第十章 人格的善
前には先ず善とは如何なる者でなければならぬかを論じ、善の一般の概念を与えたのであるが、これより我々人間の善とは如何なる者であるかを考究し、これが特徴を明にしようと思う。我々の意識は決して単純なる一の活動ではなく、種々なる活動の綜合であることは誰にも明なる事実である。して見ると、我々の要求なる者も決して単純ではない、種々なる要求のあるのが当然である。然らばこれらの種々なる要求の中で、いずれの要求を充すのが最上の善であるか。我々の自己全体の善とは如何なる者であるかの問題が起ってくる。
我々の意識現象には一つも孤独なる者がない、必ず他と関係の上において成立するのである。一瞬の意識でも已に単純でない、その中に複雑なる要素を含んでいる。而してこれらの要素は互に独立せるものではなくして、彼此関係上において一種の意味をもった者である。啻に一時の意識が斯の如く組織せられてあるのみではなく、一生の意識もまた斯の如き一体系である。自己とはこの全体の統一に名づけたのである。
して見ると、我々の要求というのも決して孤独に起るものではない。必ず他との関係上において生じてくるのである。我々の善とは或一種または一時の要求のみを満足するの謂でなく、或一つの要求はただ全体との関係上において始めて善となることは明である。たとえば身体の善はその一局部の健康でなくして、全身の健全なる関係にあると同一である。それで活動説より見て、善とは先ず種々なる活動の一致調和或は中庸ということとならねばならぬ。我々の良心とは調和統一の意識作用ということとなる。
調和が善であるというのはプラトーの考であった。氏は善を音楽の調和に喩えておる。英のシャフツベリなどもこの考を取っている。また中庸が善であるというのはアリストテレースの説であって、東洋においては『中庸』の書にも現われて居る。アリストテレースは凡て徳は中庸にあるとなし、たとえば勇気は粗暴と怯弱との中庸で、節倹は吝嗇と浪費との中庸であるといった。能く子思の考に似ている。また進化論の倫理学者スペンサーの如きが、善は種々なる能力の平均であるといっているのも、つまり同一の意味である。
しかし、単に調和であるとか中庸であるとかいったのでは未だ意味が明瞭でない。調和とは如何なる意味においての調和であるか、中庸とは如何なる意味においての中庸であるか。意識は同列なる活動の集合ではなくして統一せられたる一体系である。その調和または中庸ということは、数量的の意味ではなくして体系的秩序の意味でなければならぬ。然らば我々の精神の種々なる活動における固有の秩序は如何なるものであるか。我々の精神もその低き程度においては動物の精神と同じく単に本能活動である。即ち目前の対象に対して衝動的に働くので、全く肉欲に由りて動かされるのである。しかし意識現象はいかに単純であっても必ず観念の要求を具えて居る。それで意識活動がいかに本能的といっても、その背後に観念活動が潜んで居らねばならぬ(動物でも高等なる者は必ずそうであろうと思う)。いかなる人間でも白痴の如き者にあらざる以上は、決して純粋に肉体的欲望を以て満足する者ではない、必ずその心の底には観念的欲望が働いている。即ちいかなる人も何らかの理想を抱いて居る。守銭奴の利を貪るのも一種の理想より来るのである。つまり人間は肉体の上において生存しているのではなく、観念の上において生命を有して居るのである。ゲーテの菫という詩に、野の菫が少き牧女に踏まれながら愛の満足を得たというようなことがある。これが凡ての人間の真情であると思う。そこで観念活動というのは精神の根本的作用であって、我々の意識はこれに由りて支配せらるべき者である。即ちこれより起る要求を満足するのが我々の真の善であるといわねばならぬ。然らば更に一歩を進んで、観念活動の根本的法則とは如何なる者であるかといえば、即ち理性の法則ということとなる。理性の法則というのは観念と観念との間の最も一般的なる且つ最も根本的なる関係を言い現わした者で、観念活動を支配する最上の法則である。そこでまた理性という者が我々の精神を支配すべき根本的能力で、理性の満足が我々の最上の善である。何でも理に従うのが人間の善であるということになる。シニックやストイックはこの考を極端に主張した者で、これが為に凡て人心の他の要求を悪として排斥し、理にのみ従うのが一の善であるとまでにいった。しかしプラトーの晩年の考やアリストテレースでは理性の活動より起るのが最上の善であるが、またこれより他の活動を支配し統御するのも善であるといった。
プラトーは有名なる『共和国』において人心の組織を国家の組織と同一視し、理性に統御せられた状態が国家においても個人においても最上の善といっている。
