十一
河村調査課長の前へ行って挨拶をすると、河村さんは、まあおかけなさいと椅子を勧めながら、何を御調べになりますかと叮嚀に聞かれる。何を調べるほどの人間でもないんだから、この問に逢った時は実は弱った。先刻重役室へ河村さんが這入って来たとき、是公が余を紹介して、河村さん満鉄の事業の種類その他について、あとでこの男にすっかり説明してやって下さいと云ったのが本で、とうとう余は調査課へ来るような訳になったものの、その実世間の知るごとき人間なんだから、こう真面目に、どう云う方面の研究をやる気かと尋ねられるとはなはだ迷ついてしまう。そうかと云って、けっして悪気があって冷かしに来た次第でない事もまた、世間の知る通りなんだから、河村さんに対して敬意を失するような冗談は云えた義理のものでない。やむをえず、しかつめらしい顔をして、満鉄のやっているいろいろな事業一般について知識を得たいと述べた。――何でも述べたつもりである。固より内心に確乎たる覚悟があって述べる事でないんだから、顔だけはしかつめらしいが、述べる事の内容は、すこぶる赤毛布式に縹緲とふわついていたに違ない。ただ今から顧みても、少し得意なのは、その時余の態度挙動は非常に落ちついて、魂がさも丹田に膠着しているかのごとく河村さんには見えたろうという自覚である。人を欺し終せて知らん顔をしているのは善くない事だから、ここで全く懺悔してしまうが、実を云うと、その時は胃がしくしく痛んで、言葉に抑揚をつけようにも、声に張りを見せようにも、身体に活気を漲ぎらせようにも、とうてい自己が自己以上に沈着してしまって、一寸もあがきが取れなかったのである。
そこへ大きな印刷ものが五六冊出て来た。一番上には第一回営業報告とある。二冊目は第二回で、三冊目は第三回で、四冊目は第四回の営業報告に違ない。この大冊子を机の上に置いて、たいていこれで分りますがねと河村さんが云い出した時は、さあ大変だと思った。今この胃の痛い最中にこの大部の営業報告を研究しなければすまない事になっては、とうてい持ち切れる訳のものではない。余はまだ営業報告を開けないうちに、早速一工夫してこう云った。――私は専門家でないんですから、そう詳い事を調査しても、とても分りますまいと思いますので、ただ諸君がいろいろな方面でどんな風に働いていられるか、ざあっとその状況を目撃さしていただけばたくさんですから、縦覧すべき箇所を御面倒でもちょっと書いて下さいませんか。
河村さんははあそうですかと、気軽にすぐ筆を執ってくれた。ところへどこからか突然妙な小さな男があらわれて、やあと声をかけた。見ると股野義郎である。昔「猫」を書いた時、その中に筑後の国は久留米の住人に、多々羅三平という畸人がいると吹聴した事がある。当時股野は三池の炭坑に在勤していたが、どう云う間違か、多々羅三平はすなわち股野義郎であると云う評判がぱっと立って、しまいには股野を捕まえて、おい多々羅君などと云うものがたくさん出て来たそうである。そこで股野は大いに憤慨して、至急親展の書面を余に寄せて、是非取り消してくれと請求に及んだ。余も気の毒に思ったが、多々羅三平の件をことごとく削除しては、全巻を改板する事になるから、簡潔明瞭に多々羅三平は股野義郎にあらずと新聞に広告しちゃいけないかと照会したら、いけないと云って来た。それから三度も四度も猛烈な手紙を寄こしたあとで、とうとうこう云う条件を出した。自分が三平と誤られるのは、双方とも筑後久留米の住人だからである。幸い、肥前唐津に多々羅の浜と云う名所があるから、せめて三平の戸籍だけでもそっちへ移してくれ。これだけは是非御願するとあったんで、余はとうとう三平の方を肥前唐津の住人に改めてしまった。今でも「猫」を御読みになれば分る。肥前の国は唐津の住人多々羅三平とちゃんと訂正してある。
こう云う訳で余と因縁の浅からざる股野に、ここでひょっくり出逢うとは全く思いがけなかった。しかも、その家へ呼ばれて御馳走になったり、二三日間朝から晩まで懇切に連れて歩いて貰ったり、昔日の紛議を忘れて、旧歓を暖める事ができたのは望外の仕合である。実を云うと、余は股野がまだ撫順にいる事とばかり思っていた。
