頷いて、薄暗い明りの下ながら、私はその刹那に初めて女の顏を眞面に見詰めた。赤茶けた、澤のない、ばさばさ髪、高い頬骨、肩掛をはづした女の顏は見違へる程痩せてゐた。そして、夜眼にはただ白くばかり見えてゐた拙い化粧の下に、そばかすが一杯に浮いてゐた。年は二十六七なのであらう。明りに照り反された、黒くたるんだ瞼の陰にありありと羞恥の色を見せながら、まぶしさうに私を見詰めた眼は深く凹んで、その奧には生活に疲れきつてゐるやうな暗い影が差してゐた。私は思はず顏をそむけた。そして、幻影消滅の苦苦しさに打たれながら、引き摺られて來た今までの自分の姿の淺ましさを感じながら、暫く身動きもせずにその場に佇んでゐた。
「さあ、おはいり下さいな……」と、女は小聲に私をうながした。そして、右手の直ぐとつつきの部屋の扉の前に歩み寄つて、ハンドルに手を掛けた。
「其處かね。――君の家は……」と、私は氣拙さをてれ隱すやうに尋ねかけた。
「ええ……」と、女は低く頷いた。
然し、私ははいる氣込をすつかり喪つてしまつた。そして、むつつり口噤みながら、女の顏を眺めてゐた。
「まあ、どうなすつたんですか?」と、女は氣遣はしさうに云つた。
私はふつと溜息づいた。そして、女からそむけた視線をそのままにぐるりとあたりを見まはした。遁れる事、思ひ切つて階段を駈け降りてしまふ事、それより外に自分の救ひ場がない氣がした。が、私はためらつた。ためらひながら、探るやうにまた女の樣子を眺めた[#「眺めた」は底本では「跳めた」]。と、遁げられては――と云ふ不安に捉はれたらしい女は、急に眼色を鋭くした。そして、つかつかと私の側に舞ひ戻つて來たかと思ふと、ぐいと外套の袖を掴んだ。
「金だけ置いてやらう……」と、咄嗟にさうした苦苦しい決心で自分を鞭打ちながら、私は仕方なく女のあとに續いた。むかむかするやうな氣持だつた。が、扉の内へはいつて、女の指差した壁際の椅子にぐたりと腰を降した時、ほつと氣の弛みを感じた。知らない間に、私の總身は疲れきつてゐたのだつた。
細長い部屋だつた。處處紙の破れた天井から、笠のない、ほこりだらけの電球が此處にも黄色い、乏しい光を投げてゐた。粗末な丸テエブルのまはりに、編目のほぐれたりした椅子が三つ四つ。針金に渡した、みすぼらしいカアテンの奧の方には、寢臺が備へてあるらしかつた。古びた唐草模樣の壁紙の處處はげかかつた四方の壁には、三色版の平凡な風景畫が一つ掛かつてゐるきりで、がらんとした、空氣の冷えきつた部屋の中には裝飾品らしい何物も見えなかつた。女は何か知ら落ち着きのない樣子で、テエブルを挾んで私と向ひ合せに腰を降したが、直ぐまた立ち上つた。
「寒いでせう。――火を持つて來ますわ……」と、女は小聲に囁いた。そして、左手の壁の中程にある扉の方へ歩いて行つたかと思ふと、ひよいと私を振り返りながら、そのまま隣の部屋へ姿を消してしまつた。
この部屋きりの一人住居――そんな風に女の身を想像してゐた私は、思掛ない氣持で扉の方を眺めながら耳を澄ましたが、ごとりごとりと聞えてゐた女の靴音はやがて止んで、隣の部屋は直ぐに鎭まり返つてしまつた。私はその扉と向ひ合せの、右手の窓に眼を移した。降された、貧しい花模樣のある、茶色のカアテンが靜に搖れてゐる。十秒、二十秒、三十秒、私は部屋の中をまたぐるりと見廻した。幽かな胸騷ぎがし始めた。それを胡麻化すやうにポケツトから煙草を取り出してマツチの音を氣にしながら火をつけた。そして、一息吸つた紫烟を吐き出しながら、その烟のからんで行く電燈の方を見るともなく見上げてゐた。すると、その途端に扉の向うで幽かな人聲がした。續いて、力の無い咳音が二つ三つ聞えた。思はず息を抑へながら、私は聽耳を立てた。が、そのままあたりはひつそりとなつてしまつた。
