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満韓ところどころ(まんかんところどころ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 9:26:15  点击:  切换到繁體中文


        三十

 朝食にうずらを食わすから来いという案内である。朝飯あさめし御馳走ごちそうには、ケムブリジに行ったときたしか浜口君に呼ばれた事があると云う記憶がぼんやり残っているだけだから、大変珍らしかった。もっとも午前十一時に立つ客に晩餐ばんさんを振舞う方法は、世界にないんだから仕方がない。鶉に至っては生れてからあんまり食った事がない。昔正岡子規まさおかしきに、手紙をもってわざわざ大宮公園おおみやこうえんに呼び寄せられたとき、鶉だよと云って喰わせられたのが初めてぐらいなものである。その鶉の朝飯をこしらえるからと云って、特に招待するんだから、佐藤は物数奇ものずきに違いない。そうして、好いかほかに何にもない、鶉ばかりだよと念を押した。いったい鶉を何羽喰わせるつもりか知らんと思って、どこから貰ったのかと聞くと、いや鶉は旅順の名物だ、もう出る時分だからちょうど好かろうとすでに鶉をったような事を云っていた。
 白仁さんのところへ暇乞いとまごいに行ったので少しおくれて着くと、スキ焼を推挙した田中君がもう来ていた。田中君も鶉の御相伴おしょうばんと見える。佐藤は食卓の準備を見るために、出たり這入はいったりする。立派な仙台平せんだいひらはかまを着けてはいるが、腰板こしいたの所が妙に口をいて、まるではまぐりを割ったようである。そうして、それを後下うしろさがりにっている。それでもって、さあ食おうと云って、次の間の食堂へ案内した。西洋流の食卓の上に、会席膳かいせきぜんを四つ並べて、いよいよ鶉の朝飯となった。
 まず御椀おわんふたを取ると、鶉がいる。いわゆる鶉の御椀だから不思議もなく食べてしまった。皿の上にもいるが、これはたしか醤油で焼かれたようだ。これもうまく食べた。第三は何でもいもか何かといっしょに煮られたように記憶している。しかし遺憾いかんながら、判然はっきりとその味を覚えていない。これらを漸次ぜんじたいらげると、佐藤はまだあるよと云って、次の皿を取り寄せた。それも無論鶉には相違なかった。けれどもただ西洋流の油揚あぶらあげにしてあるばかりで、ややともすると前の附焼つけやきまぎれやすかった。しかもこの紛れやすい油揚はだいぶ仕込んで有ったと見えて、まだ喰い切らない先に御代りが出て来た。
 かくのごとく鶉が豊富であったため、つい食べ過ぎた。余の胃の中に這入った骨だけの分量でもずいぶんある。大連へ帰って胃の痛みが増したとき、あまり鶉の骨を喰ったせいじゃなかろうかと橋本に相談したら、橋本は全くそうだろうと答えた。食事が終ってから応接間へ帰って来ると、佐藤が突然、時に君は何かやるそうじゃないかと聞いた。是公ぜこうに東京でったとき、是公はにやにや笑いながら、いったい貴様は新聞社員だって、何か書いてるのかと聞いた。こう云う質問になると、是公も友熊も同程度のものである。
 何かやるなら一つ書いて行くが好いと云って、妙な短冊を出した。それをそばへ置いて話をしていると、一つ書こうじゃないかと催促する。今考えているところだと弁解すると、ああそうかと云って、また話をする。しまいに墨を磨って、とうとうわかふるみやこうずらくと書いた。佐藤の事だから何を書いたって解るまいと思ったが、佐藤は短冊を取上げて、何だとしを分つ古き都やと読んでいた。
 うずらはらかかえたなり、ホテルへ帰って勘定かんじょうを済まして、停車場ステーションかけつけると、プラットフォームに大きな網籠あみかごがあった。その中に鶉の生きたのがいっぱい這入はいって雛鳥ひよっこを詰めたようにむくむく動いている。発車の時間に少し間があったので、田中君は籠のそばへ行って所有主と談判を始めた。余が近寄ったときは、一羽が三銭だとか四銭だとか云っていた。ところへ駅員が来て、よろしゅうございます、この汽車へ積込んで御届け申しますと受合った。三人はとうとう鶉と別れて汽車へ乗った。

