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満韓ところどころ(まんかんところどころ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 9:26:15  点击:  切换到繁體中文


        三十九

 狭い小路こうじの左右は煉瓦れんがへいで、ちょっと見ると屋敷町のように人通りが少い。それを二十間ほど来て左手の門を這入はいった。ただ偶然に這入ったのだから、家の名も主人あるじの名も知るはずがない。今から考えると、小路のうちには同じような家が何軒となく並んでいて、同じような門がまたいくつでもいているのだから、とくにここだけをのぞくべき誘致インデュースメントは少しもなかったのである。余はただ案内者のあといて何の気なしに這入った。その案内者もまた好い加減に這入った。案内者は青林館せいりんかんと云う宿の主人である。かつて二葉亭ふたばていといっしょに北の方を旅行して、露西亜人ロシアじんひどい目にったと話した。
 門を這入ると、右もへや、突き当りも室である。左りも隣の壁に隔てられなければ室であるべきはずなのだから、中の一筋だけが頭の上に空を仰ぐ訳になる。そこに立って右手の部屋を覗くと、狭い路次ろじから浅草の仲店なかみせるようなおもむきがある。実際仲店よりも低く小さい部屋であった。その一番目には幕が垂れていて、中は判然はっきりと分らなかったが、次を覗いて見る段になって驚いた。二畳敷ぐらいの土間のうしろの方を、あががまちのように、腰をかけるだけの高さに仕切って、そこに若い女が三人いた。三人共腰をかけるでもなく、寝転ぶでもなく、互にもたれ合って身体からだを支えるごとくに、後の壁をいっぱいにした。三人の着物が隙間すきまなく重なって、柔かい絹をしなやかにしつけるので、少し誇張して形容すると、三人が一枚の上衣を引き廻しているように見える。その間から小さな繻子しゅすの靴が出ていた。
 三人の身体が並んでいる通り、三人の顔も並んでいた。その左右が比較的尋常なのに引きかえて、真中のは不思議に美しかった。色が白いので、まゆがいかにも判然していた。眼もほがらかであった。頬からあごを包む弧線こせんは春のようにやわらかかった。余が驚きながら、見惚みとれているので、女は眼をらして、くうを見た。余が立っている間、三人は少しも口をかなかった。
 青林館の主人は自分ほどこの女に興味がなかったと見えて、好加減いいかげんに歩を移して、突き当りの部屋に這入った。そこも狭い土間で、中央には普通の卓上テーブルえてあった。それを囲んで三人の男が食事をしている。皿小鉢さらこばちからはし茶碗ちゃわんに至るまできたない事はなはだしい。卓に着いている男に至ってはなおさら汚なかった。まるで大連の埠頭ふとうで見る苦力クーリーと同様である。余はこの体裁ていさいを一見するや否や、台所で下男がめしき込んでるんじゃなかろうかと考えた。ところがつい隣の室でしきりに音楽をやっている。今見た美人のいる所とはつい三間とは離れていない。実に矛盾な感じである。
 余は二歩ばかり洋卓テーブル遠退とおのいて、次の室の入口を覗いて見た。そうしてまた驚いた。むこうの壁に倚添よりそえて一脚の机を置いて、その右に一人の男が腰をかけている。その左に女が三人立っている。その前には十二三の少女が男の方を向いてたっている。少し離れてへやの入口には盲目めくら床几しょうぎに腰をかけている。調子の高い胡弓こきゅうと歌の声はこの一団から出るのである。歌の意味も節も分らない余の耳にはこの音楽が一種異様にすさまじい響を伝えた。机の右にいる男が、右の手に筮竹ぜいちくのような物を持って、時々机の上をたたくと同時に左のてのひら八橋やつはしと云う菓子に似た竹のきれを二つ入れて、それをかちかちと打合せながら、歌の調子を取る。趣向はスペインの女の用いるカスタネットに似ているが、その男の顔を見ると、アルハンブラの昔を思い出すどころではない。蒼黒あおぐろ土気つちけづいた色を、一心不乱に少女の頭の上にしかけるようにかざして、はらわたしぼるほど恐ろしい声を出す。少女はまたまたたきもせず、この男の方を見つめて、細い咽喉のどを合している。それがこわい魔物に魅入みいられて身動きのできない様子としか受取れない。盲目は彼の眼の暗いごとく、暗い顔をして、悲しい陰気な、しかも高い調子の胡弓をつづけに擦っている。左の方に立っている女の一人が余を見た。それがむべき藪睨やぶにらみであった。日の目の乏しくって暮やすい室のうちで、この怪しい団体はこの怪しい音楽を奏して夢中である。余は案内のそでを引いてすぐ外へ出た。

