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定本青猫(ていほんあおねこ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 9:24:41  点击:  切换到繁體中文



 古風な博覽會

かなしく ぼんやりとした光線のさすところで
圓頂塔どうむの上に圓頂塔どうむが重なり
それが遠い山脈の方まで續いてゐるではないか。
なんたるさびしげな青空だらう。
透き通つた硝子張りの虚空の下で
あまたのふしぎなる建築が格鬪し
建築の腕と腕とが組み合つてゐる。
このしづかなる博覽會の景色の中を
かしこに遠く 正門を過ぎて人人の影は空にちらばふ
なんたる夢のやうな群集だらう。
そこでは文明のふしぎなる幻燈機械や
天體旅行の奇妙なる見世物をのぞき歩く
さうして西暦千八百十年頃の 佛國巴里市を見せるパノラマ館の裏口から
人の知らない祕密の拔穴「時」の胎内へもぐり込んだ
ああ この逃亡をだれが知るか?
圓頂塔どうむの上に圓頂塔どうむが重なり
無限にはるかなる地平の空で
日ざしは悲しげにただよつてゐる。


 まどろすの歌

愚かな海鳥のやうな姿すがたをして
瓦や敷石のごろごろとする 港の市街區を通つて行かう。
こはれた幌馬車が列をつくつて
むやみやたらに圓錐形の混雜がやつてくるではないか
家臺は家臺の上に積み重なつて
なんといふ人畜のきたなく混雜する往來だらう。
見れば大時計の古ぼけた指盤の向うで
冬のさびしい海景が泣いて居るではないか。
涙を路ばたの石にながしながら
私の辮髮を背中にたれて 支那人みたやうに歩いてゐよう。
かうした暗い光線はどこからくるのか
あるいは理髮師とこや裁縫師したてやの軒に artist の招牌かんばんをかけ
野菜料理や木造旅館の貧しい出窓が傾いて居る。
どうしてこんな貧しい「時」の寫眞を映すのだらう。
どこへもう! 外の行くところさへありはしない。
はやく石垣のある波止場を曲り
遠く沖にある帆船へかへつて行かう。
さうして忘却の錨を解き 記録のだんだんと消えさる
港を訪ねて行かう。


 荒寥地方

散歩者のうろうろと歩いてゐる
十八世紀頃の物さびしい裏街の通りがあるではないか
青や赤や黄色の旗がびらびらして
むかしの出窓に鐵葉ぶりきの帽子が飾つてある。
どうしてこんな情感のふかい市街があるのだらう!
日時計の時刻はとまり
どこに買物をする店や市場もありはしない。
古い砲彈の碎片かけなどが掘り出されて
それが要塞區域の砂の中で まつくろに錆びついてゐたではないか。
どうすれば好いのか知らない
かうして人間どもの生活する 荒寥の地方ばかりを歩いてゐよう。
年をとつた婦人のすがたは
家鴨あひるにはとりによく似てゐて
網膜の映るところに眞紅しんくきれがひらひらする。
なんたるかなしげな黄昏だらう!
象のやうなものが群がつてゐて
郵便局の前をあちこちと彷徨してゐる。
「ああどこに 私の音づれの手紙を書かう!」


 佛陀
  或は 世界の謎

赭土あかつちの多い丘陵地方の
さびしい洞窟の中に眠つてゐるひとよ
君は貝でもない 骨でもない 物でもない。
さうして磯草の枯れた砂地に
ふるく錆びついた時計のやうでもないではないか。
ああ 君は「眞理」の影か 幽靈か
いくとせもいくとせもそこに坐つてゐる
ふしぎの魚のやうに生きてゐる木乃伊みいらよ。
このたへがたくさびしい荒野の涯で
海はかうかうと空に鳴り
大海嘯おほつなみの遠く押しよせてくるひびきがきこえる。
君の耳はそれを聽くか?
久遠くをんのひと 佛陀よ!


