第三章 意志の自由
意志は心理的にいえば意識の一現象たるに過ぎないが、その本体においては実在の根本であることを論じた。今この意志が如何なる意味において自由の活動であるかを論じて見よう。意志が自由であるか、はたまた必然であるかは久しき以来学者の頭を悩ました問題である。この議論は道徳上大切であるのみならず、これに由りて意志の哲学的性質をも明にすることができるのである。
先ず我々が普通に信ずる所に由って見れば、誰も自分の意志が自由であると考えぬ者はない。自分が自分の意識について経験する所では、或範囲において或事を為すこともできればまた為さぬこともできる。即ち或範囲内においては自由であると信じている。これが為に責任、無責任、自負、後悔、賞讃、非難等の念が起ってくるのである。しかしこの或範囲内ということを今少しく詳しく考えて見よう。凡て外界の事物に属する者は我々はこれを自由に支配することはできぬ。自己の身体すらもどこまでも自由に取扱うことができるとはいわれない。随意筋肉の運動は自由のようであるが、一旦病気にでもかかればこれを自由に動かすことはできぬ。自由にできるというのは単に自己の意識現象である。しかし自己の意識内の現象とても、我々は新に観念を作り出す自由も持たず、また一度経験した事をいつでも呼び起す自由すらも持たない。真に自由と思われるのはただ観念結合の作用あるのみである。即ち観念を如何に分析し、如何に綜合するかが自己の自由に属するのである。勿論この場合においても観念の分析綜合には動かすべからざる先在的法則なる者があって、勝手にできるのではなく、また観念間の結合が唯一であるか、または或結合が特に強盛であった時には、我々はどうしてもこの結合に従わねばならぬのである。ただ観念成立の先在的法則の範囲内において、而も観念結合に二つ以上の途があり、これらの結合の強度が強迫的ならざる場合においてのみ、全然選択の自由を有するのである。
自由意志論を主張する人は、多くこの内界経験の事実を根拠として立論するのである。右の範囲内において動機を選択決定するのは全く我々の自由に属し、我々の他に理由はない、この決定は外界の事情または内界の気質、習慣、性格より独立せる意志という一の神秘力に由るものと考えている。即ち観念の結合の外にこれを支配する一の力があると考えている。これに反し、意志の必然論を主張する人は大概外界における事実の観察を本としてこれより推論するのである。宇宙の現象は一として偶然に起る者はない、極めて些細なる事柄でも、精しく研究すれば必ず相当の原因をもっている。この考は凡て学問と称するものの根本的思想であって、且つ科学の発達と共に益々この思想が確実となるのである。自然現象の中にて従来神秘的と思われていたものも、一々その原因結果が明瞭となって、数学的に計算ができるようにまで進んできた。今日の所でなお原因がないなどと思われているものは我々の意志くらいである。しかし意志といってもこの動かすべからざる自然の大法則の外に脱することはできまい。今日意志が自由であると思うているのは、畢竟未だ科学の発達が幼稚であって、一々この原因を説明することができぬ故である。しかのみならず、意志的動作も個々の場合においては、実に不規則であって一見定まった原因がないようであるが、多数の人の動作を統計的に考えて見ると案外秩序的である、決して一定の原因結果がないとは見られない。これらの考は益々我々の意志に原因があるという確信を強くし、我々の意志は凡ての自然現象と同じく、必然なる機械的因果の法則に支配せらるる者で、別に意志という一種の神秘力はないという断案に到達するのである。
さてこの二つの反対論の孰れが正当であろうか。極端なる自由意志論者は右にいったように、全く原因も理由もなく、自由に動機を決定する一の神秘的能力があるという。しかしかかる意義において意志の自由を主張するならば、そは全く誤謬である。我々が動機を決する時には、何か相当の理由がなければならぬ。たとい、これが明瞭に意識の上に現われておらぬにしても、意識下において何か原因がなければならぬ。また若しこれらの論者のいうように、何らの理由なくして全く偶然に事を決する如きことがあったならば、我々はこの時意志の自由を感じないで、かえってこれを偶然の出来事として外より働いた者と考えるのである。従ってこれに対し責任を感ずることが薄いのである。自由意志論者が内界の経験を本として議論を立つるというが、内界の経験はかえって反対の事実を証明するのである。
次に必然論者の議論について少しく批評を下して見よう。この種の論者は自然現象が機械的必然の法則に支配せらるるから、意識現象もその通りでなければならぬというのであるが、元来この議論には意識現象と自然現象(換言すれば物体現象)とは同一であって、同一の法則に由って支配せらるべきものであるという仮定が根拠となっている。しかしこの仮定は果して正しきものであろうか。意識現象が物体現象と同一の法則に支配せらるべきものか否かは未定の議論である。斯の如き仮定の上に立つ議論は甚だ薄弱であるといわねばならぬ。たとい今日の生理的心理学が非常に進歩して、意識現象の基礎たる脳の作用が一々物理的および化学的に説明ができたとしても、これに由りて意識現象は機械的必然法に因って支配せらるべき者であると主張することができるだろうか。たとえば一銅像の材料たる銅は機械的必然法の支配の外に出でぬであろうが、この銅像の現わす意味はこの外に存するではないか。いわゆる精神上の意味なるものは見るべからず聞くべからず数うべからざるものであって、機械的必然法以外に超然たるものであるといわねばならぬ。
これを要するに、自由意志論者のいうような全く原因も理由もない意志はどこにもない。かくの如き偶然の意志は決して自由と感ぜられないで、かえって強迫と感ぜらるるのである。我々が或理由より働いた時即ち自己の内面的性質より働いた時、かえって自由であると感ぜられるのである。つまり動機の原因が自己の最深なる内面的性質より出でた時、最も自由と感ずるのである。しかしそのいわゆる意志の理由なる者は必然論者のいうような機械的原因ではない。我々の精神には精神活動の法則がある。精神がこの己自身の法則に従うて働いた時が真に自由であるのである。自由には二つの意義がある。一は全く原因がない即ち偶然ということと同意義の自由であって、一は自分が外の束縛を受けない、己自らにて働く意味の自由である。即ち必然的自由の意義である。意志の自由というのは、後者における意味の自由である。しかしここにおいて次の如き問題が起ってくるであろう。自己の性質に従うて働くのが自由であるというならば、万物皆自己の性質に従って働かぬ者はない、水の流れるのも火の燃えるのも皆自己の性質に従うのである。然るに何故に他を必然として、独り意志のみ自由となすのであるか。
