三十
朝食に鶉を食わすから来いという案内である。朝飯の御馳走には、ケムブリジに行ったときたしか浜口君に呼ばれた事があると云う記憶がぼんやり残っているだけだから、大変珍らしかった。もっとも午前十一時に立つ客に晩餐を振舞う方法は、世界にないんだから仕方がない。鶉に至っては生れてからあんまり食った事がない。昔正岡子規に、手紙をもってわざわざ大宮公園に呼び寄せられたとき、鶉だよと云って喰わせられたのが初めてぐらいなものである。その鶉の朝飯を拵えるからと云って、特に招待するんだから、佐藤は物数奇に違いない。そうして、好いかほかに何にもない、鶉ばかりだよと念を押した。いったい鶉を何羽喰わせるつもりか知らんと思って、どこから貰ったのかと聞くと、いや鶉は旅順の名物だ、もう出る時分だからちょうど好かろうとすでに鶉を捕ったような事を云っていた。
白仁さんのところへ暇乞に行ったので少し後れて着くと、スキ焼を推挙した田中君がもう来ていた。田中君も鶉の御相伴と見える。佐藤は食卓の準備を見るために、出たり這入ったりする。立派な仙台平の袴を着けてはいるが、腰板の所が妙に口を開いて、まるで蛤を割ったようである。そうして、それを後下りに引き摺っている。それでもって、さあ食おうと云って、次の間の食堂へ案内した。西洋流の食卓の上に、会席膳を四つ並べて、いよいよ鶉の朝飯となった。
まず御椀の蓋を取ると、鶉がいる。いわゆる鶉の御椀だから不思議もなく食べてしまった。皿の上にもいるが、これはたしか醤油で焼かれたようだ。これも旨く食べた。第三は何でも芋か何かといっしょに煮られたように記憶している。しかし遺憾ながら、判然とその味を覚えていない。これらを漸次に平げると、佐藤はまだあるよと云って、次の皿を取り寄せた。それも無論鶉には相違なかった。けれどもただ西洋流の油揚にしてあるばかりで、ややともすると前の附焼と紛れやすかった。しかもこの紛れやすい油揚はだいぶ仕込んで有ったと見えて、まだ喰い切らない先に御代りが出て来た。
かくのごとく鶉が豊富であったため、つい食べ過ぎた。余の胃の中に這入った骨だけの分量でもずいぶんある。大連へ帰って胃の痛みが増したとき、あまり鶉の骨を喰ったせいじゃなかろうかと橋本に相談したら、橋本は全くそうだろうと答えた。食事が終ってから応接間へ帰って来ると、佐藤が突然、時に君は何かやるそうじゃないかと聞いた。是公に東京で逢ったとき、是公はにやにや笑いながら、いったい貴様は新聞社員だって、何か書いてるのかと聞いた。こう云う質問になると、是公も友熊も同程度のものである。
何かやるなら一つ書いて行くが好いと云って、妙な短冊を出した。それを傍へ置いて話をしていると、一つ書こうじゃないかと催促する。今考えているところだと弁解すると、ああそうかと云って、また話をする。しまいに墨を磨って、とうとう手を分つ古き都や鶉鳴くと書いた。佐藤の事だから何を書いたって解るまいと思ったが、佐藤は短冊を取上げて、何だ年を分つ古き都やと読んでいた。
鶉の腹を抱えたなり、ホテルへ帰って勘定を済まして、停車場へ駆つけると、プラットフォームに大きな網籠があった。その中に鶉の生きたのがいっぱい這入って雛鳥を詰めたようにむくむく動いている。発車の時間に少し間があったので、田中君は籠の傍へ行って所有主と談判を始めた。余が近寄ったときは、一羽が三銭だとか四銭だとか云っていた。ところへ駅員が来て、宜しゅうございます、この汽車へ積込んで御届け申しますと受合った。三人はとうとう鶉と別れて汽車へ乗った。
三十一
いよいよ腹が痛んだ。ゼムを噛んだり、宝丹を呑んだり、通じ薬をやったり、内地から持って来た散薬を用いたりする。毎日飯を食って呑気に出歩いているようなものの、内心ではこりゃたまらないと思うくらいであった。大連の病院を見に行ったとき、苦し紛れに、案内をしてくれた院長の河西君に向って、僕も一つ診察を願おうかなと云ったら、河西君はとんだお客様だというような顔もせず、明日の十時頃いらっしゃいと親切に引き受けてくれた。ところが明日の十時頃になると、診察の事はまるで忘れてしまって、相変らず鳥打帽子を被って、強い日の下を焦げながら、駆け廻った。
