二十
波止場から上って真直に行くと、大連の町へ出る。それを真直に行かずに、すぐ左へ折れて長い上屋の影を向うへ、三四町通り越した所に相生さんの家がある。西洋館の二階を客間にして古い仏像やら鏡やら銅器陶器の類を奇麗に飾っているから、客間を見ただけではただ一通りの風流人としか見えない。相生さんは満鉄の社員として埠頭事務所の取締である。
もっと卑近な言葉で云うと、荷物の揚卸に使われる仲仕の親方をやっている。かつて門司の労働者が三井に対してストライキをやったときに、相生さんが進んでその衝に当ったため、手際よく解決が着いたとか云うので、満鉄から仲仕の親分として招聘されたようなものである。実際相生さんは親分気質にでき上っている。満鉄から任用の話があったとき、子供が病気で危篤であったのに、相生さんはさっさと大連へ来てしまった。来て一週間すると子供が死んだと云う便りがあった。相生さんは内地を去る時、すでにこの悲報を手にする覚悟をしていたのだそうだ。
相生さんは大連に来るや否や、仲仕その他すべて埠頭に関する事務を取り扱う連中を集めてここに一部落を築き上げた。相生さんの家を通り越すと、左右に並んでいる建物は皆自分の経営になったものばかりである。その中には図書館がある。倶楽部がある。運動場がある。演武場がある。部下の住宅は無論ある。
倶楽部では玉を突いていた。図書館には沙翁全集があった。ポルグレーヴの経済字彙があった。余の著書も二三冊あった。
ここは柔道の道場に使っていますが、時によると講談をやったり演説をやったりしますと云う相生さん自身の説明について、中を覗き込むと、なるほど道場にはちょうど好い建物がある。その奥に高座ができていて、いつでも寄席もしくは講演を開くような設備もある。講演てどんな講演ですかと聞き返したら、相生さんは、まあ内地から来られた人だとか何とかいうのを頼んでやりますと答えられた。ことによると、遠からぬうちに捕まって、ここへ引っ張り出されはしまいかと、その時すぐ気がついたが、真逆私はどうぞ廃しにして下さいと、頼まれもしないうちに断るのも失礼だと思って、はあなるほどと首肯いて通り過ぎた。
最後にもっとも長い二階建の一棟の前に出た。これが共同生活をやらしている所でと、相生さんが先へ這入る。中は勧工場のように真中を往来にして、同く勧工場の見世に当る所を長屋の上り口にしてある。だから長屋と長屋とは壁一重で仕切られながら、約一丁も並んでいるばかりか、三尺の往来を越すとすぐ向うの家になる。上り口を枕にして寝れば、吸付莨のやり取りぐらいはできるほど近い。相生さんが先へ立って、この狭い往来を通ると、裁縫をしたり、子供を寝かしたりしている神さん達が、みんな叮嚀に挨拶をする。しかし中には気がつかずに何か話しているのも見える。
この部落に住んでいる人間が総がかりになった上に、その何十倍か何百倍のクーリーを使っても、豆の出盛りには持て余すほど荷が後から後からと出てくる。相生さんの話によると、多い時は着荷の量が一日ならし五千噸あるそうである。これがため去年雨期を持ち越した噸数は四万噸で、今年はそれが十五万噸に上ったとか聞いた。
南北千五百尺東西四千二百尺の埠頭の側にこのくらい豆を積んだらずいぶん盛なものだろう。
二十一
旅順から電話がかかってこっちへはいつ来るかという問合わせである。おい誰がかけてくれるんだろうなと橋本に聞いて見ると、橋本はそうだなあと云うだけで要領を得ない。おい名前は分らないのかとやむをえずボイに尋ね返したら、ボイは依然として、ただ民政署だと云ってかけて参りましたと同じ事を繰返している。おおかた友熊だろうぐらいに橋本と二人で見当をつけて返事をさせた。これが白仁長官の好意から出た聞き合せであった事は旅順に着いて後始めて知った。
旅順には佐藤友熊と云う旧友があって、警視総長と云う厳しい役を勤めている。これは友熊の名前が広告する通りの薩州人で、顔も気質も看板のごとく精悍にでき上がっている。始めて彼を知ったのは駿河台の成立学舎という汚ない学校で、その学校へは佐藤も余も予備門に這入る準備のために通学したのであるからよほど古い事になる。佐藤はその頃筒袖に、脛の出る袴を穿いてやって来た。余のごとく東京に生れたものの眼には、この姿がすこぶる異様に感ぜられた。ちょうど白虎隊の一人が、腹を切り損なって、入学試験を受けに東京に出たとしか思われなかった。教場へは無論下駄を穿いたまま上った。もっともこれは佐藤ばかりじゃない。我等もことごとく下駄のままあがった。上草履や素足で歩くような学校じゃないのだから仕方がない。床に穴が開いていて、気をつけないと、縁の下へ落ちる拍子に、向脛を摺剥くだけが、普通の往来より悪いぐらいのものである。
