三
歴代の封建制度を破って、今日の新日本が生れ、改造された明治前後には、俊豪、逸才が多く生れ、育くまれ培われつつあった時代である。貞奴は遅ればせに、またやや早めに生れて来たのである。生れたのは明治四年であった。そして後年、貞奴に盛名を与えるに、柱となり、土台となった人々が、みな適当な位置に配置されて、彼女の生れてくるのを待つ運命になっていた。
もし彼女の生家が昔のままに連綿としていたならば、マダム貞奴の名は今日なかったであろう。新女優の祖川上貞奴とならずに堅気な家の細君であって、時折の芝居見物に鬱散する身となっていたかも知れない。
明治維新のことを老人たちは「瓦解」という言葉をもって話合っている。「瓦解」とは、破壊と建設とをかねた、改造までの恐しい途程を言表わした言葉であろう。すべての旧慣制度が破壊された世の渦は、ことに江戸が甚しかった。武家に次いでは名ある大町人がバタバタと倒産した。お城に近い日本橋両替町(現今の日本銀行附近)にかなりの大店であった、書籍と両替屋をかねて、町役人も勤めていた小熊という家もその数には洩れなかった。家附の娘おたかは御殿勤めの美人のきこえたかく、入婿の久次郎は仏さまと呼ばれるほどの好人物であった。そうした円満な家庭にも、吹きすさぶ荒い世風は用捨もなく吹込んで、十二人目にお貞と呼ぶ美しい娘が生れたころは、芝神明のほとりに居を移して、書籍、薬、質屋などを営んでいた。しかも夫婦は贅沢を贅沢としらずに過して来た人たちであったので、娘たちを育てるにもかなり華美な生活をつづけていた。次第々々に家産が傾くと知りつつもそれを喰止めるだけの力がなかった。終に窮乏がせまって来て十二人目の娘を手離すようになった。そしてお貞という娘が、他家で育てられるようになったのは彼女の七歳のときからで、養家は芳町の浜田屋という芸妓屋であった。
浜田屋の亀吉は強情と一国と、侠で通った女であった。豪奢の名に彼女は気負っていた。その女を養母とした七歳のお貞は、子供に似合わぬピンとした気性だったので、一寸のくるいもないように、養母と娘の心はぴったりと合ってしまった。その点はお貞の貞奴が、生の親よりもよく養母の気性と共通の点があったといえる。
とはいえ、そうした侠妓に養われ、天賦の素質を磨いたとはいえ、貞奴の持つ美質は、みんな善き父母の授けたものである。優雅、貞淑――そういう社会に育ったには似合わぬ無邪気さ、それは大家の箱入り娘と、好人物の父との賜物である。一本気な持前も、江戸生れの下町のお嬢さんの所有でなければならない。其処へ養母によって仁侠とたんかと、歯切れのよい娑婆っ気を吹き込まれたのだ。そうした彼女は養母の後立てで、十四歳のおりはもう立派な芳町の浜田屋小奴であった。
廿九歳で後家になってから猶更パリパリしていた養母の亀吉は、よき芸妓としての守らねばならぬしきたりを可愛い養娘であるゆえに、小奴に服膺させねばならないと思っていた、その標語――芸妓貞鑑は、みな彼女が実地にあって感じたことであり、また古来の名妓について悟った戒めなのであった。彼女は言う。
「好い芸妓になるなら世話をして下さる方を一人と極めて守らなけりゃいけない。それが芸妓の節操というものだ。金に目がくれて心を売ってはいけない。けれども不粋なことはいけない。芸妓は世間を広く知っていなければいけない。そして華やかな空気にいなければならない。地味な世界は他に沢山ある。遊ばせるという要は窮屈ではいけない。だからお客よりも馬鹿で浮気な方がよい。理につんだ事が好きならば芸妓にはしゃがしてもらいにきはしない。そこで、浮気なのはよいが、慾に迷えば芸妓の估券は下ってしまう。大事な客は一人と極めてその人の顔をどこまでも立てなければならないかわりに、腕でやる遊びなら、威勢よくぱっとやって、自分の手から金を撒かなければいけない。堅気ではないのだからむずかしい意見はしない。だがよく覚えてお置き、遊びだということを……」