橋本が、全体どこまで行くつもりなんだいと聞くから、そうさまあ哈爾賓ぐらいまで行かなくっちゃ義理が悪いようだなと答えたが、その橋本はどうする料簡かちっとも分らない。考えて見ると、内地ではもう九月の学期が始って、教授連がそろそろ講義に取りかかる頃である。君はこれからどうするんだと反問して見た。さあ僕も哈爾賓ぐらいまで行って見たいのだが、何しろ六月から学校を空けているんだからねと決心しかねている。かように義務心の強い男を唆かして見当違の方角へ連れて行ったのは、全く余の力である。その代り哈爾賓を見て奉天へ帰るや否や、橋本は札幌から電報をかけられた。いよいよ催促を受けたと電報を見ながら苦笑しているので、いいや、急ぎ帰りつつありとかけておくさと、他の事だからはなはだ洒落な助言をした。
橋本がいよいよいっしょに北へ行くと云う事になってから、余はすべてのプログラムを橋本に委任してぶらぶらしていた。橋本は汽車の時間表を見たり、宿泊地の里程を計算したり二三日の間はしきりに手帳へ鉛筆で何か付け込んでいた。ときどき、おいどうも旨く行かんよ、ここを火曜の急行で出るとするとなどと相談を掛けるから、いいさ火曜がいけなければ水曜の急行にしようと、まるで無学な事を云っているので、橋本も呆れていた。よく聞いて見て始めて了解したが、実は哈爾賓へ接続する急行は、一週にたった二回しかないのだそうである。普通の客車でも、京浜間のようにむやみには出ない。一日にわずか二度か三度らしい。だから君のように呑気な事を云ったって駄目だよと橋本から叱られた。なるほど駄目である。しかも余の駄目は汽車にとどまらない。地理道程に至っても悉皆真闇であった。さすが遼陽だの奉天だのと云う名前は覚えているが、それがどの辺にあって、どっちが近いのだかいっさい知らなかった。その上、これから先どことどこへ泊って、どことどこを通り抜けるのかに至るまで、全く無頓着であったのだから橋本も呆れるはずである。しかし、おい鉄嶺へは降りるのかと聞いて、いや降りないと答えられれば、はあ、そうかと云ったなりで済ましていた。別に降りて見たい気にもならなかったからである。したがって橋本は実に順良な道伴を得た訳で、同時に余は結構な御供を雇った事になる。
いよいよプログラムがきまったので、是公に出立の事を持ち出すと、奉天へ行って、それから北京へ出て、上海へ来て、上海から満鉄の船で大連まで帰って、それからまた奉天へ行って、今度は安奉線を通って、朝鮮へ抜けたら好いだろうとすこぶる大袈裟な助言を与える。その上、銭が無ければやるよと註釈を付けた。銭が無くなれば無論貰う気でいた。しかし余っても困るから、むやみには手を出さなかった。
余は銭問題を離れて、単に時間の点から、この大袈裟な旅行の計画を、実行しなかった。そのくせ奉天を去っていよいよ朝鮮に移るとき、紙入の内容の充実していないのに気がついて、少々是公に無心をした。もとより返す気があっての無心でないから、今もって使い放しである。
立つ時には、是公はもとより、新たに近づきになった満鉄の社員諸氏に至るまで、ことごとく停車場まで送られた。貴様が生れてから、まだ乗った事のない汽車に乗せてやると云って、是公は橋本と余を小さい部屋へ案内してくれた。汽車が動き出してから、橋本が時間表を眺めながら、おいこの部屋は上等切符を買った上に、ほかに二十五弗払わなければ這入れない所だよと云った。なるほど表にちゃんとそう書いてある。専有の便所、洗面所、化粧室が附属した立派な室であった。余は痛い腹を忘れてその中に横になった。
三十二
トロと云うものに始めて乗って見た。停車場へ降りた時は、柵の外に五六軒長屋のような低い家が見えるばかりなので、何だか汽車から置き去りにされたような気持であったが、これからトロで十五分かかるんだと聞いて、やっと納得した。