古い屋敷をそのまま学校に用いているので玄関からがすでに教場であった。ある雨の降る日余はこの玄関に上って時間の来るのを待っていると、黒い桐油を着て饅頭笠を被った郵便脚夫が門から這入って来た。不思議な事にこの郵便屋が鉄瓶を提げている。しかも全くの素足である。足袋は無論の事、草鞋さえ穿いていない。そうして、普通なら玄関の前へ来て、郵便と大きな声を出すべきところを、無言のまますたすた敷台から教場の中へ這入って来た。この郵便屋がすなわち佐藤であったので大いに感心した。なぜ鉄瓶を提げていたものかその理由は今日までついに聞く機会がない。
その後佐藤は成立学舎の寄宿へ這入った。そこで賄征伐をやった時、どうした機勢か額に創をして、しばらくの間白布で頭を巻いていたが、それが、後鉢巻のようにいかにも勇ましく見えた。賄に擲られたなと調戯って苛い目に逢ったので今にその颯爽たる姿を覚えている。
佐藤はその頃頭に毛の乏い男であった。無論老朽した禿ではないのだが、まあ土質の悪い草原のように、一面に青々とは茂らなかったのである。漢語でいうと短髪種々とでも形容したら好いのかも知れない。風が吹けば毛の方で一本一本に靡く傾があった。この頭は予備門へ這入っても黒くならなかった。それで皆して佐藤の事を寒雀寒雀と囃していた。当時余は寒雀とはどんなものか知らなかった。けれども佐藤の頭のようなものが寒雀なんだろうと思って、いっしょになってやっぱり寒雀寒雀と調戯った。この渾名を発明した男はその後技師になって今は北海道にいる。
話が前後するようだが、旅順に来て十何年ぶりかに佐藤に逢って、例の頭を注意して見ると、不思議な事に、その頭には万遍なく綿密に毛が生えていた。もっとも黒いのばかりではなかった。近頃は正当防禦のために、こう短く刈っているんだと云って、三分刈の濃い頭を笑いながら掻いて見せた。
旅順から二度目の電話がかかった翌日の朝、橋本と余は、この旧友に逢うため、また日露の戦跡を観るため、大連から汽車に乗った。乗る時、是公が友熊によろしくと云った。是公は何か用事があったと見えて、国沢君と二人で停車場の構内を横切って妙な方角へ向いて歩いて行った。やがて二人の影は物に遮ぎられて、汽車の窓から見えなくなった。そうして満洲に有名な高粱の色が始めて眼底に映じ出した。汽車は広い野の中に出たのである。
二十二
おい旅順に着いたら久しぶりに日本流の宿屋へ泊ろうかと橋本に相談を掛けるとそうだな浴衣を着てごろごろするのも好いねという同意である。橋本は新しく蒙古から帰ったので、しきりに支那宿に降参した話を始めた。その支那宿には、名は塞北に馳せ、味は江南を圧すなどという広告の文字がべたべた壁に貼りつけてあるそうだ。橋本はこう云う文句をたくさん手帳に控えている。ほかに使い路のない文句だものだから、汽車の中で、それを残らず余に読んで聞かせてしまった。二人は笑いながら日本流の奇麗な宿屋を想像して旅順のプラットフォームに降りた。降りるとそこに馬車がある。我々の名前を聞くものがある。
この馬車が民政署の馬車で、我々を尋ねてくれた人が、渡辺秘書であるという事を発見した時は両人ともだいぶ恐縮した。橋本を振り返ると相変らず鼻の先を反らして、台湾パナマだか何だかペコペコになった帽子を被っている。おい宿屋はどうするんだいと小さな声で聞くと、うんそうさなと云ったが、そのうち二人とも馬車へ乗らなければならない段になった。いったい橋本といっしょにあるくときは、何でも橋本が進んで始末をつけてくれる事に昔からきまっているんだからこの際もどうかするだろうと思って放っておいた。すると予想通、日本流の宿屋へ行くつもりで来たんですがと渡辺さんに相談し始めた。ところが渡辺さんはどうも御泊りになられるような日本の宿屋は一軒もありませんから、やっぱり大和ホテルになさった方が好いでしょうと忠告している。