        四十

 橋本は遠い所へ豚を見に行った。何でも市街まちから一里余もあるとか云う話である。こんな痛い腹をかかえて今更豚でもあるまいと思ってめた。その代りにそこいらをぶらつくべく主人あるじといっしょに馬車で出た。主人がまあ遼河りょうがを御覧なさいと云う。馬車を乗りてて河岸かしへ出ると眼いっぱいに見えた。色は出水でみずあとの大川に似ている。灰のように動くものが、空をいきおいで遠くから流れて来る。哈爾賓ハルピンに行く途中で、木戸さんに聞いた話だが、満洲の黄土はその昔中央亜細亜アジアの方から風の力で吹き寄せたもので、それを年々河の流れが御叮嚀ごていねいに海へ押出しているのだそうである。地質学者の計算によると、五万年ののちには今の渤海湾ぼっかいわんが全くうまってしまう都合になっていますと木戸君が語られた。河辺かわべに立って岸と岸との間を眺めていると、水の量が泥の量より少いくらい濁ったものが際限なく押し寄せて来る。五万年はおろか、一二カ月で河口はすっかりふさがってしまいそうである。それでも三千トンぐらいな汽船はもなくのそのそのぼって来ると云うんだから支那の河は無神経である。人間に至ってはもとより無神経で、古来からこの泥水を飲んで、悠然ゆうぜんと子を生んで今日こんにちまで栄えている。
 サンパンと云う船がここかしこに浮かんでなりに合しては大き過ぎるぐらいなを上げている。帆の裏には細い竹を何本となく横に渡してあるから、帆にかどが立つのみか、げる時にはがらがら鳴る。日本では見られない絵である。その間を横切って向岸むこうぎしへ着いた。向岸には何にもない。ただ停車場ステーションが一つある。北京ペキンへの急行が出るとか云うので、客がたくさん列車に乗り込んでいる。下等室をのぞいたら、腰かけも何もない平土間ひらどまに、みんなごろごろ寝ころんでいた。帰りにはサンパンに乗って、泥のながれを押し渡った。風が出ると難儀だそうである。春の初めには山のような氷が流れてくる。先が見えないので、氷と氷の間にはさまれると命を取られる。ある時氷に路をふさがれて仕方がないから、船をてて氷の上へあがって、乗り捨てた船をって向う側へ出て、ようやくまた船に乗ったと云う話がある。これは主人あるじ実歴談じつれきだんである。
 サンパンは妙なところへ着いた。岸はあしを畳んでできている。石垣ではなくて芦垣あしがきである。こうしなければ水の力でさらわれる恐れがあると云う。芦はいくらでも水を吸い込んで平気でいるから無難だと見える。細い小路こうじを突き抜けると、支那町の真中へ出た。妙なにおいがする。先刻さっきから胸が痛むのでポッケットから、粉薬こぐすりを出して飲もうとするがあいにく水がない。一滴の飲料も用いずに散薬をくだす方法は、そのくるまぎれに発見した分別ふんべつだが、この時はまだそれほど老練な患者でないので、拝むように主人をわずらわした。主人はええ訳はありませんと云いつつも、ずいぶんはげしく引張り廻した上、ほとんど苦しくって道傍みちばたすくみそうになった頃、ようやく一軒の店へ這入はいった。盆栽ぼんさいなどのえてある中庭を通り抜けてかどの一部屋へ案内されたが、水はなかなか出る様子がない。そのうち、こちらへと云ってまた二階へしょうぜられた。虫のように段々をあがって廊下からへやへ這入ると、日本人が二三人事務をっている。さあどうぞと椅子を与えられたので、挨拶あいさつをして始めて解ったが、水を貰いに飛び込んだところは日清豆粕会社にっしんまめかすかいしゃで、さあどうぞと迎えてくれたのは、社員の倉田君である。倉田君はもとより日本から漫遊まんゆうもしくは視察の目的をもってわざわざ営口えいこうまでやって来たものと余を信じている。服薬のために通りがかりのついでながら、日清豆粕会社の奥二階へ水を貰いに立ち寄ったと判じようはずがない。そこで水は容易に出ない。湯も出ない。今御茶を上げると云って、ボイがしきりに支度したくをしている。余は青林館の主人がうらめしくなった。けれども倉田君に対しては相応に体裁ていさいを具えた応対をしなければならない。豆が汽車で大連へ出るようになってから、河を下ってくる豆の量が減ったでしょうかてような事を、真面目まじめくさって質問していた。

