四
つぎの朝、蒼い顔で起き出たお久美は、庄吉がおもての店へ出て行ったあと、きのうのように、自分とじぶんに対坐するような心もちで、茶の間にすわった。
かの女は、庄吉のまえに、拭い切れない罪を犯したような気がして、じぶんが、自分のからだが、不潔なものに思えてならなかった。庄吉も、なんとなくあの夢を感づいて、ゆうべから、急に夫婦の間に溝ができたのではなかろうか。不安と憂鬱が、鞭のようにかの女を打ちのめしていた。自分の識らないうちに、恥ずべき大きな秘密を背負わされているといった感じだった。お久美は、その不当さに腹が立った。同時に夢の美男の顔が、身も世もなく慕わしいものとして、ふっとあたまの隅に萌したりもするのだった。かの女は、自分の異常な恐怖観念以外、何も怖れる理由のないことをおそれているのだと、じぶんに言い聞かせた。あの顔の現れたのは、昨夜がはじめてだったが、あれは、こどもの時分から、あらわれようとして現れないで来た顔だった。見ないでも、よく知っている顔なような気がした。よしこれから何度出て来ようとも、それがこのじぶんの実生活のうえに何の関係があるのだと考えてみた。かの女に、みだらないたずら心のないことは、かの女自身が一番よく知っているのだった。それさえはっきりしていれば、何も怖がることはないのだった。あとは夢の見識らぬ男が来て、かの女の感覚を弄ぶなどと、それは、かの女の知ったことではないはずだった。良人の愛に守られ、富に護られ、子供の愛に生きているお久美だった。少女のころの夢が返ってきたからといって、それが何の重大さを意味し得ようとそうじぶんを叱る一方、かの女は、気を詰めてゆうべの男を想い出して、かれによってそそられた情感の甘さを、くり返しくりかえし味わうように、こころに転がしていた。夢は、お久美にとって、もう夢ではなかった。第二の、そして、より現実な現実だった。
「こどもの時も、夢に、あの顔を見たことはなかったかしら。何だか、見たおぼえがあるような気もする。お久美ちゃんがもっと大きくなったら呼びに行く、そういった声も、聞いたことがあったっけ。」
十年のあいだに、山と海の模様に、自然の変化が見られた。男の顔も、老けたように思われた。そして、自分は、妻となり、母となり、立派におとなになったので、約束どおり迎えに来たのだろうか。いくら考えても、同じことだった。考えるということは、その望ましくない夢の印象をいっそう深くして、くる夜も来る夜もそれに悩まされなければならないという恐れを抱くだけだった。
からりと、煙管を捨てて、お久美は、起ち上った。
手を叩いた。
「兼や、あの、ちょっと出かけますからね。」
戸外は、日光が白かった。馬鹿ばかしい夢などとは無関係に、人が、いそがしく往来していた。お久美は、べつの世界へ来たような気がして、今までの恐怖が、暗い、愚劣な穴ぐらのように、微笑をもってかえり見られた。
幻影なぞといったものを踏み散らす気もちで、晴ればれとしっかりした足どりで歩いて行った。
横町のむこうに、炎天の下の不忍の池が、眼に痛いほど強く光っていたりした。気に入りの女中のお兼が、下駄を鳴らしてつづきながら、何かしきりにおどけたことをしゃべっていた。
お久美は、きのうの良人との会話を思い出して、足が自然に、池之端仲町の伏見屋へ向くに任せていた。好きな芝居の絵でも見たら、こころもちがぱっとするだろうというのだった。
番頭や主人にとび出されて、挨拶したり、ちやほやされたりしたくなかった。それには、都合よく、伏見屋は混んでいた。いろいろな俳優や美人の似顔や、なまめかしい女の立ち姿などが、店いっぱいの壁に掛ったり、ひろげられたり、つみ上げられたりしていた。桐の箱にはいって、高く重なっているのもあった。畳紙に挟んだのを、小僧がうやうやしく取り出して来て、客に見せていた。一隅では、勤番者らしい侍が二、三人、江戸の土産にというのであろう。美人画を選りながら、ひとりが低声に卑猥なことでもいっているとみえて、崩れるような笑い声を立てていた。名所図絵を繰って、もっともらしく首を捻っている隠居風の老人もあった。お店者ていのが、わらい絵らしいのを手早く買って、逃げるように出て行くところだった。
さむらいたちが、はいってきたお久美へ、いっせいに眼を向けたので、かの女は、江戸の女の誇りを傷つけられたように、すこしつんとして、横の壁に眼をやった。絵は、そこにかかっていたのだった。
ぼんやり見つめて、その絵と、向かいあって立っていた。