やがて馬車は新市街の方へ向いて動き出した。二人は十五分の後ホテルの二階に導かれて、行き通いのできる室を二つ並べて取った。そこで革鞄の中から刷毛を出して塵だらけの服を払ったあとで、しばらく休息のため安楽椅子に腰をおろして見ると、急に気がついたように四辺が森閑としている。ホテルの中には一人も客がいないように見える。ホテルの外にもいっさい人が住んでいるようには思われない。開廊へ出て往来を眺めると、往来はだいぶ広い。手摺の真下にある人道の石の中から草が生えて、茎の長さが一尺余りになったのが二三本見える。日中だけれども虫の音が微かに聞える。隣は主のない家と見えて、締め切った門やら戸やらに蔦が一面に絡んでいる。往来を隔てて向うを見ると、ホテルよりは広い赤煉瓦の家が一棟ある。けれども煉瓦が積んであるだけで屋根も葺いてなければ窓硝子もついてない。足場に使った材木さえ処々に残っているくらいの半建である。淋しい事には、工事を中止してから何年になるか知らないが、何年になってもこのままの姿で、とうてい変る事はあるまいと云う感じが起る。そうしてその感じが家にも往来にも、美しい空にも、一面に充ちている。余は開廊の手摺を掌で抑えながら、奥にいる橋本に、淋しいなあと云った。旅順の港は鏡のごとく暗緑に光った。港を囲む山はことごとく坊主であった。
まるで廃墟だと思いながら、また室の中に這入ると、寝床には雪のような敷布がかかっている。床には柔かい絨毯が敷いてある。豊かな安楽椅子が据えてある。器物はことごとく新式である。いっさいが整っている。外と内とは全く反対である。満鉄の経営にかかるこのホテルは、固より算盤を取っての儲け仕事でないと云う事を思い出すまでは、どうしても矛盾の念が頭を離れなかった。
食堂に下りて、窓の外に簇がる草花の香を嗅ぎながら、橋本と二人静かに午餐の卓に着いたときは、機会があったら、ここへ来て一夏気楽に暮したいと思った。
二十三
旅順に着いた時汽車の窓から首を出したら、つい鼻の先の山の上に、円柱のような高い塔が見えた。それがあまり高過ぎるので、肩から先を前の方へ突き出して、窮屈に仰向かなくては頂点まで見上げる訳に行かなかった。
馬車が新市街を通り越してまたこの塔の真下に出た時に、これが白玉山で、あの上の高い塔が表忠塔だと説明してくれた。よく見ると高い灯台のような恰好である。二百何尺とかと云う話であった。この山の麓を通り越して、旧市街を抜けると、また山路にかかる。その登り口を少し右へ這入った所に、戦利品陳列所がある。佐藤は第一番にそれを見せるつもりで両人を引張って来た。
陳列所は固より山の上の一軒家で、その山には樹と名のつくほどの青いものが一本も茂っていないのだから、はなはだ淋しい。当時の戦争に従事したと云う中尉のA君がただ独り番をしている。この尉官は陳列所に幾十種となく並べてある戦利品について、一々叮嚀に説明の労を取ってくれるのみならず、両人を鶏冠山の上まで連れて行って、草も木もない高い所から、遥の麓を指さしながら、自分の従軍当時の実歴譚をことごとく語って聞かせてくれた人である。始め佐藤から砲台案内を依頼したときには、今日はちと差支えがあるから四時頃までならと云う条件であったが、山の出鼻へ立って洋剣を鞭の代りにして、あちらこちらと方角を教える段になると、肝心の要事はまるでそっちのけにして、満洲の赤い日が、向うの山の頂に、大きくなって近づくまで帰ろうとは云わなかった。もし忘れたんじゃ気の毒だと思って、こっちから注意すると、何ようございます、構いませんと断りながら、ますます講釈をしてくれる。あんまり不思議だから、全体何の御用事が御有りなのですかと、詮索がましからぬ程度に聞いて見ると、実は妻が病気でと云う返事である。さすが横着な両人も、この際だけは、それじゃ御迷惑でもせっかくだからついでにもう少し案内を願おうと云う気にもなれなかった。言葉は無論出なかった。長い日が山の途中で暮れて、電気の力を借りなければ人の顔が判然分らない頃になって、我々の馬車がようやく旧市街まで戻った時、中尉はある煉瓦塀の所で、それじゃ私はここで失礼しますと挨拶して、馬車から下りて、門の中へ急いで這入って行かれた。この煉瓦の塀を回らした一構は病院であった。そうして中尉の妻君はこの病院の一室に寝ていたのである。
これほど世話になり、面倒を掛けた人の名前を忘れるのははなはだすまん事だが、どうしても思い出せない。佐藤に、よろしくと伝言を頼んだ時は、ただ、あの中尉君と書いた。ここに某中尉などとよそよそしく取り扱うのはあまり失礼だから、やむをえずA君としておいた。
A君の親切に説明してくれた戦利品の一々を叙述したら、この陳列所だけの記載でも、二十枚や三十枚の紙数では足るまいと思うが、残念な事にたいてい忘れてしまった。しかしたった一つ覚えているものがある。それは女の穿いた靴の片足である。地が繻子で、色は薄鼠であった。その他の手投弾や、鉄条網や、魚形水雷や、偽造の大砲は、ただ単なる言葉になって、今は頭の底に判然残っていないが、この一足の靴だけは色と云い、形と云い、いつなん時でも意志の起り次第鮮に思い浮べる事ができる。