        四十一

 橋本が博士はかせになったり、ならなかったりした話がある。大連の大和やまとホテルにいる時分、満鉄から封書が届いた。その表に橋本農学博士殿と叮嚀ていねいに書いてあったのをおつに眺めながら、これだからいやになっちまうと云って余の方を向いて苦笑したから、先生は学者ぶって、むやみに博士よばわりをされるのを苦にする意味なんだろうと鑑定して、取り合ってやらなかった。実際こんな事が苦になるくらいなら、始めから博士にならなければ好いと思ったからである。その時はそれですんだ。
 余は橋本をもってもとより農学博士と信じていた。是公ぜこうもそう信じていた。現にある人に向って橋本って農学博士さと説明しているのを聞いた。余に至っては、いつかの新聞で、本人の博士になった事をたしかに承知した記憶がある。それで大連を立って北に行く時も、栄誉ある博士の同伴者だと云う自覚がちゃんとあった。ところが毎日毎晩一つなべのものをついて進行しているうちに、何かの拍子ひょうしだったが、いやおれは博士じゃないよと急に橋本が云い出した。その時はいくら本人が証明したってなるほどと云う気になれないくらい驚いた。第一、十年近くも大学の教授をしている男を、博士にしない法はないと考えてる上、どうしても新聞でその授与式を拝見したとしか思われないんだから、余もできるだけは抗弁したが、やっぱり博士じゃないと頑固がんこを張って云う事を聞かない。余もやむをえず、そうかと云ってを折った。この時から橋本は気の毒ながらとうとう、ただの人間になってしまった。
 けれども、世間には迂濶うかつものが多いと見えて、どこへ行っても橋本博士、橋本博士と云う。新聞を折々読むときっと橋本博士と出ている。しまいにはおいまた博士だよと注意するのが面倒になった。橋本もすまかえっている。もっとも澄まし返さなくったって、一々博士じゃありませんと訂正して歩く訳に行くものじゃない。こう云う余にもおぼえがある。釜山ふざんから馬関ばかんへ渡る船中で、拓殖たくしょく会社の峰八郎君みねはちろうくんの妻君にったとき、八郎君は真面目まじめ[#「な」は底本では「を」]顔をして、これは夏目博士と引き合した。すると妻君が御名前はかねて伺っておりますと叮嚀ていねい御辞儀おじぎをされるから、余もやむをえず、はあと云ったなり博士らしく挨拶あいさつをした。だから橋本が博士に慣れ切って満洲を朝鮮へ渡るに何も不思議はない。余もいったんは彼の博士を撤回したようなものの、日を重ねるに従ってまた何だか博士らしい気持がし出した。それで道中つつがなく安奉線あんぽうせんを通って、安東県あんとうけんまでやって来た。ところがここで橋本の博士がちょっと気に食わなくなった。安東県の宿屋の番頭がどう云う不料簡ふりょうけんか、橋本博士御手荷物のうちと云う札を余の革鞄かばんにぴたぴたいわいつけてしまった。腹が立ったが面倒だからそのままにしておくと次の宿屋で橋本と分れる事になって、向うの手荷物を停車場ステーションへ運び出す際に、余の奇麗きれい革鞄かばんを橋本のものだと思い込んで、宿屋の小僧がずんずん停車場まで持って行ってしまった。余は冗談じゃないぜと云った。橋本は面白がって笑っていた。それだから、また博士にならない。

