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最後の胡弓弾き(さいごのこきゅうひき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-21 9:27:05  点击:  切换到繁體中文


       七

 町にはいった。
 木之助は一軒ずつ軒づたいに門附かどづけをするようなことはやめた。自分の記憶をさぐって見て、いつも彼の胡弓をきいてくれた家だけを拾って行った。それも沢山たくさんはなく、味噌屋をいれてわずか五、六軒だったにすぎない。
 だがそれらの家々をまわりはじめて四軒目に木之助は深く心の内に失望しなければならなかった。どの家も、申しあわせたように木之助の門附けをことわった。帽子屋では木之助が硝子戸ガラスどを三寸ばかり明けたとき、店の火鉢ひばちあごをのせるようにしてすわっていた年寄りの主人がせた大きな手を横に振ったので木之助は三寸あけただけでまた硝子戸をしめねばならなかった。また一昨々年まで必ず木之助の門附けを辞らなかったしもたには、木之助があけようとして手をかけた入口の格子こうし硝子に「諸芸人、物貰ものもらい、押売り、強請ゆすり、一切おことわり、警察電話一五〇番」と書いた判紙はんしってあった。また或る店屋では、木之助が中にはいって、ちょっと胡弓を弾いた瞬間、声の大きい旦那だんなが、今日はごめんだ、と怒鳴りつけるような声で言ったので、木之助はびくっとして手をとめた。胡弓のおともびっくりしたようにとまってしまった。
 もうこれ以上他を廻るのは無駄むだであると木之助は思った。そこで最後のたのしみにとっておいた味噌屋の方へ足を向けた。
 門の前に立った時木之助はおやと思った。そこには見馴みなれた古い「味噌みそたまり」の板看板はなくなり、代りに、まだ新しい杉板に「※[#「仝」の「工」に代えて「吉」、屋号を示す記号、59-12]味噌醤油しょうゆ製造販売店」と書いたのが掲げられてあった。それだけのことで、木之助にはいつもと様子が変ったような、うとましい気がした。門をくぐってゆくと、あの大きい天水桶てんすいおけはなくなっていた。そして天水桶のあったあたりには、木之助のきらいな、オート三輪がとめてあった。
「ごめんやす」とほっぽこ頭巾をぬいで木之助は土間どまにはいった。
 奥の方で、誰か来たよといっているのが静けさの中をつつぬけて来た。やがて誰かが立ってこちらへ来る気配がした。木之助はちょっと身繕みづくろいした。だが衝立ついたてかげから、始めて見る若い美しい女の人が出て来て、そこに片手をついてこごんだときはまた面くらった。
「あのう」といって木之助は黙った。言葉がつづかなかった。それから一つせきをして「ご隠居は今日はお留守るすでごぜえますか。毎年ごひいきに預っています胡弓弾きが参りましたと仰有おっしゃって下せえまし」といった。
 女の人が引っ込んでいって、低声こごえで何かささやきあっているのが、心臓の高鳴りはじめた木之助の神経を刺戟しげきした。やがてまた足音がして、こんどは頭をぴかぴかの時分ときわけにし、黒い太いふち眼鏡めがねをかけた若主人が現われた。
「ああ、また来ましたね」と木之助を見て若主人はいった。「君、知らなかったのかね、親父おやじは昨年の夏なくなったんだよ」
「へっ」といって木之助はしばらく口がふさがらなかった。立っている自分に、寂しさが足元から上って来るのを、しみじみ感じながら。
「そうでごぜえますか、とうとうなくなられましたか」。やっと気を取り直して木之助はそれだけいった。
 木之助はすごすごとくびすをかえした。しきいつまずいて、も少しで見苦しくいつくばうところだった。右足の親指を痛めただけで胡弓をぶち折らなかったのはまだしも仕合わせというべきだった。
 門を出ると、一人の風呂敷包みを持った五十くらいの女が、雪駄せったの歯につまった雪を、門柱の土台石にぶつけて、はずしていた。木之助を見ると女の人は、おや、となつかしそうにいった。木之助は見て、その人がこの家の女中であることを知った。彼女は三十年前、木之助が始めて松次郎と門附けに来たとき、主人にいいつけられて御馳走ごちそうのはいったさらを持って来た、あの意地のきたなかった女中である。来る年も来る年も木之助は彼女を味噌屋の家で見た。木之助が少年から大人おとなへ、大人からやがて老人へと成長し年とっていったように、彼女は見る年ごとに成長し年とっていった。二十五位のとき彼女は一度味噌屋から姿を消し、それから五、六年は見えなかったが、再び味噌屋へ戻って来た時は一度に十も年をとったようにけて見えた。その時彼女は五つ位になる女の子を一人つれて来た。木之助は御隠居から、彼女の身の上を少しばかりきかされた事があった。彼女は不仕合わせな女で一度とついだが夫に死なれたので、女の子をつれてまた味噌屋へ奉公に戻って来たのだそうである。その時以来彼女はずっとこの家から出ていかなかった。若かった頃は意地が悪くて、木之助を見ると白い眼をして見下したが嫁いだ先で苦労をして戻ってからは、人が変ったように大人おとなしくなったのである。