もし我々の意識が種々なる能力の綜合より成っていて、その一が他を支配すべきように構成せられてある者ならば、活動説における善とは右にいった如く理性に従うて他を制御するにあるといわねばならぬ。しかし我々の意識は元来一の活動である。その根柢にはいつでも唯一の力が働いている。知覚とか衝動とかいう瞬間的意識活動にも已にこの力が現われて居る。更に進んで思惟、想像、意志という如き意識的活動に至れば、この力が一層深遠なる形において現われてくる。我々が理性に従うというのも、つまりこの深遠なる統一力に従うの意に外ならない。然らずして抽象的に考えた単に理性というものは、かつて合理説を評した処に述べたように、何らの内容なき形式的関係を与うるにすぎないのである。この意識の統一力なる者は決して意識の内容を離れて存するのではない、かえって意識内容はこの力に由って成立するものである。勿論意識の内容を個々に分析して考うる時は、この統一力を見出すことはできぬ。しかしその綜合の上に厳然として動かすべからざる一事実として現われるのである。たとえば画面に現われたる一種の理想、音楽に現われたる一種の感情の如き者で、分析理解すべき者ではなく、直覚自得すべき者である。而して斯の如き統一力をここに各人の人格と名づくるならば、善は斯の如き人格即ち統一力の維持発展にあるのである。
ここにいわゆる人格の力とは単に動植物の生活力という如き自然的物力をさすのではない。また本能という如き無意識の能力をさすのでもない。本能作用とは有機作用より起る一種の物力である。人格とはこれに反し意識の統一力である。しかしかくいえばとて、人格とは各人の表面的意識の中心として極めて主観的なる種々の希望の如き者をいうのではない。これらの希望は幾分かその人の人格を現わす者であろうが、かえってこれらの希望を没し自己を忘れたる所に真の人格は現われるのである。さらばとてカントのいったような全く経験的内容を離れ、各人に一般なる純理の作用という如き者でもない。人格はその人その人に由りて特殊の意味をもった者でなければならぬ。真の意識統一というのは我々を知らずして自然に現われ来る純一無雑の作用であって、知情意の分別なく主客の隔離なく独立自全なる意識本来の状態である。我々の真人格は此の如き時にその全体を現わすのである。故に人格は単に理性にあらず欲望にあらず況んや無意識衝動にあらず、恰も天才の神来の如く各人の内より直接に自発的に活動する無限の統一力である(古人も道は知、不知に属せずといった)。而してかつて実在の論に述べたように意識現象が唯一の実在であるとすれば、我々の人格とは直に宇宙統一力の発動である。即ち物心の別を打破せる唯一実在が事情に応じ或特殊なる形において現われたものである。
我々の善とは斯の如き偉大なる力の実現であるから、その要求は極めて厳粛である。カントも「我々が常に無限の歎美と畏敬とを以て見る者が二つある、一は上にかかる星斗爛漫なる天と、一は心内における道徳的法則である」といった。
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第十一章 善行為の動機(善の形式)
上来論じた所を総括していえば、善とは自己の内面的要求を満足する者をいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、これを満足する事即ち人格の実現というのが我々に取りて絶対的善である。而してこの人格の要求とは意識の統一力であると共に実在の根柢における無限なる統一力の発現である、我々の人格を実現するというはこの力に合一するの謂である。善はかくの如き者であるとすれば、これより善行為とは如何なる行為であるかを定めることができると思う。
右の考よりして先ず善行為とは凡て人格を目的とした行為であるということは明である。人格は凡ての価値の根本であって、宇宙間においてただ人格のみ絶対的価値をもっているのである。我々には固より種々の要求がある、肉体的欲求もあれば精神的欲求もある、従って富、力、知識、芸術等種々貴ぶべき者があるに相違ない。しかしいかに強大なる要求でも高尚なる要求でも、人格の要求を離れては何らの価値を有しない、ただ人格的要求の一部または手段としてのみ価値を有するのである。富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なるのではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現其者を目的とした即ち意識統一其者の為に働いた行為でなければならぬ。