        三十一

 いよいよ腹が痛んだ。ゼムをんだり、宝丹ほうたんを呑んだり、通じ薬をやったり、内地から持って来た散薬を用いたりする。毎日飯を食って呑気のんきに出歩いているようなものの、内心ではこりゃたまらないと思うくらいであった。大連の病院を見に行ったとき、くるまぎれに、案内をしてくれた院長の河西君かさいくんに向って、僕も一つ診察を願おうかなと云ったら、河西君はとんだお客様だというような顔もせず、明日あしたの十時頃いらっしゃいと親切に引き受けてくれた。ところが明日の十時頃になると、診察の事はまるで忘れてしまって、相変らず鳥打帽子をかぶって、強い日の下をげながら、け廻った。
 橋本が、全体どこまで行くつもりなんだいと聞くから、そうさまあ哈爾賓ハルピンぐらいまで行かなくっちゃ義理が悪いようだなと答えたが、その橋本はどうする料簡りょうけんかちっとも分らない。考えて見ると、内地ではもう九月の学期がはじまって、教授連がそろそろ講義に取りかかる頃である。君はこれからどうするんだと反問して見た。さあ僕も哈爾賓ぐらいまで行って見たいのだが、何しろ六月から学校をけているんだからねと決心しかねている。かように義務心の強い男をそそのかして見当違の方角へ連れて行ったのは、全く余の力である。その代り哈爾賓を見て奉天へ帰るや否や、橋本は札幌さっぽろから電報をかけられた。いよいよ催促を受けたと電報を見ながら苦笑しているので、いいや、急ぎ帰りつつありとかけておくさと、ひとの事だからはなはだ洒落しゃらく助言じょごんをした。
 橋本がいよいよいっしょに北へ行くと云う事になってから、余はすべてのプログラムを橋本に委任してぶらぶらしていた。橋本は汽車の時間表を見たり、宿泊地の里程を計算したり二三日の間はしきりに手帳へ鉛筆で何か付け込んでいた。ときどき、おいどうもうまく行かんよ、ここを火曜の急行で出るとするとなどと相談を掛けるから、いいさ火曜がいけなければ水曜の急行にしようと、まるで無学な事を云っているので、橋本もあきれていた。よく聞いて見て始めて了解したが、実は哈爾賓ハルピンへ接続する急行は、一週にたった二回しかないのだそうである。普通の客車かくしゃでも、京浜間のようにむやみには出ない。一日にわずか二度か三度らしい。だから君のように呑気のんきな事を云ったって駄目だめだよと橋本から叱られた。なるほど駄目である。しかも余の駄目は汽車にとどまらない。地理道程みちのりに至っても悉皆しっかい真闇まっくらであった。さすが遼陽りょうようだの奉天だのと云う名前は覚えているが、それがどの辺にあって、どっちが近いのだかいっさい知らなかった。その上、これから先どことどこへ泊って、どことどこを通り抜けるのかに至るまで、全く無頓着むとんじゃくであったのだから橋本も呆れるはずである。しかし、おい鉄嶺てつれいへは降りるのかと聞いて、いや降りないと答えられれば、はあ、そうかと云ったなりで済ましていた。別に降りて見たい気にもならなかったからである。したがって橋本は実に順良な道伴みちづれを得た訳で、同時に余は結構な御供を雇った事になる。
 いよいよプログラムがきまったので、是公に出立の事を持ち出すと、奉天へ行って、それから北京ペキンへ出て、上海シャンハイへ来て、上海から満鉄の船で大連まで帰って、それからまた奉天へ行って、今度は安奉線あんぽうせんを通って、朝鮮へ抜けたら好いだろうとすこぶる大袈裟おおげさ助言じょごんを与える。その上、ぜにが無ければやるよと註釈を付けた。銭が無くなれば無論貰う気でいた。しかし余っても困るから、むやみには手を出さなかった。
 余は銭問題を離れて、単に時間の点から、この大袈裟な旅行の計画を、実行しなかった。そのくせ奉天を去っていよいよ朝鮮に移るとき、紙入の内容の充実していないのに気がついて、少々是公に無心をした。もとより返す気があっての無心でないから、今もって使い放しである。
 立つ時には、是公はもとより、新たに近づきになった満鉄の社員諸氏に至るまで、ことごとく停車場ステーションまで送られた。貴様が生れてから、まだ乗った事のない汽車に乗せてやると云って、是公は橋本と余を小さい部屋へ案内してくれた。汽車が動き出してから、橋本が時間表を眺めながら、おいこの部屋は上等切符を買った上に、ほかに二十五ドル払わなければ這入はいれない所だよと云った。なるほどひょうにちゃんとそう書いてある。専有の便所、洗面所、化粧室が附属した立派なへやであった。余は痛い腹を忘れてその中に横になった。