それは彼女が十六のおり、初代奴の名を継いで、嬌名いや高くうたわれるようになったおりの訓戒だ。賢なる彼女は、養母の教えを強と心に秘めていたが、間もなく時の総理大臣伊藤博文侯が奴の後立てであることが公然にされた。彼女はもう全く恐いものはなしの天下になったのである。総理大臣の勢力は、現今よりも無学文盲であった社会には、あらゆる権勢の最上級に見なされて、活殺与奪の力までも自由に所持してでもいるように思いなされていた。そして伊藤公は――かなりな我儘をする人だというので憎み罵しるものもあればあるほど、畏敬されたり、愛敬があるとて贔屓も強かったり、ともかくも明治朝臣のなかで巍然とした大人物、至るところに艶材を撒きちらしたが、それだけ花柳界においても勢力と人気とを集中していた。奴は客としては当代第一たる人を見立てたのである。家には利者の亀吉という養母が睨んでいる。そして何よりも――眠れる獅子王の傍に咲く牡丹花のような容顔、春風になぶられてうごく雄獅子の髭に戯むれ遊ぶ、翩翻たる胡蝶のような風姿、彼女たちの世界の、最大な誇りをもって、昂然と嬌坊第一にいた。
彼女も、そうした社会の女人ゆえ、早熟だった。彼女は遊びとしては、若手の人気ある俳優たちと交際っていた。そして彼女がもっとも好んだものは弄花――四季の花合せの争いであった。金びらのきれるのと、亀吉仕込みの鉄火とが、姿に似合ぬしたたかものと、姐さん株にまで舌を巻かした。
奴の芸妓としての盛時は十七、八歳から廿一歳ごろまでであろう。
奴は芸妓時代から変りものであった。その時分ハイカラという新熟語はなかったが、それに当てはめられる、生粋なハイカラであった。廿二、三年ごろには馬に乗り、玉突きをしたりしていた。髪もありあまるほどの濃い沢山なのを、洗髪の捻りっぱなしの束髪にして、白い小さな、四角な肩掛けを三角にかけていた。大磯の海水浴の漸く盛りになった最中、奴の海水着の姿はいつでも其処に見られ、彼女の有名な水練は、この海でおぼえたのであった。
「奴が来ておりましたよ、大磯の濤竜館に……男見たような女ですね、お風呂で、四辺にかまわないで、真白に石鹸をぬって、そこら中あぶくだらけにして……」
そんなことを、あるおり、某華族の愛妾が言っていたことがあった。その語のなかには、すこし反感をふくんだ調子があったが、
「沢山な毛髪のなんのって、お風呂の中でといて、ぐるぐると巻いているのを見ると、ほんとにその立派なことって……」
彼女の傍若無人であったことには、好い心持ちではなかったらしいが、その容姿については感嘆していた。それはたしか彼女が十九位のことであった。
その後わたしが、漸く芝居のことなどもすこしばかり分りかけて来た時分に、芳町の奴が川上音二郎のおかみさんになるのだってというのをきいて、みんなが驚ろいている通りに、大層な大事件のようにきいていたことがあった。それは明治廿五年、奴が廿二歳のおりだと後で知った。なんでわたしが大事件のように耳にとめていたかというのに、前にも言った通り、芳町は近い土地であり、往来に浜田屋の門口も通ったり、自然と奴の名も聞き知っていたからであった。それに、浅草鳥越の中村座に旗上げをした、川上音二郎の壮士芝居の人気は素晴らしかったので――彼れが俳優として非凡な腕があるからというのではなく――書生が(自由党の壮士が)演説と芝居とを交ぜてするという事が、世間の好奇心を誘って評判されていた。わたしはその頃ぽつぽつと新聞紙や、『歌舞伎新報』などをそっと読みふけっていたので、耳から聞く噂ばかりでなく、目からもそれらの知識がすこしはあった。