トロは昔軍人の拵えたのを、手入もせずに、そのまま利用しているらしい。軌道の間から草が生えている。軌道の外にも草が生えている。先まで見渡すと、鉄色の筋が二本栄えない草の中を真直に貫ぬいている。しかし細い筋が草に隠れて、行方知れずになるまで眺め尽しても、建物らしいものは一軒も見当らなかった。そうして軌道の両側はことごとく高粱であった。その大きな穂先は、眼の届く限り代赭で染めたように日の光を吸っている。橋本と余と荷物とは、この広漠な畠の中を、トロに揺られながら、眩しそうに動いた。トロは頑丈な細長い涼み台に、鉄の車を着けたものと思えば差支えない。軌道の上を転がす所を、よそから見ていると、はなはだ滑らかで軽快に走るが、実地に乗れば、胃に響けるほど揺れる。押すものは無論支那人である。勢いよく二三十間突いておいて、ひょいと腰をかける。汗臭い浅黄色の股引が背広の裾に触るので気味が悪い事がある。すると、速力の鈍った頃を見計らって、また素足のまま飛び下りて、肩と手をいっしょにして、うんうん押す。押さなければいいと思うぐらい、車が早く廻るので、乗ってる人の臓器は少からず振盪する。余はこのトロに運搬されたため、悪い胃を著るしく悪くした。車の上では始終ゼムを含んで早く目的地へ着けば好いと思っていた。勢いよく駆けられれば、駆けられるほどなお辛かった。それでも台からぶら下げた足を折らなかったのが、まだ仕合せである。実際酒に酔って腰をかけたまま脛を折っぺしょった人があるそうだ。見ると橋本の帽子の鍔が風に吹かれてひらひらと靡いている。余は鳥打の前廂を深く下げてなるべく日に背を向けるようにしていた。
苦しい十五分か廿分の後車はようやく留まった。軌道の左側だけが、畠を切り開いて平らにしてある。眼を蔽う高粱の色を、百坪余り刈り取って、黒い砂地にした迹へ、左右に長い平屋を建てた。壁の色もまだ新しかった。玄関を這入って座敷へ通ると、窓の前は二間ほどしかない。その縁に朝顔のような草が繁っているが、絡まる竹も杖もないので、蔓と云わず、葉と云わず、花を包んで雑然と簇がるばかりである。朝顔の下はすぐ崖で、崖の向うは広い河原になる。水は崖の真下を少し流れるだけであった。
橋本と余は、申し合せたように立って窓から外を眺めていた。首を出すと、崖下にも家が一軒ある。しかし屋根瓦しか見えない。支那流の古い建物で、廻廊のような段々を藉りて、余のいる部分に続いているらしく思われる。あれは何だいと聞いて見た。料理場と子供を置く所になっていますと答えた。子供とは酌婦芸妓の類を指すものだろうと推察した。眼の下に橋が渡してある。厚くはあるが幅一尺足らずの板を八つ橋に継いだものに過ぎない。水はただ砂を洗うほどに流れている。足の甲を濡らしさえすれば徒歩渉るのは容易である。橋本の後に食付いて手拭をぶら下げて、この橋を渡った時、板の真中で立ち留まって、下を覗き込んで見たら、砂が動くばかりで水の色はまるでなかった。十里ほど上に遡ぼると鮎が漁れるそうだ。余は汽車の中で鮎のフライを食って満洲には珍らしい肴だと思った。おそらくこの上流からクーリーが売りに来たものだろう。
三十三
足駄を踏むとざぐりと這入る。踵を上げるとばらばらと散る。渚よりも恐ろしい砂地である。冷たくさえなければ、跣足になって歩いた方が心持が好い。俎を引摺っていては一足ごとに後しざるようで歯痒くなる。それを一町ほど行って板囲の小屋の中を覗き込むと、温泉があった。大きい四角な桶を縁まで地の中に埋け込んだと同じような槽である。温泉はいっぱい溜っていたが、澄み切って底まで見える。いつの間に附着したものやら底も縁も青い苔で色取られている。橋本と余は容赦なく湯の穴へ飛び込んだ。そうして遠くから見ると、砂の中へ生埋にされた人間のように、頭だけ地平線の上に出していた。支那人の中には、実際生埋になって湯治をやるものがある。