        三十二

 トロと云うものに始めて乗って見た。停車場へ降りた時は、さくの外に五六軒長屋のような低い家が見えるばかりなので、何だか汽車から置き去りにされたような気持であったが、これからトロで十五分かかるんだと聞いて、やっと納得なっとくした。
 トロは昔軍人のこしらえたのを、手入もせずに、そのまま利用しているらしい。軌道レールの間から草が生えている。軌道の外にも草が生えている。先まで見渡すと、鉄色の筋が二本えない草の中を真直まっすぐつらぬいている。しかし細い筋が草に隠れて、行方知ゆきがたしれずになるまで眺め尽しても、建物らしいものは一軒も見当らなかった。そうして軌道の両側はことごとく高粱こうりょうであった。その大きな穂先は、眼の届く限り代赭たいしゃで染めたように日の光を吸っている。橋本と余と荷物とは、この広漠こうばくはたけの中を、トロに揺られながら、まぶしそうに動いた。トロは頑丈がんじょうな細長い涼み台に、鉄の車を着けたものと思えば差支さしつかえない。軌道の上をころがす所を、よそから見ていると、はなはだなめらかで軽快に走るが、実地に乗れば、胃に響けるほど揺れる。押すものは無論支那人である。勢いよく二三十間突いておいて、ひょいと腰をかける。汗臭あせくさ浅黄色あさぎいろ股引ももひき背広せびろすそさわるので気味が悪い事がある。すると、速力の鈍った頃を見計みはからって、また素足すあしのまま飛び下りて、肩と手をいっしょにして、うんうん押す。押さなければいいと思うぐらい、車が早く廻るので、乗ってる人の臓器ぞうきは少からず振盪しんとうする。余はこのトロに運搬されたため、悪い胃を著るしく悪くした。車の上では始終しじゅうゼムを含んで早く目的地へ着けば好いと思っていた。勢いよくけられれば、駆けられるほどなおつらかった。それでも台からぶら下げた足を折らなかったのが、まだ仕合せである。実際酒に酔って腰をかけたまますねを折っぺしょった人があるそうだ。見ると橋本の帽子のつばが風に吹かれてひらひらとなびいている。余は鳥打の前廂まえびさしを深く下げてなるべく日にせなを向けるようにしていた。
 苦しい十五分か廿分ののち車はようやく留まった。軌道の左側だけが、はたを切り開いて平らにしてある。眼をおおう高粱の色を、百坪余り刈り取って、黒い砂地にしたあとへ、左右に長い平屋を建てた。壁の色もまだ新しかった。玄関を這入って座敷へ通ると、窓の前は二間ほどしかない。そのふちに朝顔のような草がしげっているが、からまる竹もつえもないので、つると云わず、葉と云わず、花を包んで雑然とむらがるばかりである。朝顔の下はすぐがけで、崖の向うは広い河原かわらになる。水は崖の真下を少し流れるだけであった。
 橋本と余は、申し合せたように立って窓から外を眺めていた。首を出すと、崖下にも家が一軒ある。しかし屋根瓦やねがわらしか見えない。支那流の古い建物で、廻廊のような段々をりて、余のいる部分に続いているらしく思われる。あれは何だいと聞いて見た。料理場と子供を置く所になっていますと答えた。子供とは酌婦しゃくふ芸妓げいしゃたぐいすものだろうと推察した。眼の下に橋が渡してある。厚くはあるが幅一尺足らずの板を八つ橋にいだものに過ぎない。水はただ砂を洗うほどに流れている。足の甲をらしさえすれば徒歩渉かちわたるのは容易である。橋本のあと食付くっついて手拭てぬぐいをぶら下げて、この橋を渡った時、板の真中で立ち留まって、下をのぞき込んで見たら、砂が動くばかりで水の色はまるでなかった。十里ほどかみさかのぼるとあゆれるそうだ。余は汽車の中で鮎のフライを食って満洲には珍らしいさかなだと思った。おそらくこの上流からクーリーが売りに来たものだろう。

