一
旧の正月が近くなると、竹藪の多いこの小さな村で、毎晩鼓の音と胡弓のすすりなくような声が聞えた。百姓の中で鼓と胡弓のうまい者が稽古をするのであった。
そしていよいよ旧正月がやって来ると、その人たちは二人ずつ組になり、一人は鼓を、も一人は胡弓を持って旅に出ていった。上手な人たちは東京や大阪までいって一月も帰らなかった。また信州の寒い山国へ出かけるものもあった。あまり上手でない人や、遠くへいけない人は村からあまり遠くない町へいった。それでも三里はあった。
町の門ごとに立って胡弓弾きがひく胡弓にあわせ、鼓を持った太夫さんがぽんぽんと鼓を掌のひらで打ちながら、声はりあげて歌うのである。それは何を謡っているのやら、わけのわからないような歌で、おしまいに「や、お芽出とう」といって謡いおさめた。すると大抵の家では一銭銅貨をさし出してくれた。それをうけとるのは胡弓弾きの役目だったので、胡弓弾きがお銭を頂いているあいだだけ胡弓の声はとぎれるのであった。たまには二銭の大きい銅貨をくれる家もあった。そんなときにはいつもより長く歌を謡うのである。
ことし十二になった木之助は小さい時から胡弓の音が好きであった。あのおどけたような、また悲しいような声をきくと木之助は何ともいえないうっとりした気持ちになるのであった。それで早くから胡弓を覚えたいと思っていたが、父が許してくれなかった。それが今年は十二になったというので許しが出たのであった。木之助はそこで、毎晩胡弓の上手な牛飼の家へ習いに通った。まだ電燈がない頃なので、牛飼の小さい家には煤で黒い天井から洋燈が吊り下り、その下で木之助は好きな胡弓を牛飼について弾いた。
旧正月がついにやって来た。木之助は従兄の松次郎と組になって村をでかけた。松次郎は太夫さんなので、背中に旭日と鶴の絵が大きく画いてある黒い着物をき、小倉の袴をはき、烏帽子をかむり、手に鼓を持っていた。木之助はよそ行きの晴衣にやはり袴をはき、腰に握り飯の包みをぶらさげ、胡弓を持っていた。松次郎はもう二度ばかり門附けに行ったことがあるので、一向平気だったが、始めての木之助は恥しいような、誇らしいような、心配なような、妙な気持だった。殊に村を出るまでは、顔を知った人たちにあうたびに、顔がぽっと赧くなって、いっそ大きい風呂敷にでも胡弓を包んで来ればよかったと思った。それは父親が大奮発で買ってくれた上等の胡弓だった。
二人が村を出て峠道にさしかかると、うしろから、がらがらと音がして町へ通ってゆく馬車がやって来た。それを見ると松次郎はしめしめ、といった。あいつに乗ってゆこう、といった。
木之助はお銭を持っていなかったので、
「おれ、一銭もないもん」というと、
「馬鹿だな、ただ乗りするんだ」と言った。
馬車は輪鉄の音をやかましくあたりに響かせながら近附いて来た。いつもの、聾の爺さんが馭者台にのっていた。それは木之助の村から五里ばかり西の海ばたの町から、木之助の村を通って東の町へ、一日に二度ずつ通う馬車であった。木之助と松次郎は道のぐろにのいて馬車をやりすごした。
馬車のうしろには、乗客が乗り下りするとき足を掛ける小さい板がついていた。松次郎はそれにうまく跳びついて、うしろ向きに腰をかけた。木之助の場所はもうなかったので木之助は馬車について走らなければならなかった。胡弓を持っているし、坂道なので木之助はふうふう言いながら走ったが、沢山走る必要はなかった。
馬車は半町もいかないうちにぴたととまってしまった。松次郎は慌てて跳びおりた。ほっぽこ頭巾から眼だけ出した馭者の爺さんが鞭を持って下りて来た。
「おれ、知らんげや、知らんげや」と松次郎は頭をかかえてわめいた。しかし爺さんは金聾だったので何も聞えなかった。ただ長年の経験で、子供一人でもうしろの板にのるとそれが直体に重く感ぜられるので解ったのであった。「この馬鹿めが」といって、鞭の柄の方でこつんと軽く松次郎の耳の上を叩いた。そしてまた馭者台に乗ると馬車を走らせていってしまった。
松次郎は馬車のうしろに向って、ペラリと舌を出すと、
「糞爺いの金聾」と節をつけていって、ぽんぽんと鼓をたたいた。そして木之助と一しょに笑い出した。
二人が三里の道を歩いて町にはいったのは午前十時頃だった。
二
町の入口の餅屋の門から始めて、一軒一軒のき伝いに、二人は胡弓をならし、歌を謡っていった。