この河原の幅は、向うに見える高粱の畠まで行きつめた事がないからどのくらいか分らないが、とにかく眼が平になるほど広いものである。その平らなどこを、どう掘っても、湯が湧いて来るのだから、裸体になって、手で砂を掻き分けて、凹んだ処へ横になれば、一文も使わないで事は済む。その上寝ながら腹の上へ砂を掛ければ、温泉の掻巻ができる訳である。ただ砂の中を潜って出る湯がいかにも熱い。じくじく湧いたものを、大きな湯槽に溜めて見ると、色だけは非常に奇麗だが、それに騙されてうっかり飛び込もうものなら苛い目に逢う。橋本と余は、勢いよく浴衣を抛げて、競争的に毛脛を突込んで、急に顔を見合せながら縮んだ事がある。大の男がわざわざ裸になって、その裸の始末をつけかねるのはきまりが好いものじゃないから、両人は顔を見合せて苦笑しながら小屋を飛び出して、四半丁ほど先の共同風呂まで行って、平気な風にどぼりと浸った。
風呂から出て砂の中に立ちながら、河の上流を見渡すと、河がぐるりと緩く折れ曲っている。その向う側に五六本の大きな柳が見える。奥には村があるらしい。牛と馬が五六頭水を渉って来た。距離が遠いので小さく動いているが、色だけは判然分る。皆茶褐色をして柳の下に近づいて行く。牛追は牛よりもなお小さかった。すべてが世間で云う南画と称するものに髣髴として面白かった。中にも高い柳が細い葉をことごとく枝に収めて、静まり返っているところは、全く支那めいていた。遠くから望んでも日本の柳とは趣が違うように思われた。水は柳の茂るところで見えなくなっているが、なおその先を辿って行くと、たちまち眼にぶつかるような大きな山脈がある。襞が鋭く刻まれているせいか、ある部分は雪が積ったほど白く映る。そのくらいに周囲はどす黒かった。漢語には崔嵬とかとか云って、こう云う山を形容する言葉がたくさんあるが、日本には一つも見当らない。あれは何と云う山だろうと傍にいる大重君に尋ねたら、大重君も知らなかった。大重君は支那語の通訳として橋本に随いて蒙古まで行った男である。余の質問を受けるや否やどこかへ消えて無くなったが、やがて帰って来て、高麗城子と云うんだそうですと教えてくれた。土人を捕まえて聞いて来たのだそうである。固より支那音で教わったのだが、それは忘れてしまった。
濡れ手拭を下げて、砂の中をぼくぼく橋の傍まで帰って来ると、崖の上から若い女が跣足で降りて来た。橋は一尺に足らぬ幅だからどっちかで待ち合せなければなるまいと思ったが、向うはまだ土堤を下りきらないので、こっちは躊躇せず橋板に足をかけた。下駄を二三度鳴らして、一間ほど来たとき、女も余と同じ平面に立った。そこで留まると思いのほか、ひらひらと板の上を舞うように進んで余に近づいた。余と女とは板と板の継目の所で行き合った。危ないよと注意すると、女は笑いながら軽い御辞儀をして、余の肩を擦って行き過ぎた。
三十四
明日は梨畑を見に行くんだと橋本から申し渡されたので、宜しいと受合った上、床についたようなものの実を云うと例のトロで揺られるのが内心苦になった。そのせいでもなかろうが、容易に寝つかれない。橋本はもう鼾をかいている。しかも豪宕な鼾である。緞子の夜具の中から出るべき声じゃない。まして裾の方には金屏風が立て回してある。
明日になると、空が曇って小雨が落ちている。窓から首を出して、一面に濡れた河原の色を眺めながら、おれは梨畑をやめて休養しようかしらと云い出した。橋本は合羽ももっているし、オヴァーシューも用意して来ているのでなかなか景気が好い。ことに農科の教授だけあって、梨を見たがったり、栗を見たがったり、豚や牛を見たがる事人一倍である。早速用意をして大重君を伴れて出て行った。余はただつくねんとして、窓の中に映る山と水と河原と高粱とを眼の底に陳列さしていた。薄く流れる河の厚さは昨日と同じようにほとんど二三寸しかないが、その真中に鉄の樋竹が、砂に埋れながら首を出しているのに気がついたので、あれは何だいと下女に聞いて見た。あれはボアリングをやった迹ですと下女が答えた。満洲の下女だけあって、述語を知っている。ついこの間雨が降って、上の方から砂を押し流して来るまでは、河の流れがまるで違った見当を通っていたので、あすこへ湯場を新築するつもりであったのだと云う。河の流れが一雨ごとに変るようでは、滅多なところへ風呂を建てる訳にも行くまい。現に窓の前の崖なども水にだいぶん喰われている。