        四十二

 ここだと云うので、降りたには降りたが、夜の事だから方角も見当もまるで分らない。頼りに思う停車場は縁日の夜店ほどに小さいものであった。その軒を離れるとなおさら淋しい。空には星があるが、高い所におのれと光るのみで、足元の景気にはならなかった。汽車路を通って行くと、鉄軌レールの色が前後五六尺ばかり、提灯ちょうちんに照らされて、つゆのごとく映ってはまた消えて行く。そのほかに何も見えなかった。やがて右へ切れて堤のようなものをだらだらと下りる心持がしたが、それも六七歩をえると、靴を置く土の感じが不断ふだんに戻ったので、また平地ひらちへ出たなと気がついた。すると虫のが聞えだした。足元で少しばかり鳴いてるような家庭的なものではない。虫のだと云う分別ふんべつが出た時には、その声がもう左右前後に遠く続いていた。我々は一つの提灯ちょうちんを先にして、平原にはびこる無尽蔵の虫の音に包まれながら歩いた。
 今考えると、なかなか風流である。筆をって書いていても、魏叔子ぎしゅくし大鉄椎だいてっついでんにある曠野こうや景色けいしょくが眼の前に浮んでくる。けれども歩いている途中は実に苦しかった。飯のさい奴豆腐やっこどうふを一丁食ったところが、その豆腐が腹へ這入はいるや否や急に石灰いしばいかたまりに変化して、胃の中をふさいでいるような心持である。あごの奥から締めつけられて、やむをえない性質たち唾液つばきが流れ出す。それにいざなわれるままにしておくと、きたくなる。せめて口中の折合おりあいでもと思って、少し抵抗しにかかると、足がすくんで動けなくなる。余は幾度いくたびか虫の音の中に苦しい尻を落ちつけようかと思った。ただ橋本に心配させるのが、気の毒である。支那の荷持にもち野糞のぐそれてると誤解されたって手柄てがらにもならない。そこで無理に歩いた。
 はるか向うにが一つ見える。余が歩いている路は平らである。灯はその真正面に当る。あすこへ行くんだろうと推測して星の下を無言に辿たどった。今日のひるは営口で正金銀行の杉原君の御馳走ごちそうを断った。晩は天春君あまかすくん斡旋あっせんですでに準備のできている宴会を断った。そうして逃げるように汽車に乗った。乗る時橋本にこの様子じゃ千山せんざん行は撤回だと云った。実際撤回しなければならないほど、容体ようだいあやしくなって来た。ただ向うに見える一点の灯火ともしびが、今夜の運命を決するひとであると覚悟して、寂寞せきばくたる原を真直まっすぐに横切った。原のなかには、この灯火よりほかにあてになるものは一つも見つからないのだから心細かった。宿屋はたった一軒かと聞いたら、案内がええと答えた。湯崗子とうこうしは温泉場だと橋本のプログラムの中にちゃんと出ているのだから、温泉がこの茫々ぼうぼうたる原の底からいて出るのだろうとは、始めから想像する事ができたが、これほどさびしい野のおもてに、ただ一軒の宿屋がひっそり立っていようとは思いがけなかった。
 そのうちようやく灯のある所へ着いた。平家作ひらやづくりの西洋館で、ゆかの高さが地面とすれすれになるほど低い。板間いたまではあるが無論靴で出入でいりをする。宿の女は草履ぞうり穿いていた。遠くから見たと同じように浮き立たない家であった。造作ぞうさくのつかない広い空家あきや洋灯ランプともしてすまっているのかと思った。這入るとすぐの大広間に置いてあったオルガンさえ、先の持主が忘れて置いて行ったものとしか受取れなかった。暗い廊下を突き当って右へ折れたウイングはじへやへ案内された。中を二つに仕切ってある。低い床には、椅子と洋卓テーブルと色のめた長椅子とが置いてあった。高い方は畳を敷いて、日本らしくつくろってあった。ちょうど土間から座敷へあがるようにして、甲から乙に移る構造である。余はいきなり畳の上に倒れた。三四十分ののちぜんが出た。橋本がしきりに起きて食えと勧めたが、ついに起きなかった。第一食卓に何が盛られたかをさえ見なかった。眼を開ける勇気すら無かったのである。

