第四章 神と世界
純粋経験の事実が唯一の実在であって神はその統一であるとすれば、神の性質および世界との関係もすべて我々の純粋経験の統一即ち意識統一の性質およびこれとその内容との関係より知ることができる。先ず我々の意識統一は見ることもできず、聞くこともできぬ、全く知識の対象となることはできぬ。一切はこれに由りて成立するが故に能く一切を超絶している。黒にあうて黒を現ずるも心は黒なるのではない、白にあうて白を現んずるも心は白なるのではない。仏教はいうに及ばず、中世哲学においてディオニシュース Dionysius 一派のいわゆる消極的神学が神を論ずるに否定を以てしたのもこの面影を写したのである。ニコラウス・クザヌスの如きは神は有無をも超越し、神は有にしてまた無なりといっている。我々が深く自己の意識の奥底を反省してみる時はかつてヤコブ・ベーメが、神は「物なき静さ」であるとか、「無底」Ungrund であるとかまたは「対象なき意志」 Wille ohne Gegenstand であるとかいった語に深き意味を見出すこともでき、また一種崇高にして不可思議の感に打たれるのである。その他神の永久とか遍在とか全知全能とかいうようのことも、皆この意識統一の性質より解釈せねばならぬ。時間、空間は意識統一に由って成立するが故に、神は時間、空間の上に超絶し永久不滅にして在らざる所なしである。一切は意識統一に由りて生ずるが故に、神は全知全能であって知らぬ所もなく能わぬ所もない、神においては知と能と同一である。
然らば右の如き絶対無限なる神とこの世界との関係は如何なるものであろうか。有を離れたる無は真の無でない、一切を離れたる一は真の一でない、差別を離れたる平等は真の平等でない。神がなければ世界はないように、世界がなければ神もない。固よりここに世界というのは我々のこの世界のみをさすのではない。スピノーザのいったように神の属性 attributes は無限であるから、神は無限の世界を包含しておらねばならぬ。ただ世界的表現は神の本質に属すべきものであって決してその偶然的作用ではない、神はかつて一度世界を創造したのではなく、その永久の創造者である(ヘーゲル)。要するに神と世界との関係は意識統一とその内容との関係である。意識内容は統一に由って成立するが、また意識内容を離れて統一なる者はない。意識内容とその統一とは統一せられる者とする者との二あるのではなく、同一実在の両方面にすぎないのである。すべて意識現象はその直接経験の状態においてはただ一つの活動であるが、これを知識の対象として反省することに由ってその内容が種々に分析せられ差別せられるのである。もしその発展の過程よりいえば、先ず全体が一活動として衝動的に現われたものが矛盾衝突に由ってその内容が反省せられ分別せられたのである。余はここにおいてもベーメの語を想い起さずにはいられない。氏は対象なき意志ともいうべき発現以前の神が己自身を省みること即ち己自身を鏡となすことに由って主観と客観とが分れ、これより神および世界が発展するといっている。
元来、実在の分化とその統一とは一あって二あるべきものではない。一方において統一ということは、一方において分化ということを意味している。たとえば樹において花はよく花たり葉はよく葉たるのが樹の本質を現わすのである。右の如き区別は単に我々の思想上のことであって直接的なる事実上の事ではないのである。ゲーテが「自然は核も殻も持たぬ、すべてが同時に核であり殻である」Natur hat weder Kern noch Schale, alles ist sie mit einem Male. といったように、具体的真実在即ち直接経験の事実においては分化と統一とは唯一の活動である。たとえば一幅の画、一曲の譜において、その一筆一声いずれも直に全体の精神を現わさざるものはなく、また画家や音楽家において一つの感興である者が直に溢れて千変万化の山水となり、紆余曲折の楽音ともなるのである。斯の如き状態においては神は即ち世界、世界は即ち神である。ゲーテが「エペソ人のディヤナは大なるかな」といえる詩の中にいったように、人間の脳中における抽象的の神に騒ぐよりは、専心ディヤナの銀龕を作りつつパウロの教を顧みなかったという銀工の方が、或意味においてかえって真の神に接していたともいえる。エッカルトのいったように神すらも失った所に真の神を見るのである。右の如き状態においては天地ただ一指、万物我と一体であるが、曩にもいったように、一方より見れば実在体系の衝突により、一方より見ればその発展の必然的過程として実在体系の分裂を来すようになる、即ちいわゆる反省なる者が起って来なければならぬ。これに由って現実であった者が観念的となり、具体的であった者が抽象的となり、一であった者が多となる。ここにおいて一方に神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、彼此相対し物々相背くようになる。我らの祖先が知慧の樹の果を食うて神の楽園より追い出だされたというのも、この真理を意味するのであろう。人祖堕落はアダム、エヴの昔ばかりではなく、我らの心の中に時々刻々行われているのである。しかし翻って考えて見れば、分裂といい反省といい別にかかる作用があるのではない、皆これ統一の半面たる分化作用の発展にすぎないのである。分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる、反省は深き統一に達する途である(「善人なほ往生す、いかにいはんや悪人をや」という語がある)。神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ。人間は一方より見れば直に神の自覚である。基督教の伝説をかりていえば、アダムの堕落があってこそ基督の救があり、従って無限なる神の愛が明となったのである。