それに父は自由党員に知己も多かったので、種々話をしているときもあった。川上の他に、藤沢浅二郎は新聞記者だとか、福井は『東西新聞』にいたがとか、壮士芝居の人物を月旦していることもあった。見物をたのまれて母なども行ったらしかった。とはいえ、興味をもっても直に忘れがちな子供のおりのことで、川上音二郎が薩摩ガスリの着物に棒縞の小倉袴で、赤い陣羽織を着て日の丸の扇を持ち、白鉢巻をして、オッペケ節を唄わなかったならば、さほど分明と覚えていなかったかも知れない。
しかし子供ごころに、オッペケペッポの川上はさほど傑い人だと思っていなかった。それよりも芳町の奴の方が遥かに――芸妓でも抱え車のある――傑い女だと思っていた。なんで、川上のおかみさんになぞなるのだろうと、漠然とそんなふうに思ったこともあった。その後、川上座の建築が三崎町へ出来るまで、奴の名には遠ざかっていた。
けれどもそれはわたしが彼女の名に接しなかっただけで、彼女には新らしい生活の日の頁が、日ごとに繰りひらかれていった。そしてその五、六年の間に、川上の単身洋行が遂行された。それは生涯をあらたに蒔直そうとする目的をもった渡航であった。そのおり川上は、壮士俳優を止めてしまおうと思っていたとかいうことだったが、米国に渡ってから再考して見なければならないと思い、充分に考慮してのち、やっぱり最初自分の思立ったことは間違っていなかったと気がついた。それから直に帰朝した彼れは、もうすぐに演劇革進論者であった。時流より一足さきに踏出すものの困難を、つぶさに甞めなければならない運命を彼れは担ってかえってきたのだった。そして、当然、夫の、重い人生の負担に対して、奴のお貞も片荷を背負わなければならない運命であった。漸く平静であろうとした彼女の人生の行路が、その時から一段嶮しくなり、多岐多様になっていった分岐点が、その時であった。
川上音二郎の細君の名が、わたしたちの耳へまた伝わって来たころには、彼女は奔命に労れきっていたのだ。彼女は(最近引退興行のおりに、『演芸新聞』に自己の談話として載せたように)芸妓から足を洗って素人になるにしても、妾と呼ばれるのがいやで、どうか巡査でもよいから同情の厚い人の正妻になり、共稼ぎがして見たいと思っていたので、川上との相談もととのい結婚はしたが、勝気の彼女としては夫とした川上をいつまでもオッペケペッポではおきたくなかったのだ。
在米一年半ばかりで、野村子爵に伴われて帰って来た川上は、洋行戻りを土産に、かつて自分がひきいていた一団のために芝居を打たなければならなくなり、浅草区駒形の浅草座を根拠地にして、「又意外」で蓋をあけた。その折の見物の絶叫は、凄まじいほどで、新派劇の前途は此処に洋々とした曙の色を認めたのであった。それに次いで起った問題は、劇道革進の第一程として、欧米風の劇場を建設することで、川上は万難を排してその事業に驀進した。それとても奴の力がどれほどの援助であったか知れなかった。
浜田屋亀吉の娘で芳町の奴である細君の名は、貧乏な書生俳優、ともすれば山師と見あやまられがちな川上よりも、信用が百倍もあった。細君の印形は五万円の基本金を借入れて夫の手に渡し、川上座の基礎はその金を根柢として築きあげられていった。
