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処女作の思い出(しょじょさくのおもいで)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-21 8:59:18  点击:  切换到繁體中文

忘れもしない、あれは大正五年十月なかばのる夜のことであつた。秋らしくみ返つた夜氣やきのややはださむいほどに感じられた靜かな夜の十二時近く、そして、書棚の上のベルギイ・グラスの花立はなだてした桔梗ききやうの花のいくつかのしほれかかつてゐたのが今でもはつきり眼の前に浮んでくるが、その時こそ、私は處女作しよぢよさく「修道院の秋」の最後の一行を書き終つて、人無き部屋にほつと溜息ためいきつきながら、机の上にペンを置いたのであつた。それは處女作しよぢよさくふにもはづかしいやうな小さな作品ではあつたが、二十日近くのひた向きな苦心努力にすつかり疲れきつてゐた私は、その刹那せつな、深い嬉しさとともに思はずまぶたの熱くなるのを禁じ得なかつた。
 ふまでもなく、如何いかなる作家にとつても處女作しよぢよさくを書いた當時たうじの思ひ出ほどなつかしく、忘れがたいものはあるまい。いや、たとへ、世に知られた作家ではなくとも、小學校へはひつて文字を習ひおぼえ、をさない頭にも自分のさうあらはすことを知つて、初めて書き上げた作文にし思ひ出がのこるならば、それは人人ひと/″\の胸にどんな氣持を呼び起すことであらうか? また世のかげにひそんで人知れず自己の作品を書き努める無名の作家、雜誌ざつしへの投書を樂しむつつましき文藝愛好者、そこにもそれぞれになつかしく、忘れがた處女作しよぢよさくの思ひ出はかくれてゐることであらう。そして、その完成までの苦心努力が深ければ深いほど、思ひ出は時には涙ぐみたいほど痛切つうせつであるに違ひない。
 その年の八月初めであつた。私は膽振ゐぶりの國の苫小牧とまこまいに住む妹夫婦の家を訪ふべく、初めての北海道の旅路たびぢについた。東京を立つてから山形、船川港ふなかはかう弘前ひろさき、青森、津輕つがる海峽を越えて室蘭むろらんと寄り道しながら、眼差す苫小牧とまこまいへと着いたのが七八日頃、それから九月へかけてのまる一ヶ月ほどを妹夫婦の家にくらした。苫小牧とまこまいは製紙工場のあるだけで知られた寂しい町で、夏ながら單調な海岸の眺めも灰色で、何となく憂欝いううつだつた。そして、ゴルキイの小説によく出てくる露西亞ロシア草原ステッペ聯想れんさうさせるやうな、荒涼くわうりやうとした原の中に工場と、工場附屬ふぞくの住宅と、貧しげな商家農家の百軒あまりがまばらに立ち並び、遠く北の方に樽前山たるまへさんの噴火の煙が見えるのも妙に索漠さくばくたる感じを誘つた。
 けれども、そんなところに毎日を暮しながらも、私の氣持は絶えず一つの興奮の中にあつた。それはその半年ほど前からひそかに想をかまへてゐた「雪消ゆきげの日まで」とふ百枚ばかりの處女作しよぢよさくをここで書き上げようとふ希望が、私の全身を刺戟しげきしてゐたからだつた。で、私は異郷いきやうに遠く旅出たびでしてながらあんまり出歩くこともせずに、始終しじう机に向つてはその執筆に專心せんしんした。私は眞劍しんけんに、純眞じゆんしんに努めつづけた。そして、それに深く疲れる時いつも頭を休めに行つたのは、家から寂しい草原くさはら小徑こみちを五六町辿たどる海岸の砂丘さきうの上へであつた。そこは町からも可成かなり離れてゐて、あたりには一軒の家もなく、人影も見えず、ただ「はまなし」と云ふ野薔薇のばらに似たやうな赤い花がところどころにぽつぽつ咲いてゐるばかりであつたが、その砂丘に足を投げ出してはてしない海の暗い沖の方に眺め入つたり、また仰向あふむきに寢ころんで眼もはるかな蒼穹さうきうに見詰め入つたりしながらも、私はほんとに頭を休めるわけには行かなかつた。そこにはどうふでをつづくべきか、どうあらはすべきか、あれでぴつたりしてゐるか、あれでは力が足りないではないか、そんなことが絶えず一杯になつてゐたのであつた。
