小川芋銭先生は、もとは牛里と云ふ雅号で、子規居士時代から俳句を詠んで居られた。牛里とは常陸牛久沼の里の地名から付けた雅号であらうと思はれる。私が、芋銭先生を知つたのは画家としてよりは、俳人として知つて居たので、芋銭先生が画を描くとは知らなかつた。「あの人が画を描くのか」と思つた位ゐであつた。
芋銭先生を初めて知つたのは恰度取手の在に江野村と言ふところがあつて、そこに普門院と云ふ寺があり、その寺は今でもあると思はれるが、そこに福田井村氏が居られた。井村氏は俳句が上手で、たしか子規居士の「春夏秋冬」にも俳句が入選されて居たと思ふ。この人が回覧誌を始めて居て、お手紙などをいただいた。それは今から四十年も前のことであつた。
その頃の俳人で「いばらき」の記者をして居た藤田順吉氏、この人は非常に俳句が好きであつた。子供であつた私は、かうした人と俳句を作ることが、恥しく思つて居た。さうするうち東京へ来て、中学校へ入学などして、正月の休みの時に帰省したりした。或時東京へ戻る途中藤田氏をお訪ねするために水戸へ下車した。すると、藤田氏が、
「小川君も次の汽車で牛久へ戻られるから、君もその汽車で行かれたら好都合です」
と言はれた。
「小川君とは俳人の方ですか」
と私は聞いた。芋銭先生が画家であることを知らなかつたからだ。
「いや、画家です。昨夕も大工町へ行つて酒に酔つて、芸者の半巾やいろいろなものへ河童を描いた。河童は天下一品です。お酒はいくらでも飲みます。この次の汽車ですから、君等をお送りして行かう」
時間が来たので、いばらき新聞社を出た。新聞社から停車場は近い道のりである。果して芋銭先生が居られた。
「君どこへ行く」
芋銭先生が、私にさう言つた。その時、初めてお目にかかつたのであつた。目がお悪かつたやうに記憶して居る。風采は画家らしくない。三十二三歳位ゐであつたらう。芋銭先生も私も三等車であつた。車中で芋銭先生は酒をとり出し、しきりに飲んだ。私にも
「酒はどうです」
と、すすめてくれた。
「飲みません」
と言ふと、
「こんなうまいものはない。酒を飲まぬとは、今の若いものは……」
などと、それから、いろんな話をした。俳句の話、絵の話、そして、この頃は絵を専門に描いて居ると言はれて居た。芋銭先生は牛久で下車された。これが最初の印象であつた。
それから、幾年経たか、或ひは次の年位ゐか、はつきりしないが、江野村の井村氏を私は訪ふた。井村氏はよい人で、
「よく来てくれました。それでは俳友を集めよう」
と、私の来たことを人をして知らせたので、三四人直ぐに来たが、その中で透石と言ふ人は非常な俳論家で、子規や碧梧桐等のいろいろな話を聞かせてくれた。井村氏は子規居士の門下で江野村から東京迄歩いて来たのであつた。その井村氏が子規居士の短冊を持つて居られた。
山吹にふきとばさるる蝶々かな 子規
字も結構であり、俳句もよいと思つたので、私は
「その短冊をくれませんか」
と言つたら、
「君がよい句が出来るやうになつたら、その時にあげませう」
などと言つて居られた。その時も小川先生の話が出たが、それによると、私が芋銭先生を知つたより前に井村氏と小川先生とは親しかつた。芋銭先生と井村氏は同じ時代に俳句を始めたのであつたとのことで、俳句も上手、絵も上手であると井村氏は語つた。これが第二の芋銭先生の印象であつた。
さうして居るうちに私の詩集「枯草」が明治三十五六年頃刊行されたので、それを知人に送つたのであるが、ただ受取つた位ゐの返事や、送り先きに着いたか着かぬか解らなく返事もくれない人のあつたのに芋銭先生は長い手紙をくれて、あそこはああしたらよいとか、ここはかうすればよくなると言つてくれたので、芋銭先生は親切な方だ、と感じたのが第三の印象であつた。
