四十五
奉天へ行ったら満鉄公所に泊るがいいと、立つ前に是公が教えてくれた。満鉄公所には俳人肋骨がいるはずだから、世話になっても構わないくらいのずるい腹は無論あったのだが、橋本がいっしょなので、多少遠慮した方が紳士だろうという事に相談がいつか一決してしまった。停車場には宿屋の馬車が迎えに来ていた。やはり泥の中から掘出して、炎天で乾かしたように色が変っている。荷物と人間をぐるに乗せて、構内を離れるや否や、御者が凄じく鞭を鳴らした。峠を越す田舎の乗合馬車よりも手荒な取扱方である。広い通りはそれほどでもないが、しだいに城内に近づくに従って、今まで野原同然に茫々としていた往来が、左右の店の立込んで来ると共に狭くなる上に、鉄道馬車がその真中を駆けつつあるにもかかわらず、烈しい鞭の影は一分に一度ぐらいはきっと頭の上で閃めいた。馬は無理にも急がなければならない。けれども奉天だけあって、往来の人は馬車の右にも左にも、前にも後にも、のべつに動いている。そこへ騾馬を六頭も着けた荷車がくるのだから、牛を駆るようにのろく歩いたって危ない。それだのに無人の境を行くがごとくに飛ばして見せる。我々のような平和を喜ぶ輩はこの車に乗っているのがすでに苦痛である。御者はもちろんチャンチャンで、油に埃の食い込んだ辮髪を振り立てながら、時々満洲の声を出す。余は八の字を寄せて、馬の尻をすかしつつ眺めた。そうして、みだりに鞭を瘠せ骨に加えて、旅客の御機嫌を取るのは、女房を叱って佳賓をもてなすの類だと思った。
現に北陵から帰りがけに、宿近く乗りつけると、左り側に人が黒山のようにたかっている。その辺は支那の豆腐やら、肉饅頭やら、豆素麺などを売る汚ない店の隙間なく並んでいる所であったが、黒い頭の塊まった下を覗くと、六十ばかりの爺さんが大地に腰を据えて、両脛を折ったなり前の方へ出していた。その右の膝と足の甲の間を二寸ほど、強い力で刳り抜いたように、脛の肉が骨の上を滑って、下の方まで行って、いっしょに縮れ上っている。まるで柘榴を潰して叩きつけた風に見えた。こう云う光景には慣れているべきはずの案内も、少し寒くなったと見えて、すぐに馬車を留めて、支那語で何か尋ね出した。余も分らないながら耳を立てて、何だ何だと繰返して聞いた。不思議な事に、黒くなって集った支那人はいずれも口も利かずに老人の創を眺めている。動きもしないから至って静かなものである。なお感じたのは、地面の上に手を後へ突いて、創口をみんなの前に曝している老人の顔に、何らの表情もない事であった。痛みも刻まれていない。苦しみも現れていない。と云って、別に平然ともしていない。気がついたのは、ただその眼である。老人は曇よりと地面の上を見ていた。
馬車に引かれたのだそうですと案内が云った。医者はいないのかな、早く呼んでやったらいいだろうにと間接ながら窘なめたら、ええ今にどうかするでしょうという答である。この時案内はもう本来の気分を回復していたと見える。鞭の影は間もなくまた閃めいた。埃だらけの御者は人にも車にも往来にも遠慮なく、滅法無頼に馬を追った。帽も着物も黄色な粉を浴びて、宿の玄関へ下りた時は、ようやく残酷な支那人と縁を切ったような心持がして嬉しかった。
四十六
支那の古家をそのまま使ってるから、御寺の本堂を客間に仕切ったと同じようである。釣り廊下を渡って正面の座敷を覗くと、骨董がいっぱい並べてあったので、何事かと思ったら、北京へ買出しに行った道具屋が、帰り途にここで逗留中の見世を張ったのだと分ったから、冷し半分這入って見ているうちに、時間が来たので、外へ出た。今度は車だから好かろうと安心して、ちょっとハイカラに膝頭を重ねて反り返って見たが、やはりけっして無難ではない。人力は日本人の発明したものであるけれども、引子が支那人もしくは朝鮮人である間はけっして油断してはいけない。彼等はどうせ他の拵えたものだという料簡で、毫も人力に対して尊敬を払わない引き方をする。