二
貞奴は導かれて行きさえすればきっと進んでゆく人である。あるいは、もうあれだけで充分ではないか、随分花も咲かせて来た、後のことは後のものにまかせて、ちっとは残しておいてやった方がよいと言うものがあるかも知れない。それは貞奴の生涯の、前半生の頁だけを繰ってそれで足れりとする人のいう事である。何にも完全はのぞまれないとしても、わたしという慾張りは、おなじ時代に生れた女性の、一方の代表者を、よりよく、より輝かしい光彩をそえて、終りまでの頁を、立派なものにして残したいと望んだからであった。小さな断片でも永久に亡びない芸術品はあるが、貞奴のそれは大きく、広く、波動に包まれた響きの結晶である。それが末になって崩れていたならば、折角築きあげられたものの形を完全ないではないか、わたしの理想からいえば、貞奴の身体が晩年にだけせめて楽をしようとするのに同情しながらも、それを許したくなく思った。芸術に生き、芸術に滅びてもらいたかった。雄々しく戦って、痩枯れた躯を舞台に横たえたとき、わたしたちはどんなに、どんなに彼女のために涙をおしまないだろう。讃美するだろう。美しい女優たちは、自分たちの前にたって荊棘の道を死ぬまで切りひらいた女の足許に平伏して、感謝の涙に死体の裳裾をぬらし、額に接吻し、捧ぐる花に彼女を埋めつくすであろう。詩人の群はいみじき挽歌を唄って柩の前を練りあるくであろう。楽人は悼みの曲を奏し、市人は感嘆の声をおしまず、文章家は彼女が生れたおりから死までが、かくなくてはならぬ人に生れたことを、端厳な筆に綴りあわせたであろう。わたしはそうした終りを最初の女優のこの人に望んだ。そう望むのが不当であろうとは思っていない。
引退のおりの配りものである茶碗には自筆で、
兎も角ものがれ住むべく野菊かな
の詠がある。自選であるか、自詠であるかどうかは知らないが、それにしても最初の句の「ともかくも」とは拠どころなくという意味も含んでいる。仕方がないからとの捨鉢もある。まあこんな事にしておいてという糊塗した気味もある。どこやらに押付けたものを籠めていて不平がある句といってもよい。「とりあえず」「どうやらこうやら」という意にも訳せないことはないが、それでは嘘になる。何故ならば、彼女の引退は突然の思立ちかも知れないが、そうした動機が読みこまれているようにはとれないほど準備した興行ぶりであった。住む家もこれからの生活も安定なものである事は誰れも知ったことで、無常を感じたり、禅機などから一転して急に世からのがれたくなったのではない事はあんまり知れすぎていた。それゆえに、草の中へでもかくれてしまおうというような「とりあえず」には思いおよぶことが出来ない。もしもまた、亡夫川上の墓石もたてたから、これをよい時機として役者を止めようとしたのであったならば、貞奴の光彩のなくなったのも尤もだと、頷かなければならないのは、あれほどの人でも役者をただ商売としていたかと思うそれである。
思わずも憎まれ口になりかかった。わたしがそう言うのも、その実は、この女優の引退をおくるに世間があんまり物忘れが早くて、案外同情を寄せなかったことに憤慨したゆえでもあった。わたしはせめてこの優に培養れた帝劇の女優たちだけでも、もすこし微意を表して、所属劇場で許さなくとも、女優たちの運動があって、かの女の最終の舞台を飾り、淋しい心であろう先輩を悦ばせてもよかったであろうにと思った。
彼女は日本の代表的名女優として海外にまでその名を知られている。かえって日本においてより外国での方が名声は嘖々としている。進取邁進した彼女のあとにつづいたものは一人もない。もうその間は十幾年になるが、一人として彼女の塁を摩したものはないではないか。それは誰れでも自信はあるであろう。貞奴に負けるものかとの自負はあっても、他から見るとそうは許されぬ。それは彼女の技芸そのものよりは度胸が、容姿が、どんな大都会へ出ても、大劇場へ行っても悪びれさせないだけの資格をそなえている。貞奴のあの魅惑のある艶冶な微笑みとあの嫋々たる悩ましさと、あの楚々たる可憐な風姿とは、いまのところ他の女優の、誰れ一人が及びもつかない魅力と風趣とをもっている。彼の地の劇界で、この極東の、たった一人しかなかった最初の女優に、梨花の雨に悩んだような風情を見出して、どんなに驚異の眼を見張ったであろう。彼女のその手嫋かな、いかにも手嫋女といった風情が、すっかり彼地の人の心を囚えてしまった。あの強い意志の人の舞台が、こうまで可憐であろうとは、ほんとに見ぬ人には信じられないほどである。それはわたしの贔屓目がそう言わせるのではない。彼地の最高の劇評家にも認められた。アーサー・シモンズも著書の頁のいく部分を彼女のために割いた。