様々の毀誉褒貶のうちに、夫妻の苦心の愛子――川上座は出来あがっていった。もうやがて落成しようとした折に、不意に夫妻の仲に気まずい争いが出来た。しかもそれが世間にありがちな、ほっとした一時の安心のために物質的な関係からおこった問題ではなかった。奴は、一も夫のため、二も男のためと、そうした社会にあっては珍らしい貞節のかぎりを尽し、川上を世に稀れな男らしい男、真に快男子であると、全盛がもたらす彼女の誇りを捨て、わが生命として尽していたのである。それが、ある女に子まで産ましているという事がわかった。その女はある顕官の外妾で、川上はその女を、上野鶯渓の塩原温泉に忍ばせてあるという事までが知れた。奴は養母の前へも自分の顔が出されないように思った。けれど怨み死に死んでしまうほど気が小さくもない彼女は、憤懣の思いを誰れに洩すよりは、やっぱり養母に向って述べたかった。それがまた、川上との縁は自分の方から惚れ込んだのでもあり、養母も川上の男らしいところを贔屓にしていただけに、言うのも愁かったが、聴く方の腹立ちは火の手が強かった。何分にも奴にむかって芸人の浮気沙汰として許すが、不義の快楽は厳しくいましめたほどの亀吉、そうした話を聴くと汚ないものに触れたように怒った。川上の産ませた子を誤魔化して、秘密に里子にやってしまったということをきくと、そんな夫とは縁を断ってしまえと言出した。
川上は浜田屋へ呼びよせられて来てみると、養母と奴とは冷かな凄い目の色で迎えた。三人が三つ鼎になると奴は不意に、髷の根から黒髪をふっつと断って、
「おっかさんに面目なくって、合す顔がありませんから」
と、ぷいと立って去ってしまった。それにはさすがの策士川上も施す術もなくて、気を呑まれ、唖然としているばかりであったが、訳を聞くまでもない自分におぼえのあること、うなだれているより他はなかった。養母にとりなしを頼もうにも、妻よりも手強い対手なので、なまじな事は言出せなかったのであろう。も一度海外へ出て、苦学をしてのち詫びにくるから、奴は手許へあずかっておいてくれと詫を入れた。けれど亀吉はいっかな聴入れはしない。
「もとの通りにして返したならば受取ろう。」
それが養母の答えであった。川上は是非なく、同郷の誼のある金子堅太郎男爵の許に泣付いていった。何故ならば、金子男が、伊藤総理大臣の秘書官のおり、ある宴席で川上の芝居を見物するように奴にすすめて、口をきわめて川上の快男子であることを説いた。そうした予備知識を持って、はじめて川上を見た奴は、上流貴顕の婦人に招かれても、決して川上が応じてゆかないということなども聴いて、その折は面白半分の興味も手伝ったのであったが、友達芸妓の小照と一緒に川上を招いて饗応したことがある。それが縁で浜田屋へも出入するようになり、伊藤公にも公然許されて相愛の仲となり、金子男の肝入りで夫妻となるように纏った仲である。それ故、そうことがもつれてむずかしくなっては、金子氏にすがるよりほか、養母も奴も聴入れまいと、堅い決心をもって門をたたいたのであった。その代りには断然不始末のあとを残すまいという条件で持込んだ。そして、漸くその件は落着した。
ひとつ過ぎればまたひとつ、内憂に外患はつづいて起った。夫妻が漸やっと笑顔を見せるようになると、またしても胸に閊える悩みの種、川上座の落成に伴う新築披露、開場式の饗宴などに是非なくてならない一万円の費用の出どころであった。けれども奴の手許からは出せるだけ出し尽している上に、五万円の方もそのままになっている。開場式さえあげれば入金の道がつくので、それを目当にして高利貸の手から短かい期限で、涙の滾れるような利子の一万円を借入れ、新築披露の宴を張り、開場式を華々しく挙行した。