いわゆる自然界においては、或一つの現象の起るのはその事情に由りて厳密に定められている。或定まった事情よりは、或定まった一の現象を生ずるのみであって、毫釐も他の可能性を許さない。自然現象は皆かくの如き盲目的必然の法則に従うて生ずるのである。然るに意識現象は単に生ずるのではなくして、意識されたる現象である。即ち生ずるのみならず、生じたことを自知しているのである。而してこの知るといい意識するということは即ち他の可能性を含むということである。我々が取ることを意識するということはその裏面に取らぬという可能性を含むというの意味である。更に詳言すれば、意識には必ず一般的性質の者がある、即ち意識は理想的要素をもっている。これでなければ意識ではない。而してこれらの性質があるということは、現実のかかる出来事の外更に他の可能性を有しているというのである。現実にして而も理想を含み、理想的にして而も現実を離れぬというのが意識の特性である。真実にいえば、意識は決して他より支配される者ではない、常に他を支配しているのである。故に我々の行為は必然の法則に由りて生じたるにせよ、我々はこれを知るが故にこの行為の中に窘束せられておらぬ。意識の根柢たる理想の方より見れば、この現実は理想の特殊なる一例にすぎない。即ち理想が己自身を実現する一過程にすぎない。その行為は外より来たのではなく、内より出でたるのである。また斯の如く現実を理想の一例にすぎないと見るから、他にいくらも可能性を含むこととなるのである。
それで意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない、かえって自己の自然に従うが故に自由である。理由なくして働くから自由であるのではない、能く理由を知るが故に自由であるのである。我々は知識の進むと共に益々自由の人となることができる。人は他より制せられ圧せられてもこれを知るが故に、この抑圧以外に脱しているのである。更に進んでよくその已むを得ざる所以を自得すれば、抑圧がかえって自己の自由となる。ソクラテースを毒殺せしアゼンス人よりも、ソクラテースの方が自由の人である。パスカルも、「人は葦の如き弱き者である、しかし人は考える葦である、全世界が彼を滅さんとするも彼は彼が死することを、自知するが故に殺す者より尚し」といっている。
意識の根柢たる理想的要素、換言すれば統一作用なる者は、かつて実在の編に論じたように、自然の産物ではなくして、かえって自然はこの統一に由りて成立するのである。こは実に実在の根本たる無限の力であって、これを数量的に限定することはできない。全然自然の必然的法則以外に存する者である。我々の意志はこの力の発現なるが故に自由である、自然的法則の支配は受けない。
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第四章 価値的研究
凡て現象或は出来事を見るに二つの点よりすることができる。一は如何にして起ったか、また何故にかくあらざるべからざるかの原因もしくは理由の考究であり、一は何の為に起ったかという目的の考究である。たとえばここに一個の花ありとせよ。こは如何にして出来たかといえば、植物と外囲の事情とにより、物理および化学の法則に因りて生じたものであるといわねばならず、何の為かといえば果実を結ぶ為であるということとなる。前者は単に物の成立の法則を研究する理論的研究であって、後者は物の活動の法則を研究する実践的研究である。
いわゆる無機界の現象にては、何故に起ったかという事はあるが、何の為ということはない、即ち目的がないといわねばならぬ。但この場合でも目的と原因とが同一となっているという事ができる。たとえば玉突台の上において玉を或力を以て或方向に突けば、必ず一定の方向に向って転るが、この時玉に何らの目的があるのではない。或はこれを突いた人には何か目的があるかも知れぬが、これは玉其者の内面的目的でない、玉は外界の原因よりして必然的に動かされるのである。しかしまた一方より考えれば、玉其物に斯の如き運動の力があればこそ玉は一定の方向に動くのである。玉其物の内面的力よりいえば、自己を実現する合目的作用とも見ることができる。更に進んで動植物に至ると、自己の内面的目的という者が明になると共に、原因と目的とが区別せらるるようになる。動植物に起る現象は物理および化学の必然的法則に従うて起ると共に、全然無意義の現象ではない。生物全体の生存および発達を目的とした現象である。かかる現象にありては或原因の結果として起った者が必ずしも合目的とはいわれない、全体の目的と一部の現象とは衝突を来す事がある。そこで我々は如何なる現象が最も目的に合うているか、現象の価値的研究をせねばならぬようになる。
生物の現象ではまだ、その統一的目的なる者が我々人間の外より加えた想像にすぎないとしてこれを除去することもできぬではない。即ち生物の現象は単に若干の力の集合に依りて成れる無意義の結合と見做すこともできるのである。独り我々の意識現象に至っては、決してかく見ることはできない、意識現象は始より無意義なる要素の結合ではなくして、統一せる一活動である。思惟、想像、意志の作用よりその統一的活動を除去したならば、これらの現象は消滅するのである。これらの作用については、如何にして起るかというよりも、如何に考え、如何に想像し、如何に為すべきかを論ずるのが、第一の問題である。ここにおいて論理、審美、倫理の研究が起って来る。
或学者の中には存在の法則よりして価値の法則を導き出そうとする人もある。しかし我々は単にこれよりこれが生ずるということから、物の価値的判断を導き出すことは出来ぬと思う。赤き花はかかる結果を生じ、または青き花はかかる結果を生ずという原因結果の法則からして、何故にこの花は美にしてかの花は醜であるか、何故に一は大なる価値を有し、一はこれを有せぬかを説明することはできぬ。これらの価値的判断には、これが標準となるべき別の原理がなければならぬ。我々の思惟、想像、意志という如き者も、已に事実として起った上は、いかに誤った思惟でも、悪しき意志でも、また拙劣なる想像でも、尽くそれぞれ相当の原因に因って起るのである。人を殺すという意志も、人を助くるの意志も皆或必然の原因ありて起り、また必然の結果を生ずるのである。この点においては両者少しも優劣がない。ただここに良心の要求とか、または生活の欲望という如き標準があって、始めてこの両行為の間に大なる優劣の差異を生ずるのである。或論者は大なる快楽を与うる者が大なる価値を有するものであるというように説明して、これに由りて原因結果の法則より価値の法則を導き得たように考えている。併し何故に或結果が我々に快楽を与え、或結果が我々に快楽を与えぬか、こは単に因果の法則より説明はできまい。我々が如何なるものを好み、如何なるものを悪むかは、別に根拠を有する直接経験の事実である。心理学者は我々の生活力を増進する者は快楽であるという、しかし生活力を増進するのが何故に快楽であるか、厭世家はかえって生活が苦痛の源であるとも考えているではないか。また或論者は有力なる者が価値ある者であると考えている。しかし人心に対し如何なる者が最も有力であるか、物質的に有力なる者が必ずしも人心に対して有力なる者とはいえまい、人心に対して有力なる者は最も我々の欲望を動かす者、即ち我々に対して価値ある者である。有力に由りて価値が定まるのではない、かえって価値に由りて有力と否とが定まるのである。凡て我々の欲望または要求なる者は説明しうべからざる、与えられたる事実である。我々は生きる為に食うという、しかしこの生きる為というのは後より加えたる説明である。我々の食欲はかかる理由より起ったのではない。小児が始めて乳をのむのもかかる理由の為ではない、ただ飲む為に飲むのである。我々の欲望或は要求は啻にかくの如き説明しうべからざる直接経験の事実であるのみならず、かえって我々がこれに由って実在の真意を理解する秘鑰である。実在の完全なる説明は、単に如何にして存在するかの説明のみではなく何の為に存在するかを説明せねばならぬ。