心臓が跳び上って来て、咽喉をふさぐ気もちだった。血がたしかに一時とまった。そしてすぐ、はげしく騒ぎ出した。心理的な嘔気が、お久美に突きあげてきた。かの女の見ているものは、あの男の肖象だった。
くっきりした輪廓だった。うすく緑を帯びた、すき透るような皮膚に、白い額部が、冷えびえと冴えて見えていた。おっとりと笑いをふくんだ切れ長の眼が、気のせいか、絵からまじまじとかの女を見返していた。女のような、形のいい小さな頤を引き気味に、ぞっとするほど通った高い鼻だった。絵でも、見ようによっては、おちょぼ口が、いまにも噴飯しそうに歪んでいた。夢と同じに、お久美にとって、生れるまえから相識のような、たまらなくなつかしいものに思われてならない顔だった。瘠形の若い男だった。役者なのだった。女形に相違なかった。
とうとう夢でばかりなくなった。現実にも来たのだ。夢と現実のさかいがなくなったのだ、と、お久美は、とっさに思った。
よろめいたので、お兼が、びっくりして支えようとした。その手を、ほとんど打つように払い退けて、絵へ近づいた。
岩井半三郎と、その女形の名が書いてあった。あまり聞いたことのない役者だった。画工は、勝川豊春としてあった。これも、あるいは故人で、二流三流なのでもあろうか、かなり通であるはずのお久美に、はじめての名前だった。
夢の岩井半三郎は、いつも着つけがはっきりしないのだけれど、絵は、藍摺りの死に絵だった。
これでみると、描かれた岩井半三郎も、描いた勝川豊春もともに昔の人ではあるまいか。絵も、挨りをかぶって、古びて、手擦れがしているのだ。お久美は、そう観察して、お兼のおどろきにまでじっと絵の顔を白眼んでいた。
五
それは、こころの力を傾ける格闘だった。いまこの圧倒的な恐怖に負けることは、今後、夜となく昼となく、発狂せんばかりに悩まされることを意味するのだった。お久美は、はげしく自分を鞭撻して、睨み倒さずにはおかないといった意力をこめて絵に見入った。絵の、しずかな眼が、かの女の視線を受けとめて、弾きかえした。絵の顔が、かすかに笑いを拡げるにつれて、お久美も、知らずしらず、ほほえまずにはいられなかった。客のこみあう、狭い絵草紙星の店で、かの女は、岩井半三郎と二人きりで対しているのだった。
お久美は、にっこりした。店員のひとりが、そばへ来ていた。
「いらっしゃいまし。豊春の岩井半三郎の死に絵でございます。だいぶ古いもので、七十年ぐらいのものでございましょうか。」
「兼、出ましょう。」
逃げるように、伏見屋の店を出た。
死絵というのは、死んだ俳優の似顔絵のことだった。うすい藍摺りが特色で、この豊春筆岩井半三郎のそれは、白無垢を着て悄然と立っているすがただった。背景に、三途の川の杭が見えて、さびしいけしきだった。伏見屋の者のいうとおり、絵の主の岩井半三郎も、画家の勝川豊春も、七十年ほど前に死んでいるのだった。
七十年まえの役者の顔だった。それがどうしてこの、縁もゆかりもない自分を、こんなにまで呵むのだろうか。冷静にかえったお久美は、不思議なのを通りこして、途方もなく愚かしいことに感ずるだけだった。こどものころにどこかであの絵を見たことがあって、その時の恐ろしい印象が、記憶の下積みになって意識の底に潜在しているのだろうか。そして、それが、地下を流れる暗い小川のようにつづいて来て、時どき心理の表面に夢となってあらわれる。そんなことがあるだろうか。しかしお久美は、どう考えても、あの絵を見たおぼえがないのだった。
夢は、その夜もかの女へ来た。つぎの晩も、夢を見た。庄吉が真剣に心配し出したほど、お久美は眼に見えて、瘠せおとろえて往った。
悄れたかの女のまえに、庄吉の呼んできた医者が、すわっていた。
庄吉は、世のすべての夢などというものから、極端に離れた、常識家らしい顔をにこにこさせて、
「お久美、よく診てもらうがいい。魘されることを、お医師さまに詳しく話してみな。何だか知らないが、わたしはどうも馬鹿なことを気にしているとしか思えないのだ。心気の凝りというやつ、ねえ、先生、そんなところでございましょう。」
医者は黙って、お久美の顔を見ていた。
「やっぱり、あなたも怖くなったんでございますね?」
お久美が、静かにふり向くと、ふき上げるような庄吉の哄笑だった。
「冗談じゃあない。何が怖いもんか。だが、毎晩大きな声で起こされたんじゃあ、からだが保たないからな。わたしは、昼忙しいだけに、夜はぐっすり寝かしてもらいたい。ははははは。」