カントに従えば、物は外よりその価値を定めらるるのでその価値は相対的であるが、ただ我々の意志は自ら価値を定むるもので、即ち人格は絶対的価値を有している。氏の教は誰も知る如く汝および他人の人格を敬し、目的其者 end in itself として取扱えよ、決して手段として用うる勿れということであった。
然らば真に人格其者を目的とする善行為とは如何なる行為でなければならぬか。この問に答うるには人格活動の客観的内容を論じ、行為の目的を明にせねばならぬのであるが、先ず善行為における主観的性質即ちその動機を論ずることとしよう。善行為とは凡て自己の内面的必然より起る行為でなければならぬ。曩にもいったように、我々の全人格の要求は我々が未だ思慮分別せざる直接経験の状態においてのみ自覚することができる。人格とはかかる場合において心の奥底より現われ来って、徐に全心を包容する一種の内面的要求の声である。人格其者を目的とする善行とは斯の如き要求に従った行為でなければならぬ。これに背けば自己の人格を否定した者である。至誠とは善行に欠くべからざる要件である。キリストも天真爛漫嬰児の如き者のみ天国に入るを得るといわれた。至誠の善なるのは、これより生ずる結果の為に善なるのでない、それ自身において善なるのである。人を欺くのが悪であるというは、これより起る結果に由るよりも、むしろ自己を欺き自己の人格を否定するの故である。
自己の内面的必然とか天真の要求とかいうのは往々誤解を免れない。或人は放縦無頼社会の規律を顧みず自己の情欲を検束せぬのが天真であると考えておる。しかし人格の内面的必然即ち至誠というのは知情意合一の上の要求である。知識の判断、人情の要求に反して単に盲目的衝動に従うの謂ではない。自己の知を尽し情を尽した上において始めて真の人格的要求即ち至誠が現われてくるのである。自己の全力を尽しきり、殆ど自己の意識が無くなり、自己が自己を意識せざる所に、始めて真の人格の活動を見るのである。試に芸術の作品について見よ。画家の真の人格即ちオリジナリティは如何なる場合に現われるか。画家が意識の上において種々の企図をなす間は未だ真に画家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技芸内に熟して意到り筆自ら随う所に至って始めてこれを見ることができるのである。道徳上における人格の発現もこれと異ならぬのである。人格を発現するのは一時の情欲に従うのではなく、最も厳粛なる内面の要求に従うのである。放縦懦弱とは正反対であって、かえって艱難辛苦の事業である。
自己の真摯なる内面的要求に従うということ、即ち自己の真人格を実現するということは、客観に対して主観を立し、外物を自己に従えるという意味ではない。自己の主観的空想を消磨し尽して全然物と一致したる処に、かえって自己の真要求を満足し真の自己を見る事ができるのである。一面より見れば各自の客観的世界は各自の人格の反影であるということができる。否各自の真の自己は各自の前に現われたる独立自全なる実在の体系その者の外にはないのである。それで如何なる人でも、その人の最も真摯なる要求はいつでもその人の見る客観的世界の理想と常に一致したものでなければならぬ。たとえばいかに私欲的なる人間であっても、その人に多少の同情というものがあれば、その人の最大要求は、必ず自己の満足を得た上は他人に満足を与えたいということであろう。自己の要求というのは単に肉体的欲望とかぎらず理想的要求ということを含めていうならば、どうしてもかくいわねばならぬ。私欲的なればなる程、他人の私欲を害することに少なからざる心中の苦悶を感ずるのである。かえって私欲なき人にして甫めて心を安んじて他人の私欲を破ることができるであろうと思う。それで自己の最大要求を充し自己を実現するということは、自己の客観的理想を実現するということになる、即ち客観と一致するということである。この点より見て善行為は必ず愛であるということができる。愛というのは凡て自他一致の感情である。主客合一の感情である。啻に人が人に対する場合のみでなく、画家が自然に対する場合も愛である。
プラトーは有名な『シムポジューム』において「愛は欠けたる者が元の全き状態に還らんとする情である」といっている。