戦争後ある露西亜の士官がこの陳列所一覧のためわざわざ旅順まで来た事がある。その時彼はこの靴を一目観て非常に驚いたそうだ。そうしてA君に、これは自分の妻の穿いていたものであると云って聞かしたそうだ。この小さな白い華奢な靴の所有者は、戦争の際に死んでしまったのか、またはいまだに生存しているものか、その点はつい聞き洩らした。
二十四
今までは白馬を着けた佐藤の馬車に澄まして乗っていたが、山へかかるや否や、例の泥だらけの掘出しものの中へ放り込まれてしまった。とうてい普通の馬車では上がれないと云うんだからやむをえない。それでも露西亜人だけあって、眼にあまる山のことごとくに砲台を構えて、その砲台のことごとくに、馬車を駆って頂辺まで登れるような広い路をつけたのは感心ですとA君が語られる。実際その当時は奇麗な馬車を傷めずに、心持よく砲台のある地点まで乗りつけられたものと見える。ところが戦争がすんで往復の必要がなくなったので、せっかくできた山路に手を入れる機会を失ったため、我々ごとき物数奇は、かように零落した馬車をさえ、時々復活させる始末になるのである。元来旅順ほど小山が四方に割拠して、禿頭を炎天に曝し合っている所はない。樹が乏しい土質へ、遠慮のない強雨がどっと突き通ると、傾斜の多い山路の側面が、すぐ往来へ崩れ出す。その崩れるものがけっして尋常の土じゃない。堅い石である。しかも頑固に角張っている。ある所などは、五寸から一尺ほどもあろうと云う火打石のために、累々と往来を塞がれている。零落した馬車は容赦なく鳴動してその上を通るのだから、凸凹の多い川床を渡るよりも危険である。二百三高地へ行く途中などでは、とうとうこの火打石に降参して、馬車から下りてしまった。そうして痛い腹を抱えながら、膏汗になって歩いたくらいである。鶏冠山を下りるとき、馬の足掻が何だか変になったので、気をつけて見ると、左の前足の爪の中に大きな石がいっぱいに詰っていた。よほど厚い石と見えて爪から余った先が一寸ほどもある。したがって馬は一寸がた跛を引いて車体を前へ運んで行く訳になる。席から首を延ばして、この様子を見た時は、安んじて車に乗っているのが気の毒なくらい、馬に対して痛わしい心持がした。御者に注意してやると、御者は支那語で何とか云いながら、鞭を棄てて下へ下りたが、非常に固く詰っていたと見えて、叩いても引っ張っても石が取れないので、またのそのそ御者台へ上がった。そうして、後にいる余の方をふりむいて、にやにや笑いながら、また鞭を鳴らし出した。馬も存外平気なもので、そのままとうとう大和ホテルまで帰って来た。
橋本と余はこう云う馬車の中で、こう云う路の上に揺振られべく旧市街から出立した。あれがステッセル将軍の家でと云うのを遠くから見ると、なかなか立派にできている。戦争の烈しくならない時は、将軍がみごとな馬車を駆ってそこいらを乗り廻しているのが遥の先から見えたそうである。A君の指して教えられた中で、ただ一つ質素な板囲の小さい家があった。それがまるで日本の内地で見る普通の木造なのだから珍らしかった。何とか云う有名な将軍の住宅だと説明されたが、不幸にしてその有名な将軍の名を忘れてしまった。何でも非常に人望のある人で、戦争のときも一番先に打死をしたのだそうである。ああ云う質素の家に住んでおられたのも、一つは人望のあった原因になっているのでありましょうとA君は丁寧に敬慕の意を表される。この将軍は戦争だけには熱心で、ほかの事にはよほど無頓着であった人らしい。この辺にある露国の将軍などの住宅は皆それ相応に立派なものばかりである。新市街の白仁長官の家を訪ねた時、結構な御住居だが、もとは誰のいた所ですかと聞いたら、何でもある大佐の家だそうですと答えられた。こう云う家に住んで、こういう景色を眼の下に見れば、内地を離れる賠償には充分なりますねと云ったら、白仁君も笑いながら、日本じゃとても這入れませんと云われたくらいである。
そのうち馬車は無鉄砲に山路を上って、旅順の市街を遥の下にうちやるようになった。A君は坂の途中で車を留めて、私は近路を歩いて、御先へ行って御待ち申しますと云いながら、左手の急な岨路をずんずん登って行った。我々の車はまたのそのそ動き出した。
二十五
下を見下すと、山の側面はそれほど急でないが、樹と名のつくような青いものはまるで眸を遮らない。一眼に麓まで透かされるのみならず、麓からさき一里余の畠が真直に眉の下に集まって来る。この辺の空気は内地よりも遥に澄んでいるから、遠くのものが、つい鼻の先にあるように鮮である。そのうちで高粱の色が一番多く眼を染めた。