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第五章 倫理学の諸説 その一
已に価値的研究とは如何なる者なるかを論じたので、これより善とは如何なるものであるかの問題に移ることとしよう。我々は上にいったように我々の行為について価値的判断を下す、この価値的判断の標準は那辺にあるか、如何なる行為が善であって、如何なる行為が悪であるか、これらの倫理学的問題を論じようと思うのである。かかる倫理学の問題は我々に取りて最も大切なる問題である。いかなる人もこの問題を疎外することはできぬ。東洋においてもまた西洋においても、倫理学は最も古き学問の一であって、従って古来倫理学に種々の学説があるから、今先ずこの学における主なる学派の大綱をあげかつこれに批評を加えて、余が執らんとする倫理学説の立脚地を明かにしようと思う。
古来の倫理学説を大別すると、大体二つに別れる。一つは他律的倫理学説というので、善悪の標準を人性以外の権力に置こうとする者と、一つは自律的倫理学説といって、この標準を人性の中に求めようとするのである。外になお直覚説というのがある、この説の中には色々あって、或者は他律的倫理学説の中に入ることができるが、或者は自律的倫理学説の中に入らねばならぬものである。今先ず直覚説より始めて順次他に及ぼうと思う。
この学説の中には種々あるが、その綱領とする所は我々の行為を律すべき道徳の法則は直覚的に明なる者であって、他に理由があるのではない、如何なる行為が善であり、如何なる行為が悪であるかは、火は熱にして、水は冷なるを知るが如く、直覚的に知ることができる、行為の善悪は行為その者の性質であって、説明すべき者でないというのである。なるほど我々の日常の経験について考えて見ると、行為の善悪を判断するのは、かれこれ理由を考えるのではなく、大抵直覚的に判断するのである。いわゆる良心なる者があって、恰も眼が物の美醜を判ずるが如く、直に行為の善悪を判ずることができるのである。直覚説はこの事実を根拠とした者で、最も事実に近い学説である。しかのみならず、行為の善悪は理由の説明を許さぬというのは、道徳の威厳を保つ上において頗る有効である。
直覚説は簡単であって実践上有効なるにも拘らず、これを倫理学説として如何ほどの価値があるであろうか。直覚説において直覚的に明であるというのは、人性の究竟的目的という如きものではなくて、行為の法則である。勿論直覚説の中にも、凡ての行為の善悪が個々の場合において直覚的に明であるというのと、個々の道徳的判断を総括する根本的道徳法が直覚的に明瞭であるというのと二つあるが、いずれにしても或直接自明なる行為の法則があるというのが直覚説の生命である。しかし我々が日常行為について下す所の道徳的判断、即ちいわゆる良心の命令という如き者の中に、果して直覚論者のいう如き直接自明で、従って正確で矛盾のない道徳法なる者を見出しうるであろうか。先ず個々の場合について見るに、決してかくの如き明確なる判断のないことは明である。我々は個々の場合において善悪の判断に迷うこともあり、今は是と考えることも後には非と考えることもあり、また同一の場合でも、人に由りて大に善悪の判断を異にすることもある。個々の場合において明確なる道徳的判断があるなどとは少しく反省的精神を有する者の到底考えることができないことである。然らば一般の場合においては如何、果して論者のいう如き自明の原則なる者があるであろうか。第一にいわゆる直覚論者が自明の原則として掲げている所の者が人に由りて異なり決して常に一致することなきことが、一般に認めらるべき程の自明の原則なる者がないことを証明している。しかのみならず、世事が自明の義務として承認しているものの中より、一もかかる原則を見出すことはできぬ。忠孝という如きことは固より当然の義務であるが、その間には種々衝突もあり、変遷もあり、さていかにするのが真の忠孝であるか、決して明瞭ではない。また智勇仁義の意義について考えて見ても、いかなる智いかなる勇が真の智勇であるか、凡ての智勇が善とはいわれない、智勇がかえって悪の為に用いられることもある。仁と義とはその内で最も自明の原則に近いのであるが、仁はいつ如何なる場合においても、絶対的に善であるとはいわれない、不当の仁はかえって悪結果を生ずることもある。また正義といっても如何なる者が真の正義であるか、決して自明とはいわれない、たとえば人を待遇するにしても、如何にするのが正当であるか、単に各人の平等ということが正義でもない、かえって各人の価値に由るが正義である。然るにもし各人の価値に由るとするならば、これを定むる者は何であるか。要するに我々は我々の道徳的判断において、一も直覚論者のいう如き自明の原則をもっておらぬ。時に自明の原則と思われるものは、何らの内容なき単に同意義なる語を繰返せる命題にすぎないのである。
右に論じた如く、直覚説はその主張する如き、善悪の直覚を証明することができないとすれば、学説としては甚だ価値少きものであるが、今仮にかかる直覚があるものとして、これに由りて与えられたる法則に従うのが善であるとしたならば、直覚説は如何なる倫理学説となるであろうかを考えて見よう。純粋に直覚といえば、論者のいう如く理性に由りて説明することができない、また苦楽の感情、好悪の欲求に関係のない、全く直接にして無意義の意識といわねばならぬ。もしかくの如き直覚に従うのが善であるとすれば、善とは我々に取りて無意義の者であって、我々が善に従うのは単に盲従である、即ち道徳の法則は人性に対して外より与えられたる抑圧となり、直覚説は他律的倫理学と同一とならねばならぬ。然るに多くの直覚論者は右の如き意味における直覚を主張しておらぬ。或者は直覚を理性と同一視している、即ち道徳の根本的法則が理性に由りて自明なる者と考えている。しかしかくいえば善とは理に従う事であって、善悪の区別は直覚に由って明なるのではなく、理に由りて説明しうることとなる。また或直覚論者は直覚と直接の快不快、または好悪ということを同一視している。しかしかく考えれば善は一種の快楽または満足を与うるが故に善であるので、即ち善悪の標準は快楽または満足の大小ということに移って来る。かくの如く直覚なる語の意味に由って、直覚説は他の種々なる倫理学説と接近する。勿論純粋なる直覚説といえば、全く無意義の直覚を意味するのでなければならぬのであるが、斯の如き倫理学説は他律的倫理学と同じく、何故に我々は善に従わねばならぬかを説明することはできぬ。道徳の本は全く偶然にして無意味の者となる。元来我々が実際に道徳的直覚といっている者の中には種々の原理を含んでいるのである。その中全く他の権威より来る他律的の者もあれば、理性より来れる者また感情および欲求より来れる者をも含んでいる。これいわゆる自明の原則なる者が種々の矛盾衝突に陥る所以である。かかる混雑せる原理を以て学説を設立する能わざることは明である。
