰せ出ださる。一同拝領物。発駕之日、御馳走大名お届け登城――。」
おや! と思いながら、
「もうよろしい。お日取りというのは、それです。」
「何だ、これしきのことですか。」
吉良は、むっとした。しかし、殿中だった。じっと自分を抑えて、美濃守の嘲笑をあとに、足を早めた。
身を変えて
一
「御覧になったでしょうか。」
糸重は、白い顔を上げて、良人を見た。
床柱にもたれて、辰馬は、眼をつぶっていた。しばらく答えなかった。
辰馬の住いに、水のような暮色が、忍び寄っていた。室内は、灯がほしかった。
「見たろう。」辰馬がいった。「机の上に置いてきたから――。」
「紙にお書きになって――。」
「うむ。多湖殿に頼んで、写さしてもらったのだ。気持ちよく見せてくれたよ。お日取りなどは、毎年変るものではないから、兄貴が、あれさえ記憶えておれば、だいたい間違いはあるまい。」
夫婦はふたりいっしょにほっと安心の息をもらした。
糸重が、笑った。
「ほんとに、昨年の御本役、亀井様にお尋ねとは、思いつきでございました。」
「兄貴がああいう性質だから、傍がやきもきして、手落ちのないように盛り立てねばならぬ。お日取りという第一の難関は、これで過ぎたが――いや、賄賂さえつかわせば、何のことはないんだがなあ。」
「兄上様に知れずに、こっそり――。」
「それはできぬ。吉良の態度で、兄にすぐ知れるよ。」
糸重は、黙り込んだ。
腕を組み直して、辰馬が、妻の顔を覗きこむように、
「亀井殿に訊くことも、そうたびたびはならぬ。また、昨年と今年で、じっさい変ることもあるに相違ない。土台、兄貴の頑固ときたら、何も知らんくせに、自分一個の量見で押し通すなどと、おれにさえ聴こうとはせぬ。書き物にして、そっと机のうえに残しておくと、人のおらぬのを見すまして一生懸命に読む始末だ。兄貴の面白いところだが、今度は困ったよ。あれで、短気だから、吉良の性悪に勘忍しきれずに、大事にならねばよいが――。」
糸重が、しんみりと、
「おあにい様のお身の上――ひいては、お家が第一でございますから。」
「ついては、おれに策がないでもない。お前にも、ちょっと働いてもらわねばならんかもしれぬが。」
辰馬の声に、きっとしたものが聞かれて、糸重は、身を固くした。
「はい、何なりと――。」
「平茂のう、あの、担ぎ小間物の――。」
と私語になって、辰馬がにじり寄って来ていた。
二
駿河町の裏通りの自宅を出た平野屋茂吉は、高価な商売物のはいった桐箱を、風呂敷包にして提げて、片手に傘をさして歩いていた。
鎌倉河岸に、三月の雪が降って、茶いろのぬかるみに白い斑点があった。
「おい、平茂じゃあねえか。」
辰馬は、御家人くずれといった、やくざな服装でそこらをぶらつきながら、平茂を張っていたのだった。
声をかけて、傘の下へはいって行った。
「どこへ行く。嫌なものが、落ちたぜ。」
「おや、これは、岡部の若殿様でしたか。」
きょとんとしたが、顔中に愛嬌を見せた平茂は、
「そのお拵えは――ははあ、雪の日に、尾羽打ち枯らした御浪人、刀をさした案山子という御趣向で、なるほどな、おそれいりました。おそれいりました。」
「胡麻をするなよ。好きで、こんな恰好ができるか。」
並んで、歩き出した。
「しかし、御無沙汰つづきで――お見それ申しやしたよ。」
だしぬけに、辰馬がいった。
「兄貴が、かまってくれぬ。恥かしながら、このざまだ――。」
「へ?」
平茂が訊き返したが、辰馬は、ひとり合点でしゃべりつづけた。
「不如意だらけ――どうにもこうにもやりきれんのだ。一時、女房を預けたいと思うのだが――。」
「糸重様を?」平茂は、歩をとめて、狡猾そうに辰馬を見た。「御冗談で。」
「背に腹は換えられぬ。本人も承知だ。妾奉公でも何でも、といっておる。」
二人は、どっちからともなく、降雪の中に、膝を包んでしゃがんでいた。
声をひそめて、辰馬が、
「貴様、鍛冶橋のおやじにひとり、頼まれてるというじゃねえか。」
「吉良様ですか。よく御存じで。」
「地獄耳よ。早えやな。きまったのか、そっちのほうは。」
「いえ、まだお見せしたわけではなし、決まったというわけではございませんが――ほんとですか、殿様。」
「うそでこんなことがいえるか。ぜひ糸重を吉良へ世話してくれ。頼む。勿論、五万三千石の弟の奥では困るから、そこはそれ、そちのいつもの伝で、要領よく、魚屋なり灰買いなり、仮親に立てて――。」
「糸重さまを、ね。糸重様なら、申し分ござんせんが、御身分を隠して、と――。」
平茂の眼に、異様な輝きが来た。
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