あの先に、小指の頭のような小さい白いものが見えるでしょう、あすこからこっちの方へ向いて対溝を掘出したのですとA君が遠くの方を指さしながら云った。この辺に穴を掘るのは石を割ると一般なのだから一町掘るのだって容易な事ではない。現に外濠から窖道へ通ずる路をつけるときなどは、朝から晩まで一日働いて四十五サンチ掘ったのが一番の手柄であったそうだ。
余は余の立っている高い山の鼻と、遠くの先にある白いものとを見較べて、その中間に横わる距離を胸算用で割り出して見て、軍人の根気の好いのにことごとく敬服した。全体どこまで掘って来たのですかと聞き返すと、ついそこですと洋剣を向けて教えてくれた。何でも九月二日から十月二十日とかまで掘っていたと云うのだから恐るべき忍耐である。その時敵も砲台の方から反対窖道と云うのを掘って来た。日本の兵卒が例のごとく工事をしているとどこかでかんかん石を割る音が聞えたので、敵も暗い中を一寸二寸と近寄って来た事が知れたのだと云う。爆発薬の御蔭で外濠を潰したのはこの時の事でありますと、中尉はその潰れた土山の上に立って我々を顧みた。我々も無論その上に立っている。この下を掘ればいくらでも死骸が出て来るのだと云う。
土山の一隅が少し欠けて、下の方に暗い穴が半分見える。その天井が厚さ六尺もあろうと云うセメントででき上っている。身を横にして、その穴に這い込みながら、だらだらと石の廻廊に降りた時に、仰向いて見て始めてその堅固なのに気がついた。外濠を崩した上に、この厚い壁を破壊しなければ、砲台をどうする事もできないのは攻手に取って非常な困難である。しかもこの小さな裂け目から無理に割り込んで、一寸二寸とじりじりにセメントで築上げた窖道を専領するに至っては、全く人間以上の辛抱比べに違ない。その時両軍の兵士は、この暗い中で、わずかの仕切りを界に、ただ一尺ほどの距離を取って戦をした。仕切は土嚢を積んで作ったとかA君から聞いたように覚えている。上から頭を出せばすぐ撃たれるから身体を隠して乱射したそうだ。それに疲れると鉄砲をやめて、両側で話をやった事もあると云った。酒があるならくれと強請ったり、死体の収容をやるから少し待てと頼んだり、あんまり下らんから、もう喧嘩はやめにしようと相談したり、いろいろの事を云い合ったと云う話である。
三人は暗い廻廊を這い出して、また土山の上に立った。日は透き徹るように明かるく坊主山を照らしている。野菊に似た小さな花が処々に見える。じっと日を浴びて佇んでいると、微かに虫の音がする。草の裏で鳴いているのか、崩れ掛った窖内で鳴いているのか分らなかった。向うの方に支那人の影が二人見えたが、我々の姿を認めるや否や、草の中に隠れた。ああやって、何か掘りに来るんです。捕まると怖いものだから、すぐに逃げます、なかなか取り抑えるのが困難ですとA君が苦笑した。
後側へ回ると広い空堀の中に立派な二階建の兵舎がある。もとは橋をかけて渡ったものと思われるが、今では下りる事もできない。兵舎の背はもとより、山に囲われて、外からは見えなくなっている。三人は空濠を横に通り越してなお高く上った。とうとう四方にあるものは山の頭ばかりになった。そうしてそれが一つ残らず昔の砲台であった。中尉はそれらの名前をことごとく諳んじていた。余は遮るもののない高い空の真下に立って、数限りもない山の背を見渡しながら、砲台巡りも容易な事ではないと思った。
二十六
大連に着いてから二三日すると、満洲日々の伊藤君から滞留中に是非一度講演をやって貰いたいという依頼であった。ええ都合ができればと受合ったようなまた断ったような軽い挨拶をして旅順に来た。するとその伊藤君が我々より一日前に同じ大和ホテルに泊っていたので、ただ、やあ来ているねぐらいでは事がすまなくなった。伊藤君の話によると、余の承諾を得て講演を開くと云う事を、もう自分の新聞に広告してしまったと云うんだから、たちまち弱った。どうしてもやらなければならないように伊藤君は頼むし、何だかやれそうもない気分ではあるし、かたがた安楽椅子に尻を埋めて、苦く渋り出した。すると橋本がにやにや笑いながら、まあやってやるさと傍から余計な事を云う。実を云うと、講演は馬車でホテルに着くや否や、ここの和木君からも頼まれている。もっともこの方は暇がないので、頼まれ放しの体であるが、大連に帰ればそう多忙らしく見せる訳には行かない。橋本はそこをよく見破っているので、君そう云うときには快よく承諾するものだよとか君のような人はやる義務があるさとかいろいろな口を出す。余の大連でしゃべらせられたのは全くこの男の御蔭である。しかも短い時日のうちに二遍もやらせられた。