さて、世界と神との関係を右のように考えることより、我々の個人性は如何に説明せねばならぬであろうか。万物は神の表現であって神のみ真実在であるとすれば、我々の個人性という如き者は虚偽の仮相であって、泡沫の如く全く無意義の者と考えねばならぬであろうか。余は必ずしもかく考うるには及ばぬと思う。固より神より離れて独立せる個人性という者はなかろう。しかしこれが為に我々の個人性は全然虚幻とみるべきものではない、かえって神の発展の一部とみることもできる、即ちその分化作用の一とみることもできる。凡ての人が各自神より与えられた使命をもって生れてきたというように、我々の個人性は神性の分化せる者である、各自の発展は即ち神の発展を完成するのである。この意味において我々の個人性は永久の生命を有し、永遠の発展を成すということができるのである(ロイスの霊魂不滅論を看よ)。神と我々の個人的意識との関係は意識の全体とその部分との関係である。凡て精神現象においては各部分は全体の統一の下に立つと共に、各自が独立の意識でなければならぬ(精神現象においては各部分が end in itself である)。万物は唯一なる神の表現であるということは、必ずしも各人の自覚的独立を否定するに及ばぬ。たとえば我々の時々刻々の意識は個人的統一の下にあると共に、各自が独立の意識と見ることもできると一般である。イリングウォルスは「一の人格は必ず他の人格を求める、他の人格において自己が全人格の満足を得るのである、即ち愛は人格の欠くべからざる特徴である」といっている(Illingworth, Personality human and divine)。他の人格を認めるということは即ち自己の人格を認めることである、而してかく各が相互に人格を認めたる関係は即ち愛であって、一方より見れば両人格の合一である。愛において二つの人格が互に相尊重し相独立しながら而も合一して一人格を形成するのである。かく考えれば神は無限の愛なるが故に、凡ての人格を包含すると共に凡ての人格の独立を認めるということができる。
次に万物は神の表現であるという如き汎神論的思想に対する非難は、如何にして悪の根本を説明することができるかというのである。余の考うる所にては元来絶対的に悪というべき者はない、物は総べてその本来においては善である。実在は即ち善であるといわねばならぬ。宗教家は口を極めて肉の悪を説けども、肉欲とても絶対的に悪であるのではない、ただその精神的向上を妨ぐることにおいて悪となるのである。また進化論の倫理学者のいうように、今日我々が罪悪と称する所の者も或時代においての道徳であったのである。即ち過去の道徳の遺物であるということもできる、ただ現今の時代に適せざるが為に悪となるのである。されば物其者において本来悪なる者があるのではない、悪は実在体系の矛盾衝突より起るのである。而してこの衝突なる者は何から起るかといえば、こは実在の分化作用に基づくもので実在発展の一要件である、実在は矛盾衝突に由りて発展するのである。メフィストフェレスが常に悪を求めて、常に善を造る力の一部と自ら名乗ったように、悪は宇宙を構成する一要素といってもよいのである。固より悪は宇宙の統一進歩の作用ではないから、それ自身において目的とすべきものでないことは勿論である、しかしまた何らの罪悪もなく何らの不満もなき平穏無事なる世界は極めて平凡であって且つ浅薄なる世界といわねばならぬ。罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない。不満なく苦悩なき者は深き精神的趣味を解することはできぬ。罪悪、不満、苦悩は我々人間が精神的向上の要件である、されば真の宗教家はこれらの者において神の矛盾を見ずしてかえって深き神の恩寵を感ずるのである。これらの者あるが為に世界はそれだけ不完全となるのではなく、かえって豊富深遠となるのである。もしこの世から尽くこれらの者を除き去ったならば、啻に精神的向上の途を失うのみならず、いかに多くの美しき精神的事業はまたこれと共にこの世から失せ去るであろうか。宇宙全体の上より考え、且つ宇宙が精神的意義に由って建てられたるものとするならば、これらの者の存在の為に何らの不完全をも見出すことはできない、かえってその必要欠くべからざる所以を知ることができるのである。罪はにくむべき者である、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しきものもない。余はここにおいてオスカル・ワイルドの『獄中記』De Profundis の中の一節を想い起さざるをえない。基督は罪人をば人間の完成に最も近き者として愛した。面白き盗賊をくだくだしい正直者に変ずるのは彼の目的ではなかった。彼はかつて世に知られなかった仕方において罪および苦悩を美しき神聖なる者となした。勿論罪人は悔い改めねばならぬ。しかしこれ彼が為した所のものを完成するのである。希臘人は人は己が過去を変ずることのできないものと考えた、神も過去を変ずる能わずという語もあった。しかし基督は最も普通の罪人もこれを能くし得ることを示した。例の放蕩子息が跪いて泣いた時、かれはその過去の罪悪および苦悩をば生涯において最も美しく神聖なる時となしたのであると基督がいわれるであろうといっている。ワイルドは罪の人であった、故に能く罪の本質を知ったのである。
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第五章 知と愛
