綿流し独り判断
一
が、すぐ門のそとに立ちどまって、往来の左右へ眼をやった。
年の瀬を控えて、通行人の跫音のあわただしい街上だ。
「東西南北――はて、どっちへ行ったものかな?」
笑いをふくんだ眼で、狂太郎はそうひとり言をいって首を傾げた。
鍔擦れで、着物の左の脇腹に、大きな穴があいて、綿がはみ出ている。
狂太郎は、その綿を、二つまみ三摘み

り取って、ふっと吹いてみた。
あるかなしの風。綿は、その風に乗って、白い蛾のように
空に流れた。
本所二つ目の橋のほうへ飛んだ。
「東か――。」ぶらりと歩き出した。「そうだ。面白い。ひとつ、東海道筋へ
出張ってやれ。」
二
海が見える。灰いろの海だ。舟が出ている。道は、ちょっと登りになって、天狗の面を背負った六部がひとり、町人ていの旅ごしらえが二人、せっせといそぎ足に、ひだり手には、杉、
欅の樹を挾んで、草屋根の
檐に赤い提灯をならべ、黒ずんだ格子をつらねた芳屋、樽や、玉川などの
旅籠に、ずっこけ帯の姐さんたちが、習慣的な声で、
「お泊りさんは、こちらへ――まだ程ヶ谷までは一里九丁ござります。」
「仲屋でございます。お休みなすっていらっしゃいまし。お茶なと召しあがっていらっしゃいまし。おとまりは、ただいまちょうどお風呂が口あきでございます。」
神奈川の宿だ。その中ほどに、掛け
行燈の下に大山講中、月島講中、百味講、神田講中、京橋講中、太子講――ずらりと札の下がったわき本陣、佐原屋は今日、混んでいた。その、裏二階の一室に、障子をとおして、しずかな声がする。
「いや、江戸に
公事用がありましてな、これは、訴訟ごとに慣れませんので、伯父のわたくしが、後見役に出府することになりましたわけで、はい。」
といっている、四十四、五のでっぷりした、温厚な人物は、近江の豪農、垣見吾平という触れ込みで泊まりこんでいる大石
内蔵助である。
かれの甥、垣見左内と変称して、そばでにこにこしている少年は、
主税だ。ゆうべこの宿の風呂場で近づきになったというカムフラアジで、いま
此室へ茶菓を運ばせて話しに来ている老人は、土佐の茶道と偽っている同志中の元老、小野寺十内だった。
「変りましたでございましょうな、江戸も。」
「さ、手まえは、しばらく振りの、まったく、三年目の江戸でござりましてな。初下りも同然で――。」
「こちらは、はじめて――。」
「甥はもう、
臍の緒切っての長旅でござりまして、はい。」
廊下を通る人影を意識して、聞こえよがしの高ばなしだ。
この男売り物
一
「ほ! 何だ、ありゃあ。」
佐原屋の二階の、おもて
欄干に腰かけていた武林唯七が、感心したような大きな声を上げた。
「おい、ちょっと来て見ろ。」
この数カ月武林は、大阪にかくれていた原惣右衛門、京都に潜んでいた片岡源吾、それから、江戸の堀部安兵衛らと、ひそかに、あちこち往来して、一挙の時期を早める硬論を唱道してきたのだ。それが、こうして
纏まって、かれは、すっかり町家の手代風に変装し、いま江戸へ上る途中なのだった。
同じ商人ていにつくった
間新六は、部屋のまん中に、仰むけに寝そべっていたが、
「
美い女でもとおるのか。」
「いや、驚いた。なんでもいい。来てみろ早く。」
「騒々しいやつじゃな。」
と、起って来た。
唯七は、笑いながら、しきりに
眼下の往還を指さしている。
男が通っているのである。浪人体の武士である。その背中に、「この男売物」と大きく書いた半紙が、貼ってあるのだ。
白い紙に、墨黒ぐろと――いかにも変な文句。が、何度見ても「この男売物」と読める。
男は、その「売りもの」貼り紙を背なかにしょって、大威張りで歩いているのである。
新六も、いっしょに笑い出して、
「何だい、あいつぁ。
狂人か。」
といった、その、気ちがいかというのが、ちょっと声が高かった。ちょうど真下をとおりかかっていた男に聞えて、かれは、立ち停まって振り仰いだ。
大たぶさに
結り上げ、
赫ぐろい、酒やけのした顔で、長身の――清水狂太郎なのだ。
かれは、何がな人眼をひく方策を編み出し、それによって、この街道すじの旅人のあいだに、なにか口を利く機会をつくろうと、いろいろ考えた末、この貼紙を思いついて、江戸から来るこの一つ手まえの宿、川崎の立場茶屋で、半紙を貰い、墨を借りて、これを書いたのだった。
そして、飯粒で、その紙看板を紋つきの背に貼りつけて、往き来の人の驚愕と、
憫笑に見迎え、見送られながら、こうしてこの神奈川まで来かかったところだった。