 ある風景の内殼から

どこにまあ! この情慾は口を開いたら好いのだらう。
海龜うみがめは山のやうに眠つてゐるし
古生代の海に近く
厚さ千貫目ほどもある ※(「石+車」、第3水準1-89-5)※(「石+渠」、第3水準1-89-12)しやこの貝殼が眺望してゐる。
なんといふ鈍暗な日ざしだらう!
しぶきにけむれる岬岬の島かげから
ふしぎな病院船のかたちが現はれ
それが沈沒した錨のともづなをずるずると曳いてゐるではないか。
ねえ! お孃さん
いつまで僕等は此處に坐り 此處の悲しい岩に竝んでゐるのでせう。
太陽は無限に遠く
光線のさしてくるところに ぼうぼうといふほら貝が鳴る。
お孃さん!
かうして寂しくぺんぎん鳥のやうにならんでゐると
愛も 肝臟も つららになつてしまふやうだ。
やさしいお孃さん!
もう僕には希望のぞみもなく 平和な生活らいふの慰めもないのだよ。
あらゆることが僕を氣ちがひじみた憂鬱にかりたてる
へんに季節は轉轉して
もう春もすもももめちやくちやな妄想の網にこんがらかつた。
どうすれば好いのだらう お孃さん!
ぼくらはおそろしい孤獨の海邊で 大きな貝肉のやうにふるへてゐる。
そのうへ情慾の言ひやうもありはしないし
こんなにも切ない心がわからないの? お孃さん!


 輪※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)と樹木

※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)の暦をかぞへてみれば
わたしの過去は魚でもない 猫でもない 花でもない
さうして草木の祭祀に捧げる 器物うつはや瓦の類でもない
金でもなく 蟲でもなく 隕石でもなく 鹿でもない
ああ ただひろびろとしてゐる無限の「時」の哀傷よ。
わたしのはてない生涯らいふを追うて
どこにこの因果の車を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して行かう!
とりとめもない意志の惱みが あとからあとからとやつてくるではないか。
なんたるあいせつの笛のだらう
鬼のやうなものがゐて木の間で吹いてる。
まるでしかたのない夕暮れになつてしまつた
燈火ともしびをともして窓からみれば
青草むらの中にべらべらと燃える提灯がある。
風もなく
星宿のめぐりもしづかに美しいよるではないか。
ひつそりと魂の祕密をみれば
わたしの轉生はみじめな乞食で
星でもなく 犀でもなく 毛衣けごろもをきた聖人の類でもありはしない。
宇宙はくるくるとまはつてゐて
永世輪※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)のわびしい時刻がうかんでゐる。
さうしてべにがらいろにぬられた恐怖の谷では
けもののやうなはんの木が腕を突き出し
あるいはその根にいろいろな祭壇がからびてる。
どういふ人間どもの妄想だらう!


 暦の亡魂

薄暮のさびしい部屋の中で
わたしのあうむ時計はこはれてしまつた。
感情のねぢは錆びて ぜんまいもぐだらくに解けてしまつた。
こんな古ぼけた暦をみて
どうして宿命のめぐりあふ暦數をかぞへよう。
いつといふこともない
ぼろぼろになつた憂鬱の鞄をさげて
明朝あしたは港の方へでも出かけて行かう。
さうして海岸のけむつた柳のかげで
くびなし船のちらほらと往きふ帆でもながめてゐよう
あるいは波止場の垣にもたれて
乞食共のする砂利場の賭博ばくちでもながめてゐよう。
どこへ行かうといふ國の船もなく
これといふ仕事や職業もありはしない。
まづしい黒毛の猫のやうに
よぼよぼとしてよろめきながら歩いてゐる。
さうして芥燒場ごみやきば泥土でいどにぬりこめられた
このひとのやうなものは
忘れた暦の亡魂だらうよ。