川上座――この夫婦が記念としてばかりでなく、劇壇新機運の第一着手の、記念建物としても残しておきたかった川上座は、三崎町の原に、洋風建築の小ぢんまりとした姿を見せた。いまは冷氷庫になってしまったあの膨大な東京座も、その頃新築され、後の方には旧女役者の常小屋の、三崎座という小芝居があった。夏などは東京座や川上座へゆくには、道が暑くてたまらないほど小蔭ひとつない草いきれのしている土地であった。そのくせ、座へはいってしまうと――ことに東京座などはだだっ広いのと入りがなかったので、涼しい風が遠慮がなさすぎるほど吹入って、納涼気分に満ちた芝居小屋であった。川上座は帝劇と有楽座をまぜた造り方であったので、その時分の人たちにはひどく勝手違いのものであったが、開場式に呼ばれたものは川上の手腕に誰れも敬服しあっていた。一千にあまる来賓はすべての階級を網羅し、その視線の悉くそそがれている舞台中央には、劇場主川上音二郎が立って、我国新派劇の沿革から、欧米諸国の劇史を論じ、満場の喝采をあびながら挨拶を終った。その側に立つ奴の悦びはどれほどであったろう。共に労苦を分けた事業の一部は完成し、夫はこれほどの志望を担うに、毫も不足のない器量人であると、日頃の苦悩も忘れ果て、夫の挨拶の辞の終りに共に恭しく頭をさげると、あまりの嬉しさに夢中になっていたために、先日のいきさつから附髷を用いている事なぞは忘れてしまい、音がして頭から落ちたもののあるのに気がつかなかった。湧上った笑い声に気がついて見ると、あにはからんやの有様、舞台監督は狼狽て緞帳をおろしてしまったが――
赤面と心痛――開場式に頭が飛ぶとは――彼女は人知れずそれを心に病んだ。それが箴をなしてというのではないが、もとより無理算段でやった仕事だけに、たった一万円のために川上座は高利貸の手に奪られなければならなかった。川上は同志を集めて歌舞伎座で手興行をした。わが持座を奪われぬために、他座で開演した心事に同情のあった結果は八千円の利益を見、それだけは償却したが、残る四千円のために彼らは苦しみぬいた。
そのころの住居が大森にある洋館の小屋であった。金貸に苦しめられた川上が憤然として代議士の候補に立ったのは、高利貸退治と新派劇の保護を標榜したのであったが、東京市の有力な新聞紙――たしか『万朝報』であった――の大反対にあって非なる形勢となってしまった。
それらが動機となって川上夫婦の短艇旅行は思立たれた。厭世観と復讐の念、そうした夫の心裏を読みつくして、死なば共にとの意気を示し、死ぬ覚悟で新しい生活の領土を開拓し、生命の泉を見出そうではないかと、勧めはげましたのは奴であった。妻の言葉に暗示を与えられてふるい立った川上は、失敗の記念となった大森の家を忍び出る用意をした。無謀といえば限りない無謀であるが、そのころはまだ郡司大尉が大川から乗出し、北千島の果までも漕附けた短艇探検熱はまだ忘れられていなかったから、川上の機智はそれに学んだのか、それともそうするよりほか逃出す考えがなかったのか、ともあれ、人生の嶮しい行路に、行き悩んだ人は、陰惨たる二百十日の海に捨身の短艇を漕出した。
短艇日本丸は、暗の海にむかって、大森海岸から漕ぎだされた。ものずきな夫婦が、ついそこいらまで漕いでいってかえってくるのであろうと、気がついたものも思っていたであろうが、短艇の中には、必要品だけは入れてあった。寝具のかわりに毛布が運ばれてあった。とはいえ、幾日航海をつづけようとするのか、夫婦にも目あてはなかった。夫は漕ぐ、妻は万一のおりにはと覚悟をしていたが、夢中で、小山のような島があると見て漕ぎつけた場所は、横須賀軍港の軍艦富士の横っぱらであった。
鎮守府に呼ばれて訊問にあったが、全く何処とも知らず流されて来て、島かげを見付けてほっとした時に夜はほのぼのと明け、それが軍艦であった事を述べて許された。その上、咎められたのが好都合になって様々の好誼をうけ、行手の海の難処なども懇篤に教え諭され、鄭重なる見送りをうけて外洋へと漕出した。
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