        三十三

 足駄げたを踏むとざぐりと這入はいる。くびすを上げるとばらばらと散る。なぎさよりも恐ろしい砂地である。冷たくさえなければ、跣足はだしになって歩いた方が心持が好い。まないた引摺ひきずっていては一足ひとあしごとにあとしざるようで歯痒はがゆくなる。それを一町ほど行って板囲いたがこいの小屋の中をのぞき込むと、温泉があった。大きい四角なおけふちまで地の中にんだと同じようなふねである。温泉はいっぱいたまっていたが、澄み切って底まで見える。いつの間に附着したものやら底も縁も青いこけで色取られている。橋本と余は容赦なく湯の穴へ飛び込んだ。そうして遠くから見ると、砂の中へ生埋いきうめにされた人間のように、頭だけ地平線の上に出していた。支那人の中には、実際生埋になって湯治とうじをやるものがある。この河原かわらの幅は、向うに見える高粱こうりょうはたけまで行きつめた事がないからどのくらいか分らないが、とにかく眼がたいらになるほど広いものである。そのたいらなどこを、どう掘っても、湯がいて来るのだから、裸体はだかになって、手で砂をき分けて、くぼんだところへ横になれば、一文も使わないで事は済む。その上寝ながら腹の上へ砂を掛ければ、温泉の掻巻かいまきができる訳である。ただ砂の中をもぐって出る湯がいかにも熱い。じくじくいたものを、大きな湯槽ゆぶねに溜めて見ると、色だけは非常に奇麗きれいだが、それにだまされてうっかり飛び込もうものならひどい目にう。橋本と余は、勢いよく浴衣ゆかたげて、競争的に毛脛けずね突込つっこんで、急に顔を見合せながらちぢんだ事がある。大の男がわざわざ裸になって、その裸の始末をつけかねるのはきまりが好いものじゃないから、両人ふたりは顔を見合せて苦笑しながら小屋を飛び出して、四半丁しはんちょうほど先の共同風呂まで行って、平気な風にどぼりとつかった。
 風呂から出て砂の中に立ちながら、河の上流を見渡すと、河がぐるりとゆるく折れ曲っている。その向う側に五六本の大きな柳が見える。奥には村があるらしい。牛と馬が五六頭水をわたって来た。距離が遠いので小さく動いているが、色だけは判然はっきり分る。皆茶褐色をして柳の下に近づいて行く。牛追は牛よりもなお小さかった。すべてが世間で云う南画なんがと称するものに髣髴ほうふつとして面白かった。中にも高い柳が細い葉をことごとく枝に収めて、静まり返っているところは、全く支那めいていた。遠くから望んでも日本の柳とはおもむきが違うように思われた。水は柳の茂るところで見えなくなっているが、なおその先を辿たどって行くと、たちまち眼にぶつかるような大きな山脈がある。ひだが鋭く刻まれているせいか、ある部分は雪が積ったほど白く映る。そのくらいに周囲はどす黒かった。漢語には崔嵬さいかいとか※(「山+贊」、第4水準2-8-72)※(「山+元」、第3水準1-47-69)さんがんとか云って、こう云う山を形容する言葉がたくさんあるが、日本には一つも見当らない。あれは何と云う山だろうとそばにいる大重君おおしげくんに尋ねたら、大重君も知らなかった。大重君は支那語の通訳として橋本にいて蒙古もうこまで行った男である。余の質問を受けるや否やどこかへ消えて無くなったが、やがて帰って来て、高麗城子こまじょうしと云うんだそうですと教えてくれた。土人をつらまえて聞いて来たのだそうである。もとより支那音しなおんで教わったのだが、それは忘れてしまった。
 手拭てぬぐいを下げて、砂の中をぼくぼく橋のそばまで帰って来ると、がけの上から若い女が跣足はだしで降りて来た。橋は一尺に足らぬ幅だからどっちかで待ち合せなければなるまいと思ったが、向うはまだ土堤どてりきらないので、こっちは躊躇ちゅうちょせず橋板はしいたに足をかけた。下駄げたを二三度鳴らして、一間ほど来たとき、女も余と同じ平面に立った。そこで留まると思いのほか、ひらひらと板の上を舞うように進んで余に近づいた。余と女とは板と板の継目つぎめの所で行き合った。あぶないよと注意すると、女は笑いながら軽い御辞儀おじぎをして、余の肩をこすって行き過ぎた。