 夢にみる空家の庭の祕密

その空家の庭に生えこむものは松の木の類
枇杷の木 桃の木 まきの木 さざんか さくらの類
さかんな樹木 あたりにひろがる樹木の枝。
またそのむらがる枝の葉かげに ぞくぞくと繁茂するところの植物
およそ しだ わらび ぜんまい もうせんごけの類
地べたいちめんに重なりあつて這ひまはる
それら青いものの生命いのち
それら青いもののさかんな生活。
その空家の庭は、いつも植物の日影になつて薄暗い
ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ
夜も晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音
またじめじめとした垣根のあたり
なめくぢ へび かへる とかげ のぬたぬたとした氣味のわるいすがたをみる。
さうしてこの幽邃な世界のうへに
夜は青じろい月の光がてらしてゐる
月の光は前栽の植込から、しつとりとながれこむ。
あはれにしめやかな この深夜のふけてゆく思ひに心をかたむけ
わたしの心は垣根にもたれて横笛を吹きすさぶ
ああ このいろいろの物のかくされた祕密の生活
かぎりなく美しい影と 不思議なすがたの重なりあふところの世界
月光の中にうかびいづる羊齒しだ わらび 松の木の枝
なめくぢ へび とかげ の不氣味な生活。
ああ わたしの夢によくみる このひと棲まぬ空家の庭の祕密と
いつもその謎のとけやらぬ おもむき深き幽邃のなつかしさよ。


 黒い風琴

おるがんをお彈きなさい 女のひとよ
あなたは黒い着物をきて
おるがんの前に坐りなさい
あなたの指はおるがんを這ふのです
かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに…………。
おるがんをお彈きなさい 女のひとよ

だれがそこで唱つてゐるの
だれがそこでしんみりと聽いてゐるの。
ああこの眞黒な憂鬱の闇のなかで
べつたりと壁に吸ひついて
おそろしい巨大の風琴を彈くのはだれですか。
宗教のはげしい感情 そのふるへ
けいれんするぱいぷおるがん れくれえむ!
お祈りなさい 病氣のひとよ
おそろしいことはない おそろしい時間ときはないのです
お彈きなさい おるがんを
やさしく とうえんに しめやかに
大雪のふりつむときの松葉のやうに
あかるい光彩をなげかけてお彈きなさい
お彈きなさい おるがんを
おるがんをお彈きなさい 女のひとよ。

ああ まつくろのながい着物をきて
しぜんに感情のしづまるまで
あなたはおほきな黒い風琴をお彈きなさい。
おそろしい眞暗の壁の中で
あなたは熱心に身をなげかける
あなた!
ああなんといふはげしく 陰鬱なる感情のけいれんよ


 憂鬱の川邊

川邊で鳴つてゐる
蘆や葦のさやさやといふ音はさびしい。
しぜんに生えてる
するどい ちひさな植物 草本さうほんの莖の類はさびしい。
私は眼を閉ぢて
なにかの草の根を噛まうとする
なにかの草の汁をすふために 憂鬱の苦い汁をすふために。
げにそこにはなにごとの希望もない。
生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ
梅雨だ
じめじめとした雨の點滴のやうなものだ
しかし ああ また雨! 雨! 雨!
そこには生える不思議の草本
あまたの悲しい羽蟲の類
それは憂鬱に這ひまはる 岸邊にそうて這ひまはる。
じめじめした川の岸邊を行くものは
ああこの光るいのちの葬列か
光る精神の病靈か
物みなしぜんに腐れゆく岸邊の草むら
雨に光る木材質のはげしき匂ひ。


 佛の見たる幻想の世界

花やかな月夜である
しんめんたる常盤木の重なりあふところで
ひきさりまたよせかへす美しい浪をみるところで
かのなつかしい宗教の道はひらかれ
かのあやしげなる聖者の夢はむすばれる。
げにそのひとの心をながれるひとつの愛憐
そのひとの瞳孔ひとみにうつる不死の幻想
あかるくてらされ
またさびしく消えさりゆく夢想の幸福と、その怪しげなるかげかたち。
ああ そのひとについて思ふことは
そのひとの見たる幻想の國をかんずることは
どんなにさびしい生活の日暮れを色づくことぞ
いま疲れてながく孤獨の椅子に眠るとき
わたしの家の窓にも月かげさし
月は花やかに空にのぼつてゐる。

佛よ
わたしは愛する おんみの見たる幻想の蓮の花瓣を
青ざめたるいのちに咲ける病熱の花の香氣を
佛よ
あまりに花やかにして孤獨なる。


 鷄

しののめきたるまへ
家家の戸の外で鳴いてゐるのはにはとりです。
聲をばながくふるはして
さむしい田舍の自然から呼びあげる母の聲です
とをてくう とをるもう とをるもう。