しかし更に一歩を進めて考えて見ると、真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に従うのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元来物と我と区別のあるのではない、客観世界は自己の反影といい得るように自己は客観世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない(実在第九精神の章を参看せよ)。天地同根万物一体である。印度の古賢はこれを「それは汝である」 Tat twam asi といい、パウロは「もはや余生けるにあらず基督余に在りて生けるなり」といい(加拉太書第二章二〇)、孔子は「心の欲する所に従うて矩を踰えず」といわれたのである。
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第十二章 善行為の目的(善の内容)
人格その者を目的とする善行為を説明するについて、先ず善行為とは如何なる動機より発する行為でなければならぬかを示したが、これより如何なる目的をもった行為であるかを論じて見よう。善行為というのも単に意識内面の事にあらず、この事実界に或客観的結果を生ずるのを目的とする動作であるから、我々は今この目的の具体的内容を明にせねばならぬ。前に論じたのはいわば善の形式で、今論ぜんとするのは善の内容である。
意識の統一力であって兼ねて実在の統一力である人格は、先ず我々の個人において実現せられる。我々の意識の根柢には分析のできない個人性というものがある。意識活動は凡て皆個人性の発動である。各人の知識、感情、意志は尽くその人に特有なる性質を具えている。意識現象ばかりでなく、各人の容貌、言語、挙動の上にもこの個人性が現われている。肖像画の現わそうとするのは実にこの個人性である。この個人性は、人がこの世に生れると共に活動を始め死に至るまで種々の経験と境遇とに従うて種々の発展をなすのである。科学者はこれを脳の素質に帰するであろうが、余は屡々いったように実在の無限なる統一力の発現であると考える。それで我々は先ずこの個人性の実現ということを目的とせねばならぬ。即ちこれが最も直接なる善である。健康とか知識とかいうものは固より尚ぶべき者である。しかし健康、知識其者が善ではない。我々は単にこれにて満足はできぬ。個人において絶対の満足を与える者は自己の個人性の実現である。即ち他人に模倣のできない自家の特色を実行の上に発揮するのである。個人性の発揮ということはその人の天賦境遇の如何に関せず誰にでもできることである。いかなる人間でも皆各その顔の異なるように、他人の模倣のできない一あって二なき特色をもっているのである。而してこの実現は各人に無上の満足を与え、また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。従来世人はあまり個人的善ということに重きを置いておらぬ。しかし余は個人の善ということは最も大切なるもので、凡て他の善の基礎となるであろうと思う。真に偉人とはその事業の偉大なるが為に偉大なるのではなく、強大なる個人性を発揮した為である。高い処に登って呼べばその声は遠い処に達するであろうが、そは声が大きいのではない、立つ処が高いからである。余は自己の本分を忘れ徒らに他の為に奔走した人よりも、能く自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。
しかし余がここに個人的善というのは私利私欲ということとは異なっている。個人主義と利己主義とは厳しく区別しおかねばならぬ。利己主義とは自己の快楽を目的とした、つまり我儘ということである。個人主義はこれと正反対である。各人が自己の物質欲を恣にするという事はかえって個人性を没することになる。豕が幾匹いてもその間に個人性はない。また人は個人主義と共同主義と相反対するようにいうが、余はこの両者は一致するものであると考える。一社会の中にいる個人が各充分に活動してその天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全なる社会といわれぬ。
個人的善に最も必要なる徳は強盛なる意志である。イブセンのブラントの如き者が個人的道徳の理想である。これに反し意志の薄弱と虚栄心とは最も嫌うべき悪である(共に自重の念を失うより起るのである)。また個人に対し最大なる罪を犯したる者は失望の極自殺する者である。