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第六章 倫理学の諸説 その二
前に直覚説の不完全なることを論じ、かつ直覚の意義に由りて、種々相異なれる学説に変じうることをのべた。今純粋なる他律的倫理学、即ち権力説について述べようと思う。この派の論者は、我々が道徳的善といっている者が、一面において自己の快楽或は満足という如き人性の要求と趣を異にし、厳粛な命令の意味を有する辺に着目し、道徳は吾人に対し絶大なる威厳または勢力を有する者の命令より起ってくるので、我々が道徳の法則に従うのは自己の利害得失の為ではなく、単にこの絶大なる権力の命令に従うのである、善と悪とは一に此の如き権力者の命令に由って定まると考えている。凡て我々の道徳的判断の本は師父の教訓、法律、制度、習慣等に由りて養成せられたる者であるから、かかる倫理学説の起るのも無理ならぬことであって、この説はちょうど前の直覚説における良心の命令に代うるに外界の権威を以てした者である。
この種の学説において外界の権力者と考えられる者は、勿論自ら我々に対して絶大の威厳勢力をもった者でなければならぬ。倫理学史上に現われたる権力説の中では、君主を本としたる君権的権力説と、神を本としたる神権的権力説との二種がある。神権的倫理学は基督教が無上の勢力をもっていた中世時代に行われたので、ドゥンス・スコトゥスなどがその主張者である。氏に従えば神は我々に対し無限の勢力を有するものであって、而も神意は全く自由である。神は善なる故に命ずるのでもなく、また理の為になすのでもない、神は全くこれらの束縛以外に超越している。善なるが故に神これを命ずるのではなく、神これを命ずるが故に善なるのである。氏は極端にまでこの説を推論して、もし神が我々に命ずるに殺戮を以てしたならば、殺戮も善となるであろうとまでにいった。また君権的権力説を主張したのは近世の始に出た英国のホッブスという人である。氏に従えば人性は全然悪であって弱肉強食が自然の状態である。これより来る人生の不幸を脱するのは、ただ各人が凡ての権力を一君主に托して絶対にその命令に服従するにある。それで何でもこの君主の命に従うのが善であり、これに背くのが悪であるといっている。その他シナにおいて荀子が凡て先王の道に従うのが善であるといったのも、一種の権力説である。
右の権力説の立場より厳密に論じたならば、如何なる結論に達するであろうか。権力説においては何故に我々は善をなさねばならぬかの説明ができぬ、否説明のできぬのが権力説の本意である。我々はただ権威であるからこれに従うのである。何か或理由の為にこれに従うならば、已に権威その者の為に従うのではなく、理由の為に従うこととなる。或人は恐怖ということが権威に従う為の最適当なる動機であるという、併し恐怖ということの裏面には自己の利害得失ということを含んでいる。しかしもし自己の利害の為に従うならば已に権威の為に従うのではない。ホッブスの如きはこれが為に純粋なる権威説の立脚地を離れている。また近頃最も面白く権威説を説明したキルヒマンの説に由ると、我々は何でも絶大なる勢力を有するもの、たとえば高山、大海の如き者に接する時は、自らその絶大なる力に打たれて驚動の情を生ずる、この情は恐怖でもなく、苦痛でもなく、自己が外界の雄大なる事物に擒にせられ、これに平服し没入するの状態である。而してこの絶大なる勢力者がもし意志をもった者であるならば、自らここに尊敬の念を生ぜねばならぬ、即ちこの者の命令には尊敬の念を以て服従するようになる、それで尊敬の念ということが、権威に従う動機であるといっている。しかし能く考えて見ると、我々が他を尊敬するというのは、全然故なくして尊敬するのではない、我々は我々の達する能わざる理想を実現し得たる人なるが故に尊敬するのである。単に人その者を尊敬するのではなく理想を尊敬するのである。禽獣には釈迦も孔子も半文銭の価値もないのである。それで厳密なる権力説では道徳は全く盲目的服従でなければならぬ。恐怖というも、尊敬というも、全く何らの意義のない盲目的感情でなければならぬ。エソップの寓話の中に、或時鹿の子が母鹿の犬の声に怖れて逃げるのを見て、お母さんは大きな体をして何故に小さい犬の声に駭いて逃げるのであるかと問うた。所が母鹿は何故かは知らぬが、ただ犬の声が無暗にこわいから逃げるのだといったという話がある。かくの如き無意義の恐怖が権力説において最も適当なる道徳的動機であると考える。果してかかる者であるならば、道徳と知識とは全く正反対であって、無知なる者が最も善人である。人間が進歩発達するには一日も早く道徳の束縛を脱せねばならぬということになる。またいかなる善行でも権威の命令に従うという考なく、自分がその為さざるべからざる所以を自得して為したことは道徳的善行でないということとなる。
権威説よりはかくの如く道徳的動機を説明することができぬばかりでなく、いわゆる道徳法というものも殆ど無意義となり、従って善悪の区別も全く標準がなくなってくる。我々はただ権威なる故に盲目的にこれに服従するというならば、権威には種々の権威がある。暴力的権威もあれば、高尚なる精神的権威もある。しかしいずれに従うのも権威に従うのであるから、斉しく一であるといわねばならぬ。即ち善悪の標準は全く立たなくなる。勿論力の強弱大小というのが標準となるように思われるが、力の強弱大小ということも、何か我々が理想とする所の者が定まって、始めてこれを論じ得るのである。耶蘇とナポレオンとはいずれが強いか、そは我々の理想の定めように由るのである。もし単に世界に存在する力をもっている者が有力であるというならば、腕力をもった者が最も有力ということにもなる。
西行法師が「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさになみだこぼるる」と詠じたように、道徳の威厳は実にその不測の辺に存するのである。権威説のこの点に着目したのは一方の真理を含んではいるが、これが為に全然人性自然の要求を忘却したのは、その大なる欠点である。道徳は人性自然の上に根拠をもった者で、何故に善をなさねばならぬかということは人性の内より説明されねばならぬ。