        三十四

 明日あした梨畑なしばたけを見に行くんだと橋本から申し渡されたので、よろしいと受合った上、とこについたようなものの実を云うと例のトロで揺られるのが内心になった。そのせいでもなかろうが、容易に寝つかれない。橋本はもういびきをかいている。しかも豪宕ごうとうな鼾である。緞子どんす夜具やぐの中から出るべき声じゃない。ましてすその方には金屏風きんびょうぶが立て回してある。
 明日になると、空が曇って小雨こさめが落ちている。窓から首を出して、一面にれた河原かわらの色を眺めながら、おれは梨畑をやめて休養しようかしらと云い出した。橋本は合羽かっぱももっているし、オヴァーシューも用意して来ているのでなかなか景気が好い。ことに農科の教授だけあって、梨を見たがったり、栗を見たがったり、豚や牛を見たがる事人一倍である。早速用意をして大重君をれて出て行った。余はただつくねんとして、窓の中に映る山と水と河原と高粱こうりょうとを眼の底に陳列さしていた。薄く流れる河の厚さは昨日きのうと同じようにほとんど二三寸しかないが、その真中に鉄の樋竹といだけが、砂にうもれながら首を出しているのに気がついたので、あれは何だいと下女に聞いて見た。あれはボアリングをやったあとですと下女が答えた。満洲の下女だけあって、述語じゅつごを知っている。ついこの間雨が降って、かみの方から砂を押し流して来るまでは、河の流れがまるで違った見当を通っていたので、あすこへ湯場ゆばを新築するつもりであったのだと云う。河の流れが一雨ひとあめごとに変るようでは、滅多めったなところへ風呂を建てる訳にも行くまい。現に窓の前のがけなども水にだいぶん喰われている。
 そのうち雨がんだ。退屈だから横になった。約十分も立ったと思う頃、下女がまたやって来て、ただいま駅から電話がかかりまして、これから梨畑へおいでになるなら、駅からトロを仕立てますがと云う問い合せである。雨が歇んだので、座敷に寝ている口実はもう消滅してしまったが、この上トロを仕立てられてはかなわないと思って、わざわざ晴かかった空を見上げて、八の字を寄せた。
 今から行って間に合うのかなと尋ねると、器械トロだから汽車と同じぐらい早いんだと云う話である。胃はもとよりせつないほど不安であるが、汽車と同じ速度の器械トロなるものにも、心得のためちょっと乗って見たいような気がしたので、つい手軽に仕度したくを始めた。すると隣の部屋に泊っていた御客さんが三四人、十一時の汽車で大連へ行くとか云って、同じように仕度を始めた。それを送る下女も仕度を始めた。したがって同勢はだいぶんになった。その中に昨日きのう橋の途中で行き合った女がいた。それが余と尻合しりあわせに同じ車に乗る事になった。互に尻を向けているので、別段口もかなかった。顔もよくは見なかった。が、その言葉だけはたしかに聞いた。しかも支那語である。もとより意味は通じない。しかし盛んにクーリーをきめつけていた。その達弁なのはまた驚くばかりである。昨日微笑しながら御辞儀おじぎをして、余のわきけた女とはどうしても思えなかった。この女は我々の立つ前の晩に、始めて御給仕に出て来た。洋灯ランプの影で御白粉おしろいをつけている事は分ったが、依然として口は利かなかった。
 苦しい十五分ののち車はまた停車場ステーションに着いた。御客はすぐ汽車に乗って大連の方へ去った。下女はみんな温泉宿へ帰った。余はひとり構内を徘徊はいかいした。いわゆる器械トロなるものは姿さえ見せない。そこへ駅員が来て、今松山まつやまを出たそうですからと断った。その松山ははるか向うにある。余は軌道レールの上に立って、一直線の平たいみちを視力のつづく限り眺めた。しかしトロの来る気色けしきはまるでなかった。

