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ごんごろ鐘(ごんごろがね)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-21 9:26:31  点击:  切换到繁體中文

 三月(がつ)八日(ようか)
 お父(とう)さんが、夕方(ゆうがた)村会(そんかい)からかえって来(き)て、こうおっしゃった。
「ごんごろ鐘(がね)を献納(けんのう)することにきまったよ。」
 お母(かあ)さんはじめ、うちじゅうのものがびっくりした。が、僕(ぼく)はあまり驚(おどろ)かなかった。僕(ぼく)たちの学校(がっこう)の門(もん)や鉄柵(てつさく)も、もうとっくに献納(けんのう)したのだから、尼寺(あまでら)のごんごろ鐘(がね)だって、お国(くに)のために献納(けんのう)したっていいのだと思(おも)っていた。でも小(ちい)さかった時(とき)からあの鐘(かね)に朝晩(あさばん)したしんで来(き)たことを思(おも)えば、ちょっとさびしい気(き)もする。
 お母(かあ)さんが、
「まあ、よく庵主(あんじゅ)さんがご承知(しょうち)なさったね。」
とおっしゃった。
「ん、はじめのうちは、村(むら)の御先祖(ごせんぞ)たちの信仰(しんこう)のこもったものだからとか、ご本山(ほんざん)のお許(ゆる)しがなければとかいって、ぐずついていたけれど、けっきょく気(き)まえよく献納(けんのう)することになったよ。庵主(あんじゅ)だって日本人(にほんじん)に変(か)わりはないわけさ。」
 ところで、このごんごろ鐘(がね)を献納(けんのう)するとなると、僕(ぼく)はだいぶん書(か)きとめておかねばならないことがあるのだ。
 第(だい)一、ごんごろ鐘(がね)という名前(なまえ)の由来(ゆらい)だ。樽屋(たるや)の木之助(きのすけ)爺(じい)さんの話(はなし)では、この鐘(かね)をつくった鐘師(かねし)がひどいぜんそく持(も)ちで、しょっちゅうのどをごろごろいわせていたので、それが鐘(かね)にもうつって、この鐘(かね)を叩(たた)くと、ごオん[#「ごオん」に傍点]のあとに、ごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]という音(おと)がかすかに続(つづ)く、それで誰(だれ)いうとなく、ごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘(がね)と呼(よ)ぶようになったのだそうだ。しかしこの話(はなし)はどうも怪(あや)しい、と僕(ぼく)は思(おも)う。人間(にんげん)のぜんそくが鐘(かね)にうつるというところが変(へん)だ。それなら、人間(にんげん)の腸(ちょう)チブスが鐘(かね)にうつるということもあるはずだし、人間(にんげん)のジフテリヤが鐘(かね)にうつるということもあるはずである。それじゃ鐘(かね)の病院(びょういん)も建(た)たなければならないことになる。
 僕(ぼく)と松男君(まつおくん)はいつだったか、ろんよりしょうこ、ごんごろ鐘(がね)がはたしてごんごろごろ[#「ごんごろごろ」に傍点]と鳴(な)るかどうか試(ため)しにいったことがある。静(しず)かなときを僕(ぼく)たちは選(えら)んでいった。鐘楼(しゅろう)の下(した)にあじさいが咲(さ)きさかっている真昼(まひる)どきだった。松男君(まつおくん)が腕(うで)によりをかけて、あざやかに一つごオん、とついた。そして二人(ふたり)は耳(みみ)をすましてきいていたが、余韻(よいん)がわあんわあんと波(なみ)のようにくりかえしながら消(き)えていったばかりで、ぜんそく持(も)ちの痰(たん)のような音(おと)はぜんぜんしなかった。そこで僕(ぼく)たちは、この鐘(かね)の健康状態(けんこうじょうたい)はすこぶるよろしい、と診断(しんだん)したのだった。