そのうち雨が歇んだ。退屈だから横になった。約十分も立ったと思う頃、下女がまたやって来て、ただいま駅から電話がかかりまして、これから梨畑へおいでになるなら、駅からトロを仕立てますがと云う問い合せである。雨が歇んだので、座敷に寝ている口実はもう消滅してしまったが、この上トロを仕立てられては敵わないと思って、わざわざ晴かかった空を見上げて、八の字を寄せた。
今から行って間に合うのかなと尋ねると、器械トロだから汽車と同じぐらい早いんだと云う話である。胃は固より切ないほど不安であるが、汽車と同じ速度の器械トロなるものにも、心得のためちょっと乗って見たいような気がしたので、つい手軽に仕度を始めた。すると隣の部屋に泊っていた御客さんが三四人、十一時の汽車で大連へ行くとか云って、同じように仕度を始めた。それを送る下女も仕度を始めた。したがって同勢はだいぶんになった。その中に昨日橋の途中で行き合った女がいた。それが余と尻合せに同じ車に乗る事になった。互に尻を向けているので、別段口も利かなかった。顔もよくは見なかった。が、その言葉だけはたしかに聞いた。しかも支那語である。固より意味は通じない。しかし盛んにクーリーをきめつけていた。その達弁なのはまた驚くばかりである。昨日微笑しながら御辞儀をして、余の傍を摺り抜けた女とはどうしても思えなかった。この女は我々の立つ前の晩に、始めて御給仕に出て来た。洋灯の影で御白粉をつけている事は分ったが、依然として口は利かなかった。
苦しい十五分の後車はまた停車場に着いた。御客はすぐ汽車に乗って大連の方へ去った。下女はみんな温泉宿へ帰った。余は独り構内を徘徊した。いわゆる器械トロなるものは姿さえ見せない。そこへ駅員が来て、今松山を出たそうですからと断った。その松山は遥向うにある。余は軌道の上に立って、一直線の平たい路を視力のつづく限り眺めた。しかしトロの来る気色はまるでなかった。
三十五
宿屋の者ともつかず、駅の者ともつかない洋服を着た男がついて来た。この男の案内で村へ這入ると、路は全く砂である。深さは五六寸もあろうと思われた。土で造った門の外に女が立っていたが、我々の影を見るや否や逃げ込んだ。手に持った長い煙管が眼についた。犬が門の奥でしきりに吠える。そのうちに村は尽きて松山にかかった。と云うと大層だが、実は飛鳥山の大きいのに、桜を抜いて松を植替えたようなものだから、心持の好い平庭を歩るくと同じである。松も三四十年の若い木ばかり芝の上に並んでいる。春先弁当でも持って遊に来るには至極結構だが、ところが満洲だけになお珍らしい。余は痛い腹を抑えて、とうとう天辺まで登った。するとそこに小さな廟があった。正面に向って、聯などを読んでいると、すぐ傍で梭の音がする。廟守でもおりそうなので、白壁を切り抜いた入口を潜って中へ這入った。暗い土間を通り越して、奥を覗いて見たら、窓の傍に機を据えて、白い疎髯を生やした爺さんが、せっせと梭を抛げていた。織っていたものは粗い白布である。案内の男が二言三言支那語で何か云うと、老人は手を休めて、暢気な大きい声で返事をする。七十だそうですと案内が通訳してくれた。たった一人でここにいて、飯はどうするのだろうと、ついでに通訳を煩わして見た。下の家から運んでくるものを食っているそうであった。その下の家と云うのがすなわち梨畠の主人のところだと案内は説明した。