古河町の人で、竹峡と云ふ人があつた。この人は、私と同じ年頃の人でよく古河へ行つては一二泊したことがあつた。或日
「芋銭先生を訪ねよう」
と言ふと、
「君は先生を知つて居るのか」
と、竹峡氏は言つた。私は、一二度逢つたことがあると答へると、そんならと言つて二人して牛久沼を訪ねた。先生のお宅は沼の辺の農家のやうで、奥さんも畑の仕事からあがつてこられた。その時一泊とまつたか、今ははつきりしない。先生は私達に絵を何枚か描いてくれたので、嬉しく思つてこれを貰つて帰つて来ると、今は病気の詩人児玉花外氏が来て、
「芋銭のか、これは面白い」
などと言つて皆持つて行つて終つた。たしか河童も酒になつて花外氏の身体をあたためたことだらう。それきり絵は戻つて来なかつた。それは、とにかくとして、牛久で泊つた時、河童の話などしてよけいに印象をつよめたのであつた。
犬田卯氏とは震災の頃、東京で逢つた。たしか私が、「金の星」と云ふ雑誌をやつて居た頃であつた。芋銭先生の話が出たら犬田氏は、
「芋銭先生は知つて居ます。僕は金が無くなると行つては絵を貰つて来ます」
と微笑して居た。恰度新潮社から私の本が出版されるので、芋銭先生に表紙絵を描いて貰へるだらうかと話したら、貰へるかどうか解らないが、頼んでみたらとのことになつて、私から先生へ手紙を出したら、どう云ふ本の表紙か内容を見せてくれとのことであつたが、もう印刷に廻つて居て、取よせることも出来なかつたので、その頃銚子に居た先生の処へ行つてその話をしながら泊つて来た。先生は
「いくらでも描きませう」
と言つて、直ぐ次の日に送つてくれた。この表紙絵は、古代鏡に鶏が鳴いて居た。とてもよくて誰にでもほめられた。さうして居るうちに年が経つて行つた。
千葉県の布川と布佐の間を流れる大利根に橋がかかつた。布川の町は小池赫山と云ふ人であるが、突然私の宅へやつて来て、
「利根に橋がかかりましたから、その唄を書いて下さい。布川町の唄も作つて下さい。芋銭先生をよく知つて居るから、寄附をしてくれた人へ記念のため扇子へ絵を描いて貰つて配るのです。先生の唄の扇子と共に一対にして配りたいのです」
とのことであつた。私は、芋銭先生の絵をけがすといけないからと、お断りすると、絵と字とは違ふから、二本一対にしたいとの希望があつたので、一本は絵で一本は唄で、これは印刷にされて配られた。当時は全然お目にかかる機会がなかつたけれど、かうしたやうに、いろいろなところよりお変りがないことを知つ
[#底本では「っ」]てお喜びして居たのであつた。
私の宅に犬田氏より求めた芋銭先生の色紙と、長井
雲坪先生の蘭の茶掛とが掛けてある。雲坪先生の絵を芋銭先生はほめて居られたとのことであつた。この雲坪先生を乞食雲坪と言つて居る。なぜ乞食雲坪と云ふかと言ふに、
屯して居る乞食を自宅へ連れて来ては「お客さん」と言つて泊めて居た。座敷は乞食で一杯となつて、自分が坐るところがない。ついには勝手のせまい所へ坐して暗い手ランプをつけて絵を描いて居た。話に聞けば雲坪先生の奥さんが、さうして描いた絵を
「米がないから、絵を買つて下さい」
と、売つて歩いてゐたのは人目を引いたさうだ。
雲坪先生は新潟の
沼垂の地へ婿に行つた。これは、明治時代の前であつた。婿に行つた雲坪は医者になりたいからとて、養家の人に語つて長崎へ飄然と勉強に出掛けた。その後、