海城というところで高麗の古跡を見に行った時なぞは、尻が蒲団の上に落ちつく暇がないほど揺れた。一尺ばかり跳ね上げられる事は、一丁の間に一度は必ずあった。しまいに朝鮮人の頭をこきんと張つけてやりたくなったくらい残酷に取扱われた。奉天の道路は海城ほど凸凹にでき上っていないから、むやみに車の上で踊をおどる苦痛はないが、その引き方のいかにも無技巧で、ただ見境なく走けさえすれば車夫の能事畢ると心得ている点に至っては、全く朝鮮流である。余は車に揺られながら、乗客の神経に相応の注意を払わない車夫は、いかによく走けたって、ついに成功しない車夫だと考えた。
そのうち大きな門の下へ出た。奉天へ前後四泊した間に、この門を何度となく潜った覚がある。その名前も幾度となく耳にした。ところがそれを忘れてしまった。その恰好もはなはだ曖昧に頭に映るだけである。しかし奉天の市街に入って始めて埃だらけの屋根の上に、高くこの門を見上げた時は、はあと思った。その時の印象はいまだに消えない。橋本といっしょにこの門の傍にある小さな店に筆と墨を買いに行った折の事も、寂びた経験の一つとしてよく覚えている。その時橋本は敷居を跨いで、中へ這入った。余も橋本に続こうとして身体を半分廂から奥へ差し込んだが、支那の家に固有な一種の臭が、たちまち鼻に感じたので、一二歩往来の方へ出て佇んでいた。今云う門は十間ばかり先の四辻にあるので、余は鳥打帽の廂に高い角度を与えてわざわざ仰むいて見た。時刻は暮に近い頃だったから、日の色は瓦にも棟にも射さないで、眩しい局部もなく、総体が粛然と喧びすしい十字の街の上に超越していた。この門は色としては、古い心持を起す以外に、特別な采をいっこう具えていなかった。木も瓦も土もほぼ一色に映る中に、風鈴だけが器用に緑を吹いていただけである。瓦の崩れた間から長い草が見えた。廂の暗い影を掠めて白い鳩が二羽飛んだ。余は久しぶりに漢詩というものが作りたくなった。待っている間少し工夫して見たが、一句も纏まらないうちに、橋本が筆と墨を抱えて出て来たので興趣は破れてしまった。
このほかにこの門から得た経験は、暗い穴倉のなかで、車に突き当りはしまいかと云う心配と、煉瓦に封じ込められた塵埃を一度に頭から浴びると云う苦痛だけであった。余の車屋はこの暗い門の下を潜って、城内の満鉄公所まで、悪辣無双に引いて行った。余は生きた風呂敷包のごとく車の上で浮沈した。
四十七
茶を飲むと、酸いような塩はゆいような一種の味がする。少し妙だと思って、茶碗を下へ置いてゆっくり橋本の講釈を聞いた。その講釈によると、奉天には昔から今日に至るまで下水と云うものがない。両便の始末は無論不完全である。そこで古来から何百年となく奉天の民が垂れ流した糞小便が歳月の力で自然天然に地の底に浸み込んで、いまだに飲料水に祟りをなしているんだと云う。一応はもっともだが、説明が少し科学的でないようである。第一それほどの所なら穀類野菜ともに、もっとよくできなければならないはずだと思ったが、馬鹿気ているから議論もしなかった。橋本もこれは伝説だよと断った。伝説と云えば日本武尊の東夷征伐と同種類に属すべきもので、真偽以外に、重く取扱わねばならぬ筋の来歴を有しているに違いない。いかにも汚ない国民である。
湯を立てて貰って這入って見ると、濁っている。別に黄色く濁っている訳ではないが、御茶の味から演繹すればやっぱり酸っぱい湯に浸っているとよりほかに考えようがない。鹹水にも溶けるとか云って大連でくれた豆石鹸でも、行李の底から出せばよかったと思った。風呂場も風呂桶も小さいものである。その上下女が出て来て背中を流してくれる。窮屈に身体を曲げながら、御前は日本人だろう。日本はどこの生れだいなどと話をした。この下女は始めて宿へ着いた時、余を橋本の随行と間違えて、そら何とかさんもいっしょにいらしったと云った。その何とかさんは橋本が蒙古へ行くとき、彼と同じくここへ泊った事があるのだそうだ。顔が似ているから間違えたのか、様子が御供らしいから間違えたのかは、つい聞き糺して見なかった。窓の外に大きな甕が埋けてある。我々の汗や垢が例の酸っぱい水といっしょになって、朝に晩に流れ込んでいるのだから、時々汲み出さなければ溢れるほど溜ってしまう。それを支那の下男が石油缶へ移して天秤棒で担いで、どこかへ持って行く。風呂に浸りながら、どこへ持って行くんだろうなと考えた。余計な心配のようだが余はこの汚水が結局どう片づけられるかの処置を想像して見て、少しく恐ろしくなった。