朝のつめたい臥床ふしどの中で
私のたましひは羽ばたきする。
この雨戸の隙間からみれば
よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです。
されどもしののめきたるまへ
私の臥床にしのびこむひとつの憂愁。
けぶれる木木の梢をこえ
遠い田舍の自然から呼びあげるとりのこゑです
とをてくう とをるもう とをるもう。

戀びとよ
戀びとよ
有明のつめたい障子のかげに
私はかぐ ほのかなる菊のにほひを
病みたる心靈のにほひのやうに
かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを。
戀びとよ
戀びとよ。

しののめきたるまへ
私の心は墓場のかげをさまよひあるく。
ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥
このうすいべにいろの空氣にはたへられない
戀びとよ
母上よ
早くきてともしびの光を消してよ
私はきく 遠い地角のはてを吹く大風たいふうのひびきを。
とをてくう とをるもう とをるもう。


 みじめな街燈

雨のひどくふつてる中で
道路の街燈はびしよびしよにぬれ
やくざな建築は坂に傾斜し へしつぶされて歪んでゐる。
はうはうぼうぼうとした煙霧の中を
あるひとの運命は白くさまよふ。
そのひとは大外套に身をくるんで
まづしく みすぼらしいとんびのやうだ。
とある建築の窓に生えて
風雨にふるへる ずつくりぬれた青樹をながめる。
その青樹の葉つぱがかれを手招き
かなしい雨の景色の中で
厭やらしく 靈魂たましひのぞつとするものを感じさせた。
さうしてびしよびしよに濡れてしまつた。
影も からだも 生活も 悲哀でびしよびしよに濡れてしまつた。


 恐ろしい山

恐ろしい山の相貌すがたをみた。
まつ暗な夜空にけむりを吹きあげてゐる
おほきな蜘蛛のやうなである。
赤くちろちろと舌をだして
うみざりがにのやうに平つくばつてる。
手足をひろくのばして麓いちめんに這ひ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた
さびしくおそろしい闇夜である。
がうがうといふ風が草を吹いてゐる 遠くの空で吹いてる。
自然はひつそりと息をひそめ
しだいにふしぎな 大きな山のかたちが襲つてくる。
すぐ近いところにそびえ
怪異な相貌すがたが食はうとする。


 題のない歌

南洋の日にやけた裸か女のやうに
夏草の茂つてゐる波止場の向うへ ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた。
ふはふはとした雲が白くたちのぼつて
船員のすふ煙草のけむりがさびしがつてる。
わたしは鶉のやうに羽ばたきながら
さうして丈の高い野茨の上を飛びまはつた。
ああ 雲よ 船よ どこに彼女は航海の碇をすてたか
ふしぎな情熱になやみながら
わたしは沈默の墓地をたづねあるいた。
それはこの草叢くさむらの風に吹かれてゐる
しづかに 錆びついた 戀愛鳥の木乃伊みいらであつた。


 艶めかしい墓場

風は柳を吹いてゐます
どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。
なめくぢは垣根を這ひあがり
見はらしの方からなまあつたかい潮みづがにほつてくる
どうして貴女あなたはここに來たの?
やさしい 青ざめた 草のやうにふしぎな影よ。
貴女は貝でもない 雉でもない 猫でもない
さうしてさびしげなる亡靈よ!
貴女のさまよふからだの影から
まづしい漁村の裏通りで 魚のくさつた臭ひがする。
そのはらわたは日にとけてどろどろと生臭く
かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。
ああ この春夜のやうになまぬるく
べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ
妹のやうにやさしいひとよ。
それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない眞理でもない
さうしてただ なんといふ悲しさだらう。
かうして私の生命いのちや肉體はくさつてゆき
「虚無」のおぼろげな景色のかげで
艶めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。
[#改ページ]

[#「市街之圖」の挿し絵]
 市街之圖

散歩者のうろうろと歩いてゐる
十八世紀頃の物わびしい裏町の通があるではないか
青や 赤や 黄色の旗がびらびらして
むかしの出窓にブリキの帽子が竝んでゐる。
どうしてこんな 情感の深い市街があるのだらう。

――荒寥地方――

[#改ページ]