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第七章 倫理学の諸説 その三
他律的倫理学では、上にいったように、どうしても何故に我々は善を為さねばならぬかを説明することができぬ。善は全く無意義の者となるのである。そこで我々は道徳の本を人性の中に求めねばならぬようになってくる。善は如何なる者であるか、何故に善を為さねばならぬかの問題を、人性より説明せねばならぬようになってくる。かくの如き倫理学を自律的倫理学という。これには三種あって、一つは理性を本とする者で合理説または主知説といい、一つは苦楽の感情を本とする者で快楽説といい、また一つは意志の活動を本とする者で活動説という。今先ず合理説より話そう。
合理的若しくは主知的倫理学 dianoetic ethics というのは、道徳上の善悪正邪ということと知識上の真偽ということとを同一視している。物の真相が即ち善である、物の真相を知れば自ら何を為さねばならぬかが明となる、我々の義務は幾何学的真理の如く演繹しうる者であると考えている。それで我々は何故に善を為さねばならぬかといえば、真理なるが故であるというのである。我々人間は理性を具しておって、知識において理に従わねばならぬように、実行においても理に従わねばならぬのである(ちょっと注意しておくが、理という語には哲学上色々の意味があるが、ここに理というのは普通の意味における抽象的概念の関係をいうのである)。この説は一方においてはホッブスなどのように、道徳法は君主の意志に由りて左右し得る随意的の者であるというに反し、道徳法は物の性質であって、永久不変なることを主張し、また一方では、善悪の本を知覚または感情の如き感受性に求むる時は、道徳法の一般性を説明することができず、義務の威厳を滅却し、各人の好尚を以て唯一の標準とせねばならぬようになるのを恐れて、理の一般性に基づいて、道徳法の一般性を説明し義務の威厳を立せんとしたのである。この説は往々前にいった直覚説と混同せらるることが多いが、直覚ということは必ずしも理性の直覚と限るには及ばぬ。この二者は二つに分って考えた方がよいと思う。
余は合理説の最醇なる者はクラークの説であると考える。氏の考に依れば、凡て人事界における物の関係は数理の如く明確なる者で、これに由りて自ら物の適当不適当を知ることができるという。たとえば神は我々より無限に優秀なる者であるから、我々はこれに服従せねばならぬとか、他人が己に施して不正なる事は自分が他人に為しても不正であるというような訳である。氏はまた何故に人間は善を為さねばならぬかを論じて、合理的動物は理に従わざるべからずといっている。時としては、正義に反して働かんとする者は物の性質を変ぜんと欲するが如き者であるとまでにいって、全く「ある」ということと「あらねばならぬ」ということを混同している。
合理説が道徳法の一般性を明にし、義務を厳粛ならしめんとするは可なれども、これを以て道徳の全豹を説き得たるものとなすことはできぬ。論者のいうように、我々の行為を指導する道徳法なる者が、形式的理解力によりて先天的に知りうる者であろうか。純粋なる形式的理解力は論理学のいわゆる思想の三法則という如き、単に形式的理解の法則を与うることはできるが、何らの内容を与うることはできぬ。論者は好んで例を幾何学に取るが、幾何学においても、その公理なる者は単に形式的理解力に由りて、明になったのではなく、空間の性質より来るのである。幾何学の演繹的推理は空間の性質についての根本的直覚に、論理法を応用したものである。倫理学においても、已に根本原理が明となった上はこれを応用するには、論理の法則に由らねばならぬのであろうが、この原則その者は論理の法則に由って明になったのではない。たとえば汝の隣人を愛せよという道徳法は単に理解力に由りて明であるであろうか。我々に他愛の性質もあれば、また自愛の性質もある。然るに何故にその一が優っていて他が劣っているのであろうか、これを定むる者は理解力ではなくして、我々の感情または欲求である。我々は単に知識上に物の真相を知り得たりとしても、これより何が善であるかを知ることはできぬ。かくあるということより、かくあらねばならぬということを知ることはできぬ。クラークは物の真相より適不適を知ることができるというが、適不適ということは已に純粋なる知識上の判断ではなくして、価値的判断である。何か求むる所の者があって、然る後適不適の判断が起ってくるのである。
次に論者は何故に我々は善を為さねばならぬかということを説明して、理性的動物なるが故に理に従わねばならぬという。理を解する者は知識上において理に従わねばならぬのは当然である。しかし単に論理的判断という者と意志の選択とは別物である。論理の判断は必ずしも意志の原因とはならぬ。意志は感情または衝動より起るもので、単に抽象的論理より起るものではない。己の欲せざる所人に施す勿れという格言も、もし同情という動機がなかったならば、我々に対して殆ど無意義である。もし抽象的論理が直に意志の動機となり得るものならば、最も推理に長じた人は即ち最善の人といわねばならぬ。然るに事実は時にこれに反して知ある人よりもかえって無知なる人が一層善人であることは誰も否定することはできない。
曩には合理説の代表者としてクラークをあげたが、クラークはこの説の理論的方面の代表者であって、実行的方面を代表する者はいわゆる犬儒学派であろう。この派はソクラテースが善と知とを同一視するに基づき、凡ての情欲快楽を悪となし、これに打克って純理に従うのを唯一の善となした、而もそのいわゆる理なる者は単に情欲に反するのみにて、何らの内容なき消極的の理である。道徳の目的は単に情欲快楽に克ちて精神の自由を保つということのみであった。有名なるディオゲネスの如きがその好模範である。その学派の後またストア学派なる者があって、同一の主義を唱道した。ストア学派に従えば、宇宙は唯一の理に由りて支配せらるる者で、人間の本質もこの理性の外にいでぬ、理に従うのは即ち自然の法則に従うのであって、これが人間において唯一の善である、生命、健康、財産も善ではなく、貧苦、病死も悪ではない、ただ内心の自由と平静とが最上の善であると考えた。その結果犬儒学派と同じく、凡ての情欲を排斥して単に無欲 Apathie たらんことを務むるようになった。エピクテートの如きはその好例である。
右の学派の如く、全然情欲に反対する純理を以て人性の目的となす時には、理論上においても何らの道徳的動機を与うることができぬように、実行上においても何らの積極的善の内容を与うることはできぬ。シニックスやストアがいったように、単に情欲に打克つということが唯一の善と考うるより外はない。しかし我々が情欲に打克たねばならぬというのは、更に何か大なる目的の求むべき者がある故である。単に情欲を制する為に制するのが善であるといえば、これより不合理なることはあるまい。
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第八章 倫理学の諸説 その四