これでいて御馳走がむやみに出る。胃の悪い余のごときものは、御膳の上を眺めただけで、腹がいっぱいになってしまう。夜は緞子の夜具に寝かしてくれる。店の方では電話が仕切なしにちりんちりんと鳴っている。品の好い御神さんが、はあもしもしを乃別に繰返す。或る時チョコレートの菓子が食いたくなったから、下女に有るかいと聞いて見ると、すぐもしもしで取り寄せてくれた。のみならず満鉄公所へ御馳走を受けに行けば、三鞭が現れる。領事館へ挨拶に行けば、英吉利の王様の写真などが恭々しく飾ってあって、まるで倫敦のような気持になる。そうかと思うと、宿の座敷の廊下の向うが白壁で、高い窓から光線が横に這入って来るのは仕方がないが、その窓に嵌めてある障子は、北斎の画いた絵入の三国志に出てくるような唐めいたものである。しかもあまり綺麗ではない。その上室の中が妙な臭を放つ。支那人が執拗く置き去にして行った臭だから、いくら綺麗好きの日本人が掃除をしたって、依然として臭い。宿では近々停車場附近へ新築をして引移るつもりだと云っていた。そうしたら、この臭だけは落ちるだろう。しかし酸っぱい御茶は奉天のあらん限り人畜に祟るものと覚悟しなければならない。
四十八
黒い柱が二本立っている。扉も黒く塗ってある。鋲は飯茶碗を伏せたように大きく見える。支那町の真中にこんな大名屋敷に似た門があろうとは思いがけなかった。門を這入るとまた門がある。これは支那流にできていた。それを通り越すと幅一間ほどの三和土が真直に正面まで通っている。もっとも左右共に家続きであるから、四角な箱の中をがらん胴にして、その屋根のない真中を、三和土を辿って突き当る訳になる。肋骨君の説明を聞いて知ったのだが、この突当りが正房で、左右が廂房である。肋骨君はこの正房の一棟に純粋の日本間さえ設けている。ちょっと見たまえと云って案内するから、後に跟いて行くと、思わざる所に玄関があって、次の間が見えて、その奥の座敷には立派な掛物がかかっていた。かと思うと左の廂房の扉を開いてここが支那流の応接間だと云う。なるほど紫檀の椅子ばかり並んでいる。もっとも西洋の客間と違って室の真中は塞いでいない。周囲に行儀よく据えつけてある。これじゃ客が来ても向い合って坐る事はできない訳だから、みんな隣同志で話をする男ばかりでなければならない。中にも正面の二脚は、玉座とも云うべきほどに手数の込んだもので、上に赤い角枕が一つずつ乗せてあった、支那人てえものは呑気なものでね、こうして倚っかかって談判をするんですと肋骨君が教えてくれた。肋骨君は支那通だけあって、支那の事は何でも心得ている。あるとき余に向って、辮髪まで弁護したくらいである。肋骨君の説によると、ああ云うぶくぶくの着物を着て、派出な色の背中へ細い髪を長く垂らしたところは、振え付きたくなるほど好いんだそうだから仕方がない。実際肋骨君が振え付きたくなると云う言葉を使ったには驚いた。今でもこの言葉を考え出しては驚いている。いっぺん汚ない爺さんが泥鰌のような奴をあたじけなく頸筋へ垂らしていたのを見て、ひどく興を覚したせいだろう。
これほどの肋骨君も正房の応接間は西洋流で我慢している。その隣の食堂では西洋料理を御馳走した。それから襯衣一枚で玉を突く。その様子はけっして支那じゃない。万事橋本から聞いたより倍以上活溌にできているところをもって見ると、振え付きたいは少々言い過ぎたのかも知れない。肋骨君は戦争で右か左かどっちかの足を失くした。ところがそれがどっちだか分らないくらい、自由自在に起ったり坐ったりする。そうして軍人に似合わないような東京弁を使う。どこで生れたか聞いて見たら、神田だと云った。神田じゃそのはずである。要するに肋骨君は支那好であると同時に、もっとも支那に縁の遠い性質の人である。