一番始めの餅屋では、木之助はへまをしてしまった。胡弓弾きはいきなり胡弓を鳴らしながら賑やかに閾をまたいではいってゆかねばならないのだが、木之助は知らずに、
「ごめんやす」と言ってはいっていった。餅屋の婆さんは、それで木之助を餅を買いに来たお客さんと間違えて、
「へえ、おいでやす、何を差しあげますかなも」と答えたのである。木之助は戸惑いして、もぞもぞしていると、場なれた松次郎が、びっくりするほど大きな声で、明けましてお芽出とうといいながら、鼓をぽぽんと二つ続け様にうってその場をとり繕ってくれた。その婆さんは銭箱から一銭銅貨を出してくれた。木之助は胡弓を鳴らすのをやめて、それを受け取り袂へ入れた。
表に出ると松次郎が木之助のことを笑って言った。
「馬鹿だなあ。黙ってはいってきゃええだ」
それからは木之助はうまくやることが出来た。大抵の家では一銭くれた。五厘をくれる人もあった。中には、青く錆びた穴あき銭を惜しそうにくれる人もあった。二銭銅貨をうけとったときには木之助は、それが馬鹿に重いような気がした。しっかりと掌に握っていて外に出るとそーっと開いて松次郎に見せた。二人は顔を見合わせほほえんだ。
もうお午を少しすぎた。木之助の袂はずしんずしんと横腹にぶつかるほど重くなった。草鞋ばきの足にはうっすら白い砂埃もつもった。朝から大分の道のりを歩いたので腹が空いていたが、弁当を使う場所がなかなか見つからなかった。もう少しゆくと空地があったから行こうと松次郎が言うので、ついて行って見るとそこには木の香も新しい立派な家が立っていたりした。
腹がへっては勝はとれぬから、もう仕方がない、横丁にでもはいって家のかげで食べようと話をきめたとき、二人は大きい門構えの家の前を通りかかった。そこには立派な門松が立ててあり、門の片方の柱には、味噌溜と大きく書かれた木の札がかかっていた。黒い板塀で囲まれた屋敷は広くて、倉のようなものが三つもあった。
「あ、ここだ、ここは去年五銭くれたぞ」と松次郎がいった。で二人は、そこをもう一軒すましてから弁当をとることにした。
木之助が先になってはいってゆくと、
「う、う、う……」と低く唸る声がした。木之助はぎくりとした。犬が大嫌いだったのだ。
「松つあん、さきいってくれや」と松次郎に嘆願すると、
「胡弓がさきにはいってかにゃ、出来んじゃねえか」と答えた。松次郎も怖かったのに違いない。
木之助は虎の尾でもふむように、びくびくしながら玄関の方へ近づいてゆくと、足はまた自然にとまってしまった。大きな赤犬が、入口の用水桶の下にうずくまってこちらを見ているのだった。
「松つあん、さき行ってや」と木之助は泣きそうになっていった。
「馬鹿、胡弓がさき行くじゃねえか」と松次郎は吐き出すようにいったが、松次郎の眼も恐ろしそうに犬の方を見ていた。
二人は戻って行こうかと思った。しかし五銭のことを思うと残念だった。そこで木之助が勇気を出して、一足ふみ出して見た。すると犬は、右にねていたしっぽを左へこてんとかえした。また木之助は動けなくなってしまった。
五銭は欲しかったし、犬は恐ろしかったので、二人は進退に困っていると、うしろから誰かがやって来た。この家の下男のような人で法被をきていた。木之助たちを見ると、
「小さい門附けが来たな、どうしただ、犬が恐げえのか」といって人が好さそうに笑った。犬はその人を見るとむくりと体を起して、尾を三つばかり振った。その男の人は犬の頭をなでながら、
「よしよし、トラ、おうよしよし」と犬にいい、それから木之助たちの方に向いて、
「この犬はおとなしいから大丈夫だ。遠慮せんではいれ、はいれ」とすすめた。
「おっつあん、しっかり掴んどってな」と松次郎が頼んだ。
「おう、よし」と小父さんは答えた。
トラ――恐ろしい名だな、おとなしい犬だと小父さんはいったが嘘だろう、と木之助は思いながら立派な広い入口をはいった。
正面に衝立が立っていて、その前に三宝が置いてある、古めかしいきれいな広い玄関だった。胡弓や鼓の音がよく響き、奥へ吸いこまれてゆくようで自分ながら気持ちがよかった。
この家の主人らしい、頭に白髪のまじったやさしそうな男の人が衝立の蔭から出て来て、木之助と松次郎を見ると、にこにこと笑いながら、
「ほっ、二人とも子供だな」といった。
三
木之助は、子供だから五銭もやる必要がないなどと思われてはいけないと、一層心をこめて胡弓を弾いた。
一曲終ったとき主人は、