杳として婚家へも何処へも音信がない。もう此世に居るのか、居らぬのか解らないと人々は思つて居たさうだ。すると二十二三年経て雲坪先生ぶらりと乞食になつて戻つて来られた。もうその時は養父母は居らず、奥さんが雲坪が長崎へ発足された当時残された二人の子、男一人女一人を育てて居た。そこへ戻つて来たのであつた。雲坪先生は、長崎へ渡つて鉄扇の門下となつて、絵画の研究に没頭し、支那へ渡つて稽古をして居た。雲坪先生は毎朝蘭を描いた。その蘭がうまく描けると一日中気持がよかつた。もし悪く描けた日はその日中気持が悪いと云ふことで、実に古今を通じて蘭描きの名人であつた。蘭を描いては鉄扇も適はなかつた。併し致方ないもので、さうした名人を誰れも知らなかつた。
夏目漱石先生のところに樗蔭と言ふ人が、どこから手に入れたのか一抱えの絵を持ち込んだので、漱石先生は一々それを見て居たが、
「これも駄目だ。あれも駄目だ。どれを見ても皆、銭を欲しがつて描いて居るので、ろくなものはない」
などと言つて居た。すると隅に押しつけてある絵があつた。先生は
「それを見せろ」
と言つた。樗蔭氏は、
「これはつまらぬものです。おまけに貰つて来たのですから駄目です」
と頭からあきらめて居た。漱石先生がそれを見ると、実に気品の高い蘭であつた。
「これはよい。まだくれた人のところへ行つたらあるだらう、これこそ本当の人格の作だ」
漱石先生はしきりにほめたので、樗蔭氏が貰つた人の所へ行つて聞くと、長崎へ行つたらあるだらうとの事であつた。樗蔭氏は、このことを中央公論へ書いた。私は夏目先生を訪ふたことがあつたが、その時樗蔭氏にもお目にかかつたのである。樗蔭氏は夏目先生より後で逝去された。このことがあつて以来、雲坪先生の名は世に知られた。そして雲坪の研究者も現はれて来た。私が新潟へ行つた時、私の話もすんで、人々は私のための晩餐会をすることになつた。海水浴場の料理屋、あそこは静かであるからとて、その料理屋へ行つた。その時、私は沼垂の雲坪先生のことを話した。土地の人は、雲坪のことなら難波博士がよく知つて居て、あそこへ行けば百や二百の雲坪の絵があると教へてくれた。そして難波博士のお宅へ電話をかけてくれた。私は博士の邸へ行つてその持絵の多いのに驚いた。字や絵はいたる所にあつた。難波博士は、雲坪の日本での研究者であることをその時に知つた。数ある中で猿の絵があつたが、これは大きいもので、雲坪が戸隠山へ登つて猿を描写したのであるさうだが、これを見て、先年小川芋銭先生も
「この毛なみをどうして描いたか」
と感嘆しほめてゆかれたとのことであつた。
私の宅に掛けてある雲坪の茶掛は、その時、猿の絵の外はどれでもやるからと言はれて、私の色紙を希望され取替へていただいたものであつた。この蘭の茶掛は硝子の額に這入つてゐたのをとりおろして下されたのである。
私は、芋銭先生の色紙と、雲坪先生の茶掛とを宅に何年か掛けたままである。雲坪と云ふ人とは、逢つたことはないが、一生を乞食雲坪と言はれ乍ら、多くの乞食を「お客さん」として座敷に臥させ、自分は隅で絵を描いてこれを養つた人格と、芋銭先生が今の画家達とは違ひ、静かに河童を描いたり、田園を描いたりして、無欲なそして澄んだ心境を持つてゐることは実に尊敬すべきであると思ふ。この人格の高潔な二名人の絵をかけて居ると、その人の傍に毎日親しんで居る気がして、外に絵はいらぬと思つてゐる。
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