        三十五

 宿屋の者ともつかず、駅の者ともつかない洋服を着た男がついて来た。この男の案内で村へ這入はいると、路は全く砂である。深さは五六寸もあろうと思われた。土で造った門の外に女が立っていたが、我々の影を見るや否や逃げ込んだ。手に持った長い煙管きせるが眼についた。犬が門の奥でしきりに吠える。そのうちに村は尽きて松山にかかった。と云うと大層だが、実は飛鳥山あすかやまの大きいのに、桜を抜いて松を植替えたようなものだから、心持の好い平庭ひらにわを歩るくと同じである。松も三四十年の若い木ばかり芝の上に並んでいる。春先はるさき弁当でも持ってあそびに来るには至極しごく結構だが、ところが満洲だけになお珍らしい。余は痛い腹をおさえて、とうとう天辺てっぺんまで登った。するとそこに小さなびょうがあった。正面に向って、れんなどを読んでいると、すぐそばおさの音がする。廟守びょうもりでもおりそうなので、白壁を切り抜いた入口をくぐって中へ這入った。暗い土間を通り越して、奥をのぞいて見たら、窓のそばはたえて、白い疎髯そぜんを生やしたじいさんが、せっせと梭をげていた。織っていたものはあら白布しろぬのである。案内の男が二言ふたこと三言みこと支那語で何か云うと、老人は手を休めて、暢気のんきな大きい声で返事をする。七十だそうですと案内が通訳してくれた。たった一人でここにいて、飯はどうするのだろうと、ついでに通訳をわずらわして見た。下の家から運んでくるものを食っているそうであった。その下の家と云うのがすなわち梨畠なしばたけの主人のところだと案内は説明した。
 やがて、山を降りて梨畠へ行こうとしたが、正門から這入はいるのが面倒なので、どうです土堤どてを乗り越そうじゃありませんかと案内が云い出した。余はすぐ賛成して蒲鉾形かまぼこがた土塀どべい向側むこうがわりた。胃は実に痛かった。の下をくぐって二十間も来ると、向うの方に橋本始め連中が床几しょうぎに腰をかけて梨を食っている。腕に金筋きんすじを入れた駅長までいっしょである。余も同勢にまじって一つ二つ食った。これは胃の中に何か入れると、一時痛みが止むからである。そうしてまた畠の中をぐるぐる歩き出した。ここの梨はまるで林檎りんごのように赤い色をしている。大きさは日本の梨の半分もない。しかし小さいだけあって、鈴なりに枝をしなわして、累々るいるいとぶら下っているところがいかにもみごとに見える。主人がそのうちで一番うまやつを――何と云ったか名は思い出せないが、下男に云いつけて、ざるに一杯取り出さして、みんなに御馳走ごちそうした。主人は背の高い大きな男で、支那人らしく落ちつきはらって立っている。案内の話では二千万とか二億万とかの財産家だそうだが、それはうそだろう。やにの強い亜米利加煙草アメリカたばこを吹かしていた。
 梨にもきた頃、橋本が通訳の大重君に、いろいろ御世話になってありがたいから、御礼のため梨を三十銭ほど買って帰りたいと云うような事を話してくれと頼んでいる。それを大重君がすこぶる厳粛な顔で支那語に訳していると、主人は中途で笑い出した。三十銭ぐらいなら上げるから持って御帰りなさいと云うんだそうである。橋本はじゃ貰って行こうとも云わず、また三十銭を三十円に改めようともしなかった。宿へ帰ったら、下女がある御客さんといっしょに梨畠へ行って、梨を七円ほど御土産おみやげに買って帰った話をして聞かせた。その時橋本は、うんそうか、おれはまた三十銭がた買って来ようと思ったら、三十銭ぐらいなら進上しんじょうすると云ったよと澄ましていた。

        三十六

 壁と云うとこての力で塗り固めたような心持がするが、この壁は普通のどろ天日てんぴ干上ひあがったものである。ただ大地と直角ちょっかくにでき上っている所だけが泥でなくって壁に似ている。その上部には西洋の御城のように、形儀ぎょうぎよく四角なあなをいくつも開けて、一ぱしやぐら体裁ていさいを示している。しかし一番人の注意をくのは、この孔から見える赤い旗である。旗の数は孔の数だけあって、孔の数は一つや二つではないから、ちょっとにぎやかに思われる。始めてこの景色けしきが眼に触れた時には、村のお祭りで、若いものが、面白半分に作り物でもこしらえたのじゃなかろうかと推測した。ところがこの櫓は馬賊の来襲に備えるために、梨畑なしばたけの主人が、わざわざ家の四隅よすみに打ち建てたのだと聞いて、半分は驚いたが、半分はおかしかった。ただなぜあんな赤い旗を孔の間から一つずつ出しているかが、さっぱり分らなかった。裏側へ廻って、段々をのぼって見て、始めてこの赤旗の一つが一挺の鉄砲を代表している事を知った。鉄砲は博物館にでもありそうな古風な大きいもので、どれもこれもさびを吹いていた。弾丸たまを込めても恐らくつつから先へ出る気遣きづかいはあるまいと思われるほど、安全に立てかけられていた。もっとも赤い旗だけは丁寧ていねいくくりつけてある。そうしてちょうど壁孔かべあなから外に見えるくらいな所にぶら下げてある。番兵はきたない顔をそろえて、うしろの小屋の中にごろごろしていた。馬賊の来襲に備えるために雇われたればこそ番兵だが、その実は、日当三四十銭の苦力クーリーである。やぐらを下りて門を出る前に、家の内部をる訳に行くまいかと通訳をもって頼んだら、主人はかぶりを振って聞かなかった。女のいる所は見せる訳に行かないと云うんだそうである。その代り客間へ案内してやろうと番頭を一人つけてくれた。その客間というのは往来を隔てて向う側にある一軒建の家であった。外には大きな柳が、静な葉を細長く空にいていた。長屋門ながやもん這入はいると鼠色ねずみいろ騾馬らばが木の株につないである。余はこの騾馬を見るや否や、三国志さんごくしを思い出した。何だか玄徳げんとくの乗った馬に似ている。全体騾馬というのを満洲へ来て始めて見たが、腹が太くって、背が低くって、総体が丸くたくましくって、万事ばんじ邪気のないような好い動物である。橋本に騾馬の講義を聞くと、まず騾と※(「馬+夬」、第4水準2-92-81)※(「馬+是」、第4水準2-92-94)けっていの区別から始めるので、真率しんそつな頭脳をただいたずらに混乱させるばかりだから、黙ってくらのない裸姿を眺めていた。騾馬は首を伏せてしきりに短い草を食っていた。
 門の突き当りがいわゆる客間であるが、観音扉かんのんびらきを左右に開けて這入るところなぞは御寺に似ている。中はきたないものであった。客でも招待するときには、臨時に掃除をするのかと聞いたら、そうだと答えていた。主人に挨拶あいさつをしてまた松山を抜けたら、松の間に牛が放してあった。駅長が行く行く初茸はつだけを取った。どこから目付めつけ出すか不思議なくらい目付け出した。橋本も余も面白半分少し探して見たが、全く駄目であった。山をくだるとき、おい満洲を汽車で通ると、はなはだ不毛ふもうの地のようであるが、こうして高い所に登って見ると、沃野よくや千里という感があるねと、橋本に話しかけたが、橋本にはそんな感がなかったと見えて、別に要領の好い返事をしなかった。余の沃野千里は全く色から割り出した感じであった。松山の上から見渡すと、高い日に映る、茶色や黄色が、しまになったり、段になったり、模様になったり、かすみで薄くされて、雲につづくまで、一面に平野をおおうている。満洲は大きな所であった。
 宿へ帰ったら、御神おかみさんが駅長の贈って来た初茸をつゆにして、晩に御膳おぜんの上へ乗せてくれた。それを食って、梨畑や、馬賊や、土の櫓や、赤い旗の話しなぞをして寝た。