右にいったように真正の個人主義は決して非難すべき者でない、また社会と衝突すべき者でもない。しかしいわゆる各人の個人性という者は各独立で互に無関係なる実在であろうか。或はまた我々個人の本には社会的自己なる者があって、我々の個人はその発現であろうか。もし前者ならば個人的善が我々の最上の善でなければならぬ。もし後者ならば我々には一層大なる社会の善があるといわねばならぬ。余はアリストテレースがその政治学の始に、人は社会的動物であるといったのは動かすべからざる真理であると思う。今日の生理学上から考えて見ると我々の肉体が已に個人的の者ではない。我々の肉体の本は祖先の細胞にある。我々は我々の子孫と共に同一細胞の分裂に由りて生じた者である。生物の全種属を通じて同一の生物と見ることができる。生物学者は今日生物は死せずといっている。意識生活について見てもその通である。人間が共同生活を営む処には必ず各人の意識を統一する社会的意識なる者がある。言語、風俗、習慣、制度、法律、宗教、文学等は凡てこの社会的意識の現象である。我々の個人的意識はこの中に発生しこの中に養成せられた者で、この大なる意識を構成する一細胞にすぎない。知識も道徳も趣味も凡て社会的意義をもっている。最も普遍的なる学問すらも社会的因襲を脱しない(今日各国に学風というものがあるのはこれが為である)。いわゆる個人の特性という者はこの社会的意識なる基礎の上に現われ来る多様なる変化にすぎない、いかに奇抜なる天才でもこの社会的意識の範囲を脱することはできぬ。かえって社会的意識の深大なる意義を発揮した人である(キリストの猶太教に対する関係がその一例である)。真に社会的意識と何らの関係なき者は狂人の意識の如きものにすぎぬ。
右の如き事実は誰も拒むことはできぬが、さてこの共同的意識なる者が個人的意識と同一の意味において存在する者で、一の人格と見ることができるか否かに至っては種々の異論がある。ヘッフディングなどは統一的意識の実在を否定し、「森は木の集合であってこれを分てば森なる者がない、社会も個人の集合で個人の外に社会という独立なる存在はない」といっている(Hoffding[], Ethik, S. 157)。しかし分析した上で統一が実在せぬから統一がないとはいわれぬ。個人の意識でもこれを分析すれば別に統一的自己という者は見出されない。しかし統一の上に一つの特色があって、種々の現象はこの統一に由って成立する者と見做さねばならぬから、一つの生きた実在と看做すのである。社会的意識も同一の理由に由って一つの生きた実在と見ることができる。社会的意識にも個人的意識と同じように中心もある連絡もある立派に一の体系である。ただ個人的意識には肉体という一つの基礎がある。これは社会的意識と異なる点であるが、脳という者も決して単純なる物体でない、細胞の集合である。社会が個人という細胞に由って成っていると違う所はない。
かく社会的意識なる者があって我々の個人的意識はその一部であるから、我々の要求の大部分は凡て社会的である。もし我々の欲望の中よりその他愛的要素を去ったならば、殆ど何物も残らない位である。我々の生命欲も主なる原因は他愛にあるを以て見ても明である。我々は自己の満足よりもかえって自己の愛する者または自己の属する社会の満足によりて満足されるのである。元来我々の自己の中心は個体の中に限られたる者ではない。母の自己は子の中にあり、忠臣の自己は君主の中にある。自分の人格が偉大となるに従うて、自己の要求が社会的となってくるのである。
これより少しく社会的善の階級を述べよう。社会的意識に種々の階級がある。そのうち最小であって、直接なる者は家族である、家族とは我々の人格が社会に発展する最初の階級といわねばならぬ。男女相合して一家族を成すの目的は、単に子孫を遺すというよりも、一層深遠なる精神的(道徳的)目的をもっている。プラトーの『シムポジューム』の中に、元は男女が一体であったのが、神に由って分割されたので、今に及んで男女が相慕うのであるという話がある。これはよほど面白い考である。人類という典型より見たならば、個人的男女は完全なる人でない、男女を合した者が完全なる一人である。オットー・ヴァイニンゲルが「人間は肉体においても精神においても男性的要素と女性的要素との結合より成った者である、両性の相愛するのはこの二つの要素が合して完全なる人間となる為である」といっている。男子の性格が人類の完全なる典型でないように、女子の性格も完全なる典型ではあるまい。男女の両性が相補うて完全なる人格の発展ができるのである。