       八

「お前さん、しばらく見えなかっただね、一昨年おととしの正月も昨年の正月もなくなられた大旦那おおだんなが、あれが来ないがどうしたろうと言っておらしたに」
「ああ、去年は大病おおやみをやり、一昨年は恰度ちょうど旧正月の朝親父が死んだもので、どうしても来られなかっただ。御隠居も夏死なしたそうだな。おれあ今きいてびっくりしたところだよ」と木之助はいった。
「そうかね、お前さん知らなかっただね」と年とった女中はいって、それから優しくとがめるような口調で言葉をついだ。「去年の正月はほんとに大旦那はお前さんのことを言っておらしただに。どうしよっただろう、もう門附けなんかしてもつまらんと思ってめよっただろうか、病気でもしていやがるか、ってそりゃ気にして見えただよ」
 木之助は熱いものがこみあげて来るような気がした。「ほうかな、ほうかな」といってきいていた。
 年とった女中はそれから、もう一ぺんひっ返して、大旦那の御仏前ごぶつぜん供養くように胡弓を弾くことをすすめた。「そいでも、若い御主人がきらうだろ」と木之助がしりごむと、女中は、「なにが。わたしがいるから大丈夫だよ」と言って木之助をひっぱっていった。
 女中は木之助を勝手口の方から案内し、ちょっとそこに待たせておいて奥へ姿を消したが、じきまた出て来て、さあおあがりな、と言った。木之助は長靴をぬいで女中のあとに従って仏間ぶつまにいった。仏壇は大きい立派なもので、ともされた蝋燭ろうそくの光に、よくみがかれた仏具や仏像が金色にぴかぴかときらめいていた。木之助はその前に冷えたひざそろえてすわると、かれたこうがしめっぽくにおった。南無阿弥陀仏なむあみだぶつと唱えて、心から頭をさげた。深い仏壇の奥の方から大旦那がこちらを見ているような気がしたのである。
「そいじゃ、何か一つ、弾いてあげておくれやな」と背後に坐っていた女中がいった。木之助は今までに仏壇にむかって胡弓を弾いたことはなかったので、変なそぐわない気がした。だが思い切って弾き出して見ると、じきそんな気持ちは消えた。いつ弾く時でもそうであるように、木之助はもう胡弓に夢中になってしまった。木之助の前にあるのはもう仏壇というような物ではなかった。耳のある生物だった。それは耳をそばだてて胡弓の声にきき入り、そののんびりしたような、また物哀ものがなしいような音色ねいろを味わっていた。木之助は一心にひいていた。
 門を出ると木之助は、道の向う側からふりかえって見た。再びこの家にたずねて来ることはあるまい。長い間木之助の毎日の生活の中で、わずらわしいことやつまらぬことの多い生活の中で竜宮城のように楽しいおもいであったこの家もこれからは普通の家になったのである。もはやこの家には木之助の弾く胡弓の、最後の一人の聴手ききてがいないのである。
 木之助はすっぽりほっぽこ頭巾をかむって歩き出した。町の物音や、眼の前をう人々が何だか遠い下の方にあるように思われた。木之助の心だけが、むれをはなれた孤独な鳥のように、ずんずん高い天へ舞いのぼって行くように感ぜられた。
 ふと木之助は「鉄道省払下はらいさげ品、電車中遺留品、古物ふるもの」と書かれた白い看板に眼をとめた。それは街角まちかどの、そとから様々な古物の帽子や煙草たばこ入れなどが見えている小さい店の前に立っていた。木之助は看板から自分の持っている胡弓に眼をうつした。聴く人のなくなった胡弓など持っていて何になろう。
 誰かにさからうように、深くも考えずに木之助はそこの硝子戸ガラスどをあけた。
「これいくらで取ってもらえるだね」
 青くむくんだ顔の女主人が、まず、
「こりゃ一体、何だい。三味線しゃみせんじゃない。胡弓か、えらい古い物だな」と男のような口のきき方をして、胡弓をうけとった。そして、あちこちいたんでいないか見てから、
「こんなものは、買えない」とつき返した。
「買えんということはねえだろうがな」と木之助は気が立っていたので口をとがらせていった。「古物屋が古物を買えんという法はねえだら」
「古物屋だとて、今どき使わんようなものはどうにもならんよ。うちは骨董屋こっとうやじゃねえから」
 二人はしばらく押問答おしもんどうした。女主人は買わぬつもりでもないらしく、
「まあ、そうだな。三十銭でよかったら置いてゆきな」といった。

