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日曜日から日曜日まで(にちようびからにちようびまで)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-21 9:01:27  点击:  切换到繁體中文


 木曜日――。
 九時前起床。明方の發作今日も少し重くエフエドリンを服用したが、この四五日にない秋晴れの穩かな日で割に氣分がいい。間もなく煙草專賣局の本所工場觀覽招待に同行を約した内田誠君から、久保田夫人告別式の歸途自動車事故で足に負傷したのでお伴出來ぬと斷りの電話が掛かる。それで馬場孤蝶先生と二人だけで行く事になつた譯だが、お宅へお迎ひになどと思つてゐる矢先ちよつとした客來があつたので、お約束のまま午後一時に京橋の明治製菓賣店の前で先生と落ち合ひ、すぐ本所工場へ向つた。
 工場の觀覽は我我煙草好きには甚だ興味深い筈のものだつたが、結局割に單純な「曉」の製作課程を見せられただけで、殊に自分は横濱の博覽會でその中心部分を既に見た事があるので、全く期待はづれの始末だつた。而も、ついうつかりと生温い空氣のむつとした煙草葉乾燥室へはいつた刹那、輕い喘息の發作を誘發され、あとになつて今日は珍しく用心深く携へて來たアストオル吸入器が役に立つやうな羽目になつてしまつた。
 三十分あまりで工場を出ると、馬場先生と自分とは厩橋あたりの隅田川岸へ出て、川沿ひに兩國の方へ歩いて行つた。先生との散策はまるで明治文學史と歩み動くやうな感じだ。話はお好きだし、御記憶は生き生きしてゐるし、御藏橋の近くで齋藤緑雨の死を思ひ出されて、明治三十七年の十一月の或るうそ寒い夕方、幸田露伴、與謝野寛、戸川秋骨の諸氏とみすぼらしい座棺のあとに從ひながら、三河島火葬場へ向ふべく同勢わづか七八人でその御藏橋を渡つて行つたといふお話などは、殊更に自分の胸を強く打つものがあつた。
「みじめなものだつたんですね、あの時分の人達は……」と、自分は思はず先生を顧みてやや叫ぶやうにして言つた。
 報いられる事薄かつた明治時代の文人の中でも、緑雨は恐らくその不遇なるものの隨一人だつたであらう。それにしても、自分の少年期の長崎時代の思出に漸く殘る粗末な感じの座棺に收められて、その人をよく知る者の十指に充たぬ人達の葬送を得るに過ぎぬとは何といふ佗びしさか? その頃の隅田川岸と言へば自分の記憶にもぼんやり浮ぶが、低い家の立ち並んだ薄暗い泥の道、晩秋のうそ寒い川風の中をトボトボと辿り行くであらう寂しい葬送行進曲! それが明治文學史にあれほど特異な存在を刻みつけた文人の人生への告別だつたのだ。
 兩國橋の袂で先生と自分は一錢蒸汽に乘つた。隅田川へくると自分はきつとこれに乘る。芥川龍之介とも乘つた事があるが、何か間のぬけたのびやかさが好きなのだ。先生が臺灣旅行の話をなさると、自分は支那の旅を語る。例の呼び賣りの出現から腕無し藝者の妻吉の話が出る。妻吉が一錢蒸汽の中で自分の繪葉書を賣りつけられた話、上陸の時船員が手を取つてやらうとしてはめてゐた義手を掴み、それがスポリとぬけたのに驚いて腰をぬかした話。いつしか蒸汽は吾妻橋へ着いてゐた。
 穩かな行樂日和に淺草は賑かだつた。仲見世をブラブラ歩いて行く内に自分は少し息苦しくなつて來たので、梅園へはいつて一休みした。そして、さういふ姿をお眼に掛ける失禮をお詫びしながら、暫くアストオル吸入器を用ゐた。幾らか樂になつた。小倉汁粉をすすりながら三十分ほどを過す。それから淺草寺觀音へ詣でて、奧山から瓢箪池の橋を渡つて活動街へ。相變らずいろいろとお話を伺ひながら、やがて田原町へ出た。
「銀座へ參りませう?」と、自分は更に先生をお誘ひして自動車を呼び止めた。
 さてもさても心樂しき半日かな。慶應義塾の文科生時代に級友の井汲清治、福原信辰、それに今は亡き宇野四郎等と先生ともどもに銀座へ歩き出たりした事は幾度かあつたが、その頃から殆ど二十年振の今日思掛ない事柄が老先生とのかういふ半日を與へてくれた。健康がもつと滿足だつたら聊か憾みだつたが、それから銀座の資生堂で簡單な夕食をとりながらお話を伺つてゐる内に喘息の發作が幾分強まつてくる氣配だつた。
「畜生つ、畜生つ……」と、内心に呟きながら、手洗所へ立つて、わざわざ扉のある方へはひり、聊かあせるやうな氣持でアストオル吸入をつづけてみるのだつたが、もう駄目だつた。どうやらほんとの發作に進んでしまつたらしかつた。が、そんな氣配を今日殊更に先生にお見せるのは厭やだつた。そして、戸外の薄暗くなる頃まで自分はさりげなく先生との雜談に時を移してゐた。
 六時過ぎ資生堂の前で先生とお別れした。夜店を見に行くとおつしやる先生とまだお別れしたうもない心持だつたが、だんだん強くなつてくる息苦しさには勝てなかつた。畜生つ喘息め! 畜生つ喘息め! 自分は自らに腹を立てながらすぐ自動車に乘つた。
「厭やアね、もつと早く歸つてらつしやればいいのに……」と、息を喘がせながら内玄關で靴をぬいでゐる自分の姿を見ると妻が如何にも簡單な感じでさう言つた。
「馬鹿つ……」と、自分は思はず言つた。さういふ時には妻にも、いや、恐らく誰にも腹立たしい。さうして實に佗びしい他人を感じる。それは喘息持ちにして初めて知り得る不幸であるらしい。
 エフエドリン二錠を服用してすぐ臥床。
 金曜日――。
 土曜日――。
 二日とも喘息發作で遂に臥床。今年は元日以來一度も病臥に及んだ事なく、生れて初めての輝かしき記録だつたが、やつぱり一年間とは通せなかつた。然し、アドリナリン注射を要する強烈な發作には至らずに濟んだ。そして、臥床のお蔭で文藝春秋、三田文學、中央公論、改造、話、オオル讀物、モダン日本などの十二月號、エラリイ・クイインの三作、それに土居市太郎八段から贈られた「將棋作戰學」までも讀み上げてしまつた。この點だけはたまの病臥も惡くないと勝手な事も思ふ。
 日曜日――。
 やつと喘息發作も鎭まつたので、午後の半日だけ起きてゐたが、夜再び床に就いてラヂオなどを聞いてゐる内に變に體に寒氣がし出したので檢温器をあててみると八度一分、十一時にはそれが九度二分なつてゐた。以前發作で五日一週間を臥床して、それが鎭まる前にはきつと九度、四十度の發熱がお極りだつた。高熱による體内の異和が發作に何が影響するのであらう。これで十月中旬來引きつづいての朝毎の喘息發作も一おう納るのだらうと思ふと、恐らく人によつては非常な苦惱に違ひないところの九度二分の發熱も自分には何物でもなく、一種の肉體的福音なのだ。が、ただいつまでも眠りつけなかつたのはさすがにちつと閉口だつた。(終り)





底本:「三田文學」三田文學會
   1936(昭和11)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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