その内の一遍では、云う事が無くって仕方がなかったから、私は今晩、なぜ講演というものが、そう容易にできるものでないか、すなわち講演ができない訳を講演致しますと云って、妙な事を弁じてしまった。それを是公が聞きに来ていて、うん貴様はなかなか旨い、これからどこへ出て演説しようと勝手だ、おれが許してやると評したからありがたい。けれども勧告の本人たる橋本は、平気な顔をして、どこか遊んで歩いていて聞きに来なかった。そのくせ営口でまた頼まれると早速、君やるさ、せっかく頼むんだものと例の通りやり出したので、やむをえず痛い腹の上にかけていた蒲団を跳ね退けて、演説をしに行った。その代りおれが先へやるよと断って、橋本のは聞かずに、すぐ宿屋へ帰って来て、また腹の上に蒲団を掛けていた。橋本はこう云うところを見ると、君演説をやってる間は苦しいかなどと気楽な質問をする。もっとも招待を断ったり何かするときには、いや実際この男は胃病でといつでも証人に立ってくれた。して見ると、橋本はただ演説に対してだけ冷刻なのかも知れない。奉天でも危うく高い所へ乗せられるところを、一日日取が狂ったため、いかな橋本にも、君頼まれたときにはやってやるべきだよを繰返す余地がなかった。京城では発着が前後した上に、宿屋さえ違ったものだから、泰然と講演を謝絶する余裕があった。これは偏に橋本のいなかった御蔭である。
面白い事に、この演説の勧誘家はその後札幌へ帰るや否や、自身と烈しい胃病に罹って、急に苦しみ出した。それで普通ならば毎週十時間余も講義を持たせられるところを、わずか一時間に減らして貰って、その一時間が済むとすぐに薬を呑むそうだ。旅行中は君の病気である事を知りながら、無理に講演を勧めて大いに悪かった。何事も自分で経験しないうちは分らぬもので、こうして胃病に悩まされて始めて気がついたが、痛いときに演説などができる訳のものでは、けっしてない。君があの際奮って演壇に立ったのは実際感心である、と大いに褒めたり詫まったりして来た。実際橋本の云う通りである。しかしはたして橋本の推察するほど胃が痛かったら、いかな余も、いくらせっかくだから君出るが好いよを繰返されたって、ついに講演を断ってしまったろう。
二十七
白仁さんから正餐の御馳走になったときは、民政部内の諸君がだいぶ見えた。みんな揃ってカーキー色の制服を着ていた。食事が済んで別室へ戻って話していると佐藤が、あしたは朝のうち二百三高地の方を見たら好かろう、案内を出すからと云ってくれる。余も好かろうと答えた。すると、大した案内にも及ぶまいと笑いながら相談を掛けた。我々は一私人で、ただ遊覧に来たのだから、公の職務を帯びている人を使ってはすまないが、せっかく案内をつけてくれると云うなら、小使でも何でも構わない。非番か閑散の人を一人世話してくれと頼んだ。これは正直恐れ入った本当の謙遜である。その時佐藤は懐中から自分の名刺を出して、端の方に鉛筆で何か書いて、じゃ明日の朝八時にこの人が来るから、来たらいっしょに行くが好いと云って分れた。
明日の朝の八時は例の通り強い日が空にも山にも港にも一面に輝いていた。馬車を棄てて山にかかったときなどは、その強い日の光が毛孔から総身に浸込むように空気が澄徹していた。相変らず樹のない山で、山の上には日があるばかりだから、眼の向く所は、左右ともに、また前後ともに、どこまでも朗らかである。その明かな足元から、ばっと音がして、何物だか飛び出した。案内の市川君が鶉ですと云ったので始めてそうかと気がついたくらい早く、鶉は眼を掠めて、空濶の中に消えてしまった。その迹を見上げると、遥なる大きい鏡である。
その時我々はもう頂近くにいた。ここいらへも砲丸が飛んで来たんでしょうなと聞くと、ここでやられたものは、多く味方の砲丸自身のためです。それも砲丸自身のためと云うより、砲丸が山へ当って、石の砕けたのを跳ね返したためです。こう云う傾斜のはなはだしい所ですから、いざと云う時に、すぐ遠くから駆け寄せて敵を追い退ける訳に行きませんので、みんなこう云うところへ平たくなって噛りついているのであります。そうして味方の砲丸が眼の前へ落ちて、一度に砂煙が揚がるとその虚に乗じて一間か二間ずつ這い上がるのですから、勢い砂煙に交る石のために身体中創だらけになるのです。と市川君は詳しい説明を与えられた。
