一
六月の暑い日の午後、お久美は、茶の間にすわって、浮かない面持ちだった。そういえば、誰も気がつかなかったが、朝から不愉快そうにしていた。暑さのためばかりではないらしかった。綿雲のような重いものが、かの女のこころに覆いかぶさっているのだった。お久美は、この、何一つ不自由のない環境と思い合わせて、胸に手を置くといった気もちで、静かに、その原因が何であるか考えてみようとした。
じっさい、結構な御身分と人にもいわれ、自分でもそう受け入れて来ていたお久美だった。かの女は、若かった。美しかった。からだも、丈夫だった。何よりも、この下谷お数寄屋町の富豪、呉服太物問屋上庄の内儀として、人に立てられ、多勢の下女下男を使っているばかりでなく、恋仲で一しょになった夫の庄吉は、若くて、綺麗で、優しくて、働きがあって、それに日増しに愛してくれていた。そして、その庄吉とのあいだに三人の可愛い子供まであるのだった。何かひとつ思うようにならないものだというが、お久美は、身辺を見まわして、何も欠けたものを発見することはできなかった。富と、富の購い得るあらゆる栄耀と、良人の愛と、子供の愛と、事実、完全な幸福がお久美を包んでいるのだった。満ちたりた心もちだった。かの女は、毎日を楽しんで、運命への感謝のうちに送ることを忘れなかった。
こうしていつもは、快活すぎるほど快活なお久美が、今日は、別人のようにぼんやりふさぎこんでいるのだった。
かの女は、その、じぶんの周囲を形作っている輝かしい条件を、一つひとつ調べるようにこころに挙げながら、そうすることによって、この妙に気にかかってならない不安の正体をはっきり掴もうと努力していた。何だか知らないが、落ち着かない、嫌な気もちだった。それがわかって除り去かれたら、どんなにさっぱりするだろうと思った。天候のせいも、すこしはあるかもしれなかった。このごろの江戸の暑さといったら、なかった。煮るような、空気の動かない日が続いていた。しかし、ほんとのことをいうと、お久美は、暑さにはわりに強いのだった。夏のきらいなのは庄吉で、かれはよくこの暑さにお久美が平気なのを、感心したり、不思議がったりしていた。
お久美は、浴衣の襖に埋めていた頤を、上げた。きっと前を見つめるような眼つきになった。
何がじぶんの心に黒くのしかかっているのか、今朝起きた瞬間から、かの女は知っていたのだった。知っていながら、それに触れることを怖れて、ほかの原因をみつけようとつとめたのだが、それがいま、すっかり失敗に終って、お久美は敢然と顔を上げて、そのものに直面しなければならなかった。
ばかばかしい気がして、かの女はちょっと恥かしかった。それほど、詰まらないことだった。取りとめのない、愚にもつかないことだった。それが、こんなにまで鉛いろの恐怖を呼んで、一日じゅうかの女を把握していたのだった。
「まあ、わたしとしたことが」お久美は、自分に呟いた。「何でしょう、馬鹿らしい。でも、よく考えてみなければならない。ばからしいということを、しっかりじぶんに言い聞かせなくては――。」
気がつくと、ぼんやり口をあけて、固く両手を握っていた。掌には、冷たい汗があった。
「何も恐いことはない。思い出すようにしてみましょう。」
ひとり言が、逃げた。
ゆうべ夢を見たのだった。また、あの夢だった。
何年か前、少女のころからだったように覚えているが、ああ毎晩のようにかの女に現れて親しかった夢を、昨夜久しぶりに見たのだった。が、夢それじしんは、べつに変った夢ではなかった。しかし、親しかったとはいっても、昔つづけさまにかの女の小さな枕を訪れて、そして、いつもすこしも違わない内容なので、ほとんど現実のように、いや、むしろ現実以上に慣れていただけのことで、お久美は、その夢が嫌いだった。子供ごころに、訳もなく恐しかった。毎晩のように、この夢に襲われて、いた末、泣き叫んで眼をさましたものだった。それが、この十年ほどとんと見なくなって、かの女はすっかり忘れていたのだった。忘れてはいなかった。時どき人の夢のはなしなどに関聯して、思い出すことはあったが、ぼやけた、遠いものとして、ほかの幼い日の記憶のなかに溶けこんで行っていた。そこへ、何の前ぶれもなく、ゆうべあの夢が返って来た。しかも、以前の何倍もの強さと鮮かさをもって、それは、警告的にさえ感じられるものだった。頭脳の底の深いところが揺すぶりかえされて、そこから、少女時代の極彩色の恐怖が、群がり立ってきた。それは、お久美にとって、身の毛のよだつような、美しさだった。