「誰がゐるんだらうか?」と、私は心の中にこはごは呟いた。と、刹那に或る人から聞かされてゐた西洋の「美人局」の話が不意に頭の中に閃いた。私はぎくりとした。
やがて私はそつと椅子から立ち上つた。そして、女のはいつて行つた扉の方へあるきかけた。が、ぎしりと床にきしつた自分の靴音を感じると、足はそのまますくんでしまつた。動氣が高まつて來た。神經が針のやうに尖がつて來た。私は體の動きに迷ひながら、入口の扉の方をぢつと眺めてゐた。
が、間もなかつた。よろめくやうな足音が再び聞えたのにはつとして振り返ると、隣の部屋の扉が靜にあいて、その陰に瀬戸火鉢を抱へた女の姿が現れた。火鉢の中には今燃やしつけたばかりらしい木片がけぶつてゐた。瀬戸火鉢と西洋婦人と、それは如何にも奇妙な、同時に如何にも貧乏くさい感じを與へる對照だつた。張り切つてゐた氣持はふと弛んだ。そして、私は怪訝の眼を女の姿に投げかけた。と、女は何故か憚るやうにあわてて扉を締めて、置いた火鉢を抱へ直すとけむつぽい顏を横に曲げながら、私の側に近寄つて來た。
「たいへん、寒い……」と、てれ隱すやうに日本語を呟いて、女は硬張つた作り笑ひをその澤のない顏に浮べた。そして、私の前に引き寄せた椅子の上に火鉢を降すと、それを挾んで私と向ひ合せに腰を降した。
私は塵の浮いたテエブルの面に眼を落したまま、身動きもせずに默りこんでゐた。が、さうした故意とらしい女の仕草が油斷を作らせるためではないか知らと思ふと、私は警戒の氣持を弛める譯にはいかなかつた。互にこだはり合つた、ぎごちない沈默が續いた。と、やがて女はかざしてゐた手の指先で火鉢の縁をこつこつ彈き始めたが、暫くしてひよいと顏を上げながら、
「外套をおぬぎなさいな……」と、變に調子のもつれた聲で囁いた。
それには答へずに、私は探るやうに女の顏を見詰め返したが、何時の間にかそれは化粧し直されてゐた。そして、痩せてこそゐるが、人の好きさうな、小作りな顏に、素人らしい臆病さで媚びるやうに見開かれてゐる二つの眼には[#「眼には」は底本では「眼にば」]、何の邪惡の影も見えなかつた。火ぼこりをかぶつた髪、紅の曇つた唇、上着の間からのぞいた粗い襟足、よごれのついた更紗の上着、毛のすりきれた茶羅紗のスカアト――若い異性らしい魅力を喪つた、痛痛しいやうな、さうした姿と、自分の行爲に明ら樣になりきれない、部屋へはいつてからのぎごちない始終の樣子とを思ひ合せると、私は今まで女の上に描いてゐた不安な想像が少し馬鹿らしくなつて來た。が、それにしても隣の部屋に感じた人の氣配と、何處となく秘密を包んでゐるらしい女に對する疑念は霽れなかつた。
「君は此處に一人で住んでるのかい?」と、私はさりげない調子で訊ねかけた。
と、俯向いてゐた女はひよいと私を見上げたが、何となく不安らしい眼をしばだたきながら、返事にためらふ樣子だつた。
「外に誰もゐないの?」
「ええ。――私一人ですの……」と、女は底響のない聲で答へながら、俯向いた。
嘘だな――と、私は思つた。が、妙におどおどして落ちつかない女の樣子を見てゐると、強ひて問ひ詰めるのもためらはれるやうな氣持だつた。が、それだけにまた、何かある、何かある――と、さうした疑念が一そう深められずにはゐなかつた。