室は空いてるから来たまえとしきりに云ってくれるので、じゃ帰りに厄介になるかも知れないと云うとすぐ宜しいと快諾したところだけは旨かったが、帰りには夜半の汽車で奉天へ着く時間割だと橋本から聞くや否や、肋骨君はたちまち宿泊を断った。いや、あの汽車じゃ御免だと云う。もう一つの汽車が好いじゃないかと勧めるんだが、プログラムの全権があいにくこっちにないので、やむをえず、そんなら、もし夜半の汽車でなかったら泊めて貰おうと云う条件をつけた。すると肋骨君はまた宜しいと答えた。ところが帰りにはやっぱり予定通夜半着の汽車へ乗ったのでとうとう満鉄公所へは泊まれない事になった。満鉄公所で余の知らない所は寝室だけである。
四十九
右へ折れると往来とは云われないくらい広い所へ出たのでようやく安心した。これならば人を引殺す心配もなかろうと思って、案内をしてくれる、宿の番頭を相手に、行く行く話をした。満洲の日は例によって秋毫の先を鮮かに照らすほどに思い切ったものである。眉深に鳥打帽を被っても、三日月形の廂では頬から下をどうする事もできないので、直下に射りつけられる所は痛いくらいほてる。そこへ馬の蹄に掻き立てられた軽い埃が、車の下から濛々と飛んで来る。番頭は、結構な御日和です、少し風でも吹いたらこんなものじゃありませんと喜んでいる。そのうち馬車が家を離れて広い原へ出た。原だから無論樹も草も見えないのは当然だが、遠く眺めると、季節だけに青いものが際限のない地の上皮に、幾色かの影になって、一面に吹き出している。なぜこれほどの地面を空しく明けておくかは、家屋の発展に忙殺されつつある東京ものの眼には即時の疑問として起る訳であるが、この際はそれよりも窮屈な人間を通り抜けて晴々したと云う意識の方が一度に余の頭を照らした。路は固よりついていない。東西南北共に天に作った路であるから、轍の迹は行く人の心任せに思い思いの見当に延びて行く。
支那人の馬車が来た。屋根に蒲鉾形の丸味を取った棺のようなもののなかに、髪を油で練固めた女が坐っている。長柄は短いが、車の輪は厚く丈夫なものであった。云うまでもなく騾馬に引かしている。まず日本の昔に流行った牛車の小ぢんまりしたものと思えば差支えないが、見たところは牛車よりもかえって雅である。その代り乗ってる人間は苦しいそうだ。余はこの車のごろごろ行くところを見て、たり※[#「車+兀」、555-3]たりと形容したくなった。の字も※[#「車+兀」、555-3]の字も判然たる意味を知らないのだが、乗ってる人は定めて※[#「※」は「車+兀」、555-4]たるものに相違なかろうと思ったからである。実を云うと※[#「車+兀」、555-5]たるものは支那の車ばかりではない。こう云う自分もはなはだ危しかった。一望して原だよと澄ましていればそれまでの事で、仰のごとく平らにも見えるが、いざ時間に制限を切って、突切って見ろと云われると、恐ろしく凸凹ができてくる。おいここで馬車の引っくり返る事はあるまいなと番頭に念を押すと、番頭はええ、まあたいてい大丈夫でしょうと云うだけで、けっして万一を受け合わない。どうも並んでいる番頭の座が急に高くなって、番頭そのものが余の方に摺落ちて来そうになったり、またはあべこべに、余が番頭のシャッポの上に顛び落ちそうになるのは心好くないものである。余は神経質で臆病な性分だから、車が傾くたんびに飛び降りたくなる。しかるに人の気も知らないで、例の御者が無敵に馬を馳けさせる。いらぬ事だと冷や冷やしているうちに、一カ所路の悪い所へ出た。原因は解らないが、轍の迹が際立って三四十本並んでいる。しかもその幅がいずれも五六寸ある。そうして見るからに深そうに、日影を遮って、奥の方を黒くかつ暗くしている。我々の御者は平気にそこへ乗り込んだ。順当に乗り込んだのならまだよかったけれども、片方の輪だけが泥の中へぐしゃぐしゃと滅り込むと同時に、片方は依然として固い土に支えられている。余は泥側に席を占めていた。すると足が土と擦れ擦れになるまで車が濘海に沈んで来た。番頭は余の頭の上にあるごとく感ぜられた。余はたまらなくなって、泥の中へ飛び下りた。