しかし我々の社会的意識の発達は家族というような小団体の中にかぎられたものではない。我々の精神的並に物質的生活は凡てそれぞれの社会的団体において発達することができるのである。家族に次いで我々の意識活動の全体を統一し、一人格の発現とも看做すべき者は国家である。国家の目的については色々の説がある。或人は国家の本体を主権の威力に置き、その目的は単に外は敵をふせぎ内は国民相互の間の生命財産を保護するにあると考えている(ショーペンハウエル、テーン、ホッブスなどはこれに属する)。また或人は国家の本体を個人の上に置き、その目的は単に個人の人格発展の調和にあると考えている(ルソーなどの説である)。しかし国家の真正なる目的は第一の論者のいうような物質的でまた消極的なものでなく、また第二の論者のいうように個人の人格が国家の基礎でもない。我々の個人はかえって一社会の細胞として発達し来ったものである。国家の本体は我々の精神の根柢である共同的意識の発現である。我々は国家において人格の大なる発展を遂げることができるのである。国家は統一した一の人格であって、国家の制度法律はかくの如き共同意識の意志の発現である(この説は古代ではプラトー、アリストテレース、近代ではヘーゲルの説である)。我々が国家の為に尽すのは偉大なる人格の発展完成の為である。また国家が人を罰するのは復讐の為でもなく、また社会安寧の為でもない、人格に犯すべからざる威厳がある為である。
国家は今日の処では統一した共同的意識の最も偉大なる発現であるが、我々の人格的発現はここに止まることはできない、なお一層大なる者を要求する。それは即ち人類を打して一団とした人類的社会の団結である。此の如き理想は已にパウロの基督教においてまたストイック学派において現われている。しかしこの理想は容易に実現はできぬ。今日はなお武装的平和の時代である。
遠き歴史の初から人類発達の跡をたどって見ると、国家というものは人類最終の目的ではない。人類の発展には一貫の意味目的があって、国家は各その一部の使命を充す為に興亡盛衰する者であるらしい(万国史はヘーゲルのいわゆる世界的精神の発展である)。しかし真正の世界主義というは各国家が無くなるという意味ではない。各国家が益々強固となって各自の特徴を発揮し、世界の歴史に貢献するの意味である。
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第十三章 完全なる善行
善とは一言にていえば人格の実現である。これを内より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。外に現われたる事実として見れば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達するのである。この両様の見解よりしてなお一つ重要なる問題を説明せねばならぬ必要が起って来る。内に大なる満足を与うる者が必ずまた事実においても大なる善と称すべき者であろうか。即ち善に対する二様の解釈はいつでも一致するであろうかの問題である。
余は先ずかつて述べた実在の論より推論して、この両見解は決して相矛盾衝突することがないと断言する。元来現象に内外の区別はない、主観的意識というも客観的実在界というも、同一の現象を異なった方面より見たので、具体的にはただ一つの事実があるだけである。しばしばいったように世界は自己の意識統一に由りて成立するといってもよし、また自己は実在の或特殊なる小体系といってもよい。仏教の根本的思想であるように、自己と宇宙とは同一の根柢をもっている、否直に同一物である。この故に我々は自己の心内において、知識では無限の真理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として、皆実在無限の意義を感ずることができるのである。我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。実在の真善美は直に自己の真善美でなければならぬ。然らば何故にこの世の中に偽醜悪があるかの疑が起るであろう。深く考えて見れば世の中に絶対的真善美という者もなければ、絶対的偽醜悪という者もない。偽醜悪はいつも抽象的に物の一面を見て全豹を知らず、一方に偏して全体の統一に反する所に現われるのである(実在第五章においていったように、一面より見れば偽醜悪は実在成立に必要である、いわゆる対立的原理より生ずるのである)。
アウグスチヌスに従えば元来世の中に悪という者はない、神より造られたる自然は凡て善である、ただ本質の欠乏が悪である。また神は美しき詩の如くに対立を以て世界を飾った、影が画の美を増すが如く、もし達観する時は世界は罪を持ちながらに美である。