それは彼女の過去の辛苦が咲かせた花であろう。外国へ彼女が残して来た日本女の印象が、決してはずかしくないものであったことだけでも、後から出たものは感謝しなければならない。後のものは時代の要求によって生れて来たとはいえ、彼女の成功を見せた事が刺戟になっている事はいうまでもない。彼女が海の外へ出ていてした仕事も、帰朝って来て当時の人に目新しい扮装ぶりを見せたのも、現今の女優のまだ赤ん坊であったころのことである。策士川上が貞奴の名を揚げるために種々と、世人の好奇心をひくような物語を案出するのであろうとはいわれたが、彼女の技芸に、姿色に、魅惑されたものは多かった。それは全く、彼女によって示された、「祖国」のヒロインや「オセロ」のデスデモナなぞは、今日の日本劇壇にもちょっと発見することが困難であろうと思うほど立派なもので、ありふれた貧弱なものではなかった。最初の女優を迎えた物珍らしさと、憧憬する泰西の劇をその美貌の女優を通して見るという事が、どれほど若い者の心を動かしたか知れなかった。京都で大学生が血書をして切ない思いのあまりを言い入れたとかいうような事は、貞奴の全盛期にはすこしも珍らしい出来ごとではない。そんな事に耳をかしていたならば、おそらくはも一人別に彼女というものがあって、専念それらの手紙や会見の申込みに一々気の毒そうな顔をして断りをいったり書いたり、謝ったり、悦んだりしていなければならないであろう。文壇の人では秋田雨雀氏が貞奴心酔党の一人で、その当時早稲田の学生であった紅顔の美少年秋田は、それはそれは、熱烈至純な、貞奴讃美党であった。いまでもその話が出れば秋田氏はごまかさずに頷く、
「まったく病気のように心酔していたのですね、どんな事をしても見ないではいられなかったのだから」
はっきりとそう言って、古き思出もまた楽しからずやといったさまに、追憶の笑をふくまれる。わたしの眼にも美しかった貞奴のまぼろしが浮みあがって、共に微笑しつつ、秋田さんの眼にもまだこの幻は消えぬのであろうと思うと、美の力の永遠なのと、芸術の力の支配とに驚かされる。
その話は今から十五、六年前、明治卅五、六年のことかと思う。第二回目の渡航をして西欧諸国を廻って素晴らしい人気を得た背景をもって、はじめて日本の劇壇へ貞奴が現われたころのことであった。独逸では有名な学者ウィルヒョウ博士が、最高の敬意を表して貞奴の手に接吻をしたとか「トスカ」や「パトリ」の作者であるサルドーが親しく訪れたという事や、露西亜の皇帝からは、ダイヤモンド入りの時計を下賜されたという事や、いたる土地の大歓迎のはなしや、ホテルの階段に外套を敷き、貞奴の足が触れたといって、狂気して抱えて帰ったものがあったことや、貞奴の旅情をなぐさめるためにと、旅宿の近所で花火をあげさせてばかりいた男の事や、彼女の通る街筋の群集が、「奴、奴」と熱狂して馬車を幾層にも取廻いてしまったという事や、いたるところでの成功の噂が伝わって、人気を湧立たせた。正直な文学青年の秋田氏が、美神が急に天下ったように感激したのは当り前だった。そしてまた出現した貞奴も観衆の期待を裏切らなかったのであったから、人気はいやがうえに沸騰し、熱狂の渦をまかせた。そのおり可哀そうな青森の片田舎から出て来ていた貧乏な書生さん秋田は、何から何までも芝居の場代のために売らなければならなかったのだ。場代といっても、桟敷や土間の一等観覧席ではない、ほんの三階の片隅に身をやっと立たせるにすぎなかったが、それでも毎日となれば書生の身には大変なことであった。すっかり貞奴熱に昂奮してしまった少年秋田は、机と書籍の幾冊かと、身につけていた着物だけは残したがあとはみんな空しくしてしまった。しまいには部屋の畳の表までむしりとって売払い、そして毎日感激をつづけていたとさえ言われる。
こんな清教徒の渇仰を、もろもろの讃詞と共に踏んで立った貞奴の得意さはどれほどであったろう。それにしても彼女におしむのは、彼女が芸を我生命として目覚め、ふるいたたなかった遺憾さである。それは余儀ない破目から女優になったとはいえ、こうまでに成功してゆけば、どれからはいって歩んだとしても、道はひとつではないか、けれど、立脚地が違うゆえ、全生命を没頭しきれないで、ただ人気があったというだけにしてその後の研鑽琢磨を投げすててしまい、川上の借財をかえしたのと、立派な葬式を出したのと、石碑を建てたからよい引きしおであるというだけが、引退の理由なのが惜しい。最初から女優として立つ心はちっともなかったが、海外へ出て困窮のあまりになったのが動機であり、その後、断然廃めるつもりであったのを、夫や知己に説かれて日本の舞台へも立つようになったとはいえ、それではあまりこの女優の生涯が御他力で、独創の見地がなく、女優生活の長い間に自分の使命のどんなものかを、思いあたったおりがなかったのかと、全く惜まれる。ほんとにおしい事には、芸術最高説の幾分でも力説してきかせるような人が彼女の傍近くにいなかった事である。彼女には意地が何よりの命で、意気地を貫くという事がどれほど至難であり、どれほど快感であり、どれほど誇らしいものであるか知れないと思っているのであろう。功なり名遂げ、身退くという東洋風の先例にならい、女子としては有終の美をなしたと思ったであろう。貞奴という日本新劇壇の最初にもった女優には、何処までも劇に没頭してもらいたかった。あの人の塁を摩そうと目標にされるような、大女優にして残したかった。こういうのも貞奴の舞台の美を愛惜するからである。
