三
廿七年二月のある日の午後に、本郷区真砂町卅二番地の、あぶみ坂上の、下宿屋の横を曲ったのは彼女であった。その路は馴染のある土地であった。菊坂の旧居は近かった。けれども其処を歩いていたのは、謹厳深い胸に問いつ答えつして、様々に思い悩んだ末に、天啓顕真術会本部を訪れようとしていたのであった。
黒塀の、欅の植込みのある、小道を入って、玄関に立った彼女は、その家の主、久佐賀先生というのは、何々道人とでもいうような人物と想像していたのであろう。秋月と仮名して取次ぎをたのんだ。
彼女は久佐賀某に面接したおり、
(逢見ればまた思ふやうの顔したる人ぞなき)
と、『つれづれ草』の中にある詞を思出しながら、四十ばかりの音声の静かにひくい小男に向合った。
鑑定局という十畳ばかりの室には、織物が敷詰められてあり、額は二ツ、その一つには静心館と書してあり、書棚、黒棚、ちがい棚などが目苦いまでに並べたててあり、床の間には二幅対の絹地の画、その床を背にして、久佐賀某は机の前に大きな火鉢を引寄せ、しとねを敷いていて彼女を引見したのであった。
「申歳の生れの廿三、運を一時に試し相場をしたく思えど、貧者一銭の余裕もなく、我力にてはなしがたく、思いつきたるまま先生の教えをうけたくて」
と彼女は漸くに口を切った。それに答えた顕真術の先生は、
「実に上々のお生れだが金銭の福はない。他の福禄が十分にあるお人だ。勝れたところをあげれば、才もあり智もあり、物に巧あり、悟道の縁しもある。ただ惜むところは望が大きすぎて破れるかたちが見える。天稟にうけえた一種の福を持つ人であるから、商いをするときいただけでも不用なことだと思うに、相場の勝負を争うことなどは遮ってお止めする。貴女はあらゆる望みを胸中より退いて、終生の願いを安心立命しなければいけない。それこそ貴女が天から受けた本質なのだから」
と言った。彼女は表面慎しやかにしていても、心の底ではそれを聴いてフフンと笑ったのであろう。
「安心立命ということは出来そうもありません。望みが大に過ぎて破れるとは、何をさしておっしゃるのでしょう。老たる母に朝夕のはかなさを見せなければならないゆえ、一身を贄にして一時の運をこそ願え、私が一生は破ぶれて、道ばたの乞食になるのこそ終生の願いなのです。乞食になるまでの道中をつくるとて悶えているのです。要するところは、よき死処がほしいのです」
と言出すと、久佐賀は手を打っていった。
「仰しゃる事は我愛する本願にかなっている」
彼女と久佐賀との面会は話が合ったのであろう。月を越してから久佐賀は手紙をもって、亀井戸の臥龍梅へ彼女を誘った。手紙には、
君が精神の凡ならざるに感ぜり、爾来したしく交わらせ給わば余が本望なるべし
などと書いたのちに、
君がふたゝび来たらせ給ふをまちかねて、として、
とふ人やあるとこゝろにたのしみて
そゞろうれしき秋の夕暮
と歌も手も
拙ないが、才をもって世を渡るに巧みなだけな事を尽してあった。とはいえ、それを受けたのは一葉である。そんな趣向で手中にはいると思うのかと、
直に顕真術先生の胸中を
見現してしまった。日本全国に会員三万人、後藤大臣並びに夫人(
象次郎伯)の尊敬
一方でないという先生も、女史を知ることが出来ず、そんな甘い手に乗ると思ったのは彼れが一代の失策であったであろう。
彼女は久佐賀の
価値を知った。彼れは世人の前へ
被る面で、彼女も
贏得ることが出来ると思ったのであろう。彼女の手記には利己流のしれもの、二度と説を聴けば、
厭うべくきらうべく、面に
唾きをしようと思うばかりだとも言い、かかるともがらと大事を語るのは、
幼子にむかって天を論ずるが如きものだ、思えば自分ながら我も敵を知らざる事の甚だしきだと、自分をさえ
嘲笑っている。けれども久佐賀の方では、自分の方は名と富と力を貯えているものだと、慢じていたのであろう。そしてその上に、一葉の美と才と、文名とを合せればたいしたものだと
己惚たのであろう。他の者には
洩すのさえ
恥ているだろうと思われる貧乏を、自分だけがよく知っていると思いもしたのであろう。まだそれよりも、彼女が親と妹のために、物質の満足を得させたいと願っている弱みを、彼れは自分一人が承知しているのだと思い上っていた。それのみならず彼れは、一葉を説破しえたつもりでいたかも知れない。
久佐賀は、金力を持って、さも同情あるように
附込んでゆこうとした。そうした男ゆえ、俺ならば大丈夫良かろうと