        四十三

 朝起きると、馬が来たとか来ないとか云って橋本の連中が騒いでいる。連中は三人だから、一人が一つの馬に乗るとすれば、三匹る訳になる。この茫漠ぼうばくたる原の中で、生きた馬を三匹生捕いけどるとなると、手数てすうのかかるのは一通りではあるまい。連中は格別早起きもしない癖に、今更苦情を並べたって始まらないと思って、同行を断念した余は、冷然と落ちついていた。本来を云うと、千山せんざんへ行くのが目的で、わざわざここに降りたには相違ないが、一旦自分が千山行をあきらめたとなると、ほかの連中が予定通よていどおりに行動するのが、いまいましくなる。第一橋本なんて農科の男は、千山を見る必要も何もないのである。千山はとうの時代に開いた梵刹ぼんさつで、今だに残っているのは、牛でもなければ豚でもない、ただ山と谷といわと御寺と坊主だけであるから、農科の教授がわざわざ馬に乗って見物に行くべきところではけっしてない。と云ってせっかく行くと云うものを、意見までして思い止まらせるほどの口実は無論考え出せないから、なすがままにさせてほうっておいた。そのうち不思議な事に、注文通ちゅうもんどおり馬が三匹出て来た。どこから出て来たものか聞いても見なかったが、たしかに出て来た。三人はしゃくさわるほど勇んで外へ飛び出した。余は仕方がないから西洋間と日本間の唯一の主人として、この一日を物静かに休養すべく準備した。まず何よりも横になるのが薬だろうと思って、たぬきだかきつねだか分らない毛皮の上にごろりと転がった。すると窓の外から橋本の声で、おいおいちょっと出て見ろと呼んでいる。れまだそこいらをまごついてるなと思うと、少し面白くなったから、請求通せいきゅうどおり原の中へ草履ぞうりのまま出た。すると広い牧場のようなところに、馬が三匹立っていた。それがいずれも小汚こぎたない駄馬だうまだったのではなはだ愉快であった。のみならず、そのうちの一匹がどうしても大重君を乗せようと云わない。そばへ行くと、飛んだりたりする。馬がこわがるからだと云って、手拭てぬぐい眼隠めかくしをして、支那の小僧が両手でくつわをしっかり抑えている。遠くから見ると、馬が鉢巻はちまきをしたようでおかしかった。その傍へ大重君が苦笑いをしながら近寄って行くところは、一層面白かった。しかも一度や二度ではない。よほど馬に遠慮する性質たちと見えて、容易にらちを明けないから、みんながなお喝采かっさいする。橋本は北海道の住人だからもなくくらまたがった。もう一人――名前を忘れたから、もう一人というよりほかに仕方がないが――これは熊岳城ゆうがくじょう苗圃びょうほちょうで、もと橋本に教わった事があると云うだけに、手綱をすべを心得ている。余はこの時立ちながら心のうちで、要するに千山行を撤回した方が、馬術家としての余の名誉をまっとうする所以ゆえんではなかろうかと考えた。
 けれども、そんな気色けしきは顔にも出さず、ただ残り惜しげに三人の後姿を眺めていた。そうして大重君の腰つきから推測して、千山まであれで乗り通すのは、定めて心配な事だろうと同情した。橋本は今夜のうちに帰るんだとか号して、しきりに馬を急がせるらしい。苗圃長も負けずに、続いて行く。ひとり大重君だけがおくれた。馬はまだ眼隠をしている。やがて二人の影が高粱こうりょうさえぎられて、どっちへ向いて行くかちょっと分らなくなった。先刻さっきからそこいらを徘徊はいかいしていた背の高い支那人もまた高粱のうちに姿を隠した。この支那人は肩から背へかけて長い鉄砲を釣っていた。人数にんずは二人であった。始めて気がついたときは咄嗟とっさの際に馬賊という聯想れんそうが起った。橋本と前後して高粱の底に没して、しばらくすると、どんと云う砲声が聞えて、またしばらくすると、三人の馬の前にどこからかあの背の高い奴が現われて来たら大事件だと想像して、またへやの中へ帰ってたぬきの皮の上に寝た。