貞奴は癇癪持ちだという。その癇癪が薬にもなり毒にもなったであろう。勝気で癇癪持ちに皮肉もののあるはずがない。それを亡川上の直系の門人たちが妙な感情にとらわれて、貞奴の引退興行の相談をうけても引受けなかったり、建碑のことでも楯を突きあっているのはあまり狭量ではあるまいか。かつて女優養生所に入所した、作家田村俊子さんは、貞奴を評して、子供っぽい可愛らしい、殊勝らしいところのある、初々しくも見えることのある地方の人の粘ばりづよい意地でなく、江戸っ子肌の勝気な意地でもつ人で、だから弱々と見えるときと、傍へも寄りつけぬほど強い時とがあって、
「愚痴をいうのは嫌いだからだまっているけれども、何につけて人というものは深い察しのないものね」
などいってる時は、ただ普通の、美しい繊弱い女性とより見えないが、ペパアミントを飲んで、気焔を吐いている時なぞは、女でいて活社会に奮闘している勇気のほども偲ばれると言った。それでも芝居の楽の日に、興行中に贈られた花の仕分けなどして、片づいて空になった部屋に、帰ろうともせず茫然と、何かに凭れている姿などを見ると、ただなんとなく涙含まれるときがある。マダム自身もそんなときは、一種の寂寞を感じているのであろうともいった。
寂寞――一種の寂寞――気に驕るもののみが味わう、一種の寂寞である。それは俊子さんも味わった。その人なればこそ、盛りの人貞奴の心裡の、何と名もつけようのない憂鬱を見逃がさなかったのであろう。
貞奴は、故市川九女八を評して、
「あの人も配偶者が豪かったら、もすこし立派に世の中に出ていられたろうに、おしい事だ」
といったそうである。これもまた貞奴なればこそ、そうしみじみ感じたのだ。自分の幸福なのと、九女八の不幸なのとをくらべて見て、つくづくそう思ったのであろう。それから推しても貞奴が、どれほど夫を信じ、豪いと思っていたかが分る。川上にしても貞奴に対してつねに一歩譲っていた。貞奴もまた負けていなかったが、自分が思いもかけぬような名をなしたのも川上があっての事だ、夫が豪かったからである、みんなそのおかげだと敬していたと思える。そうした敬虔な心持ちは、彼女の胸にいつまでも摺りへらされずに保たれていたゆえ、彼女がつくらずして可憐であり初々しいのだ。彼女の胸には恒に、少女心を失わずにいたに違いない。
わたしはいつであったか歌舞伎座の廊下で、ふと耳にした囁きをわすれない。それは粋な身なりをしている新橋と築地辺の女人らしかったが、話はその頃噂立った、貞奴対福沢さんの問題らしかった。その一人の年増が答えるところが耳にはいった。
「それは違うわ、先の妾はああした女でしょう。貞奴さんはそうじゃない、あの人のことだから、お宝のことだって、忍耐が出来るまでは口にする人じゃなし、それに、ああすればこうと、ポンといえば灰吹きどころじゃなく心持ちを読んで、痒ゆいところへ手の届くように、相手に口をきらせやしないから、そりゃまるで段違いだわ、人間がさ」
それだけの言葉のうちに以前の寵妓であって、かえり見られなくなった女と、貞奴との優劣がはっきりと分るような気がした。ほんの通り過ぎたにすぎないので、そのあとでも聴きたい話題があったかも知れない。
順序として貞奴の早いころの生活についてすこし書かなければならない。わたしがまだ稽古本のはいったつばくろぐちを抱えて、大門通を住吉町まで歩いて通っていたころ、芳町には抱え車のある芸妓があるといってみんなが驚いているのを聞いた。わたしの家でも抱え車は父の裁判所行きの定用のほかは乗らなかったので、何でも偉い事は父親が定木であった心には、なるほど偉い芸妓だと思った。一人は丁字屋の小照といい、一人は浜田屋の奴だと聞いていた。小照は後に伊井蓉峰の細君となったお貞さんで、奴は川上のお貞さんであった。浜田屋には強いおっかさんがいるのだという事もきいたが、わたしが気をつけて見るようになってからは、これもよい縹緻だった小奴という人の御神灯がさがっていて奴の名はなかった。そのうちにおなじ住吉町の、人形町通りに近い方へ、写真屋のような入口へ、黒塗の看板がかかって、それには金文字で川上音二郎としるされてあった。そして其処が奴のいるうちだと知った。またその後、大森の、汽車の線路から見えるところへ小さな洋館が立って、白堊造りが四辺とは異っているので目にたった。それも川上の新らしい住居である事を知った。それは鳥越の中村座で川上の旗上げから洋行までの間のことである。
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