医者の見立ては、はじめからわかっているとおりだった。お久美は、身体も、頭脳も、どこも何ともないのだった。ただすこし何か気を使い過ぎて、疲労しているだけだった。あの不安な夢を見つづけるのは、からだのぐあいの結果ではなく、その原因なのだった。それには、まず土地を更えて、しばらくぶらぶら遊んでいるのが、一番いいということになったのだった。この江戸の暑さからかの女を移して、どこか涼しいところで静養させるのが、第一だというのだった。まったくこのごろの狂気じみた暑さが、人の神経に異様に影響しつつあることも、事実だった。完全に環境をかえる。医者は、そういいたいのだった。
「居は気を移す、と申しますでな。」
そんなことを言って、帰って行った。
つめたい、新しい海岸の空気を、お久美はすぐに想った。ぼんやり歩きまわって、夜は、よく眠れるに相違なかった。夢のない熟睡を持って、この、身を締めつけるような苦悩から漸次に恢復する。そう想像するだけでも、それは、今のかの女にとって、何よりの歓喜であり、誘惑であった。ひとりで行っていなければならないことは、いうまでもなかった。
この方法に、お久美が簡単に同意したことは、庄吉がちょっと意外に感じたくらいだった。夫婦のあたまに同時にうかんだのが、上総の佐貫の在、百前から海へ寄った谷由浜という小さな漁村だった。先年暇をとって退って行ったが、長く上庄の女中頭をしていたおひさの故郷で、おひさの生家は、土地でも相当の漁師だった。
江戸の人は、気が早かった。翌朝早く、お久美は、出入りの鳶の者を供に、その上総の谷由浜へ向ったのだった。江戸から、二十三里のみちのりだった。
おひさが、どんなよろこびをもって、旧主家の内儀を迎えたか、それはいうまでもなかった。田舎の人の、おかしいほどの質朴さがお久美を包んで、思わず微笑まれることが多かった。風防けの松林の砂浜をへだてた、黒い板塀の一部が、おひさの家だった。さほど見ぐるしくない離家が、お久美の居室ときめられて、あらゆる歓待が用意された。漁期でないので、家にも、村にも、浜にも、微風と日光と静寂のほかは、何もなかった。それが、予想以上に、お久美のこころを休めたのだった。かの女は、一日じゅう、戦いの終ったような軽い気もちで、渚を歩いたりした。そこには、恐怖も不安も、なかった。自分を抑さえていた黒い手が、除かれた気分だった。無意識のうちに、あの夢の女形の望みどおりに動いて、一時かれを満足させているかのように、夢も、休止の状態だった。もう現れないように思われて、かの女は、ひそかに安心していた。感謝していた。江戸の生活、良人のこと、子供たちのことが、遠い昔の思い出のようにこころに来て、それだけが、かの女の伴侶だった。同時に、もう毎日の退屈を、持てあまし出していた。
六
村は、海に面して、丘のふもとにあった。身体に力がついてくるとともに、あの丘のむこうはどうなっているだろうかと、そんな興味がかの女をとらえた。午後おそくだった。独りで、そっちのほうへ歩いて行って見たのだった。
海の動かない、鬱した日だった。焼けた砂のにおいが沈みかけて、木の葉が、白くあえいでいた。南の水平線に、灰いろの雲の峰が立って、あらしを予告していた。お久美は、何となく急きつかれるような思いで、目的地に重大な用事を持っている人のように、いつの間にか、裾をからげていそいでいた。砂地に潅木の繁った丘を上りつめると、切り立ったような断崖のふちの、ちょっと広い野原へ出た。曲りくねった小径が、導くように遠くへ走っていた。それが、ゆるい勾配をもって、また一つ先の小山のほうへ、渡り板をさしかけたように、坂になっているのだった。ところどころに、朽木が横倒しに置かれて、足がかりの段になっていた。ぼんやりと、だが、しかし息を切らして、お久美はそこを登って行った。人かげに驚いて、草むらから鳥が立った。潮風に矯められて一方へだけ枝を伸ばした磯松の列が、かの女の視野へはいって来た。つぎに、かの女の見たものは、荒れ果てた墓地をまえに無残につぶれている古寺の屋根と、そこと崖の縁とのあいだの、以前庫裡のあったらしい場所に、なきがらのように積み上げてある材木の山だった。はるか眼の下に、白い波の線が、岩を噛んでいるのが見えた。
石一つ、草いっぽん、夢のけしきと同じだった。夢にみる場処は、現実に、ここなのだった。おおいなる驚異と、とうとう来るところへきたという、不可思議な安堵とが、お久美のなかに渦まいた。松原の露が、素足にかかった。頭上に鳴きかわす烏の声を聞きながら、かの女は夕陽に片頬を染めて、雑草のなかにしゃがんでいた。垣根のあとの捨て石に、青苔が、濡れて、光っていた。こころだけが江戸へ帰って、池の端の伏見屋で見た岩井半三郎の死絵を映像に、一心に凝視めていた。長いこと、じっとそうしていた。
