「人間はあんなにまでも美しく清らかに生きて行くことが出來るのだ。」
ふとさう呟きながら、私は瞳を返して遠くなつた修道院の方を振り返つた。が、その時ポプラの林を背景にした建物の姿はもう岬の蔭に隱れてゐた。私はそこに強く心を惹かれるとともに堪へ難いやうな離愁を感じて、そのまま瞳を膝に伏せてしまつた。
一時間ほどして船が再び棧橋に着いた時、函館の町はしらじらとした暮靄の中に包まれてゐたが、それは夕べの港の活躍の時であつた。そこには修道院のそれとはまるで違つた、あわただしく、忙がしげな人間生活が眼まぐるしいやうに動いてゐた。そして、私はいきなり美しい夢から呼び覺まされたやうに、現實的なその世界の中に卷き込まれねばならなかつた。[#底本では読点]私はそれを恐れ厭ふやうに、また美しくも忘れ難い印象を自分の胸裡に守るやうにして、妹の待つ湯の川の宿へと急ぎ歸つた。
その翌日、私は妹とともに再び津輕海峽を越えわたつて、青森、仙臺と妹の旅疲れを休めながら、十七日の朝、五十日近い北國の旅を終へて、東京へ歸りついた。出發前、その旅先の苫小牧でと計畫してゐた處女作「雪消の日まで」は可成りな苦心努力にも拘らず、遂に一部分をさへ書き上げることが出來なかつた。それは無論寂しく、口惜しく、悲しいことではあつたが、なほ胸深く消え去らない修道院での感激や驚異はそれ等をつぐなつてあまりある貴い旅の收穫であつた。私はその旅での外のあらゆる見聞や印象は殆ど忘れて、修道院のすべてに絶えず頭や胸を一杯にされてゐた。
「さうだ。この氣持を書いてみよう。修道院からうけたこの氣持を……」
旅の疲れのすつかり癒えた九月末の或る日、私は突然さう考へついた。と、それはもうすぐにも書かずにはゐられないやうな衝動を私の全身に感じさせた。
或る夜から、私は机に向つて筆を執りはじめた。そして、多少紀行的な表現の間に、修道院でうけた印象なり感想なりを中心にした文章を起稿した。と、胸には貴い感動がまた強く蘇り、一種の快い創作的興奮が私のすべてを生き生きさせた。一字、一句、それが原稿紙の上に刻一刻と書き現されて行くのが、自分ながら私はどんなに嬉しかつたことだらうか? そして、その夜は過ぎた、また明くる一日が過ぎた。けれども、いざさうして實際に筆を動かしはじめてみると、なかなか手易くは行かなかつた。一字書き、一行進めては氣に入らなくなり、不滿になり、厭やになつたりして、私は幾度か原稿紙を引き裂き、幾度か書き出しの稿を改めずにはゐられなかつた。そして、朝の内は文科の學生として學校に通ひ、歸つてくれば眞夜中過ぎまで机に向ふと云ふやうな、私の體としては可成り無理な努力が自然に疲れを誘はずにゐなかつた。
さうして書き出しの四五枚を漸くまとめ得たかと思ふ内に、いつか十月にはひつたが、努力の疲れとともに私の恐れてゐたものが體に迫つて來た。それは毎年夏の末から秋へかけて私を子供時分から苦しみ惱ませてゐた持病喘息の發作であつた。病苦そのものと、不眠と、強い鎭靜藥を用ゐるためにくる頭の濁りと、それは如何に私を弱らせ、筆の進みを妨げたことであらう? この時ばかりはいろいろな病苦に慣らされた私も自分の病弱を恨み悲しまずにはゐられなかつた。
「然し、こればかりはどうしても書き上げよう。いや、書き上げずにはゐられないぞ。」
さう考へながら、私はひるまうとする自分を鞭打ち努めた。
けれども、或る夜は發作に喘ぎ迫る胸を抑へながら、私は口惜しさに涙ぐんだ。或る日は書きつかへて机のまはりに空しくたまつた原稿紙の屑を見詰めながら、深い疲れに呆然となつてゐた。或る朝は偏頭痛を感じて筆を執る氣力もなく、苛苛しい時を過した。それ等は私にとつては恐らく一生忘れ難い處の、産みの苦しみだつた。が、起稿後半月を過した十月十日頃に、私はともかくも三十餘枚の原稿を、書き上げてほつと一息ついた。そして、いろいろ迷つた末にその題を單純に「修道院の秋」とつけて、一先づとぢ上げてみた。然し、私の心にはまだほんたうの滿足は來なかつた。しつくりした安心は得られなかつた。
「これでいいのだらうか? こんなものを、自分の作品として世間に發表して、恥ではないだらうか?」
私はさう迷ひ、且つ疑はずにはゐられなかつた。
私はとぢ上げた原稿を二度、三度と讀み返してみた。と、意に充たない處、書き直さなければならない處がまだまだ幾個所にもあつた。そして、私はなぜか泣き出したいやうな寂しさを覺えて、ひるまうとする、崩折れようとする自分をさへ見出さずにはゐられなかつた。が、そこで私は自分を鞭打ちながら踏み留まつた。もう一度書き直さう。いや、書き直さなければならないと思った。そして、その刹那から可成りな心身の疲れにも拘らず、こまかく推敲しつつ全部を書き直し、更にそれを三度書き直して、最後の筆を置いたのが忘れもしない十月十七日の夜の十二時近くなのであつた。
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
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