五十
原が急に叢に変化するのは不思議であった。ここにこれだけの樹が生えるなら、原の中ももう少し茂って然るべきであると気がついた時はすでに車の両側が塞がっていた。竹こそないが、藪と云うのが適当と思われるくらいな緑の高さだから、日本の田舎道を歩くようなおとなしい感じである。ところどころ細い枝などが列を外れて往来へ差し出ているのを、通りながら潜り抜けたり、撓わしたりして行き過ぎるのが何より愉快だった。路も先刻よりは平たくなって、真白に草と木の間を貫いている。ある所には大きな松があった。葉の長さが日本の倍もあって色は海辺のそれよりも黒い。ある所は荒れ果てた庭園の体に見えた。そう云う場所へ来ると、馬車の上から低い雑木を一目に二丁も眺められる。向うに細長い石碑が立っていた。模様だけが薄く見えるが、刻字は無論分らなかった。
しばらくすると、路が尽きて高い門の下へ出た。門は石を畳んだ三つのアーチからでき上っているが、アーチの下まで行くにはだいぶ高い石段を登らなくてはならない。門の左右には大きな竜が壁に彫り込んであった。これが正門ですがね、締切りだから壁へ添いて廻るんですと云って、馬を土堤のような高い所へ上げた。右は煉瓦の壁である。それがところどころ崩れかかっている。左はだらだらの谷で野葡萄や雑木が隙間なく立て込んだ。路は馬車が辛うじて通れるぐらい狭い。そこを廻って横手の門から車を捨てて這入ると、眼がすっきりと静まった。一抱もある松ばかりが遥の向まで並んでいる下を、長方形の石で敷きつめた間から、短い草が物寂びて生えている。靴の底が石に落ちて一歩ごとに鳴った。一丁ばかり行って正面に曲ると、左右に石の象がいた。大きくって、鷹揚で、しかも石だからはなはだ静かである。突き当りにある楼門のような所へ這入ったら、今度は大きな亀の背に頌徳碑が立ててあった。亀も大きかったが、碑も高い。蒙古と満洲と支那の三国語で文章が刻ってある。後へ出ると隆恩門と云うのが空に聳えていた。積み上げたアーチの上を見ると三層あった。左右に回らしてある壁も尋常ではない。あの上を歩いて見たいと番頭に頼むと、ええ今乗って見ましょうと云って中へ這入った。中は真四角に仕切ってある。正面にある廟の横から石段を登って壁の上へ出ると、廟の後だけが半月形になっていわゆる北陵を取り巻いている。
支那の小僧が跣足で跟いて来た。番頭を捕まえてしきりにこそこそ何か云っている。番頭に聞くと、ええなにと曖昧な答をする。また聞き返したらこう云った。――屋根の廂の所に着けてある金の玉を、この間一つ落ちた時に、拾っておいたから、買ってくれと云うんです。表向にすると厳しいものですから、こうして見物に来た時、そうっと売りつけようてんで、支那人は実に狡猾ですからね。
支那の陵守も無論狡猾だろうが、金の玉を安く買おうと云う番頭もあまり正直な方じゃない。番頭はそっと銭をやって金の玉をポッケットへ入れたようである。
壁の上を歩くと太い樹が眼の下に見える。桑があんなに大きくなってますと番頭が指した。なるほど一抱もある。この四角な壁の一側は長さどのくらいかねと尋ねると、へえ今勘定して見ましょうと云いながら、一歩二尺の割で、一二三四と歩いて行った。余は壁の外を見下して、そこらを絡んでいる赤い木の実を眺めていた。せっかく番頭の勘定した壁の長さは忘れてしまった。
五十一