といっても、単純な、それだけとしては、充分無害な夢だった。高い断崖の上は、短い草が、海からの風に一せいに寝かされた。広い野原だった。一本の砂の小径が、陽に光って、うねっていた。お久美はそこを、何か急用があるように、ひとりでいそぎ足に歩いていた。二十歩ばかり左手は、もう崖縁で、はるか下に、白い海が騒いでいた。お久美の拾っている路は、両側に低い潅木の繁みを持って、ゆるい勾配で山のほうへ上っていた。ところどころに、足掛りの丸太が、階段のように二つ三つずつ横倒しに置かれてあった。あちこちの草むらから、鳥が立って、あたまのうえで鳴き交したりした。
人には、ひとりも会わなかった。逢ったことがなかった。いつも、陽の沈むちょっと前だった。夕方だから急がなければならない。かの女は、そう考えて、長い影を引いて足を早めるのだった。往先に、誰かが待っている気がした。それは誰だかわからないが、誰でもいいのだった。誰でもいい、ただ、その人は、その男は、長年そこにじっと立って、じぶんを待っていてくれるのだ。そんなことを考えているうちに、傾斜を上り詰めて、お久美は、一団の磯松が、きちがいのように一方にばかり枝を伸ばして群生している砂地へ出た。来るべきところへきた。そんな気がして、かの女は、ほっとした。あの人はどこかこの辺に隠れているに相違ない。不意にそこらから飛び出して、驚かすつもりであろう。悪戯好きな、性悪なお方! お久美は、同じようにいたずららしい眼で、あたりの夕闇をすかし見た。
二
路は、松のあいだを抜けて、暗かった。日光が届かないのか、根元の雑草の葉に露があって、白く浮いて見えるかの女の素足を濡らした。松原を出はずれたところに、古い小さな寺があって、本堂の屋根が、灰いろに傾いていた。寺は、打ち棄てられたような墓地の真ん中に立っているのだった。崖のきわの庫裡などは屋根がとれて、裸かの柱が読まれた。畳に草が生えて、家をとおして泡立つ海が見えた。
夢の旅は、きまってここで終っているのだった。胸の騒ぐ気味のわるい景色だった。暮れて行く海と、寒ざむしい古寺と、高く低く飛ぶ烏の羽音と鳴き声だけでも、お久美を恐怖に駆るに充分だったが、夢は、子供の時分幾晩つづけてみても、草一本、石ひとつの位置も変らなかった。夕陽の色、寺の屋根の影、段だんに崩れる浪のかたち、見るたびにすべてがおなじだった。草むらから鳥の立つ、その場処もきまっていた。足に露がかかって冷たいと思うところも、すこしの狂いもなく一定していた。かの女は、この夢のなかの自分のほうが、ほんとのじぶんよりも、自分に慣れて、きめられたとおり安心して呑気に振舞えるような感じさえした。そしてそれに気がつくと、びっくりしてき出して、大声に助けを呼んでいるうちに、眼が覚めるのだった。
夢は、ゆうべ、成人して人の妻となり、母となったお久美に、ふたたびよみがえった。
細部まで、むかしと変らない夢だった。ただ、夢のうえにも、十年の春秋が流れていただけだった。十年の風雨は、夢のどこにでも見られた。だから、すこしも変らないようで、細部まで、十年のあいだの自然の変化を、まざまざと示していた。崖の崩れたところがあった。眼下の浪うち際の凹凸が十年間水に噛まれて、削られて、激しく形をかえていた。小径の段が、朽ちて、砂に隠れていたりした。寺の屋根はすっかり落ちて、置物のように地に据わっていた。庫裡は、柱もわずかに残っていた、壁も倒れて、古材木の醜い堆積でしかなかった。山門だけが、元のままに踏みこたえていた。墓場の石も、昔のとおりに乱立していた。垣根のあった個所に、せいの高い草がしげって、見おぼえのある捨て石に、青苔の層が十年の厚みを加えていた。
変ったのは、夢の風景ばかりではなかった。一心に道を辿って行くお久美も、少女から人妻、そして三人の母にまでかわっていた。変らないのは、その古寺の近くに誰かが待っていて、自分はその人に呼ばれて、惹かれて、こうして急いでいるのだという、抱きしめたいような感情だけだった。
「ほんとに、あんな変な夢ったら、ありゃあしない。」
下町の女らしく、お久美は、ちょっと伝法に、剃りあとの青い眉をひそめた。