味方の砲弾でやられなければ、勝負のつかないような烈しい戦は苛過ぎると思いながら、天辺まで上った。そこには道標に似た御影の角柱が立っていた。その右を少しだらだらと降りたところが新に土を掘返したごとく白茶けて見える。不思議な事にはところどころが黒ずんで色が変っている。これが石油を襤褸に浸み込まして、火を着けて、下から放り抛げたところですと、市川君はわざわざ崩れた土饅頭の上まで降りて来た。その時遥下の方を見渡して、山やら、谷やら、畠やら、一々実地の地形について、当時の日本軍がどう云う径路をとって、ここへじりじり攻め寄せたかをついでながら物語られた。不幸にして、二百三高地の上までは来たようなものの、どっちが東でどっちが西か、方角がまるで分らない。ただ広々として、山の頭がいくつとなく起伏している一角に、藍色の海が二カ処ほど平たく見えるだけである。余はただ朗かな空の下に立って、市川君の指さす方を眺めていた。
自分でここへ攻め寄せて来た経験をもっている市川君の話は、はなはだ詳しいものであった。市川君の云うところによると、六月から十二月まで屋根の下に寝た事は一度もなかったそうである。あるときは水の溜った溝の中に腰から下を濡らして何時間でも唇の色を変えて竦んでいた。食事は鉄砲を打たない時を見計って、いつでも構わず口中に運んだ。その食事さえ雨が降って車の輪が泥の中に埋って、馬の力ではどうしても運搬ができなかった事もある。今あんな真似をすれば一週間経たないうちに大病人になるにきまっていますが、医者に聞いて見ると、戦争のときは身体の組織がしばらくの間に変って、全く犬や猫と同様になるんだそうですと笑っていた。市川君は今旅順の巡査部長を勤めている。
二十八
旅順の港は袋の口を括ったように狭くなって外洋に続いている。袋の中はいつ見ても油を注したと思われるほど平らかである。始めてこの色を遠くから眺めたときは嬉しかった。しかし水の光が強く照り返して、湾内がただ一枚に堅く見えたので、あの上を舟で漕ぎ廻って見たいと云う気は少しも起らなかった。魚を捕る料簡は無論無かった。露西亜の軍艦がどこで沈没したろうかなどと思い浮かべる暇も出なかった。ただ頭へぴかぴかと、平たい研ぎ澄したものが映った。
余は大和ホテルの二階からもこの晴やかな色を眺めた。ホテルの玄関を出たり這入ったりするときにもこの鋭い光の断片に眼を何度となく射られた。それでも単に烈しい奇麗な色と光だなと感ずるだけであった。佐藤から港内を見せてやるからと案内されるまでは、とうてい港内は人間の這入るところではないくらいに、頭の底で、無意識ながら分別していたらしい。
さあ行くんだと催促された時は、なるほど旅順に来る以上、催促されなければならんはずの場処へ行くんだと思った。今日の同勢は朝大連から来た田中君を入れて五人である。港務部を這入るときに水兵がこの五人に礼をした。兵隊に礼をされたのは生れてこれが初てであった。佐藤が真先に中へ這入って、やがて出て来たから、もう舟に乗れるのかと思ったら、おい這入れ這入れという。我々は石垣の上に立っていた。足元にはすぐ小蒸気が繋いである。我々の足は、家の方より、むしろ水の方に向いていた。
十分の後五人はまた河野中佐といっしょに家を出てすぐ小蒸気に移った。海軍の将校が下士や水兵を使うのは実に簡潔明瞭である。船は河野中佐の云いなり次第の速力で、思う通りの方角へ出た。港の入口ではここかしこの潜水器へ船の上から空気を送っている。船の数は十艘近くあった。みんな波に揺られて上ったり下ったりしている。我々五人のも固より平ではない。鏡のように見えた湾の入口がこうまで動いているとは思いがけなかった。波で身体の調子が浮いたり沈んだりする上に、強い日が頭から射りつけるので、少し胸が悪くなった。河野さんは軍人だから、そんな事に気のつくはずがない。ああ云う喞筒で空気を送るのは旧式でね、時々潜水夫を殺してしまいますよと講釈をしている。田中君はふうんとさも感心したらしく聞いている。
河野さんの話によると、日露戦争の当時、この附近に沈んだ船は何艘あるか分らない。日本人が好んで自分で沈めに来た船だけでもよほどの数になる。戦争後何年かの今日いまだに引揚げ切れないところを見てもおおよその見当はつく。器械水雷なぞになるとこの近海に三千も装置したのだそうだ。
じゃ今でも危険ですねと聞くと、危険ですともと答えられたのでなるほどそんなものかと思った。沈んだ船を引揚げる方法も聞いて見たが、これは委しく覚えている、百キロぐらいな爆発薬で船体を部分部分に切り壊して、それを六吋の針金で結えて、そうして六百噸のブイアンシーのある船を、水で重くした上、干潮に乗じて作事をしておいて、それから満潮の勢いと喞筒の力で引き揚げるのだそうだ。しかし我々が眺めていた時は、いつまで立っても、何も揚って来そうになかった。
港の入口は左右から続いた山を掘り割ったように岸が聳えていて、その上に砲台がある。あすこから探海灯で照らされると、一番困る。まるで方角も何も分らなくなってしまうと河野さんが高い処を指さした。