        三十七

 立つ用意をしているところへ御神さんが帳面を持って出て来た。これへ何か書いて行って下さいと云う。御神さんは余を二つあわせたように肥えている。それで病気だそうだ。始めはどこのものだか分らなかったが、御神さんと知って、調子の下女と違っているのに驚いた。御神さんはその体格の示すごとき好い女であった。どうしてあんなすれっからしの下女を使いこなすかが疑問になったくらいである。帳面を前へ置いて、どうぞと手をひざの上に重ねた。その膝の厚さは八寸ぐらいある。
 帳面を開けると、第一ページに林学博士のH君が「本邦ほんぽう山水さんすいに似たり」とふるってしまったあとである。その次にはどこどこ聯隊長れんたいちょう何のなにがしと書いてある。宿帳だか、書画帖しょがちょうだか判然しないものの、第三頁に記念をのこす事にせまって来た。橋本は帳面を見るや否や、むこうを向いて澄ましている。余は仕方がないから、書くには書くが、少し待ってくれと頼んだ。すると御神おかみさんが、そうおっしゃらずに、どうぞどうぞと二遍も繰返して御辞儀をする。無論うそく気は始めからないのだが、こう拝むようにされて書いてやるほどの名筆でもあるまいと思うと、困却こんきゃく慚愧ざんきでほとほと持て余してしまう。時に橋本が例のごとく口をいてくれた。この人は嘘を云う男じゃないから、大丈夫ですよ今に何か書きますよと笑っている。余はまた世間話をしながら、その間に発句ほっくでも考え出さなければならなくなった。
 同情してくれる人はだいぶあると思うから白状するが、旅をして悪筆を懇望こんもうされるほど厄介やっかいな事はない。それも句作に熱心で壁柱かべはしらへでも書き散らしかねぬ時代ならとにかく、書く材料の払底ふっていになった今頃、何か記念のためにと、短冊たんじゃくでも出された日には、節季せっきに無心を申し込まれるよりもつらい。大連を立つとき、手荷物を悉皆しっかい革鞄かばんの中へ詰め込んでしまって、さあ大丈夫だと立ち上った時、ふと気がついて見ると、化粧台の鏡の下に、細長い紙包があった。不思議に思って、折目を返して中を改めると、短冊である。いつ誰が持って来て載せたものか分らないが、その意味はたいてい推察ができる。俳句を書かせようと思って来たところが、あいにく留守るすなので、また出直して頼む気になって、わざと短冊だけ置いて行ったに違ない。余はこの時化粧台から紙包を取りおろして、革鞄の中へ押し込んで、ホテルを出た。この短冊はいまだに誰のものか分らない。数は五六枚で雲形くもがた洒落しゃれたものであったが、朝鮮へ来て、句を懇望されるたびに、それへ書いてやってしまったから今では一枚も残っていない。長春の宿屋でも御神さんにつらまった。この御神さんは浜のものだとか云って、意気な言葉使いをしていたが、新しい折手本おりでほんを二冊出して、これへどうぞおんなじものを二つ書いて下さいと云った。おなじでなければいけないのかと尋ねると、ええと答える。その理由は、夫婦別れをしたときに、夫婦が一冊ずつ持っている事ができるためだそうだ。
 こう書いて行くと、朝鮮の宴会でぬめを持出された事まで云わなくてはならないから、好い加減に切り上げて、話を元へ戻して、ふとった御神さんの始末をつけるが、余は切ない思いをして、汽車の時間に間に合うように一句浮かんだ。浮かぶや否や、帳面の第三頁へ熊岳城ゆうがくじょうにてと前書まえがきをして、きびとお河原かわら風呂ふろわたひとしたためて、ほっと一息吐いた。そうして御神さんの御礼も何も受ける暇のないほど急いでトロに乗った。電話の柱に柳の幹を使ったのが、いつの間にか根を張って、針金のそばから青い葉を出しているのに気がついて、あれでも句にすればよかったと思った。

