と彼は大仰に眉をひそめた。
「どうじゃ、粟田口であろう。」
甚吾が詰め寄る。
「その切込みは――。」
「これは切込みではござらぬ。」
あんまりきっぱりした自分の言葉に、十郎兵衛は自分で驚いた。が、それと同時に、すっかり度胸が据わって、
「これはこれ、百足じゃ。百足を切込みと見誤るなぞ、寺中、常の貴公らしゅうもない。外れつづきに、なんだなすこうし逆上せかげんじゃな。笑止はっはっはっはっ。」
笑ってしまってから、これはすこし過ぎたかな、と思ったが、もう遅い。怒ると吃る癖のある甚吾は、
「な、な、な、な――。」
と首を振り立てた。そこを、
「青江じゃ。為次じゃこれは。」
と十郎兵衛は会主を見た。すると、不思議なことには、会主がにっこり頷首いたものだ。
また、十郎兵衛の半あてずっぽうが的中したのである。
今日はみょうな日だな――十郎兵衛は思った。そして、よせばいいのに、かれ一流の皮肉に見える微笑みとともに、
「寺中、もはや兜を脱いだがよかろう。」
と言いかけると、
「ぶ、ぶ、ぶ。」
無礼者とか何とか言うつもりだったんだろう、甚吾が口早に吃った。それがおかしかったので、父親の葬儀で読経中に吹き出したほどの十郎兵衛だから、思わずぷっと噴飯してわっはっはと笑おうとした。
甚吾の手がむずと面前の茶碗を掴んだ。一同ちょっと膝を立てた。十郎兵衛は笑いを引っこめた。
「貴公、それを俺に、投げつける気か。」
すると甚吾は真赫になってそれから真青になって、顫える手で茶碗をとって、冷えた茶を飲みほした。それきり俯向いていた。
会の帰り、甚吾左衛門は十郎兵衛にこっそりはたしあいを申し込んだ。
理由は、人なかにて雑言したこと。
期日。今夜四つ半。
場所。高輪光妙寺の墓地。
二人は顔を見合って大笑いした。そしたらさっぱりした。もうすこしもこだわってはいなかった。
三
花時の天気は変りやすい。午後から怪ぶまれていた空から、夕ぐれとともにぽつりと落ちて、四刻には音もなく一面に煙るお江戸の春雨であった。
討合いのいきさつから、もしもわが亡きのちの処理、国おもての妻子の身の振り方なぞを幾通かの書面に細ごまとしたためて、十郎兵衛が部屋で一服しているところへ、刻限でござる、そろそろ出かけようではないかと言って、甚吾左衛門が迎えに来た。応と立ち出ると、そとは雨だ。十郎兵衛、傘がない。
「相合傘と行こう。」
「よかろう。」
というので、長身瘠躯に短身矮躯、ひとしく無骨者の両人、一本の蛇の目を両方から挾んで、片袖ずつ濡らして屋敷を出た。
いとど人のこころの落ちつく夜、それに絹糸のような雨が降っているのだ。道行めいた気分がすっかり二人をしんみりさせて、どっちからともなく、気軽に、歩きながらの会話になった。
「降るな。」
「うん。陽気のかわり目だからな。」
「これでずんと暑くなるだろう。」
「暑くなるだろう。」
また黙って二、三歩往く。夜更けだから店の灯りもなく足もとがはっきりしない。
「おい、水たまりがあるぞ。」
「うん。ここはどこだ。」
「芝口だ。」
「芝口か。」
「うん。」
沈黙におちる。風が出てきた。
「貴公、濡れはせぬか。傘をこう――。」
「いやいや。これでよい。それより貴公こそ濡れはせぬか。」
「なんの。」
「よく降るな。」
「よく降るな。」
「ここらの景色――どうだ、城下はずれに似ておるではないか。暗くてよくは見えぬが。」
「さよう。そういえばそうだ。あの、何とかいう稲荷のある――。」
「ぼた餅稲荷であろう。」
「そうそうぼた餅稲荷の森から小川にそうて鼓ヶ原へ抜けようとするあたり、あの辺は何と言ったけな。青柳町ではなし――。」
「青柳町は下で、甲子神社のあるところじゃ。」
「すると、あそこは――。」