 また紋次郎君(もんじろうくん)とこのお婆(ばあ)さんの話(はなし)によると、この鐘(かね)を鋳(い)た人(ひと)が、三河(みかわ)の国(くに)のごんごろう[#「ごんごろう」に傍点]という鐘師(かねし)だったので、そう呼(よ)ばれるようになったんだそうだ。鐘(かね)のどこかに、その鐘師(かねし)の名(な)が彫(ほ)りつけてあるそうな、と婆(ばあ)さんはいった。これは木之助(きのすけ)爺(じい)さんの話(はなし)よりよほどほんとうらしい。
 しかし僕(ぼく)は、大学(だいがく)にいっている僕(ぼく)の兄(にい)さんの話(はなし)が、いちばん信(しん)じられるのだ。兄(にい)さんはこういった。「それはきっと、ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鳴(な)るので、はじめに誰(だれ)かがごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘(がね)といったのさ。ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘(がね)ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘(がね)といっているうちに、誰(だれ)かが言(い)いちがえてごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘(がね)といっちまったんだ。するとごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘(がね)の方(ほう)がごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘(がね)よりごろ[#「ごろ」に傍点]がいいので、とうとうごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘(がね)になったのさ。」
 僕(ぼく)は小(ちい)さかったときには、ごんごろ鐘(がね)をずいぶん大(おお)きいものと思(おも)っていた。しかし国民(こくみん)六年(ねん)にもうじきなろうという現在(げんざい)では、それほど大(おお)きいとは思(おも)わない。直径(ちょっけい)が約(やく)七十糎(センチ)だから周囲(しゅうい)は70cm×3.14=219.8cmというわけだ。お父(とう)さんが奈良(なら)で見(み)て来(き)た鐘(かね)というのは、直径(ちょっけい)が二米(メートル)ぐらいあったそうだから、そんなのにくらべれば、ごんごろ鐘(がね)は鐘(かね)の赤(あか)ん坊(ぼう)にすぎない。
 しかし僕(ぼく)たち村(むら)のものにとっては、いつまでも忘(わす)れられない鐘(かね)だ。なぜなら、尼寺(あまでら)の庭(にわ)の鐘楼(しゅろう)の下(した)は、村(むら)のこどものたまりばだからだ。僕(ぼく)たちが学校(がっこう)にあがらないじぶんは、毎日(まいにち)そこで遊(あそ)んだのだ。学校(がっこう)にあがってからでも学校(がっこう)がひけたあとでは、たいていそこにあつまるのだ。夕方(ゆうがた)、庵主(あんじゅ)さんが、もう鐘(かね)をついてもいいとおっしゃるのをまっていて、僕(ぼく)らは撞木(しゅもく)を奪(うば)いあってついたのだ。またごんごろ鐘(がね)は、僕(ぼく)たちの杉(すぎ)の実(み)でっぽうや、草(くさ)の実(み)でっぽうのたまをどれだけうけて、そのたびにかすかな澄(す)んだ音(おと)で僕達(ぼくたち)の耳(みみ)をたのしませてくれたか知(し)れない。
 おもえば、ごんごろ鐘(がね)についてのおもいでは、数(かず)かぎりがない。