錨をおろしてかかったのかも知れない。ともかく彼れはやんわりと、勝気なる、才女を怒らせないような文面をもって求婚を申入れた。それは廿七年の六月九日のことで女史が廿三歳の時である。
(貴女の御困苦が私の一身にも引くらべられて悲しいから、御成業の暁までを引受けさせて頂きたい。けれども
唯一面識のみでは、お頼みになるのも苦しいだろうから、どうか一身を私に
委ねてはくれまいか。)
そんな風な申込に対して苦笑せずにいられるだろうか? いうまでもなく彼女は彼れを評して、笑うにたえた
しれもの、投機師と
罵っている。世のくだれるをなげきて一道の光を起さんと志すものが、目前の苦しみをのがれるために、尊ぶべき
操を売ろうかと嘲笑した。とはいえ、救いは願っていたのである。そうした悲しい矛盾を忍ばねばならなかった貧乏は、彼女に女らしさを失わぬ返事を
認めさせた。
(どうかそういう事は仰しゃらないで、大事をするに足りるとお思いになるならば扶助をお与え下さい。でなければ
一言にお断り下さい)
と彼女は明らかな決心を持って、とはいえ事の破れにならぬようにと、余儀なく祈る返事を出した。その後も五十金の借用を申込んだこともある。久佐賀も彼女の家を
度々訪ずれた。
久佐賀と懇意になった
後、直に彼女の一家は本郷へ引移った。荒物店を譲って、丸山福山町の阿部家の山添いで、池にそうた小家へ移った。其処は「
守喜」という
鰻屋の離れ座敷に建てたところで、狭くても気に入った住居であったらしかった。家賃三円にて高しといったのでも、質素な暮しむきが見える。現にこの
間、歌舞伎座で河合、喜多村の両優によって、はじめて女史の作が劇として上場されたあの「濁り江」は、この家に移ってから、その近傍の新開地にありがちな飲屋の女を書いたものであった。女史は其処に移ってからもそうした種類の人たちに頼まれて手紙の代筆をしてやった。ある女は女史の代筆でなくてはならないとて、
数寄屋町の芸妓になった後もわざわざ人力車に乗って書いてもらいに来たという。「濁り江」のお力は、その芸妓になった女をモデルにしたともいわれている。そしてそこが
終焉の地となった。
引越しの動機が彼女の発起でないことは、
国子はものに堪忍ぶの気象とぼし、この分厘にいたく厭たるころとて、前後の慮なくやめにせばやとひたすら進む。母君もかく塵の中にうごめき居らんよりは小さしといへど門構への家に入り、やはらかき衣類にても重ねまほしきが願ひなり、されば我もとの心は知るやしらずや、両人とも進むること切なり。されど年比売尽し、かり尽しぬる後の事とて、この店を閉ぢぬるのち、何方より一銭の入金のあるまじきをおもへば、ここに思慮を廻らさざるべからず。さらばとて運動の方法をさだむ。まづかぢ町なる遠銀に金子五十円の調達を申込む。こは父君存生の頃よりつねに二、三百の金はかし置たる人なる上、しかも商法手広く表をうる人にさへあれば、はじめてのこととて無情くはよもとかゝりしなり。
(「塵中日記」より)
私はもうこの辺で、その人のためには、
茅屋も金殿玉楼と思いなして
訪いおとずれた、その当時はまだ若盛りであった、明治文壇の諸先輩の名をつらねることも、忘れてならない一事だろうと、ほんの、当時の往来だけでもあっさり書いておこうと思う。
第一に孤蝶子――馬場氏が日記の中で
巾をきかしている――先生の熱心と、友愛の情には、女史も心を動かされた事があったのであろう。その次には
平田禿木氏であろう、この二人のためにはかなり日記に字数が納められている。そしてこの二人の親密な友垣の間にあって、女史は淡い悲しみとゆかしさを抱いていたのであろう。
「水の上日記」五月十日の夜のくだりには、池に
蛙の声しきりに、
燈影風にしばしばまたたくところ、座するものは紅顔の美少年馬場孤蝶子、はやく高知の名物とたたえられし、兄君
辰猪が気魂を伝えて、別に詩文の別天地をたくわゆれば、優美高潔かね備えて、おしむところは短慮小心、大事のなしがたからん生れなるべけれども歳は、廿七、一度
跳らば山をも越ゆべしとある。
平田禿木は日本橋伊勢町の商家の子、家は数代の豪商にして家産今
漸くかたぶき、身に思うこと重なるころとはいえ、文学界中出色の文士、年齢は一の年少にして廿三とか聞けり。今の間に高等学校、大学校越ゆれば、学士の称号目の前にあり、彼れは