試に善の事実と善の要求との衝突する場合を考えて見ると二つあるのである。一は或行為が事実としては善であるがその動機は善でないというのと、一は動機は善であるが事実としては善でないというのである。先ず第一の場合について考えて見ると、内面的動機が私利私欲であって、ただ外面的事実において善目的に合うているとしても、決してそれが人格実現を目的とする善行といわれまい。我々は時にかかる行為をも賞讃することがあるであろう。しかしそは決して道徳の点より見たのでなく、単に利益という点より見たのである。道徳の点より見れば、かかる行為はたとい愚であっても己が至誠を尽した者に劣っている。或は一個人が己自身を潔うする一人の善行よりも、たとい純粋なる善動機より出でずとするも、多数の人を利する行為の方が勝っているというのでもあろう。しかし人を益するというにも色々の意味があって、単に物質上の利益を与うるというならば、その利益が善い目的に用いらるれば善となるが、悪い目的に用いらるればかえって悪を助けるようにもなる。またいわゆる世道人心を益するという真に道徳的裨益の意味でいうならば、その行為が内面的に真の善行でなかったならばそは単に善行を助くる手段であって、善行其者ではない、たとい小であっても真の善行其者とは比較はできないのである。次に第二の場合について考えて見よう。動機が善くとも、必ずしも事実上善とはいわれないことがある。個人の至誠と人類一般の最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいう所である。しかしかくいう人は至誠という語を正当に解しておらぬと思う。もし至誠という語を真に精神全体の最深なる要求という意味に用いたならば、これらの人のいう所は殆ど事実でないと考える。我々の真摯なる要求は我々の作為したものではない、自然の事実である。真および美において人心の根本に一般的要素を含むように、善においても一般的要素を含んでおる。ファウストが人世について大煩悶の後、夜深く野の散歩より淋しき己が書斎にかえった時のように、夜静に心平なるの時、自らこの感情が働いてくるのである(Goethe, Faust, Erster Teil, Studierzimmer)。我々と全く意識の根柢を異にせるものがあったならばとにかく、凡ての人に共通なる理性を具した人間であるならば、必ず同一に考え同一に求めねばならぬと思う。勿論人類最大の要求が場合に由っては単に可能性に止まって、現実となって働かぬこともあるであろう、しかしかかる場合でも要求がないのではない、蔽われているのである、自己が真の自己を知らないのである。
右に述べたような理由に由って、我々の最深なる要求と最大の目的とは自ら一致するものであると考える。我々が内に自己を鍛錬して自己の真体に達すると共に、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合うようになる、これを完全なる真の善行というのである。かくの如き完全なる善行は一方より見れば極めて難事のようであるが、また一方より見れば誰にもできなければならぬことである。道徳の事は自己の外にある者を求むるのではない、ただ自己にある者を見出すのである。世人は往々善の本質とその外殻とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないように思っている。しかし事業の種類はその人の能力と境遇とに由って定まるもので、誰にも同一の事業はできない。しかし我々はいかに事業が異なっていても、同一の精神を以て働くことはできる。いかに小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人といわねばならぬ。ラファエルの高尚優美なる性格は聖母においてもその最も適当なる実現の材料を得たかも知れぬが、ラファエルの性格は啻に聖母においてのみではなく、彼の描きし凡ての画において現われているのである。たといラファエルとミケランジェロと同一の画題を択んだにしても、ラファエルはラファエルの性格を現わしミケランジェロはミケランジェロの性格を現わすのである。美術や道徳の本体は精神にあって外界の事物にないのである。
終に臨んで一言して置く。善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽して一たびこの世の欲より死して後蘇るのである(マホメットがいったように天国は剣の影にある)。此の如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という。昔ローマ法皇ベネディクト十一世がジョットーに画家として腕を示すべき作を見せよといってやったら、ジョットーはただ一円形を描いて与えたという話がある。我々は道徳上においてこのジョットーの一円形を得ねばならぬ。
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