やがて、山を降りて梨畠へ行こうとしたが、正門から這入るのが面倒なので、どうです土堤を乗り越そうじゃありませんかと案内が云い出した。余はすぐ賛成して蒲鉾形の土塀を向側へ馳せ下りた。胃は実に痛かった。樹の下を潜って二十間も来ると、向うの方に橋本始め連中が床几に腰をかけて梨を食っている。腕に金筋を入れた駅長までいっしょである。余も同勢に交って一つ二つ食った。これは胃の中に何か入れると、一時痛みが止むからである。そうしてまた畠の中をぐるぐる歩き出した。ここの梨はまるで林檎のように赤い色をしている。大きさは日本の梨の半分もない。しかし小さいだけあって、鈴なりに枝を撓わして、累々とぶら下っているところがいかにもみごとに見える。主人がその中で一番旨い奴を――何と云ったか名は思い出せないが、下男に云いつけて、笊に一杯取り出さして、みんなに御馳走した。主人は背の高い大きな男で、支那人らしく落ちつきはらって立っている。案内の話では二千万とか二億万とかの財産家だそうだが、それは嘘だろう。脂の強い亜米利加煙草を吹かしていた。
梨にも喰い飽きた頃、橋本が通訳の大重君に、いろいろ御世話になってありがたいから、御礼のため梨を三十銭ほど買って帰りたいと云うような事を話してくれと頼んでいる。それを大重君がすこぶる厳粛な顔で支那語に訳していると、主人は中途で笑い出した。三十銭ぐらいなら上げるから持って御帰りなさいと云うんだそうである。橋本はじゃ貰って行こうとも云わず、また三十銭を三十円に改めようともしなかった。宿へ帰ったら、下女がある御客さんといっしょに梨畠へ行って、梨を七円ほど御土産に買って帰った話をして聞かせた。その時橋本は、うんそうか、おれはまた三十銭がた買って来ようと思ったら、三十銭ぐらいなら進上すると云ったよと澄ましていた。
三十六
壁と云うと鏝の力で塗り固めたような心持がするが、この壁は普通の泥が天日で干上ったものである。ただ大地と直角にでき上っている所だけが泥でなくって壁に似ている。その上部には西洋の御城のように、形儀よく四角な孔をいくつも開けて、一ぱし櫓の体裁を示している。しかし一番人の注意を惹くのは、この孔から見える赤い旗である。旗の数は孔の数だけあって、孔の数は一つや二つではないから、ちょっと賑かに思われる。始めてこの景色が眼に触れた時には、村のお祭りで、若いものが、面白半分に作り物でも拵えたのじゃなかろうかと推測した。ところがこの櫓は馬賊の来襲に備えるために、梨畑の主人が、わざわざ家の四隅に打ち建てたのだと聞いて、半分は驚いたが、半分はおかしかった。ただなぜあんな赤い旗を孔の間から一つずつ出しているかが、さっぱり分らなかった。裏側へ廻って、段々を上って見て、始めてこの赤旗の一つが一挺の鉄砲を代表している事を知った。鉄砲は博物館にでもありそうな古風な大きいもので、どれもこれも錆を吹いていた。弾丸を込めても恐らく筒から先へ出る気遣はあるまいと思われるほど、安全に立てかけられていた。もっとも赤い旗だけは丁寧に括りつけてある。そうしてちょうど壁孔から外に見えるくらいな所にぶら下げてある。番兵は汚ない顔を揃えて、後の小屋の中にごろごろしていた。馬賊の来襲に備えるために雇われたればこそ番兵だが、その実は、日当三四十銭の苦力である。櫓を下りて門を出る前に、家の内部を観る訳に行くまいかと通訳をもって頼んだら、主人はかぶりを振って聞かなかった。女のいる所は見せる訳に行かないと云うんだそうである。その代り客間へ案内してやろうと番頭を一人つけてくれた。その客間というのは往来を隔てて向う側にある一軒建の家であった。外には大きな柳が、静な葉を細長く空に曳いていた。長屋門を這入ると鼠色の騾馬が木の株に繋いである。余はこの騾馬を見るや否や、三国志を思い出した。何だか玄徳の乗った馬に似ている。全体騾馬というのを満洲へ来て始めて見たが、腹が太くって、背が低くって、総体が丸く逞しくって、万事邪気のないような好い動物である。橋本に騾馬の講義を聞くと、まず騾との区別から始めるので、真率な頭脳をただいたずらに混乱させるばかりだから、黙って鞍のない裸姿を眺めていた。騾馬は首を伏せてしきりに短い草を食っていた。