余は大連で見物すべき満鉄の事業その他を、ここで河村さんと股野に、表のような形に拵えて貰った。
十二
腹がしきりに痛むので、寝室へ退いて、長椅子の上に横になっていると、窓を撲つ雨の音がしだいに繁くなった。これじゃ舞踏会に行く連中も、だいぶ御苦労様な事になったものだと思って、ポッケットから招待状を出して寝ながら、また眺めて見た。絵葉書ぐらいの大きさの厚紙の一面には、歌麿の美人が好い色に印刷されている。一面には中村是公同夫人連名で、夏目金之助を招待している。よくこんなものを拵える時間があったなと感心して、うとうとしかけたところへ、ボーイ頭が来て、ただいま総裁からの電話で、今夜舞踏会へおいでになるか伺えと云う事でございますがと云うから、行かないと返事をしてくれと頼んで、本当に寝てしまった。眼が覚めたら雨はいつの間にか歇んで、奇麗な空が磨き上げたように一色に広く見える中に、明かな月が出ていた。余は硝子越にこの大きな色を覗いて、思わず是公のために、舞踏会の成功を祝した。
後で本人に聞いて見ると、是公はその夜舞踏の済んだ後で、多数の亜米利加士官と共に倶楽部のバーに繰り込んだのだそうだ。そこで、士官連が是公に向って、今夜の会は大成功であるとか、非常に盛であったとか、口々に賛辞を呈したものだから、是公はやむをえず、大声を振り絞って gentlemen! と叫んだ。すると今までがやがや云っていた連中が、総裁の演説でも始まる事と思って、一度に口を閉じて、満場は水を打ったように静かになった。是公は固よりゼントルメンの後を何とかつけなければならない。ところがゼントルメン以外の英語があいにく一言も出て来なかった。英語と云う英語は頭の底からことごとく酒で洗い去られてしまっているので、仕方なしに、急に日本語に鞍換をして、ゼントルメンの次へもってきて、すぐ大いに飲みましょうと怒鳴った。ゼントルメン大いに飲みましょうは、たいていの亜米利加人に通じる訳のものではないが、そこがバーのバーたるところで、ゼントルメン大いに飲みましょうとやるや否や、士官連がわあっと云って主人公を胴上にしたそうである。
明治二十年の頃だったと思う。同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着日帰りの遠足をやった事がある。赤毛布を背負って弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち側まで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった。申し合せたように毛布に包まって砂浜の上に寝た。夜中に眼が覚めると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていた。その上犬が来て真水英夫の脚絆を啣えて行った。夜が白んで物の色が仄に明るくなった頃、御互の顔を見渡すと、誰も彼も奇麗に砂だらけになっている。眼を擦ると砂が出る。耳を掘くると砂が出る。頭を掻いても砂が出る。七人はそれで江の島へ渡った。その時夜明けの風が島を繞って、山にはびこる樹がさあと靡いた。すると余の傍に立っていた是公が何と思ったものか、急にどうだ、あの樹を見ろ、戦々兢々としているじゃないかと云った。
草木の風に靡く様を戦々兢々と真面目に形容したのは是公が嚆矢なので、それから当分の間は是公の事を、みんなが戦々兢々と号していた。当人だけは、いまだに戦々兢々で差支えないと信じているかも知れないんだから、ゼントルメン大いに飲みましょうも、この際亜米利加語として士官側に通用したと心得ているんだろう。通じた証拠には胴上にしたじゃないかくらい、酔うと云いかねない男である。
十三