 さうして五日過ぎた。十日過ぎた。やがて半月たつた。が、苦心努力はむなしかつた。明るい興奮は次第に暗い失望へと沈んで行つた。そして、筆は遲遲ちちとして進まず、意をたすやうな作は出來上らずに、いたづらにふえて行くのは苛苛いらいらと引き裂き捨てる原稿紙のくづばかりであつた。
「どうしたのだ? こんななさけい自分だつたのか?」
 さう心の中につぶやきながら、る日私は「濱なし」咲く砂丘の上で寂しさ悲しさに一人涙ぐんでゐた。それはもう八月の末で、夏の日の短い北國の自然はいつとなく寂しく秋めいて、海から吹き流れてくる風も冷冷ひやひやと肌寒かつた。そして、小徑こみちの草の葉蔭には名も知らぬ秋のむしがかぼそいこゑいてゐた。
 あれほど希望に全身を刺戟しげきされてゐた處女作しよぢよさくはとうとう一枚も書き上らないままに、苫小牧とまこまい滯在たいざいの一月ほどは空しく過ぎてしまつた。希望にかはる失望、樂しさにかはる寂しさ、さうした氣持を抱いて、私は九月十日過ぎに妹を伴ひながら苫小牧とまこまいをあとにした。妹は翌年の三月頃の初産うひざんを兩親のゐる私の家でますためにしばらく上京するのであつた。で、私は妹のその大事なからだをいたはるために歸京ききやうの旅路を急がずに、今度は行きと道をへて札幌と大沼公園にそれぞれに一泊しながら、函館市外の湯の川温泉に着いたのは十三日だつた。その翌日の、忘れもしない十四日の朝、それは時時ときどきうすれ日の射す何となく陰鬱いんうつな曇り日だつたが、私は疲れてゐる妹を宿やどのこして一人當別村たうべつむらのトラピスト修道院へ向つた。
 修道院へ――それは、私が北海道へ旅立つ以前から樂しみ憧憬あこがれてゐた、深く心惹こゝろひかれる一つの眼あてであつた。函館の棧橋さんばしからそこへ通ふ小蒸汽船に乘つて、暗褐色あんかつしよくの波のたゆたゆとゆらめく灣内わんないなゝめに横切る時、その甲板かんぱんに一人たゞずんでゐた私の胸にはトラピスト派の神祕な教義と、嚴肅げんしゆくな修道士達の生活と、莊重さうちような修道院の建物と、またそこにみなぎる美しくも清らかな空氣とをいろいろに空想し思ひ描く一種の敬虔けいけんな氣持が滿ちてゐた。そして、そこへ近づくその刻一刻には處女作しよぢよさくを書き上げ得られなかつた寂しさ悲しさも、すつかり忘れてゐたのであつた。
 今ここに、その時訪ねた修道院の印象なり感じなりを述べることは、既に「修道院の秋」の中に書きつくしたことであるから、はぶくことにしたい。が、とにかくその日の四五時間をすごした修道院のすべては、たとへばそこに住む修道士達の生活も、たんなる建物の感じそのものも、その建物をとり卷く自然の情景も、いや、眼にれ、耳に響き、心につたはつた些細ささいな見聞のあらゆるものまでが、私にとつては深い感激であり、驚異であり、讚美であり、欽仰きんかうであつた。
「この穢土えど濁世だくせいにこんな人達が、こんな人間生活が、そして、こんな地域があつたのか? いや、あり得たのか?」
 私がほとんど全身的に搖り動かされたのは、さう事實じじつの發見であつた。
 當別岬たうべつみさきから再び小蒸汽船につて函館へかへる私は、深い感動をうけたあとの敬虔けいけん沈默ちんもくの中にあつた。そして、つつましやかな氣持で甲板かんぱん一隅ひとすみにぢつとたゝずみながら、今まで心の中に持つてゐた、[#底本では句点]人間的なあらゆるみにくさ、にごり、曇り、いやしさ、暗さを跡方あとかたもなくふきぬぐはれてしまつたやうな、美しくみ落ち着いた自分になつてゐた。修道院の莊嚴さうごんな、神祕しんぴ清淨せいじやう雰圍氣ふんゐきが私のすべてを薫染くんせんつくしてゐたのであつた。

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