 くづれる肉體

蝙蝠のむらがつてゐる野原の中で
わたしはくづれてゆく肉體のはしらをながめた。
それは宵闇にさびしくふるへて
影にそよぐしにびとぐさのやうになまぐさく
ぞろぞろと蛆蟲の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。
ああこの影を曳く景色のなかで
わたしの靈魂はむずがゆい恐怖をつかむ
それは港からきた船のやうに 遠く亡靈のゐる島島を渡つてきた。
それは風でもない 雨でもない
そのすべては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ。
さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に
わたしのくづれてゆく影がさびしく泣いた。


 鴉毛の婦人

やさしい鴉毛の婦人よ
わたしの家根裏の部屋にしのんできて
麝香のなまめかしい匂ひをみたす
貴女はふしぎな夜鳥
木製の椅子にさびしくとまつて
そのくちばし心臟こころをついばみ 瞳孔ひとみはしづかな涙にあふれる。
夜鳥よ
このせつない戀情はどこからくるか
あなたの憂鬱なる衣裳をぬいで はや夜露の風に飛びされ。


 緑色の笛

この黄昏の野原のなかを
耳のながい象たちがぞろりぞろりと歩いてゐる。
黄色い夕月が風にゆらいで
あちこちに帽子のやうな草つぱがひらひらする。
さびしいですか お孃さん!
ここに小さな笛があつて その音色は澄んだ緑です。
やさしく歌口うたぐちをお吹きなさい
とうめいなる空にふるへて
あなたの蜃氣樓をよびよせなさい。
思慕のはるかな海の方から
ひとつの幻像いめぢがしだいにちかづいてくるやうだ。
それは首のない猫のやうで 墓場の草影にふらふらする。
いつそこんな悲しい景色の中で 私は死んでしまひたいのよう! お孃さん!


 寄生蟹のうた

潮みづのつめたくながれて
貝の齒はいたみに齲ばみ 酢のやうに溶けてしまつた
ああ ここにはもはや友だちもない 戀もない。
渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる
その草の根はけむりのなかに白くかすんで
春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。
おぼろにみえる沖の方から
船人はふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。
あやしくもここの磯邊にむらがつて
むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる
それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹やどかりの幽
靈ですよ。


 かなしい囚人

かれらは青ざめたしやつぽをかぶり
うすぐらい尻尾しつぽの先を曳きずつて歩きまはる。
そしてみよ そいつの陰鬱なしやべるが泥土ねばつちを掘るではないか。
ああ草の根株は掘つくりかへされ
どこもかしこも曇暗な日ざしがかげつてゐる。
なんといふ退屈な人生だらう
ふしぎな葬式のやうに列をつくつて 大きな建物の影へ出這入りする
この幽靈のやうにさびしい影だ。
硝子のぴかぴかするかなしい野外で
どれも青ざめた紙のしやつぽをかぶり
ぞろぞろと蛇の卵のやうにつながつてくる さびしい囚人の群ではないか。


 猫柳

つめたく青ざめた顏のうへに
け高くにほふ優美の月をうかべてゐます。
月のはづかしい面影
やさしい言葉であなたの死骸に話しかける。
ああ 露しげく
しつとりとぬれた猫柳 夜風のなかに動いてゐます。
ここをさまよひきたりて
うれしいなさけのかずかずを歌ひつくす
そは人の知らないさびしい情慾 さうして情慾です。
ながれるごとき涙にぬれ
私はくちびるに血汐をぬる。
ああ なにといふ戀しさなるぞ
この青ざめた死靈にすがりつきてもてあそぶ
夜風にふかれ
猫柳のかげを暗くさまよふよ そは墓場のやさしい歌ごゑです。


 憂鬱な風景

猫のやうに憂鬱な景色である
さびしい風船はまつすぐに昇つてゆき
りんねるを着た人物がちらちらと居るではないか。
もうとつくにながいあひだ
だれもこんな波止場を思つてみやしない。
さうして荷揚機械のばうぜんとしてゐる海角から
いろいろさまざまな生物意識が消えて行つた。
そのうへ帆船には綿が積まれて
それが沖の方でむくむくと考へこんでゐるではないか。
なんと言ひやうもない
身の毛もよだち ぞつとするやうな思ひ出ばかりだ。
ああ神よ もうとりかへすすべもない
さうしてこんなむしばんだ囘想から いつも幼な兒のやうに泣いてゐよう。

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