門の突き当りがいわゆる客間であるが、観音扉を左右に開けて這入るところなぞは御寺に似ている。中は汚ないものであった。客でも招待するときには、臨時に掃除をするのかと聞いたら、そうだと答えていた。主人に挨拶をしてまた松山を抜けたら、松の間に牛が放してあった。駅長が行く行く初茸を取った。どこから目付け出すか不思議なくらい目付け出した。橋本も余も面白半分少し探して見たが、全く駄目であった。山を下るとき、おい満洲を汽車で通ると、はなはだ不毛の地のようであるが、こうして高い所に登って見ると、沃野千里という感があるねと、橋本に話しかけたが、橋本にはそんな感がなかったと見えて、別に要領の好い返事をしなかった。余の沃野千里は全く色から割り出した感じであった。松山の上から見渡すと、高い日に映る、茶色や黄色が、縞になったり、段になったり、模様になったり、霞で薄くされて、雲に接くまで、一面に平野を蔽うている。満洲は大きな所であった。
宿へ帰ったら、御神さんが駅長の贈って来た初茸を汁にして、晩に御膳の上へ乗せてくれた。それを食って、梨畑や、馬賊や、土の櫓や、赤い旗の話しなぞをして寝た。
三十七
立つ用意をしているところへ御神さんが帳面を持って出て来た。これへ何か書いて行って下さいと云う。御神さんは余を二つ接ぎ合せたように肥えている。それで病気だそうだ。始めはどこのものだか分らなかったが、御神さんと知って、調子の下女と違っているのに驚いた。御神さんはその体格の示すごとき好い女であった。どうしてあんなすれっからしの下女を使いこなすかが疑問になったくらいである。帳面を前へ置いて、どうぞと手を膝の上に重ねた。その膝の厚さは八寸ぐらいある。
帳面を開けると、第一頁に林学博士のH君が「本邦の山水に似たり」と揮ってしまったあとである。その次にはどこどこ聯隊長何のなにがしと書いてある。宿帳だか、書画帖だか判然しないものの、第三頁に記念を遺す事に差し逼って来た。橋本は帳面を見るや否や、向を向いて澄ましている。余は仕方がないから、書くには書くが、少し待ってくれと頼んだ。すると御神さんが、そうおっしゃらずに、どうぞどうぞと二遍も繰返して御辞儀をする。無論嘘を吐く気は始めからないのだが、こう拝むようにされて書いてやるほどの名筆でもあるまいと思うと、困却と慚愧でほとほと持て余してしまう。時に橋本が例のごとく口を利いてくれた。この人は嘘を云う男じゃないから、大丈夫ですよ今に何か書きますよと笑っている。余はまた世間話をしながら、その間に発句でも考え出さなければならなくなった。
同情してくれる人はだいぶあると思うから白状するが、旅をして悪筆を懇望されるほど厄介な事はない。それも句作に熱心で壁柱へでも書き散らしかねぬ時代ならとにかく、書く材料の払底になった今頃、何か記念のためにと、短冊でも出された日には、節季に無心を申し込まれるよりも苛い。大連を立つとき、手荷物を悉皆革鞄の中へ詰め込んでしまって、さあ大丈夫だと立ち上った時、ふと気がついて見ると、化粧台の鏡の下に、細長い紙包があった。不思議に思って、折目を返して中を改めると、短冊である。いつ誰が持って来て載せたものか分らないが、その意味はたいてい推察ができる。俳句を書かせようと思って来たところが、あいにく留守なので、また出直して頼む気になって、わざと短冊だけ置いて行ったに違ない。余はこの時化粧台から紙包を取りおろして、革鞄の中へ押し込んで、ホテルを出た。この短冊はいまだに誰のものか分らない。数は五六枚で雲形の洒落たものであったが、朝鮮へ来て、句を懇望されるたびに、それへ書いてやってしまったから今では一枚も残っていない。長春の宿屋でも御神さんに捕まった。この御神さんは浜のものだとか云って、意気な言葉使いをしていたが、新しい折手本を二冊出して、これへどうぞ同なじものを二つ書いて下さいと云った。同じでなければいけないのかと尋ねると、ええと答える。その理由は、夫婦別れをしたときに、夫婦が一冊ずつ持っている事ができるためだそうだ。