昨夕は川崎造船所の須田君からいっしょに晩食でも食おうと云う案内があったが、例のごとく腹が痛むので、残念ながら辞退して、寝室で肉汁を飲んで寝てしまった。朝起きるや否や、もう好かろうと思って、腹の近所へ神経をやって、探りを入れて見ると、やッぱり変だ。何だか自分の胃が朝から自分を裏切ろうと工んでいるような不安がある。さてどこが不安だろうと、局所を押えにかかると、どこも応じない。ただ曇った空のように、鈍痛が薄く一面に広がっている。苦い顔をして食堂へ下りて飯をすましてまた室へ帰ってぼんやりしていると、河村さんが戸口まで来て、今夜満鉄のものが主人役になってあなたがた二三名を扇芳亭へ招待したいからと云う叮嚀な御挨拶である。どうもせっかくですが、実はこれこれでと断ると、そうですか、実は総裁も今夜は所労で出られませんと答えて帰られた。
河村君が帰るや否や股野が案内もなくやって来た。今日は襟の開いた着物を着て、ちゃんと白い襯衣と白い襟をかけているから感心した。股野と少し話しているところへ、また御客があらわれた。ボイの持って来た名刺には東北大学教授橋本左五郎とあったので、おやと思った。
橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りていっしょに自炊をしていた事がある。その時は間代を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚いて、それで月々二円ですんだ。もっとも牛肉は大きな鍋へ汁をいっぱい拵えて、その中に浮かして食った。十銭の牛を七人で食うのだから、こうしなければ食いようがなかったのである。飯は釜から杓って食った。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難義であった。余はここで橋本といっしょに予備門へ這入る準備をした。橋本は余よりも英語や数字において先輩であった。入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その御蔭でやっと入学した。ところが教えた方の橋本は見事に落第した。入学をした余もすぐ盲腸炎に罹った。これは毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇をばたばたと鳴らした。そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋の爺のために盲腸炎にされたと同然である。
その後左五は――当時余等は橋本を呼んで、左五左五と云っていた。実際彼は岡山の農家の生れであった。――左五はその後追試験に及第したにはしたが、するかと思うとまた落第した。そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ這入ってしまった。それから独逸へ行った。独逸へ行って、いつまで経っても帰らない。とうとう五年か六年かいた。つまり留学期限の倍か倍以上も向うで暮した事になる、その費用はどうして拵えたものかとんと分らない。
この橋本が不思議にも余より二三月前に満鉄の依頼に応じて、蒙古の畜産事状を調査に来て、その調査が済んで今大連に帰ったばかりのところへ出っ食わしたのである。顔を見ると、昔から慓悍の相があったのだが、その慓悍が今蒙古と新しい関係がついたため、すこぶる活躍している。闥を排して這入って来るや否や、どうだ相変らず頑健かねと聞かざるを得なかったくらいである。
十四
ええまあ相変らずでと、橋本は案に相違した落ちつき方である。昔予備門に這入って及第だとか落第だとか騒いでいた時分にはけっしてこう穏かじゃなかった。彼の鼻の先が反返っているごとく、彼は剽軽でかつ苛辣であった。余はこの鼻のためによく凹まされた事を記憶している。