 三月(がつ)二十二日(にち)
 春休(はるやす)み第(だい)二日(にち)の今日(きょう)、ごんごろ鐘(がね)がいよいよ「出征(しゅっせい)」することになった。
 兎(うさぎ)にたんぽぽをやっていると、用吉君(ようきちくん)が、今(いま)おろすところだよ、といって来(き)たので、遅(おく)れちゃたいへんと、桑畑(くわばたけ)の中(なか)の近道(ちかみち)を走(はし)っていった。四郎五郎(しろごろう)さんの藪(やぶ)の横(よこ)までかけて来(く)ると、まだ三百米(メートル)ほど走(はし)ったばかりなのに、あつくなって来(き)たので、上衣(うわぎ)をぬいでしまった。
 尼寺(あまでら)へ来(き)て見(み)て、僕(ぼく)はびっくりした。まるでお祭(まつ)りのときのような人出(ひとで)である。いや、お祭(まつ)りのとき以上(いじょう)かも知(し)れない。お祭(まつ)りには若(わか)い者(もの)や子供(こども)はたくさん出(で)て来(く)るが、こんなに老人(ろうじん)までがおおぜい出(で)て来(き)はしないのだ。杖(つえ)にすがった爺(じい)さん、あごが地(ち)につくくらい背(せ)がまがって、ちょうど七面鳥(しちめんちょう)のようなかっこうの婆(ばあ)さん、自分(じぶん)では歩(ある)かれないので、息子(むすこ)の背(せ)におわれて来(き)た老人(ろうじん)もあった。こういう人(ひと)たちも、みなごんごろ鐘(がね)と、目(め)に見(み)えない糸(いと)で結(むす)ばれているのだ。僕(ぼく)はいまさら、この大(おお)きくもない鐘(かね)が、じつにたくさんの人(ひと)の生活(せいかつ)につながっていることに驚(おどろ)かされた。
 老人(ろうじん)たちは、ごんごろ鐘(がね)に別(わか)れを惜(お)しんでいた。「とうとう、ごんごろ鐘(がね)さま[#「さま」に傍点]も行(い)ってしまうだかや。」といっている爺(じい)さんもあった。なんまみだぶ、なんまみだぶといいながら、ごんごろ鐘(がね)を拝(おが)んでいる婆(ばあ)さんもあった。
 鐘(かね)をおろすまえに、青年団長(せいねんだんちょう)の吉彦(よしひこ)さんが、とてもよいことを思(おも)いついてくれた。長年(ながねん)お友(とも)だちであった鐘(かね)ともいよいよお別(わか)れだから、子供(こども)たちに思(おも)うぞんぶんつかせよう、というのであった。これをきいて僕(ぼく)たち村(むら)の子供(こども)は、わっと歓呼(かんこ)の声(こえ)をあげた。みなつきたいものばかりなので、吉彦(よしひこ)さんはみんなを鐘楼(しゅろう)の下(した)に一列(れつ)励行(れいこう)させた。そして一人(ひとり)ずつ石段(いしだん)をあがってつくのだが、一人(ひとり)のつく数(かず)は三つにきめられた。お菓子(かし)の配給(はいきゅう)のときのことをおもい出(だ)して、僕(ぼく)はおかしかった。だが、ごんごろ鐘(がね)を最後(さいご)に三つずつ鳴(な)らさせてもらうこの「配給(はいきゅう)」は、お菓子(かし)の配給(はいきゅう)以上(いじょう)にみんなに満足(まんぞく)をあたえた。
 最後(さいご)に吉彦(よしひこ)さんがじぶんで、大(おお)きく大(おお)きく撞木(しゅもく)を振(ふ)って、がオオんん、とついた。わんわんわん、と長(なが)く余韻(よいん)がつづいた。すると吉彦(よしひこ)さんが、
西(にし)の谷(たに)も東(ひがし)の谷(たに)も、北(きた)の谷(たに)も南(みなみ)の谷(たに)も鳴(な)るぞや。ほれ、あそこの村(むら)も、あそこの村(むら)も、鳴(な)るぞや。」
と、謎(なぞ)のようなことをいった。
「ほんとだ、ほんとだ。」
と、樽屋(たるや)の木之助(きのすけ)爺(じい)さんと、ほか二、三人(にん)の老人(ろうじん)があいづちをうった。