眼のまえの、佐原屋とある宿屋の二階をふり仰ぐと、町人の男がふたり、欄干から見おろしてにやにや笑っているので、狂太郎は、待ちかまえていたように、ぐっと
瞳を据えて睨みあげた。
「こら、てめえら、笑ったな。何がおかしい! 貴様ら素町人に、吾輩の真意がわかるか。禄を失って路頭に迷えばこそ、恥を忍び、節を屈して、かくは自分を売りに出したのだ。何とかして食おうとする人間の真剣な努力が、何でそんなにおかしいのだ、ううん?」
「お侍さん、何ぼお困りでも、あんまり
酔狂が過ぎましょうぜ。」
急に町人めかした口調で、そういい出した唯七の袖を、新六は、懸命に引いて、
「止せ。相手になるな。変に文句をつけられると、うるさいから。」
下では、狂太郎が、大声に、
「この男売りものてえのを笑う以上、お前たちに買う力があるのであろう。よし。そんなら一つ、おれをこのまま、買ってもらうことにする。」
許せ――と、聞こえて、その、あぶれ者の浪人は、もう、佐原屋の土間口へ踏みこんだ様子だ。
二
垣見吾平、左内の大石父子と、小野寺十内は、初対面らしくよそおって、それぞれ身分を明かしなどしてから、道中の話しや、これから下って行く江戸の噂や、わざと大声に、雑談に耽っていた。
すこし離れた、はしご段のとっつきの小暗い一間から、
「だからよ、いわねえこっちゃあねえ。そう毎晩、毎晩、首根っこの白い
姐やと酒じゃあ、帰りの五十三次が十次も来ねえうちに、
素寒貧になるのあ知れきってるって――やい、すると手めえは、何と
吐かしゃがった。行き大名のけえり乞食が、江戸っ児の相場だ? べらぼうめ、これから品川へへえるまで、水だけで歩けるけえ。金魚じゃあるめえし――。」
「まあ、兄い。そうぽんぽんいうなってことよ。勘弁してくんな。その代り、おいらが明日から、おまはんの振り分けも
担いで歩かあ。坊主持ちじゃあねえ。ずっと持ちだぜ。そんなら、文句ああるめえ。」
と、さかんに高声を洩らしている、お伊勢詣りの帰りと見える熊公、がらっ八といった二人伴れが、いかにもそれらしい拵えの大高源吾と、
赤垣源蔵なのだった。
と思うと、中庭をへだてた向うの部屋では、
「はい。
拙などの医道のほうも、お武家さまの武者修業と同じことで、こうして諸国を遍歴いたしまして、変った脈をとらせていただきますのが、これが、何よりの開発でござりましてな――。」
医者に化けた村松喜平である。
なるほど、武者修業めいたいでたちの菅谷半之丞が、となりの部屋から話しに来て、何かとうまく相槌を打っている。
そのほか、富森助右衛門、真瀬久太夫、岡島八十右衛門など、同志の人々は、こうして町人、郷士、医師と、思い思いに身をやつして同勢二十一名、きょうこの神奈川の佐原屋に泊まっているのだ。
たがいに未知を装って、ただ同じ方角へ向いて行く一連の旅人が、一時この旅籠に落ちあっただけ、という
態なのである。今日会って、あした別れる。何の関係もない他人どうし。そう見せている。廊下や湯殿で顔が合ってもみな、何らの関心も示さず、知らんふりをしているのだった。
関西に散らばって待機中だった同志が、前後して下ってきたのを、江戸に暗躍していた人々が途中まで迎いに出て、この二、三日、あとになり前になり、警戒にこころを砕きながら三々五々、やっと、江戸へ一
伸しのここまで来たところだった――。
「この部屋だなっ!」
おもて二階に、大声が湧いて「この男売り物」の浪人が、がらりと、武林唯七と間新六の室の障子を、引きあけた。
口笛
一
間が、いきなり、狂太郎の足もとに、ぺたりと手をついて、
「お侍さま、このとおり、お詫びを――。」
と、かれは、緊張して、顔いろが変っていた。大きな計画のまえに、いまこんなことで騒ぎになり、人眼をひいたりしてはならない。問題を起すようなことがあっては、同志に済まない。それに相手は、どんな人物であるかもわからないのだから――。
「とんでもない失礼なことを申しまして――。」
が、狂太郎は、黙ってはいってきて、その新六のそばを、畳を踏み鳴らしてとおり過ぎると、まだ窓ぎわに立ってにやにやしていた武林の胸を、とんと突いた。
「貴様か。いま何かいって笑ったのは。」
気の短い武林である。突っ立ったまま、むっとした顔で、なにかいっそう事態を悪くするようなことをいいそうな顔なので、新六は、はらはらした。
膝でにじり寄って、とり縋るように、
「いえ。つい、わたくしめが、お気にさわるようなことを申しましたので――。」
「黙っておれ。」
狂太郎は、武林唯七の襟をつかんで、ぐいと締め上げた。