その頃は大勢で猿楽町の末富屋という下宿に陣取っていた。この同勢は前後を通じると約十人近くあったが、みんな揃いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑するのが自己の天職であるかのごとくに心得ていた。下読などはほとんどやらずに、一学期から一学期へ辛うじて綱渡りをしていた。英語は教場であてられた時に、分らない訳を好い加減につけるだけであった。数学はできるまで塗板の前に立っているのを常としていた。余のごときは毎々一時間ぶっ通しに立往生をしたものだ。みんなが代数書を抱えて今日も脚気になるかなど云っては出かけた。
こう云う連中だから、大概は級の尻の方に塊まって、いつでも雑然と陳列されていた。余のごときは、入学の当時こそ芳賀矢一の隣に坐っていたが、試験のあるたんびに下落して、しまいには土俵際からあまり遠くない所でやっと踏み応えていた。それでも、みんな得意であった。級の上にいるものを見て、なんだ点取がと云って威張っていたくらいである。そうして、稍ともすると、我々はポテンシャル・エナージーを養うんだと云って、むやみに牛肉を喰って端艇を漕いだ。試験が済むとその晩から机を重ねて縁側の隅へ積み上げて、誰も勉強のできないような工夫をして、比較的広くなった座敷へ集って腕押をやった。岡野という男はどこからか、玩具の大砲を買って来て、それをポンポン座敷の壁へ向って発射した。壁には穴がたくさん開いた。試験の成績が出ると、一人では恐いからみんなを駆り催して揃って見に行った。するとことごとく六十代で際どく引っ掛っている。橋本は威勢の好い男だから、ある時詩を作って連中一同に示した。韻も平仄もない長い詩であったが、その中に、何ぞ憂えん席序下算の便と云う句が出て来たので、誰にも分らなくなった。だんだん聞いて見ると席序下算の便とは、席順を上から勘定しないで、下から計算する方が早分りだと云う意味であった。まるで御籤みたような文句である。我々はみんなこの御籤にあたってひやひやしていた。
そのうち下算にも上算にもまるで勘定に這入らないものが、ぽつぽつできて来た。一人消え、二人消えるうちに橋本がいた。是公がいた。こう云う自分もいた。大連で是公に逢って、この落第の話が出た時、是公は、やあ、あの時貴様も落第したのかな。そいつは頼母しいやと大いに嬉しがるから、落第だって、落第の質が違わあ。おれのは名誉の負傷だと答えておいた。
是公だの、余だの、今の旅順の警視総長だのが落ちながら、ぶら下がっている間に、左五だけは決然として北海道へ落ち延びたのである。その落第の張本とも云うべき彼が、いくら年を取ったって、かほどに慇懃になろうとは思いも寄らぬ事であった。今日は午後から満鉄の社へ行って、蒙古旅行に関する話をするんだと云っている。
十五
河村さんの書いてくれた表を見ると、娯楽機関という題目のもとに、倶楽部とか会とか名のつくものが十ばかり並べてある。中にはゴルフ会だの、ヨット倶楽部だのと、名前からして洒落たのさえ、ちらほら見える。ヨット倶楽部の下に(ただし一艘)と括弧で註がついているのは、新設だからまだ一艘しかないという意味なんだろう。
参観すべき場所と云う標題のもとには、山城町の大連医院だの、児玉町の従業員養成所だの近江町の合宿所だの、浜町の発電所だの、何だのかだのみんなで十五六ほどある。なるほどこれでは大連に一週間ぐらいいなければ、満鉄の事業も一通り観る訳に行かないと云われるはずだ。しかも是公は是非共万遍なくよく観て行かなくっちゃいけないよと命令的に注意するんだから、容易じゃない。その上よく観て、何でも気がついた事があるなら、そう云いなさいと、あたかも余を視察家扱にするんだからなおさら痛み入る。余は手に持った表に一通り眼を通しながら、傍にいる股野に、おい少し出て見るかなと云った。股野は固より余を連れて、大連中ぐるぐる引き廻す気で来ている。もっとも別段社からつけてくれたという訳じゃないんだが、本人の特志で社の用事をすっぽかす了見らしい。そうしていつの間にか、ホテルへ馬車を云いつけている。