合理説は他律的倫理学に比すれば更に一歩をすすめて、人性自然の中より善を説明せんとする者である。しかし単に形式的理性を本としては、前にいったように、到底何故に善をなさざるべからざるかの根本的問題を説明することはできぬ。そこで我々が深く自己の中に反省して見ると、意志は凡て苦楽の感情より生ずるので、快を求め不快を避けるというのが人情の自然で動かすべからざる事実である。我々が表面上全く快楽の為にせざる行為、たとえば身を殺して仁をなすという如き場合にても、その裏面について探って見ると、やはり一種の快楽を求めているのである。意志の目的は畢竟快楽の外になく、我々が快楽を以て人生の目的となすということは更に説明を要しない自明の真理である。それで快楽を以て人性唯一の目的となし、道徳的善悪の区別をもこの原理に由りて説明せんとする倫理学説の起るのは自然の勢である。これを快楽説という。この快楽説には二種あって、一つを利己的快楽説といい、他を公衆的快楽説という。
利己的快楽説とは自己の快楽を以て人生唯一の目的となし、我々が他人の為にするという場合においても、その実は自己の快楽を求めているのであると考え、最大なる自己の快楽が最大の善であるとなすのである。この説の完全なる代表者は希臘におけるキレーネ学派とエピクロースとである。アリスチッポスは肉体的快楽の外に精神的快楽のあることは許したが、快楽はいかなる快楽でも凡て同一の快楽である、ただ大なる快楽が善であると考えた。而して氏は凡て積極的快楽を尚び、また一生の快楽よりもむしろ瞬間の快楽を重んじたので、最も純粋なる快楽説の代表者といわねばならぬ。エピクロースはやはり凡ての快楽を以て同一となし、快楽が唯一の善で、如何なる快楽も苦痛の結果を生ぜざる以上は、排斥すべきものにあらずと考えたが、氏は瞬間の快楽よりも一生の快楽を重しとし、積極的快楽よりもむしろ消極的快楽、即ち苦悩なき状態を尚んだ。氏の最大の善というのは心の平和 tranquility of mind ということである。しかし氏の根本主義はどこまでも利己的快楽説であって、希臘人のいわゆる四つの主徳、睿知、節制、勇気、正義という如き者も自己の快楽の手段として必要であるのである。正義ということも、正義其者が価値あるのではなく、各人相犯さずして幸福を享ける手段として必要なのである。この主義は氏の社会的生活に関する意見において最も明である。社会は自己の利益を得る為に必要なのである。国家は単に個人の安全を謀る為に存在するのである。もし社会的煩累を避けて而も充分なる安全を得ることができるならば、こは大に望むべき所である。氏の主義はむしろ隠遁主義 λαθε βιωσασ[] である。氏はこれに由りて、なるべく家族生活をも避けんとした。
次に公衆的快楽説、即ちいわゆる功利説について述べよう。この説は根本的主義においては全く前説と同一であるが、ただ個人の快楽を以て最上の善となさず、社会公衆の快楽を以て最上の善となす点において前説と異なっている。この説の完全なる代表者はベンザムである。氏に従えば人生の目的は快楽であって、善は快楽の外にない。而していかなる快楽も同一であって、快楽には種類の差別はない(留針押しの遊の快楽も高尚なる詩歌の快楽も同一である)、ただ大小の数量的差異あるのみである。我々の行為の価値は直覚論者のいうようにその者に価値があるのではなく、全くこれより生ずる結果に由りて定まるのである。即ち大なる快楽を生ずる行為が善行である。而して如何なる行為が最も大なる善行であるかといえば、氏は個人の最大幸福よりも多人数の最大幸福が快楽説の原則よりして道理上一層大なる快楽と考えねばならぬから、最大多数の最大幸福というのが最上の善であるといっている。またベンザムはこの快楽説に由りて、行為の価値を定むる科学的方法をも論じている。氏に従えば、快楽の価値は大抵数量的に定め得る者であって、たとえば強度、長短、確実、不確実等の標準に由りて快楽の計算ができると考えたのである。氏の説は快楽説として実に能く辻褄の合った者であるが、ただ一つ何故に個人の最大快楽ではなくて、最大多数の最大幸福が最上の善でなければならぬかの説明が明瞭でない。快楽にはこれを感ずる主観がなければなるまい。感ずる者があればこそ快楽があるのである。而してこの感ずる主というのはいつでも個人でなければならぬ。然らば快楽説の原則よりして何故に個人の快楽よりも多人数の快楽が上に置かれねばならぬのであるか。人間には同情というものがあるから己独り楽むよりは、人と共に楽んだ方が一層大なる快楽であるかも知れない、ミルなどはこの点に注目している。しかしこの場合においても、この同情より来る快楽は他人の快楽ではなく、自分の快楽である。やはり自己の快楽が唯一の標準であるのである。もし自己の快楽と他人の快楽と相衝突した場合は如何。快楽説の立脚地よりしては、それでも自己の快楽をすてて他人の快楽を求めねばならぬということができるであろうか。エピクロースのように利己主義となるのが、かえって快楽説の必然なる結果であろう。ベンザムもミルも極力自己の快楽と他人の快楽とが一致するものであると論じているが、かかる事は到底、経験的事実の上において証明はできまいと思う。
これまで一通り快楽説の主なる点をのべたので、これよりその批評に移ろう。先ず快楽説の根本的仮定たる快楽は人生唯一の目的であるということを承認した処で、果して快楽説に由りて充分なる行為の規範を与うることができるであろうか。厳密なる快楽説の立脚地より見れば、快楽は如何なる快楽でも皆同種であって、ただ大小の数量的差異あるのみでなければならぬ。もし快楽に色々の性質的差別があって、これに由りて価値が異なるものであるとするならば、快楽の外に別に価値を定むる原則を許さねばならぬこととなる。即ち快楽が行為の価値を定むる唯一の原則であるという主義と衝突する。ベンザムの後を受けたるミルは快楽に色々性質上の差別あることを許し、二種の快楽の優劣は、この二種を同じく経験し得る人は容易にこれを定めうると考えている。たとえば豕となりて満足するよりはソクラテースとなって不満足なることは誰も望む所である。而してこれらの差別は人間の品位の感 sense of dignity より来るものと考えている。しかしミルの如き考は明に快楽説の立脚地を離れたもので、快楽説よりいえば一の快楽が他の快楽より小なるに関せず、他の快楽よりも尚き者であるという事は許されない。さらばエピクロース、ベンザム諸氏の如く純粋に快楽は同一であってただ数量的に異なるものとして、如何にして快楽の数量的関係を定め、これに由りて行為の価値を定めることができるであろうか。アリスチッポスやエピクロースは単に知識に由りて弁別ができるといっているだけで、明瞭なる標準を与えてはおらぬ。独りベンザムは上にいったようにこの標準を詳論している。併し快楽の感情なる者は一人の人においても、時と場合とに由りて非常に変化し易い物である、一の快楽より他の快楽が強度において勝るかは頗る明瞭でない。更に如何ほどの強度が如何ほどの継続に相当するかを定むるのは極めて困難である。一人の人においてすらかく快楽の尺度を定むるのは困難であって見れば公衆的快楽説のように他人の快楽をも計算して快楽の大小を定めんとするのは尚更困難である。普通には凡て肉体の快楽より精神の快楽が上であると考えられ、富より名誉が大切で、己一人の快楽より多人数の快楽が尚いなどと、伝説的に快楽の価値が定まっているようであるが、かかる標準は種々なる方面の観察よりできたもので、決して単純なる快楽の大小より定まったものとは思われない。