行水の流れに落花しばらくの春とどむる人であろうといい、(親密々々)これは何の言葉であろうと言い、情に走り、情に酔う恋の中に身を投げいれる人々と、何気なくは書いているものの、
更けて風寒く、空には雲のただずまい、月の明暗する窓によりて、沈黙する禿木氏と、
燈火の影によく語る孤蝶子との中にたって、
茶菓を取まかなっていた女史の胸は、あやしくも動いたのであろう。
此処へ川上
眉山氏がまた加わらなければならない。彼女は初めて逢った眉山氏をどう見たろうか、彼女はこう言っている。
年は廿七とか、丈高く、女子の中にもかゝる美しき人はあまた見がたかるべし、物言ひ打笑むとき頬のほどさと赤うなる。男には似合しからねど、すべて優形にのどやかなる人なり、かねて高名なる作家ともおぼえず心安げにおさなびたり。
とて、孤蝶子の美しさは秋の月、眉山君は春の花、
艶なる姿は京の舞姫のようにて、
柳橋の歌妓にも
譬えられる孤蝶子とはうらうえだと評した。
馬場氏の思いなげに振舞うのが、禿木の気を悪くするのであろうと、
侘しげにも言っている。そして眉山氏も一葉党の一人になってしまった。禿木は孤蝶子との間に疑いを入れて、ねたましげでもあったであろう。それもそのはずで、
孤蝶子よりの便りこの月に入りて文三通、長きは巻紙六枚を重ねて二枚切手の大封じなり。
とある。同じ中に、
優なるは上田君ぞかし、これもこの頃打しきりてとひ来る。されどこの人は一景色ことなり、万に学問のにほひある、洒落のけはひなき人なれども青年の学生なればいとよしかし
とあるは、柳村、
敏博士のことである。その他に一葉の周囲の男性は、
戸川秋骨、島崎藤村、星野
天知、関
如来、
正直正太夫、村上
浪六の諸氏が足近かった。
正太夫は
緑雨の別号をもつ皮肉屋である。浪六はちぬの浦浪六と号して、
撥鬢奴小説で
溜飲を下げてしかも高名であった。
渋仕立の江戸っ子の皮肉屋と、
伊達小袖で寛濶の侠気を売物の浪六と、舞姫のように物優しい眉山との
三巴は、みんな彼女を握ろうとして、仕事を巧みすぎて失敗した。眉山は
強いて一葉の写真を手に入れたのちに、他から出た
噂のようにして、眉山一葉結婚云々と
言触したのでうとまれてしまった。
正太夫年齢は廿九、痩せ姿の面やうすご味を帯びて、唯口許にいひ難き愛敬あり、綿銘仙の縞がらこまかき袷に木綿がすりの羽織は着たれどうらは定めし甲斐絹なるべくや、声びくなれど透通れるやうの細くすずしきにて、事理明白にものがたる。かつて浪六がいひつるごとく、かれは毒筆のみならず、誠に毒心を包蔵せるのなりといひしは実に当れる詞なるべし
と評した斎藤緑雨を、そう言ったほど悪くはあしらいもしなかった。かえって二人は人が思うより気が合った。皮肉屋同士は会心の笑みをうかべあいもした。妻帯の事についてもかなり打明けて語りあっている。でありながら最後に(彼れの底の心は知らぬでもない)と冷たくあしらったのは、あまり正太夫が自分の筆になる鋭利な小説評が、その当時の文壇の勢力を左右した力をもって、折々何事にもあれ一葉の行方を
差示し顔に、その力量をほのめかして、感得させようとしたのから、反抗を買ってしまった。浪六にはその前年から頼んであった金策のことで、
大晦日の夜も
待明したのであったが、その年の五月一日になってもまだ絶えて音信をしなかったので、
誰もたれも言ひがひのなき人々かな、三十金五十金のはしたなるに夫をすらをしみて出し難しとや、さらば明かに調へがたしといひたるぞよき、えせ男作りて、髭かき反せどあはれ見にくしや
と
吐[#ルビの「は」は底本では「ほ」]きだすように言われている。その他に樋口勘次郎は、身は厭世教を持したる教育者で、しかも
不娶主義の主張者でありながら、おめもじの時より骨のなき身になったといって、
勿体なくも君を恋まつれる事幾十日、別紙御一覧の上は八つざきの刑にも処したまへ
とて熱書を寄せもした。されば、
にくからぬ人のみ多し、我れはさは誰と定めて恋渡るべき、一人のために死なば、恋しにしといふ名もたつべし、万人のために死ぬればいかならん、知人なしに、怪しうこと物にやいひ下されんぞそれもよしや。
と思慕の情を寄せてくれる人々に対して誠を語っている。とはいえ、それは思われるに対してである。物思う側の彼女をも、思われた唯一人の幸福者をも記そう。
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