「こいつ、騒がんな。体の構え、眼の配りが、どうも尋常でないぞ。」
それでも唯七は、狂太郎をにらんで、ぬうっと立ちはだかっている。
新六は、あわてた。
「これ、わしにばかり謝まらせておらんで、お前もすわって――いえ、お侍さま、これはすこし、変り者でございまして、気はしごくよろしいのでございますが。」
そして必死に、唯七へ眼くばせした。
すると狂太郎は、びっくりするほど大きな声で笑って、
「変り者か。うふふふ、変りものにゃあ違えねえ。武士が、町人の
服装をしておるのだからな。」
武林と、ちらと素早い視線を交した新六が、
「滅相もないことを! わたくしどもは、正直正銘、生れながらの町人なんで。下谷の者でございます、へえ。商用で、ちょっと
上方のほうへまいっておりましたのが――。」
狂太郎は、抜け上った唯七の額へ眼をやって、切り落とすようにいった。
「
面擦れ――こら、この面ずれが、何よりの証拠だ。」
唯七の指が、襟元を握っている狂太郎の手へ、しずかに掛かった。
「売り物なら、買おうか。」
「この男は売りもの――だが、止めた。もう、貴様らにゃあ売らねえ。」
「売る喧嘩なら、買おうかというのだ。」
新六が、叫ぶようにいって割りこんだ。
「お前は、まあ、相手も見ずに、お侍さんに何をいうのだ――。」
「ふん。」狂太郎は、小鼻をうごめかして、「この手、ほら、この、おれの手を取る手が――おめえ、
柔術は、相当やるのう。」
もう、止むを得ないと見て、新六は、押入れのほうへ行った。そこに、武林のと二本、道中差が置いてあるのだ。
変な侍が押し上ったので、心配してついてきた宿の番頭や女中たちのおどろいた顔が、廊下からのぞいていた。かれらは、武林と狂太郎の
白眼みあいと、そして、新六が刀のあるほうへ行ったので、ぱっと逃げ散った。
二
しかし、どっちも刀を抜きはしなかった。間もなく、佐原屋の亭主と、同宿の長老というわけで、垣見吾平、小野寺十内、村松喜平などがその部屋へやって来て、二人のために、狂太郎のまえに頭を
低げた。
狂太郎は、長いあいだ一同の顔を見まわしていたが、
「うむ。そうか。いや、大事の前の小事だからな。」
と
欠伸まじりにいって、どんどん梯子段を下り、佐原屋を出て行った。
「斬ったほうがいい。」
唯七が、刀を引っ提げて起とうとするのを、垣見吾平がとめたとき、下の往来から、小鳥の啼くような不思議な声が聞えて、それがだんだん遠ざかって行った。狂太郎は、口笛を吹きながら、立ち去って行くのだった。口笛というものを、この人たちは、はじめて聞いたのだ。
吉良の屋敷内の長屋へ帰ってくると、狂太郎は弟の一角に、
「馬鹿あ見たよ。赤穂の浪士が江戸へはいって来る模様など、すこしもねえぞ。心配するな。それより、こんなに働いてまいったのだから、どうだ、一升買え、いいだろう一升――。」
三
この清水狂太郎のことは、いくら調べてみても、どうも
審かでない。
ただ、日本橋石町三丁目の小山屋弥兵衛方に落ちついた大石の一味は、あとでは、この旅館の裏に借屋住いをして、あの潜行運動を進めたのだったが、吉良のスパイが、その付近に出没するようになった。
するとそのスパイがまた、何者にとも知れず、よく斬り殺されたものだが、そのときは必ず、口笛の音が聞えたそうである。
そして狂太郎は、相変らず、吉良邸の弟の部屋で、酒に酔って終日寝ていたと某書にあるから、十二月十四日の夜も、やはりそこにいたのであろう。するときっと、かれも、一角や小林平八郎、柳生流の使い手だった和久半太夫、新貝弥七郎、天野貞之丞、古留源八郎などと一しょに、相当眼ざましく働いて、斬り死にしたものに相違ない。はっきりした記録が残っていないからわからないが、奥田孫太夫が庭で相手取った一人に、青竹の先に百目蝋燭をつけたのを、寝巻のえり頸へさして、
酔歩蹣跚と立ち向った大柄な武士があって、かなり腕の利く男だったという。これが狂太郎だったかもしれない。どうにもしようのないほど酔っていたというから、孫太夫と渡り合って別れてから、たやすく誰かに斬り伏せられたことだろう。
翌朝、吉良の首を槍の柄に結んで、
回向院無縁寺の門前に勢揃いした一党が、高輪泉岳寺への途中、廻りみちをして永代橋を渡っているとき、行列のなかの武林唯七が、
「おい、
間!」と、ふり返って、雪のなかに立ちどまった。「口笛が聞える――。」
武林とおなじに、返り血で全身黒くなっている間新六も、歩をとめた。
「なに、口笛が――?」
「うむ、聞える。耳をすまして――ほら! どこからともなく、口笛が――ほら!」