右は快楽説の根本的原理を正しきものとして論じたのであるが、かくして見ても、快楽説に由りて我々の行為の価値を定むべき正確なる規範を得ることは頗る困難である。今一歩を進めてこの説の根本的原理について考究して見よう。凡て人は快楽を希望し、快楽が人生唯一の目的であるとはこの説の根本的仮定であって、またすべての人のいう所であるが、少しく考えて見ると、その決して真理でないことが明である。人間には利己的快楽の外に、高尚なる他愛的または理想的の欲求のあることは許さねばなるまい。たとえば己の欲を抑えても、愛する者に与えたいとか、自己の身を失っても理想を実行せねばならぬというような考は誰の胸裡にも多少は潜みおるのである。時あってこれらの動機が非常なる力を現わし来り、人をして思わず悲惨なる犠牲的行為を敢てせしむることも少くない。快楽論者のいうように人間が全然自己の快楽を求めているというのは頗る穿ち得たる真理のようであるが、かえって事実に遠ざかったものである。勿論快楽論者もこれらの事実を認めないのではないが、人間がこれらの欲望を有しこれが為に犠牲的行為を敢てするのも、つまり自己の欲望を満足せんとするので、裏面より見ればやはり自己の快楽を求むるにすぎないと考えているのである。しかしいかなる人もまたいかなる場合でも欲求の満足を求めているということは事実であるが、欲求の満足を求むる者が即ち快楽を求むる者であるとはいわれない。いかに苦痛多き理想でもこれを実行し得た時には、必ず満足の感情を伴うのである。而してこの感情は一種の快楽には相違ないが、これが為にこの快感が始より行為の目的であったとはいわれまい。かくの如き満足の快感なる者が起るには、先ず我々に自然の欲求という者がなければならぬ。この欲求があればこそ、これを実行して満足の快楽を生ずるのである。然るにこの快感あるが為に、欲求は凡て快楽を目的としているというのは、原因と結果とを混同したものである。我々人間には先天的に他愛の本能がある。これあるが故に、他を愛するということは我々に無限の満足を与うるのである。しかしこれが為に自己の快楽の為に他を愛したのだとはいわれない。毫釐にても自己の快楽の為にするという考があったならば、決して他愛より来る満足の感情をうることができないのである。啻に他愛の欲求ばかりではなく、全く自愛的欲求といわれている者も単に快楽を目的としている者はない。たとえば食色の欲も快楽を目的とするというよりは、かえって一種先天的本能の必然に駆られて起るものである。飢えたる者はかえって食欲のあるを悲み、失恋の人はかえって愛情あるを怨むであろう。人間もし快楽が唯一の目的であるならば、人生ほど矛盾に富んだ者はなかろう。むしろ凡て人間の欲求を断ち去った方がかえって快楽を求むるの途である。エピクロースが凡ての欲を脱したる状態、即ち心の平静を以て最上の快楽となし、かえって正反対の原理より出立したストイックの理想と一致したのもこの故である。
しかし或快楽論者では、我々が今日快楽を目的としない自然の欲求であると思うている者でも、個人の一生または生物進化の経過において、習慣に由りて第二の天性となったので、元は意識的に快楽を求めた者が無意識となったのであると論じている。即ち快楽を目的とせざる自然の欲求というのは、つまり快楽を得る手段であったのが、習慣に由って目的其者となったというのである(ミルなどはこれについてよく金銭の例を引いている)。成程我々の欲求の中には此の如き心理的作用に由って第二の天性となった者もあるであろう。しかし快楽を目的とせざる欲求は尽くかかる過程に由りて生じたものとはいわれない。我々の精神はその身体と同じく生れながらにして活動的である。種々の本能をもっている。鶏の子が生れながら籾を拾い、鶩の子が生れながら水に入るのも同理である。これらの本能と称すべき者が果して遺伝に由って、元来意識的であった者が無意識的習慣となったのであろうか。今日の生物進化の説に由れば、生物の本能は決してかかる過程に由って出来たものではない。元来生物の卵において具有した能力であって、事情に適する者が生存して遂に一種特有なる本能を発揮するに至ったのである。
上来論じ来ったように、快楽説は合理説に比すれば一層人性の自然に近づきたる者であるが、この説に由れば善悪の判別は単に苦楽の感情に由りて定めらるることとなり、正確なる客観的標準を与うることができず、且つ道徳的善の命令的要素を説明することはできない。しかのみならず、快楽を以て人生の唯一の目的となすのは未だ真に人性自然の事実に合ったものといわれない。我々は決して快楽に由りて満足することはできない。もし単に快楽のみを目的とする人があったならばかえって人性に悖った人である。
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第九章 善(活動説)
已に善についての種々の見解を論じ且つその不充分なる点を指摘したので、自ら善の真正なる見解は如何なるものであるかが明になったと思う。我々の意志が目的とせなければならない善、即ち我々の行為の価値を定むべき規範はどこにこれを求めねばならぬか。かつて価値的判断の本を論じた所にいったように、この判断の本は是非これを意識の直接経験に求めねばならぬ。善とはただ意識の内面的要求より説明すべき者であって外より説明すべき者でない。単に事物はかくあるまたはかくして起ったということより、かくあらねばならぬということを説明することはできぬ。真理の標準もつまる所は意識の内面的必然にあって、アウグスチヌスやデカートの如き最も根本に立ち返って考えた人は皆ここより出立したように、善の根本的標準もまたここに求めねばならぬ。然るに他律的倫理学の如きは善悪の標準を外に求めようとしている。かくしては到底善の何故に為さざるべからざるかを説明することはできぬ。合理説が意識の内面的作用の一である理性より善悪の価値を定めようとするのは、他律的倫理学説に比して一歩を進めた者ということはできるが、理は意志の価値を定むべきものではない。ヘフディングが「意識は意志の活動を以て始まりまたこれを以て終る」といったように、意志は抽象的理解の作用よりも根本的事実である。後者が前者を起すのではなく、かえって前者が後者を支配するのである。然らば快楽説は如何、感情と意志とは殆ど同一現象の強度の差異といってもよい位であるが、前にいったように快楽はむしろ意識の先天的要求の満足より起る者で、いわゆる衝動、本能という如き先天的要求が快不快の感情よりも根本的であるといわねばならぬ。