        三十八

 窓からのぞいて見ると、いつの間にか高粱こうりょうが無くなっている。先刻さっきまでは遠くの方に黄色い屋根が処々眺められたが、それもついに消えてしまった。この黄色い屋根は奇麗きれいであった。あれは玉蜀黍とうもろこしが干してあるんだよと、橋本が説明してくれたので、ようやくそうかと想像し得たくらい、玉蜀黍を離れて余の頭に映った。朝鮮では同じく屋根の上に唐辛子とうがらしを干していた。松の間から見えるひとが、秋の空の下で、燃え立つように赤かった。しかしそれが唐辛子とうがらしであると云う事だけは一目ですぐ分った。満洲の屋根は距離が遠いせいか、ただ茫漠ぼうばくたる単調を破るための色彩としか思われなかった。ところがその屋根も高粱もことごとく影を隠してしまって、あるものはただの地面だけになった。その地面には赤黒いいばらのような草が限りなく生えている。始めはたでの種類かと思って、橋本に聞いて見たら橋本はすぐかむりを横に振った。蓼じゃない海草かいそうだよと云う。なるほど平原の尽きるあたりを、眼を細くして、見究みきわめると、暗くなった奥の方に、一筋鈍く光るものがあるように思われる。海辺うみべかなと橋本に聞いて見た。その時日はもう暮れかかっていた。際限もなくはびこっている赤い草のあなたは薄いもやに包まれて、幾らかあおくなりかけた頃である。あからさまに目に映るすぐそばをよくよく見つめると、乾いた土ではない。踏めば靴の底がれそうに水気みずけを含んでいる。橋本は鹹気しおけがあるから穀物の種がおろせないのだと云った。豚も出ないようだねと余は橋本に聞き返した。汽車に乗って始めて満洲の豚を見たときは、実際一種の怪物に出逢であったような心持がした。あの黒い妙な動物は何だと真面目まじめに質問したくらい、な感じに襲われた。それ以来満洲の豚と怪物とは離せないようになった。この薄暗い、こけのように短い草ばかりの、不毛の沢地たくちのどこかに、あの怪物はきっと点綴てんてつされるに違ないと云う気がなかなか抜けなかった。けれども一匹の怪物に出逢う前に、日は全く暮れてしまった。目に余る赤黒い草の影はしだいに一色ひといろに変化した。ただ北の方の空に、夕日の名残なごりのような明るい所が残ったのである。そうしてその明るい雲の下が目立って黒く見える。あたかも高い城壁の影が空をさえぎって長く続いているようである。余は高いこの影を眺めて、いつの間にか万里の長城に似た古迹こせきそばでも通るんだろうぐらいの空想をたくましゅうしていた。すると誰だかこの城壁の上を駆けて行くものがある。はてなと思ってしばらくするうちに、また誰か駆けて行く。不思議だとさとってまたたきもせず城壁の上を見つめていると、また誰か駆けて行く。どう考えても人が通るに違いない。無論夜の事だから、どんな顔のどんな身装みなりの人かは判然しないが、比較的明かな空を背景にして、黒い影法師が規則正しく壁の上をけ抜ける事はたしかである。余は橋本の意見を問う暇もないほど面白くなって、一生懸命に、眼前を往来するこの黒い人間を眺めていた。同時に汽車は、刻々と城壁に向って近寄って来た。それが一定の距離まで来ると、俄然がぜんとして失笑した。今までたしかに人間だと思い込んでいたものは、急に電信柱の頭に変化した。城壁らしく横長に続いていたのは大きな雲であった。汽車は容赦なく電信柱を追い越した。高い所で動くものがようやく眼底を払った。

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