 ぼくは何(なん)のことやらわけが分(わ)からなかったので、あとでお父(とう)さんにきいて見(み)たら、お父(とう)さんはこう説明(せつめい)してくれた。
「ごんごろ鐘(がね)ができたのは、わたしのお祖父(じい)さんの若(わか)かったじぶんで、わたしもまだ生(う)まれていなかった昔(むかし)のことだが、その頃(ころ)は村(むら)の人達(ひとたち)はみなお金(かね)というものを少(すこ)ししか持(も)っていなかったので、村中(むらじゅう)がその僅(わず)かずつのお金(かね)を出(だ)しあっても、まだ鐘(かね)を一つつくるには足(た)りなかった。そこで西(にし)や東(ひがし)や南(みなみ)や北(きた)の谷(たに)に住(す)んでいる人(ひと)たちやら、もっと遠(とお)くのあっちこっちの村(むら)まで合力(ごうりょく)してもらいにいったんだそうだ。合力(ごうりょく)というのは、たすけてもらうことなのさ。そうしてようやくできあがった鐘(かね)だから、四方(しほう)の谷(たに)の人(ひと)や向(む)こうの村々(むらむら)の人(ひと)の心(こころ)もこもっているわけだ。だからごんごろ鐘(がね)をつくと、その谷(たに)や村(むら)の音(おと)もまじっているように聞(き)こえるのだよ。」
 ごんごろ鐘(がね)をおろすのは、庭師(にわし)の安(やす)さんが、大(おお)きい庭石(にわいし)を動(うご)かすときに使(つか)う丸太(まるた)や滑車(せみ)を使(つか)ってやった。若(わか)い人達(ひとたち)が手伝(てつだ)った。馴(な)れないことだからだいぶん時間(じかん)がかかった。
 ごんごろ鐘(がね)はひとまず鐘楼(しゅろう)の下(した)に新筵(にいむしろ)をしいて、そこにおろされた。いつも下(した)からばかり見(み)ていた鐘(かね)が、こうして横(よこ)から見(み)られるようになると、何(なに)か別(べつ)のもののような変(へん)な感(かん)じがした。緑青(ろくしょう)がいっぱいついている上(うえ)に、頂(いただき)の方(ほう)には埃(ほこり)がつもっているので、かなりきたなかった。庵主(あんじゅ)さんと、よく尼寺(あまでら)の世話(せわ)をするお竹(たけ)婆(ばあ)さんとが、縄(なわ)をまるめてごしごしと洗(あら)った。
 すると今(いま)まではっきりしなかった鐘(かね)の銘(めい)も、だいぶんはっきりして来(き)た。吉彦(よしひこ)さんがちょっと読(よ)んで見(み)て、
「こりゃ、お経(きょう)だな。」
といった。それからまた、
安永(あんえい)何(なん)とか書(か)いてあるぜ。こりゃ安永年間(あんえいねんかん)にできたもんだ。」
といった。すると、どもりの勘太(かんた)爺(じい)さんが、
「そ、そうだ。う、う、おれの親父(おやじ)が、う、う、生(う)まれたとしにできた、げな。お、お、親父(おやじ)は安永(あんえい)の、う、う、うまれだ。」
と、かみつくようにいった。
 紋次郎君(もんじろうくん)とこの婆(ばあ)さんが、
三河(みかわ)のごんごろという鐘師(かねし)がつくったと書(か)いてねえかン。」
ときいた。
「そんなことは書(か)いてねえ、助九郎(すけくろう)という名(な)が書(か)いてある。」
と、吉彦(よしひこ)さんが答(こた)えると、婆(ばあ)さんは何(なに)かぶつくさいってひっこんだ。
 和太郎(わたろう)さんが牛車(ぎゅうしゃ)をひいて来(き)たとき、きゅうに庵主(あんじゅ)さんが、鐘供養(かねくよう)をしたいといい出(だ)した。大人(おとな)たちは、あまり時間(じかん)がないし、もうみんなじゅうぶん別(わか)れを惜(お)しんだのだから、鐘供養(かねくよう)はしなくてもいいだろう、といった。しかし若(わか)い尼(あま)さんは、眼鏡(めがね)をかけた顔(かお)に真剣(しんけん)な表情(ひょうじょう)をうかべて、「いいえ、自分(じぶん)の体(からだ)を熔(と)かして、爆弾(ばくだん)となってしまう鐘(かね)ですから、どうしても供養(くよう)をしてやりとうござんす。」といった。