「――――」
「――――」
「青、――。」
「青物町!」
「八百屋町!」
「そうそう、八百屋町、八百屋町。ずいぶん変ったろうな、あのへんも。」
「久しく行かんからな。」
「久しく行かんからな。」
「お! 甲子神社と言えば、貴公、おぼえているか。」
「何を。」
「あそこのそら、そら、あの娘――。」
「娘?」
「うん。顔の丸い、眼の細い、よく泣きおった――。」
「お留か。」
「おう! それそれ、お留坊、神官の娘でな。」
「大きゅうなったろうなあ。」
「嫁に行って子まであるそうじゃ。」
「え! もうそんな年齢か。」
「そりゃそうだろう、あのころ稚児髷だったからなあ――はっはっは。」
「何じゃ、不意に笑い出して。」
「はっはっはっは、いや、思い出したぞ。いつかそらあそこの庭に柿の木があって――。」
「うんうん、あった、あった! 大きな実が成ったな。よく貴公と盗りに行ったではないか。」
「いつか貴公が、ははははは、木から落ちて、ははははは。」
「そうそう、ははは、泣いたな、あの時は。」
「泣いた泣いた。それで俺が、武士の子は痛くとも泣くものではないと言うたら、貴公、何と答えたか、これは記憶えていまいな。」
「なんと答えた?」
「痛うて泣くんではない。せっかくいだ柿を潰してしまうが惜しいというて、また泣いた。はっはっはっは。」
「そんなことを言うたか。いや、これは! はっはっは。してみると、そのころから強情だったとみえるな。」
「三つ児のたましい――。」
「百までもか、はははは。」
「はははは、御同様じゃ。」
口をつぐんで、しばらく道を拾った。
「しかし、あの時、貴公の泣声に驚いて飛び出して来たお留が、また柿をとったあ、と言うて泣きだしたが――。」
「あれには驚いたな。」
「あのころが眼に見えるようだ。」
「まるで昨日――。」
「早いものじゃな。」
「うん。」
幼馴染み、はなしは尽きない。が、高輪筋へはいって約束の場所が近づくにつれ、二人ともみょうに重苦しくなって黙りこんだ。
どっちかが一言いい出しさえすれば、それでことなくすんで、雨の夜の散歩だけで屋敷へ帰れそうに思われる。
「おい、寺中、はたしあいもいいがつまらんではないか。」
と言うつもりで、
「おい寺中。」
と口に出すと、
「何だ。」
という相手の声のなかに、許しておけない敵意を感じて、だまりこんでしまう。すると他方が、おなじ心もちから、
「おい、安斎。」
と言いかけるが、やっぱり、
「何だ。」
という相手の声で、たまらなく不愉快にされる。で、いらいらしているうちに、二人の息づかいがたがいの耳の近く荒くなって、足がだんだん早くなって、甚吾と十郎兵衛、雨のなかを光妙寺の墓地へ駈けこんだ。こうなってはもう仕方がない。
ぼうんと傘を捨てる。同時に、きらり、きらりと抜きつれた。手腕は互角。厄介な勝負だ。
「やあ!」
「やあ!」
「どこだ。」
「ここだ、ここだ。」
とにかく、おそろしく念の入った話しだが二人は休んでは斬り合い、斬り合っては休んだものとみえる。一晩じゅう順々に拇指や鼻の先や横っ腹を、かわるがわる落したり削いだり抉ったりし合ったのち、翌朝人々が二人を発見した時には、甚吾は十郎兵衛の着物の布で繃帯してもらって、吃ったまんまの顔、十郎兵衛は十郎兵衛で例の薄笑いを浮かべたままで、二人じつに仲よく死んでいた。
しかし、勝負はあったのである。
地上の甚吾の手が刀から離れていたに反し、十郎兵衛の指は五分ほど柄にかかっていたというので、尾張藩の侍たちは嬉々として、またしても安斎十郎兵衛嘉兼のほうへ軍配をあげたものだ。
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