「どうしていつも同じ夢ばかり見るんだろう。でも、たかが夢じゃあないか。それに、べつに海へ飛びこむの、お墓からお化けが出るのと、そんな不吉な夢じゃあなし、いいよ。気にしっこなし!」
叱るようにこころに繰り返して、やっと晴ればれしかけたが、あの、夢で自分を待っているような気のする男というのは、誰だろう? ふとそう思うと、かの女は、不必要にどきりとした。
考えまい。考えないことにした。いくら考えても、わかるはずがないのだった。お久美の意思が、そう固くきめられたとき、簾戸があいて、庄吉の元気な顔が、茶の間へはいって来た。
若わかしい、恰幅のいい庄吉だった。驚くべく夢とは関係のない、およそ現実な存在だった。
お久美は、たのもしかった。ふり仰いで迎えた眼に、やわらかい媚びがあった。
「どうなさいました。」
「江島屋の納品が片づかねえので、やきもきさせられる。」
「まあ、一服なすってからのことになさいまし。」
「暑いな。拭いてもふいても、汗で、やりきれない。」
すわりながら、
「見てくれ。これだ。」
背中を向けた。上布が、円く、水を置いたように濡れていた。
「江戸に、こんな夏は初めてです。気が狂いそうだ。何だ、切通しの猿飴か。ありがたい。」
下戸なので、お久美の絶やさない甘い物を頬ばって、
「だらけねえじゃねえか。感心だの、この飴は。」
「到来物でござんす。」
「どこから?」
お久美は、うつくしい線にからだを反らして、うしろの茶箪笥の棚から、二、三枚重ねた散らしのような紙をとった。
「伏見屋から、二丁町の鸚鵡石に添えて、挨拶にまいりました。」
日本橋通油町の鶴屋とともに、役者の似顔絵などで聞こえた絵草紙屋伏見屋は、このお数寄屋町の上庄から一足の、池端仲町にあった。
「そうかい。そりゃあ気がきいている。」
「また芝居絵の珍しいのが、新しいのも古いのも、たくさん出ものが揃いましたから、おひまの節お立ち寄り下さいますようとの、口上でござんした。」
こどものように、にこにこして、庄吉は、黙ってその、出たばかりの市村座のおうむ石を取り上げて挑めていた。
鸚鵡石というのは、各座とも狂言ごとに作って、絵草紙屋や芝居のなかで売る、あれだった。茶屋からの見物には、桟敷でも、平土間でも、役割と、この、鸚鵡石という絵草紙はかならず出るのだったが、そうでない客は、小銭を出して買わなければならなかった。仲売りが、菓子などとともに、「おうむせきえぞうしばんづけ」と、呼び売りして歩く習慣だった。役者の絵に、その狂言の台詞が書き抜いてあって、声色の好きな人の便宜にそなえてあった。諸国の名所に、山彦を伝える鸚鵡石というのがあって、鸚鵡が声を返すように聞こえるところから、そう呼んでいたが、この絵草紙は声色の具だというので、その石に因んで誰となく名づけたのだった。たいがい紙五杖ぐらいのもので、はじめの片面に、名ある浮世絵師が淡彩で俳優の肖像を描き、版摺りも、かなり精巧なものがすくなくなかった。
上庄は、芝居絵が好きで、ことにこのおうむ石をあつめることは、かれの唯一の趣味だった。
自然、お久美も、そういったほうの絵を、よく見ていた。
三
「伏見屋へも、しばらく足が遠いな。」
ふところに、団扇の風を送って、庄吉がいった。
「御無沙汰つづきで、敷居が高うござんしょう、ほほほ。」
「まあ、そういったところだ。残念だが、まだ当分、抜けられそうもない。第一、この暑さでは、いくら好きな道でも、絵なんぞ見に出かける気にはなれませんよ。お前、かわりに見ておいで。」
「ええ、そのうち。」
お久美が、気がなさそうに答えると、
「それがいい。気散じに、兼でも伴れて行ってきなさい。面白いものがあったら、もらって来るがいい。」
と、庄吉は、急に思い出したように、
「おお坊主どもは?」
「やっと昼寝して、ほっとしているところでござんす。」
「おおかた、悪戯の夢でも見ていることだろう。」
夢、という忘れていたことばが、かすかにお久美の顔いろをかえた。庄吉は気がつかずに、
「どれ、一仕事。」
立って行った。
瞬間、呼びとめて、朝からあんなにこころを圧して来た夢のことを、話そうかとも思ったが、笑われるだけにきまっているので、あなた、と出かかった声を呑んで、
「まあ、お気の早い。お召更えなすったら。」
「いいやな。またすぐ汗になるんだ。」