        四十四

 手拭てぬぐいを下げて風呂に行く。一町ばかり原の中を歩かなければならない。四方を石で畳上たたみあげた中へ段々を三つほどゆかから下へ降りると湯泉に足が届く。軍政時代に軍人が建てたものだからかなり立派にできている代りにすこぶる殺風景さっぷうけいである。入浴時間は十五分をゆべからずなどと云う布告ふこくめいたものがまだ入口に貼付けてある通りの構造である。犯則を承知の上で、石段に腰をかけたり、腹這はらばいに身を浮かしたり、頬杖を突いてりかかったり、いろいろの工夫を尽くした上、表へ出て風呂場の後へ廻ると、大きな池があった。若い男が破舟やれぶねの中へ這入はいってしきりに竿さおを動かしている。おいこの池は湯か水かと聞くと、若い男は類稀たぐいまれなる仏頂面ぶっちょうづらをして湯だと答えた。あまりいやな奴だから、それぎり口をくのをやめにした。岸の上から底をのぞくと、時々泡のようなものが浮いて来る。少しは湯気が立ってるかとも思われる。実は魚がいないかと、念のため聞いて見たかったのだけれども、相手が相手だから歩をめぐらして宿の方へ帰った。後で、この池に魚が泳いでいる由を承知してはなはだ奇異の思いをなした。その上ここには水が一滴も出ないのだと教えられたときには全く驚いた。
 驚いた事はまだある。湯から帰りがけに入口の大広間を通り抜けて、自分のへやへ行こうとすると、そこに見慣れない女がいた。どこから来たものか分らないが、むらさきはかま穿いて、深い靴を鳴らして、その辺を往ったり来たりする様子が、どうしても学校の教師か、女生徒である。東京でこそ外へさえ出れば、向うから眼の中へ飛び込んでくる図だが、渺茫びょうぼうたる草原くさはらのいずくを物色したって、斯様かよう文采ぶんさいひとみに落ちるべきはずでない。余はむしろ怪しいおもむきをもって、この女の姿をしばらく見つめていた。
 室に帰ってまた寝た。眼がめると窓の外で虫の声がする。さびしくなったから、西洋間へ出て、長椅子の上に腰をかけて、うたいをうたった。無論出鱈目でたらめである。そこへ下女が来た。先刻さっきの女の事を聞いたら、何でもうちで知ってる人なんでしょうと云っただけで、ちっとも要領を得ない。昨夕ゆうべ飯を済まして煙草たばこんでいると急に広間の方で、オルガンをく音がしたが、あの女がやったんじゃないかと聞くと、いいえ昨夕のは宅の下女ですと云う。この原のなかに、それほどハイカラな下女がいようとは思いがけなかった。先刻の袴はもう帰ったそうである。
 余は一人長椅子の上にすわった。そうして永い日がかたむき尽して、原の色が寒く変るまでぽかんとしていた。すると静かな野の中でどうぞ、ちと御遊びに、私一人ですからと云うなまめかしい声がした。その音調は全くの東京ものである。余は突然立って、窓の外を眺めた。あいにく窓には寒冷紗かんれいしゃが張ってあった。手早く硝子ガラスを開けて首を外へ出すと、外はもう一面に夕暮れていて、あおい煙が女の姿を包んでしまったので誰だか分らなかった。
 橋本の連中はその晩帰って来た。下女のしらせで、暗い背戸せどに出て見ると、豆のようなが一つ遠くに見えた。下女はあれが連中だと云う。いくら野広のびろいところだって、橋本以外にも灯が見える事もあるだろうと尋ねても、やっぱりあれだと云う。はたしてそうであった。灯は夕方宿からむかえに出した支那人の持って行った提灯ちょうちんである。背戸口に馬を乗り捨てた橋本は、そう骨を折って見に行く所でもないよと云った。大重君は馬から三度落ちたそうである。

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