知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。何故に知は主客合一であるか。我々が物の真相を知るというのは、自己の妄想臆断(おくだん)即ちいわゆる主観的の者を消磨し尽して物の真相に一致した時、即ち純客観に一致した時始めてこれを能くするのである。たとえば明月の薄黒い処のあるは兎が餅を搗いているのであるとか、地震は地下の大鯰が動くのであるとかいうのは主観的妄想である。然るに我々は天文、地質の学において全然かかる主観的妄想を棄て、純客観的なる自然法則に従うて考究し、ここに始めてこれらの現象の真相に到達することができるのである。我々は客観的になればなるだけ益々能く物の真相を知ることができる。数千年来の学問進歩の歴史は我々人間が主観を棄て客観に従い来った道筋を示した者である。次に何故に愛は主客合一であるかを話して見よう。我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起るのである。親が子となるが故に子の一利一害は己の利害のように感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなる程愛は大きくなり深くなる。親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすすむ。仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。
斯の如く知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。数学者は自己を棄てて数理を愛し数理其者と一致するが故に、能く数理を明にすることができるのである。美術家は能く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に没することに由りて甫めて自然の真を看破し得るのである。また一方より考えて見れば、我はわが友を知るが故にこれを愛するのである。境遇を同じうし思想趣味を同じうし、相理会するいよいよ深ければ深い程同情は益々濃かになる訳である。しかし愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知即愛、愛即知である。数理の妙に心を奪われ寝食を忘れてこれに耽ける時、我は数理を知ると共にこれを愛しつつあるのである。また我々が他人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直に自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。愛は他人の感情を直覚するのである。池に陥らんとする幼児を救うに当りては、可愛いという考すら起る余裕もない。
普通には愛は感情であって純粋なる知識と区別されねばならぬという。しかし事実上の精神現象には純知識という者もなければ純感情という者もない。斯の如き区別は心理学者が学問上便宜の為に作った抽象的概念にすぎない。学理の研究が一種の感情に由って維持せられねばならぬように、他を愛するには一種の直覚が基とならねばならぬ。余の考を以て見ると、普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。両者の差は精神作用その者にあるのではなく、むしろ対象の種類に由るといってよろしい。而して古来幾多の学者哲人のいったように、宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。物の最も深き知識である。分析推論の知識は物の表面的知識であって実在その者を捕捉することはできぬ。我々はただ愛に由りてのみこれに達することができる。愛は知の極点である。
以上少しく知と愛との関係を述べた所で、今これを宗教上の事に当てはめて考えて見よう。主観は自力である、客観は他力である。我々が物を知り物を愛すというのは自力をすてて他力の信心に入る謂である。人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、我々は日々に他力信心の上に働いているのである。学問も道徳も皆仏陀の光明であり、宗教という者はこの作用の極致である。学問や道徳は個々の差別的現象の上にこの他力の光明に浴するのであるが、宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀その者に接するのである。「父よ、もしみこころにかなはばこの杯を我より離したまへ、されど我が意のままをなすにあらず、唯みこころのままになしたまへ」とか、「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」とかいう語が宗教の極意である。而してこの絶対無限の仏もしくは神を知るのはただこれを愛するに因りて能くするのである、これを愛するが即ちこれを知るである。印度のヴェーダ教や新プラトー学派や仏教の聖道門はこれを知るといい、基督教や浄土宗はこれを愛すといいまたはこれに依るという。各自その特色はないではないがその本質においては同一である。神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。実在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのはただ愛または信の直覚に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我ただ神を愛すまたはこれを信ずという者は、最も能く神を知りおる者である。
[#了]
底本:「善の研究」岩波文庫、岩波書店
1950(昭和25)年1月10日第1刷発行
1979(昭和54)年10月16日第48刷改版発行
1999(平成11)年10月25日第86刷発行
底本の親本:「善の研究」岩波書店
1937(昭和12)年改版
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2000年7月27日公開
2000年8月29日修正
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