はなして、慰められたところで、何のたしにもなるのでなかった。ことに、夢で誰かが待っているような気がする。庄吉の愛に冷水を落すようで、そこまではいえないのだった。やはり黙って、そして、できるだけ考えずにいたほうがいい。かの女は、この会体の知れない恐怖感に、しっぽり全身を漬けて、それをじぶんだけのものとして酔い痴れていたい気もちもあった。
その夜お久美は、何度も手を伸ばして、庄吉のたくましい腕や肩に触ってみながら、眠った。
夢は、すぐに来た。
かの女は、海岸の崖に、風に吹かれて立っていた。引き潮だった。夜にかわろうとする薄明のなかで、いつもは水に覆われている砂地が、遠くまで銀いろに光っていた。海草や、不思議な海の小動物が、そこここに、花のような毒々しい色だった。こういう現象は初めてだったが、いつもの場処であることに変りはなかった。地上に載った寺の屋根の片側に、宵が濃くなりつつあった。草も、墓石も、呼吸づいて、しいんとしていた。立樹の背景には、白い空が沈もうとしていた。磯松の列が、一方だけ手をひろげて、その下に、いま来た小みちが、ほのかだった。お久美は、一瞥にそれらをおさめて、やっぱり来てしまったという気がした。そして、十何年もそこに自分を待ってきた人を待つこころで、草のなかにしゃがんで、海を眺め出した。予期した恐怖も、湧いてこないで、何だか、ひどく事務的な気もちだった。いまに、何かが出て来る。とうとう現れる。ただ、しきりにそう告げるものがあった。少女のころから、そして昨夜も、かの女は、その男が姿をあらわすのを待たずに、き足掻いて夢から逃れたのだったが、今夜は、今夜も、駈け去りたい気が強いのだけれど、足が鉄のように砂にめりこんで、動かないのだった。それが、かの女には、奇体に快くもあった。それでも、二、三度首をまげて、うしろを見たりした。山の側には、もうすっかり夜が這って、海にだけうすい白光が揺らいでいた。
官能が、お久美を捉えかけていた。それは、こんなはずはないが、と、恥かしさのなかでかの女を怒らせたほど意外にも性的なものだった。お久美は、はっとした。襲って来る情感に抵抗して起ち上ろうとしたとき、眼の前に男の顔があるのを見た。男も、うずくまっているらしく、顔は、かの女の顔と水平のところにあった。はじめて見る顔だった。くっきりした輪廓だった。うすく緑を帯びた、すき透るような皮膚に、白い額部が、冷びえと冴えていた。おっとりと笑いをふくんだ、切れ長の眼だった。まじまじとかの女を見つめていた。女のような、形のいい小さな頤を、引き気味にしていた。ぞっとするほど通った、高い鼻だった。おちょぼ口が、いまにも噴飯しそうに歪んでいた。自分の生れるまえから相識のような、なつかしいものに思われる顔だった。痩形の若い男だった。
お久美は、じっとしていた。ほほえみ返していた。その男の呼吸を頬に感じた。口びるを、口びるに感じた。恐しい気もちはなかった。これが不義というものなのか、と、噛みしめるように味わって、感覚の通り過ぎるのを待っていた。が、急にかの女は、これはいけない、こういうことはあるべきではない、と強い意識が働き出して、たましいとからだの全力を絞って男の抱擁から逃れようともがいた。男の胸に両手を突っ張って、離れるが早いか、薮といわず、石原といわず、大声に叫んで走り出した。暗いむこうに明りが見えて来て、じぶんを呼ぶ声が耳のそばでした。
「どうした。」
暑いので、開け放した縁からの月光に、蚊帳が揺れていた。お久美のうえに、庄吉の顔が大きくひろがっていた。
「あの人、あの人がまた来たんです。」
庄吉は、部屋のあちこちへ眼を走らせた。
「あの人? 誰も来やしないよ。」
「夢なんです。」微笑して、「何刻でござんしょう。」
「何どきにも何にも、いま寝たばかりだ。お前は、枕に頭をつけたかと思うと、すぐうなされ出したのだよ。」
「嫌な夢。あの人は、これからまた毎晩のように来るでしょうよ。」
庄吉の表情に、嫉妬に似た、真剣なものが来た。
「話してごらん。」
眠りから覚めたばかりの半意識のうちに、何をいったか、お久美は気がついた。
「何でもございません。ばかばかしい夢。」
深い眼をしてお久美を見つめたきりで、庄吉は、追究しようとしなかった。
枕をならべて眠ている子供たちをみてやったのち、お久美は黙って、また寝に就いた。
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