余は股野と相乗りで立派な馬車を走らして北公園に行った。と云うと大層だが、車の輪が五六度回転すると、もう公園で、公園に這入ったかと思うと、もう突き抜けてしまった。それから社員倶楽部と云うのに連れて行かれて、謡の先生の月給が百五十円だと云う事を聞いて、また馬車へ乗って、今度は川崎造船所の須田君の所の工場を外から覗き込んで、すぐ隣の事務所に這入って、須田君に昨日の御礼を述べた。事務所の前がすぐ海で、船渠の中が蒼く澄んでいる。あれで何噸ぐらいの船が這入りますかと聞いたら、三千噸ぐらいまでは入れる事ができますという須田君の答であった。船渠の入口は四十二尺だとか云った。余は高い日がまともに水の中に差し込んで、動きたがる波を、じっと締めつけているように静かな船渠の中を、窓から見下しながら、夏の盛りに、この大きな石で畳んだ風呂へ這入って泳ぎ回ったらさぞ結構だろうと思った。
今度はどこだと股野に聞いて見ると、今度は電気の工場へ行きましょうという事である。鉄嶺丸が大連の港へ這入ったときまず第一に余の眼に、高く赤く真直に映じたものはこの工場の煙突であった。船のものはあれが東洋第一の煙突だと云っていた。なるほど東洋第一の煙突を持っているだけに、中へ這入ると、凄じいものである。その一部分では、天井を突き抜いて、青空が見えるようにして、四方の壁を高く積み上げていた。屋根の高さを増す必要があっての事だろうが、青空が煉瓦の上に遠く見えるばかりか、尋常の会話はとうてい聞えないくらいに、恐ろしい音が響いている中に、塵を浴びて立った時は、妙な心持がした。ある所は足の下も掘り下げて、暗い所にさまざまの仕掛が猛烈に活動していた。工業世界にも、文学者の頭以上に崇高なものがあるなと感心して、すぐその棟を飛び出したくらいである。詮ずるに要領はただ凄まじい音を聞いて、同じく凄まじい運動を見たのみである。
股野はその間を馳け回って、おい誰さんはいないかねと、しきりに技師を探していた。技師は股野に捕まるほど閑でなかったと見えて、とうとう見当らなかった。
十六
今日は化物屋敷を見て来たと云うと、田中君が笑いながら、夏目さん、なぜ化物屋敷というんだか訳を知っていますかと聞いた。余は固より下級社員合宿所の標本として、化物屋敷の中を一覧したまでで、化物の因縁はまだ詮議していなかった。けれども化物屋敷はこれだと云われた時には、うんそうかと云って、少しも躊躇なく足を踏込んだ。なぜそんな恐ろしい名が、この建物に付纏っているのかと、立ちどまって疑って見る暇も何もなかった。いわゆる化物屋敷はそれほど陰気にでき上がっていた。でき上ったというと新規に拵えた意味を含んでいるから、この建築の形容としては、むしろ不適当であるかも知れない。化物屋敷はそのくらい古い色をしている。壁は煉瓦だろうが、外部は一面の灰色で、中には日の透りそうもない、薄暗い空気を湛えるごとくに思われた。
余はこの屋敷の長い廊下を一階二階三階と幾返か往来した。歩けば固い音がする。階段を上るときはなおさらこつこつ鳴った。階段は鉄でできていた。廊下の左右はことごとく部屋で、部屋という部屋は皆締め切ってあった。その戸の上に、室の所有者の標札がかかっている。烈しい光線に慣れた眼で、すぐその標札を読もうとすると、判然読めないくらい廊下は暗かった。余はちょっと立ちどまって室の中を見る訳には行かないのかなと股野に聞いて見た。股野はすぐ持っていた洋杖で右手の戸をとんと叩いた。しかしはいとも、這入れとも応えるものはなかった。股野はまた二番目の戸をとんとん叩いた。これも中はしんとしている。股野は毫も辟易した気色なく無遠慮にそこいら中こつこつ叩いて歩いたが、しまいまで人気のする室には打つからなかった。あたかも立ち退いた町の中を歩いているような感じがした。三階に来た時、細い廊下の曲り角で一人の女が鍋で御菜を煮ているのに出逢った。そこには台所があった。化物屋敷では五六軒寄って一つの台所を持っているのだそうだ。御神さん水は上にありますかと尋ねたら、いえ下から汲んで揚げますと答えた。余はこの暗い町内に、便所がどこにいくつあるか不審に思ったが、つい聞きもせず、女の前を行き過ぎて通ろうとすると、そっちは行きどまりでございますと注意された。道理で真闇であった。