こう書いて行くと、朝鮮の宴会で絖を持出された事まで云わなくてはならないから、好い加減に切り上げて、話を元へ戻して、肥った御神さんの始末をつけるが、余は切ない思いをして、汽車の時間に間に合うように一句浮かんだ。浮かぶや否や、帳面の第三頁へ熊岳城にてと前書をして、黍遠し河原の風呂へ渡る人と認めて、ほっと一息吐いた。そうして御神さんの御礼も何も受ける暇のないほど急いでトロに乗った。電話の柱に柳の幹を使ったのが、いつの間にか根を張って、針金の傍から青い葉を出しているのに気がついて、あれでも句にすればよかったと思った。
三十八
窓から覗いて見ると、いつの間にか高粱が無くなっている。先刻までは遠くの方に黄色い屋根が処々眺められたが、それもついに消えてしまった。この黄色い屋根は奇麗であった。あれは玉蜀黍が干してあるんだよと、橋本が説明してくれたので、ようやくそうかと想像し得たくらい、玉蜀黍を離れて余の頭に映った。朝鮮では同じく屋根の上に唐辛子を干していた。松の間から見える孤つ家が、秋の空の下で、燃え立つように赤かった。しかしそれが唐辛子であると云う事だけは一目ですぐ分った。満洲の屋根は距離が遠いせいか、ただ茫漠たる単調を破るための色彩としか思われなかった。ところがその屋根も高粱もことごとく影を隠してしまって、あるものはただの地面だけになった。その地面には赤黒い茨のような草が限りなく生えている。始めは蓼の種類かと思って、橋本に聞いて見たら橋本はすぐ冠を横に振った。蓼じゃない海草だよと云う。なるほど平原の尽きる辺りを、眼を細くして、見究めると、暗くなった奥の方に、一筋鈍く光るものがあるように思われる。海辺かなと橋本に聞いて見た。その時日はもう暮れかかっていた。際限もなく蔓っている赤い草のあなたは薄い靄に包まれて、幾らか蒼くなりかけた頃である。あからさまに目に映るすぐ傍をよくよく見つめると、乾いた土ではない。踏めば靴の底が濡れそうに水気を含んでいる。橋本は鹹気があるから穀物の種がおろせないのだと云った。豚も出ないようだねと余は橋本に聞き返した。汽車に乗って始めて満洲の豚を見たときは、実際一種の怪物に出逢ったような心持がした。あの黒い妙な動物は何だと真面目に質問したくらい、異な感じに襲われた。それ以来満洲の豚と怪物とは離せないようになった。この薄暗い、苔のように短い草ばかりの、不毛の沢地のどこかに、あの怪物はきっと点綴されるに違ないと云う気がなかなか抜けなかった。けれども一匹の怪物に出逢う前に、日は全く暮れてしまった。目に余る赤黒い草の影はしだいに一色の夜に変化した。ただ北の方の空に、夕日の名残のような明るい所が残ったのである。そうしてその明るい雲の下が目立って黒く見える。あたかも高い城壁の影が空を遮って長く続いているようである。余は高いこの影を眺めて、いつの間にか万里の長城に似た古迹の傍でも通るんだろうぐらいの空想を逞ゅうしていた。すると誰だかこの城壁の上を駆けて行くものがある。はてなと思ってしばらくするうちに、また誰か駆けて行く。不思議だと覚って瞬もせず城壁の上を見つめていると、また誰か駆けて行く。どう考えても人が通るに違いない。無論夜の事だから、どんな顔のどんな身装の人かは判然しないが、比較的明かな空を背景にして、黒い影法師が規則正しく壁の上を馳け抜ける事は確である。余は橋本の意見を問う暇もないほど面白くなって、一生懸命に、眼前を往来するこの黒い人間を眺めていた。同時に汽車は、刻々と城壁に向って近寄って来た。それが一定の距離まで来ると、俄然として失笑した。今までたしかに人間だと思い込んでいたものは、急に電信柱の頭に変化した。城壁らしく横長に続いていたのは大きな雲であった。汽車は容赦なく電信柱を追い越した。高い所で動くものがようやく眼底を払った。
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