やがて小蒸気は煙りを逆に吐いて港内に引返した。戦闘艦が並んで撃沈されたという前を横に曲ってまた元の石垣の下へ着いた。向う岸には戦利品のブイや錨がたくさん並んでいる。あれで約三十万円の価格ですと河野さんが云った。門の出口には防材の標本が一本寝かしてあった。その先から尖った剣のようなものが出ていた。
二十九
風呂を注文しておいたら、用意ができたと見えて、向うの部屋で、湯の迸ばしる音が盛にする。靴を脱いで、スリッパアをつっかけて、戸を開けに掛ると、まだ廊下に出ないうちに給仕がやって来た。田中さんがいっしょにスキ焼を食べにいらっしゃいませんかと云う案内である。スキ焼の名はこの際両人に取って珍らしい響がした。けれども白状すると、毫も食う気にはならなかった。スキ焼って家で拵えるのかいと尋ねると、いえ近所の料理屋ですと云う。近所の料理屋はスキ焼よりも一層不思議な言葉である。ホテルの窓から往来を一日眺めていたって、通行人は滅多に眼に触れないところである。外へ出て広い路を岡の上まで見通すと、左右の家は数えるほどしか並んでいない。そうしてそれがことごとく西洋館である。しかも三分の一は半建のまま雨露に曝されている。他の三分の一は空家である。残る三分の一には無論人が住んでいる。けれどもその主人はたいてい月給を取って衣食するものとしか受け取れない構である。新市街という名はあるにしても、その実は閑静な寂れた屋敷町に過ぎない。その屋敷のどこにスキ焼を食わす家があるかと思うと、一種小説に近い心持が起る。
ただ、昼の疲れを忘れるため、胃の不安を逃れるため、早く湯に入って、レースの蚊帳の中で、穏かに寝たかった。そこで給仕に、今湯に這入りかけているからね、少し時間が取れるかも知れないから、田中さんに、どうか御先へと云ってくれと頼んだ。すると傍にいる橋本が例のごとく、そりゃいかんよと云い出した。せっかく誘ってくれるものを、そんな挨拶をする法はないぜと、また長い説教が始まりそうで恐ろしくなったので、仕方がないからうんよしよし、それじゃあね、今湯に這入っていますから、すぐ行きますってそう云ってくれ、よく云うんだよ、分ったかねと念を押してすぐ風呂に飛込んだ。
そうして、少しも弱った顔を見せずにみんなと連れ立って、ホテルを出た。空はよく晴れて、星が遠くに見える晩であったが、月がないので往来は暗かった。危のうございますから御案内を致しましょうと云って、ホテルの小僧がついて来た。草の生えた四角な空地を横切って、瓦斯も電気もない所を、茫漠と二丁ほど来ると、門の奥から急に強い光が射した。玄関に女が二三人出ている。我々の来るのを待っていたような挨拶をした。座敷は畳が敷いて胡坐がかけるようになっていた。窓を見ると、壁の厚さが一尺ほどあったので、始めて普通の日本家屋でないと云う事が解った。窓の高さは畳から一尺に足りないから、足をかけると厚い壁の上に乗る事ができる。女が危のうございますと云った。外を覗いたら真闇に静かであった。
女は三四人で、いずれも東京の言葉を使わなかった。田中君はわざと名古屋訛を真似て調戯っていた。女は御上手だ事とか、御上手やなとか、何とか云って賞めていた。ところが前触のスキ焼はなかなか出て来ない。酒を飲まないで、肴を突っついて手持無沙汰であった。スキ焼があらわれても、胃の加減で旨くも何ともなかった。天下に何が旨いってスキ焼ほど旨いものは無いと思うがねと田中君が云った。田中君はスキ焼の主唱者だけあって、大変食べた。傍で見ていて羨ましいほど食べた。余はしようがないから畳の上に仰向に寝ていた。すると女の一人が枕を御貸し申しましょうかと云いながら、自分の膝を余の頭の傍へ持って来た。この枕では御気に入りますまいとか何とか弁じている。結構だから、もう少しこっちの方へ出してくれと頼んで、その女の膝の上に頭を乗せて寝ていた。不思議な事に、橋本も活動の余地がないものと見えて、余と同様の真似をして、向うの方に長くなっている。枕元では田中君が女を相手に碁石でキシャゴ弾きをやって大騒ぎをしている。余があまり静だものだから、膝を貸した女は眠ったのだと思って、顋の下をくすぐった。
帰るときには、神さんらしいものが、しきりに泊って行けと勧めた。門を出るとまた急に暗くなった。森閑として人の気合のない往来をホテルまで、影のように歩いて来て、今までの派出なスキ焼を眼前に浮かべると、やはり小説じみた心持がした。
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