「ちょっと休めよ」といった。変に馴れなれしい感じのする人だ。松次郎は去年も来て知っていたが木之助は始めてなので妙な気がした。
ちょっと休めよなどと友達にでもいうように心安くいってくれたのはこの人だけである。木之助はぼけんとつったっていた。五銭はくれないのか知らん。胡弓が下手いのかな。
「こっちの子供は去年も来たような気がするが、こっちの(と木之助を見て)小さい方は今年はじめてだな」
木之助は小さく見られるのが癪だったので解らないようにちょっと背伸びした。
「お前たちは何処から来たんだ」
松次郎が自分たちの村の名を言った。
「そうか、今朝たって来たのか」
「ああ」
「昼飯、たべたか」
「まだだ」と松次郎が一人で喋舌った。「弁当持っとるけんど、食べるとこがねえもん」
「じゃ、ここで食べていけよ、うまいものをやるから」
松次郎はもぞもぞした。五銭はいつくれるのか知らんと木之助は思った。
二人がまだどっちとも決めずにいるうちに、主人は一人できめてしまって、じゃちょっと待っておれよ、といって奥へ姿を消した。
やがて奥から、色の白い、眼の細い、意地の悪そうな女中が、手に大きい皿を持って出て来たが、その時もまだ二人は、どうしたものかと思案にくれて土間につったっていた。
女中はつんとしたように皿を式台の上に置くと、
「おたべよ」と突慳貪にいって、少し身を退き、立ったまま流しめに二人の方を見おろしていた。皿の中にはうまそうな昆布巻や、たつくりや、まだ何かが一ぱいあった。
「よばれていこうよ」と松次郎がいった。木之助もたべたくなったのでうんと答えて胡弓を弓と一しょにして式台の隅の方へそっと置くと、女中は胡弓をじろりと見た。
松次郎と木之助は、はやく女中がひっこんでくれないかなと思いながら、式台に腰をおろして腰の風呂敷包をほどいた。中から竹皮に包まれた握り飯があらわれた。女中はそれも横目でじろりと見た。
食べにかかると握り飯も御馳走もすばらしく美味いので、女中のことなどそっちのけにしてむしゃむしゃ頬張った。女中はじっとそれを見ていたが、もう怺えられなくなったと見えて、
「まあ汚い足」といった。松次郎と木之助は食べながら自分の足を見ると、ほんとに女中のいった通りだった。紺足袋の上に草鞋を穿いていたが、砂埃で真白だった。二人は仕方ないので黙々と御馳走を手でつまんではたべた。
「まあ、乞食みたい」。しばらくするとまた女中が刺すような声でいった。指の間にくっついた飯粒を舌の先でとりながら、木之助が松次郎を見ると、いかにも女中がいった通り松次郎は乞食の子のようにうすぎたなく見えた。松次郎もまた、木之助を見てそう思った。
「まあ、よく食べるわ、豚みたい」。木之助が五つ目の握飯をたべようとして口をあいたとき女中がまたいった。木之助は、ほんとにそうだと思って、ぱくりと喰いついた。
「耳の中に垢なんかためて」。しばらくするとまた女中がいった。木之助は松次郎の耳の中を見ると、果して汚く垢がたまっていた。松次郎の方でも木之助の耳の中にたまっている垢をみとめた。
やがて衝立の向うに、とんとんという足音が聞えて来ると、女中はついと身を翻して何処かへ行ってしまい、代りにさっきの優しい主人があらわれた。
「どうだうまいか」といって、主人はそこにかがんだ。松次郎が胸に閊えたので拳でたたいていると、おやあいつ、お茶を持って来なかったんだな、いいつけといたのに、と呟いた。そのとき今の女中がお茶を持って来て、すました顔でそこへ置くとまたひっこんで行った。
「大きな握飯だな、いくつ持って来たんだ」と主人は一つ残った木之助のおむすびを見ていった。六つと木之助は答えた。この半白の頭をした男の人は、さっきより一層親くなったように木之助には感じられた。
木之助たちが喰べ終って、「ご馳走さん」と頭をさげると、主人はなおも、いろんなことを二人に話しかけ、訊ねた。これから行く先だとか、家の職業だとか、大きくなったら何になるのだとか。木之助の胡弓は大層うまいとほめてくれた。木之助はうれしかった。「こんど来るときはもっと仰山弾けるようにして来て、いろんな曲をきかしてくれや」といったので木之助は「ああ」といった。すると主人は袂の底をがさごそと探していて紙の撚ったのを二つ取り出し、一つずつ二人にくれた。
二人は門の外に出るとすぐ紙を開いて見た。十銭玉が一つずつあらわれた。
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