それで善は何であるかの説明は意志其者の性質に求めねばならぬことは明である。意志は意識の根本的統一作用であって、直にまた実在の根本たる統一力の発現である。意志は他の為の活動ではなく、己自らの為の活動である。意志の価値を定むる根本は意志其者の中に求むるより外はないのである。意志活動の性質は、嚮に行為の性質を論じた時にいったように、その根柢には先天的要求(意識の素因)なる者があって、意識の上には目的観念として現われ、これによりて意識の統一するにあるのである。この統一が完成せられた時、即ち理想が実現せられた時我々に満足の感情を生じ、これに反した時は不満足の感情を生ずるのである。行為の価値を定むる者は一にこの意志の根本たる先天的要求にあるので、能くこの要求即ち吾人の理想を実現し得た時にはその行為は善として賞讃せられ、これに反した時は悪として非難せられるのである。そこで善とは我々の内面的要求即ち理想の実現換言すれば意志の発展完成であるということとなる。斯の如き根本的理想に基づく倫理学説を活動説 energetism という。
この説はプラトー、アリストテレースに始まる。特にアリストテレースはこれに基づいて一つの倫理を組織したのである。氏に従えば人生の目的は幸福 eudaimonia である。しかしこれに達するには快楽を求むるに由るにあらずして、完全なる活動に由るのである。
世のいわゆる道徳家なる者は多くこの活動的方面を見逃している。義務とか法則とかいって、徒らに自己の要求を抑圧し活動を束縛するのを以て善の本性と心得ている。勿論不完全なる我々はとかく活動の真意義を解せず岐路に陥る場合が多いのであるから、かかる傾向を生じたのも無理ならぬことであるが、一層大なる要求を攀援すべき者があってこそ、小なる要求を抑制する必要が起るのである、徒らに要求を抑制するのはかえって善の本性に悖ったものである。善には命令的威厳の性質をも具えておらねばならぬが、これよりも自然的好楽というのが一層必要なる性質である。いわゆる道徳の義務とか法則とかいうのは、義務或は法則其者に価値があるのではなく、かえって大なる要求に基づいて起るのである。この点より見て善と幸福とは相衝突せぬばかりでなく、かえってアリストテレースのいったように善は幸福であるということができる。我々が自己の要求を充すまたは理想を実現するということは、いつでも幸福である。善の裏面には必ず幸福の感情を伴うの要がある。ただ快楽説のいうように意志は快楽の感情を目的とする者で、快楽が即ち善であるとはいわれない。快楽と幸福とは似て非なる者である。幸福は満足に由りて得ることができ、満足は理想的要求の実現に起るのである。孔子が「疎食を飯ひ、水を飲み、肱を曲げて之を枕とす、楽も亦其の中に在り」といわれたように、我々は場合に由りては苦痛の中にいてもなお幸福を保つことができるのである。真正の幸福はかえって厳粛なる理想の実現に由りて得らるべき者である。世人は往々自己の理想の実現または要求の満足などいえば利己主義または我儘主義と同一視している。しかし最も深き自己の内面的要求の声は我々に取りて大なる威力を有し、人生においてこれより厳なるものはないのである。
さて善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば、この要求といい理想という者は何から起ってくるので、善とは如何なる性質の者であるか。意志は意識の最深なる統一作用であって即ち自己其者の活動であるから、意志の原因となる本来の要求或は理想は要するに自己其者の性質より起るのである、即ち自己の力であるといってもよいのである。我々の意識は思惟、想像においても意志においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においても皆その根柢には内面的統一なる者が働いているので、意識現象は凡てこの一なる者の発展完成である。而してこの全体を統一する最深なる統一力が我々のいわゆる自己であって、意志は最も能くこの力を発表したものである。かく考えて見れば意志の発展完成は直に自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成 self-realization であるということができる。即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースのいわゆる entelechie が善である)。竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。スピノーザも「徳とは自己固有の性質に従うて働くの謂に外ならず」といった。
ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるるのである。理想の如く実現するというのは物が自然の本性を発揮する謂である。それで花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達するのである。善は即ち美である。たとい行為その者は大なる人性の要求から見て何らの価値なき者であっても、その行為が真にその人の天性より出でたる自然の行為であった時には一種の美感を惹くように、道徳上においても一種寛容の情を生ずるのである。希臘人は善と美とを同一視している。この考は最も能くプラトーにおいて現われている。
また一方より見れば善の概念は実在の概念とも一致してくる。かつて論じたように、一の者の発展完成というのが凡て実在成立の根本的形式であって、精神も自然も宇宙も皆この形式において成立している。して見れば、今自己の発展完成であるという善とは自己の実在の法則に従うの謂である。即ち自己の真実在と一致するのが最上の善ということになる。そこで道徳の法則は実在の法則の中に含まるるようになり、善とは自己の実在の真性より説明ができることとなる。いわゆる価値的判断の本である内面的要求と実在の統一力とは一つであって二つあるのではない。存在と価値とを分けて考えるのは、知識の対象と情意の対象とを分つ抽象的作用よりくるので、具体的真実在においてはこの両者は元来一であるのである。乃ち善を求め善に遷るというのは、つまり自己の真を知ることとなる。合理論者が真と善とを同一にしたのも一面の真理を含んでいる。しかし抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。この場合における知るとはいわゆる体得の意味でなければならぬ。これらの考は希臘においてプラトーまた印度においてウパニシャッドの根本的思想であって、善に対する最深の思想であると思う(プラトーでは善の理想が実在の根本である、また中世哲学においても「すべての実在は善なり」 omne ens est bonum という句がある)。
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