撫順は石炭の出る所である。そこの坑長を松田さんと云って、橋本が満洲に来る時、船中で知己になったとかで、その折の勧誘通り明日行くと云う電報を打った。汽車に乗ると西洋人が二人いた。朝早いので、客車内で持参の弁当か何か食っていたが、撫順に着いたら我々といっしょに汽車を降りた。出迎えのものが挨拶しているところを聞いて見ると、そのうちの一人は奉天の英国領事であった。我々もこの英人等といっしょに炭坑の事務室に行って、二階で松田さんに逢った。松田さんは縞の縮の襯衣の上に薄い背広を着ていた。背の低い気軽な人なので、とうてい坑長とは思えなかった。我々と英国人を二所に置いて、双方へ向けて等分に話をした。橋本も余も英語はいっさい口にしなかった。したがって英人とは言葉を交えなかった。
やがて松田さんが案内になって表へ出た。貯水池の土堤へ上ると、市街が一目に見える。まだ完全にはでき上っていないけれども、ことごとく煉瓦作りである上に、スチュジオにでも載りそうな建築ばかりなので、全く日本人の経営したものとは思われない。しかもその洒落た家がほとんど一軒ごとに趣を異にして、十軒十色とも云うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある、坑員の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来て眺めたいものばかりであった。松田さんに聞いたら皆日本の技師の拵えたものだと云われた。
市街から眼を放して反対の方角を眺めると、低い丘の起伏している向うに煙突の頭が二カ所ほど微かに見える。双方共距離はたしかに一里以上あるんだから広い炭坑に違ない。松田さんの話しによると、どこをどう掘っても一面の石炭だから、それを掘尽くすには百年でも二百年でもかかるんだそうである。我々の立っているつい傍でも、八百尺と九百尺のシャフトを抜いていた。
事務所へ帰って午餐の御馳走になったとき英国人は箸も持てず米も喰えず気の毒なものであった。この領事は支那に十八年とかいたと云うのに、二本の箸を如何ともする事のできないのは案外である。その代り官話は達者だそうだ。松田さんは用事が忙しいとかで、食卓へは出て来られなかった。接待役として松田さんに代った人は、英語で英国人に話したり、日本語で余等に話したりはなはだ多事であった。けれども橋本氏も余もこの時まで英語はいっさい使わなかった。元来英人と云うものはプラウドな気風を帯びていて、紹介されない以上は、他に向って容易に口を利かない。だから我々も英人に対しては同様にプラウドである。
食後は坑内を見物する事になった。田島君という技師が案内をしてくれた。入口で安全灯を五つ点して、杖を五本用意して、それを各自に分けて、一間四方ぐらいの穴をだらだらと下りた。十四五間行くか行かないに坑のなかは真暗になった。カンテラの灯は足元を照らすにさえ不足である。けれども路は存外平らで、天井もかなり高かった。右へ曲って、探るように下りて行くと、余のすぐ前にいる田島君がぴたりととまった。余もとまった。案内がとまったから、あとから続いて来たものもことごとくとまった。ここに腰かけがあります。坑へ這入るものはここで五六分休んで眼を慣らすんですと云った。五人は休みながらカンテラの灯で互の顔を見合わした。みんな立って黙っている。腰をおろすものは一人もない。静かな中で時の移るのは多少凄かった。そのうち暗い所が自然と明るくなって来た。田島君はやがて、もうよかろうと云って、またすぐ右へ曲って、奥へ奥へと下りて行った。余も続いて下りた。あとの三人も続いて下りて来た。
ここまで新聞に書いて来ると、大晦日になった。二年に亘るのも変だからひとまずやめる事にした。
●表記について
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「車+兀」 |
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555-3、555-3、555-4、555-5 |
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