お久美は、ほがらかに微笑んでいた。
暴風雨に追われて、おひさの離家に帰ったお久美は、いそいで、江戸へかえる旅仕度をはじめていた。
が、この、急に来た雨と風だった。いますぐ発足することは、できなかった。
「とにかく、朝まで待ちましょう。そして、今夜は眠て夢を見ないように、ずっと起きていることにしよう。」
くらい行燈だった。
南から襲ってきたあらしは、足が早かった。天を地へ叩きつけるような、すさまじいけしきになって来ていた。大粒な水滴が庇を打って、かわいた道路に、見るみる黒い部分が多くなって行った。雲の下に、低く雷がころがって白い布をふるような、いなびかりだった。もう、凹地の家には水が出たらしく、あわただしく叫びかわす人声と、提灯の灯とが、物ものしく、闇黒に交錯していた。
「崖くずれがあるかもしれぬ。あのお寺の墓地に。」
お久美は、早出の用意に脚絆など揃えながら、手を休めてそう思った。
手のつけようのない晩飯の膳が、そのままで下げる意味で、縁の障子のかげに置かれてあった。
「おお、ひどい吹き降り!」
膳を引きに、母家から、おひさが駈け込んで来た。
「まあ、この恰好を御覧下さいまし。傘は、風にとられるのでさされませぬ。」
そう言って、かぶって来た風呂敷きを取って笑ったが、
「おや、御気分でもおわるいのでございますか。ちっとも召上らずに。」
「何ですか、おなかが一ぱいなんですよ。」
おひさを失望させまいとして、お久美が、つづいて何かつけたそうとしたとき、
「はなれのお客さまあ!」
大声が、飛びこんで来た。おひさの家の漁師のひとりだった。江戸から、上庄の旦那の庄吉がお久美を迎えに来て、いま着いたところだという、およそ意外な知らせだった。
「わしが、出水の助けに行くべえと、土間で蓑を着ているところへ、いきなりおもて口から顔を出して、おれぁ庄吉だ、お久美を迎えに来たというでねえか。へえらねえで、軒下に立って、お待ちでごぜえます。」
お久美は、突っ立つと同時に、濡れるのも構わず、庭を横切って、母屋へ走っていた。
「来るならくると前もって一筆知らせてくれればいいのに。」
石につまずいてよろけながら、そう考えた。
「きっと、不意に来て驚かすつもりなのでしょう。」
と、たまらない嬉しさがこみ上げて来て、裏口から駈けこんで行くと、長い土間のむこうに、家内の灯を背にして、黒い人影が立っていた。顔は見えなかったが、じっと雨を見つめているふうだった。電光が走り過ぎて、男の外線がくっきり浮かんだ。きりっとした旅装束で、片手に、笠を掻いこんでいた。
お久美は、ふところへ飛びこむように、駈け寄った。
「まあ、あなた!」
声をかけた。縋りつきたかった。男の腕が、お久美の肩へ廻ってきて、ちょっと顔を向けた。はっきりした輸廓だった。冷えびえとした額、みどり色に見えるほどのすき透った皮膚に、笑いをふくんだ切れ長の眼だった。ぞっとするくらい通った、高い鼻だった。おちょぼ口が、微笑にゆがんでいた。あの顔だった。岩井半三郎だった。
はっとすると同時に、もうお久美は、そのものに手を取られて、雨のなかを歩き出していた。揺れる闇黒の奥へ、消えた。追って出たおひさの見たのは、雨に光って吸われて行くお久美の白い足だけだった。
暴風雨は、来るのも早かったが、去るのも早かった。夜あけになって、月だった。お久美が、大雨の最中出て行ったきり帰らないので、おひさの家をはじめ、谷由浜の村は、騒ぎになっていた。漁師たちが出て、月光を頼りに、足あとをさがして歩いた。男と女と、ふたりの足跡が、おひさの家から丘をのぼって、断崖のうえの野を、縺れながら突き切って、小山から松原を抜けて、そこで絶えていた。その先の、きのうまで無住寺の墓場のあった個所は、ゆうべの暴風雨で崖が崩れて、はるか眼下の浪うちぎわに、大きな土砂のかたまりが、濃い液体のように食み出ていた。寺も墓も、あと形もなかった。
「むかし江戸で売った岩井半三郎さまは、この村の出だったが、あの人の墓も、これでなくなった。惜しいことをした。」
捜査隊の一人が言った。かれは、選ばれて、その場から江戸の上庄への急使に発った。
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