 大人(おとな)たちは、やれやれ、といった顔(かお)つきをした。みんな、庵主(あんじゅ)さんがしようのない頑固者(がんこもの)であることを知(し)っていたからだ。しかし庵主(あんじゅ)さんのいうことも道理(どうり)であった。
 鐘供養(かねくよう)というのは、どんなことをするのかと思(おも)っていたら、ごんごろ鐘(がね)の前(まえ)に線香(せんこう)を立(た)てて庵主(あんじゅ)さんがお経(きょう)をあげることであった。庵主(あんじゅ)さんは、よそゆきの茶色(ちゃいろ)のけさを着(き)て、鐘(かね)のまえに立(た)つと、手(て)にもっている小(ちい)さい鉦(かね)をちーんとたたいて、お経(きょう)を読(よ)みはじめた。はじめはみんな黙(だま)ってきいていたが、少(すこ)したいくつになったので、お経(きょう)を知(し)っている大人達(おとなたち)は、庵主(あんじゅ)さんといっしょに唱(とな)え出(だ)した。何(なん)だか空気(くうき)がしめっぽくなった。まるでお葬(とむら)いのような気(き)がした。年寄(としよ)りたちはみなしわくちゃの手(て)を合(あ)わせた。
 鐘供養(かねくよう)がすんで、庭師(にわし)の安(やす)さんたちが、またごんごろ鐘(がね)を吊(つ)りあげると、その下(した)へ和太郎(わたろう)さんが牛車(ぎゅうしゃ)をひきこんで、うまいぐあいに、牛車(ぎゅうしゃ)の上(うえ)にのせた。その時(とき)、黄色(きいろ)い蝶(ちょう)が一つごんごろ鐘(がね)をめぐって、土塀(どべい)の外(そと)へ消(き)えていった。
 和太郎(わたろう)さんが牛(うし)を車(くるま)につけているとき、みんなはまたいろいろなことをいった。
「この鐘(かね)がなしになると、これから報恩講(ほうおんこう)のときなんかに、人(ひと)を集(あつ)めるのに困(こま)るわなア。」
といったのは、いつも真面目(まじめ)なことしか言(い)わない種(たね)さんだ。
「なあに、学校生徒(がっこうせいと)を呼(よ)んで来(き)て、ラッパを吹(ふ)かせりゃええてや。トテチテタアをきいたら、みんな、ほれ報恩講(ほうおんこう)がはじまると思(おも)って出(で)かけりゃええ。」
答(こた)えたのは、ひょっとこづらをして見(み)せることの上手(じょうず)な松(まつ)さん。
「ほんな馬鹿(ばか)な。ラッパで爺(じい)さん婆(ばあ)さんを集(あつ)めるなどと、ほんな馬鹿(ばか)な。」
と、種(たね)さんはしかたがないように笑(わら)った。
「これでごんごろ鐘(がね)もきっと爆弾(ばくだん)になるずらが、あんがい、四郎五郎(しろごろう)さんとこの正男(まさお)さんの手(て)から敵(てき)の軍艦(ぐんかん)にぶちこまれることになるかもしれんな。」
吉彦(よしひこ)さんがいった。四郎五郎(しろごろう)さんの家(いえ)の正男(まさお)さんは、海(うみ)の荒鷲(あらわし)の一人(ひとり)で、いま南(みなみ)の空(そら)に活躍(かつやく)していらっしゃるのだ。
「うん、そうよなあ。だが、正男(まさお)の奴(やつ)も、ごんごろ鐘(がね)でできた爆弾(ばくだん)たあ知(し)るめえ。爆弾(ばくだん)はものをいわねえでのオ。」
無口(むくち)でがんじょうな四郎五郎(しろごろう)さんは、煙草(たばこ)をすいながらぽつりぽつり答(こた)えた。
「だが、これだけの鐘(かね)なら爆弾(ばくだん)が三つはできるだろうな。」
と、誰(だれ)かがいった。
「そうよなあ、十はできるだら。」
誰(だれ)かが答(こた)えた。
「いや三つぐれえのもんだら。」
と、はじめの人(ひと)がいった。
「いいや、十はできるな。」

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