「ほんとに一人?」と、聲を高めながら、私はまた云つた。
「ええ……」女は曖昧に頷いた。
「でも、さつき隣の部屋で誰かと話し合つてゐたぢやないか?」
女はぎくりと肩先を顫はせた[#「顫はせた」は底本では「顱はせた」]。が、俯向いたまま、何故か堅く唇を噛み締めてゐた。
「何か隱してゐるね?」
「いいぇ……」と、女は上眼遣ひに私を見上げた。おびえてゐるやうな視線だつた。そして、顏には血の色が消えてゐた。
私は疑ひを深めながら、何故かだんだんに身ずくみして行くやうな女の姿を頭越しにぢつと見守つてゐた。そして、互に長い沈默を續け合つた。と、凝りついたやうに動かなかつた女は、やがて靜に顏を上げた。その眼は一杯に涙ぐんでゐた。
「私はあなたのやうな方に初めて會ひました……」と、女は不意に云つた。
「え?」
「あなたは親切な人です。」
私は返す詞もなく女を見詰めた。
「いいえ、外の人はみんな直ぐに私の體を求めます。――あなたのやうな人はありません……」と、女は私の視線を遁れるやうに顏を反けて、聲を顫はせながら云つた。そして、暫くすると、突然机の面に身を投げ伏せて、啜り泣き始めた。
私は浮びかかつた苦笑を苦苦しく噛み殺した。
「一體、どうしたと云ふんだ?」と、たまり兼ねてとうとう立ち上つた私は、女の側に近附きながら訊ねかけた。
女は力なげに身を起した。
「ほんとは、ほんとは夫と、子供が二人……」と、女は涙ぐんだ眼で隣の部屋の方に眼くばせした。
「ええ?――君の……」
女は默つて頷いた。
「どうして?――そして、君は……」と、私は息を彈ませた。
女は答へ兼ねたやうに俯向いてしまつた。
眞面にびしりと何かを叩きつけられたやうな氣持だつた。私は隣の部屋の方を振り向き、女の姿を見詰めながら、不安と、困惑と、羞恥と、疑惑の中に立ち迷つてしまつた。
「何故……」と、やがて云ひかけたが、私はその先を云ひためらつてしまつた。
女は痛痛しい視線で私を見上げた。
「夫は、夫は、肋膜炎に罹つてゐますの。――この夏の初めから……」と、女は聲を戰かせながら、絶望的な調子で云つた。
密かな想像が其處へ動きかけてゐた。その途端だつた。で、今までのすべてをはつきりさせてしまふやうなその詞を聞かされた時、驚きに打たれると云ふよりも、騷いでゐた私の氣持はふと鎭まつた。そして、その鎭まつた氣持のままに、初めて我に返つたやうに、私は眼の前の女の姿をぢつと見詰めた。と、すべてを打ち明けて張り詰めてゐた氣持の綱が弛んだのか、女は俯向いたまままた啜り泣き始めた。
「これも革命の悲慘な犧牲者の一人に違ひない……」と、私は心に思つた。そして、その啜り泣きの聲に惹きつけられながら、默つて膝に眼を伏せた。
長い沈默が互の間に過ぎて行つた。
「然し、御病人の樣子はどんななの?」と、私はやがて靜に訊ねかけた。
「ええ、もう長くは持ちますまい。醫者にかける事が出來ないんですから。――それに第一、私達四人は昨日から何にも食べませんの……」と、女は啜り泣きをこらへながら、途切れ途切れに答へ返した。そして、暫く口を噤んだあと、急に身を顫はせながら※[#「口+斗」、30-5]んだ。「これもみんなあのレエニンのためですよ。――あんな憎い、恐ろしい男はありません。」
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