       九

 木之助はあまり安いをいわれたので腹が立ったが、腹立ちまぎれに、そいじゃ売ろうといってしまった。木之助は外に出ると何だかむしょうに腹が立ったが、その下にうつろなさびしい穴がぽかんとあいていた。
 少しゆくと鉄柵てっさくでかこまれた大きい小学校があって、その前に学用品を売る店が道の方を向いていた。末っ子の由太のためにたのまれた王様クレヨンを買った。小僧がそれを包み紙で包むのを待っている間に、木之助の心は後悔の念にまれはじめた。胡弓を手ばなした瞬間、心の一隅いちぐうに「しまった」という声が起った。それが、今は段々大きくなって来た。
 クレヨンの包みを受けとると木之助はあわてて、ゴムの長靴ながぐつを鳴らしながら、さっきの古物屋の方へひっかえしていった。あいつを手離してなるものか、あいつは三十年の間私につれそうて来た!
 もう胡弓が古帽子や煙草入れなどと一緒に、道からよく見えるところにつるしてあるのが、木之助の眼に入った。まだあってよかったと思った。長い間わなかった親しい者にひょいと出逢ったようになつかしい感じがした。
 木之助は店にはいって行って、ちょっと躊躇ためらいながら、いった。
「ちょっと、すまないが、さっきの胡弓は返してくれんかな。ちょっと、そのう、都合の悪いことが出来たもんで」
 青くむくんだ女主人は、きつい眼をして木之助の顔を穴のあくほど見た。そこで木之助は財布さいふから三十銭を出して火鉢ひばちの横にならべた。
「まことに勝手なこといってすまんが、あの胡弓は三十年も使って来たもんで、おれのかかあより古くから俺につれそっているんで」
 女主人の心をやわらげようと思って木之助はそんなことをいった。すると女主人は、
「あんたのかかあがどうしただか、そんなこたあ知らんが、うちあ商売してるだね。遊んでいるじゃねえよ」といって、帳面や算盤そろばんの乗っている机に頤杖あごづえをついた。そしてまたいった。「買いとったものを、おいそれと返すわけにゃいかんよ」
 これはえらい女だなと木之助は思いながら「それじゃ、売ってくれや、いくらでも出すに」といった。
 女主人はまたしばらく木之助の顔を見ていたが、
「売ってくれというなら売らんことはないよ、こっちは買って売るのが商売だあね」とちょっとおとなしく言った。
「ああ、そいじゃ、そうしてくれ。いやどうも俺の方が悪かった。それじゃもういくら上げたらいいかな」と木之助はまた財布を出して、半ば開いた。
「そうさな、ほかの客なら八十銭に売るところだが、お前さんはもとを知っとるから、六十銭にしとこう」
 木之助の財布を持っている手がいかりのために震えた。
「そ、そげな、馬鹿なことが。あんまり人の足元を見やがるな。三十銭で取っといて、三十分とたたねえうちに倍の値で――」
「やだきゃ、やめとけよ」と女主人はさえぎって素気すげなくいった。
 木之助は財布の中を見るともう十五銭しかなかった。いつもの習慣で家を出るとき金を持って出なかった。で、さっき由太のクレヨンを買うときは、味噌屋でもらったおあしで払ったのだ。十五銭はその残りだった。
 火鉢の横にならべた三十銭を一枚一枚拾って財布に入れると、木之助は黙って財布を腹の中へ入れた。そして力なく古物屋を出た。
 午後の三時頃だった。また空は曇り、町は冷えて来た。足の先の凍えが急に身にみた。木之助は右も左もみず、深くかがみこんで歩いていった。





底本:「新美南吉童話集」岩波文庫、岩波書店
   1996(平成8)年7月16日第1刷発行
※外字として入力した「※[#「仝」の「工」に代えて「吉」、屋号を示す記号、59-12]」は底本では、「〈吉」と組まれています。
※この作品の「胡弓」は、中国の楽器ではなく、和楽器である。和楽器では唯一の擦弦(弓で弦をこする)楽器で、江戸時代初期の出現といわれる。形状は三味線によく似ているが、棹がずっと短く、胴に足(チェロのエンドピンのようなもの)がついている。三弦だけでなく四弦のものもあり、胴自体も最初のうちは丸いものが普通だったという。皮はやはりねこ皮を用い、長さ約1メートルの紫檀もしくは竹製の弓には馬の尻尾の毛をゆるく張る。演奏時には、楽器を両膝の間に置き、直立させて弾く。(入力者)
入力校正者:浜野 智
1999年3月1日公開
2003年10月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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  • この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。

    「仝」の「工」に代えて「吉」、屋号を示す記号    59-12、59-12

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