田中君の話によると、この建物は日露戦争の当時の病院だとか云う事である。戦争が烈しくなって、負傷者の数が増して来るに従って、収容した人間に充分の手当ができないばかりでなく、気の毒ながら見殺しにしなければならない兵士がたくさんにできて、それらの創口から出る怨みの声が大連中に響き渡るほど凄じかったので、その以後はこの一廓を化物屋敷と呼ぶようになった。しかし本当だか嘘だか実は僕も保証しないと、田中君自身が笑っていたから、余はなおさら保証しない。
ただ満鉄の重役が始めて大連に渡ったとき、この化物屋敷に陣を構えた事だけは事実である。その時この建物は化物さえ住みかねるほどに荒れ果てて、残焼家屋として、骸骨のごとくに突っ立っていたそうである。陣取った連中は死物狂で、天候と欠乏と不便に対して戦後の戦争を開始した。汽車の中で炭を焚いて死に損なったり、貨車へ乗って、カンテラを点けて用を足そうとすると、そのカンテラが揺ぶれてすぐ消えてしまったり、サイホンを呑むと二三滴口へ這入るだけであとはすぐ氷の棒に変化したり、すべてが探険と同様であった。
「清野が毛織の襯衣を半ダース重ねて着たのは彼時だよ」
「清野は驚いて、あれっきりやって来ない」
余は田中君と是公がこんな話をするのを聞いて、つい化物屋敷の事を忘れてしまった。
十七
三階へ上って見ると豆ばかりである。ただ窓際だけが人の通る幅ぐらいの床になっている。余は静かに豆と壁の間をぐるぐる廻って歩いた。気をつけないと、足の裏で豆を踏み潰す恐れがある上に、人のいない天井裏を無益に響かすのが苦になったからである。豆は砂山のごとく脚下に起伏している。こちらの端から向うの端まで眺めて見ると、随分と長い豆の山脈ができ上っていた。その真中を通して三カ所ほどに井桁に似た恰好の穴が掘ってある。豆はその中から断えず下へ落ちて行って、平たく引割られるのだそうだ。時々どさっと音がして、三階の一隅に新しい砂山ができる。これはクーリーが下から豆の袋を背負って来て、加減の好い場所を見計らって、袋の口から、ばらに打ち撒けて行くのである。その時はぼうと咽るような煙が立って、数え切れぬほどの豆と豆の間に潜んでいる塵が一度に踊り上る。
クーリーはおとなしくて、丈夫で、力があって、よく働いて、ただ見物するのでさえ心持が好い。彼等の背中に担いでいる豆の袋は、米俵のように軽いものではないそうである。それを遥の下から、のそのそ背負って来ては三階の上へ空けて行く。空けて行ったかと思うとまた空けに来る。何人がかりで順々に運んでくるのか知れないが、その歩調から態度から時間から、間隔からことごとく一様である。通り路は長い厚板を坂に渡して、下から三階までを、普請の足場のように拵えてある。彼等はこの坂の一つを登って来て、その一つをまた下りて行く。上るものと下りるものが左右の坂の途中で顔を見合せてもほとんど口を利いた事がない。彼等は舌のない人間のように黙々として、朝から晩まで、この重い豆の袋を担ぎ続けに担いで、三階へ上っては、また三階を下るのである。その沈黙と、その規則ずくな運動と、その忍耐とその精力とはほとんど運命の影のごとくに見える。実際立って彼等を観察していると、しばらくするうちに妙に考えたくなるくらいである。
三階から落ちた豆が下へ回るや否や、大きな麻風呂敷が受取って、たちまち釜の中に運び込む。釜の中で豆を蒸すのは実に早いものである。入れるかと思うと、すぐ出している。出すときには、風呂敷の四隅を攫んで、濛々と湯気の立つやつを床の上に放り出す。赤銅のような肉の色が煙の間から、汗で光々するのが勇ましく見える。この素裸なクーリーの体格を眺めたとき、余はふと漢楚軍談を思い出した。昔韓信に股を潜らした豪傑はきっとこんな連中に違いない。彼等は胴から上の筋肉を逞しく露わして、大きな足に牛の生皮を縫合せた堅い靴を穿いている。蒸した豆を藺で囲んで、丸い枠を上から穿めて、二尺ばかりの高さになった時、クーリーはたちまちこの靴のまま枠の中に這入って、ぐんぐん豆を踏み固める。そうして、それを螺旋の締棒の下に押込んで、把をぐるぐると廻し始める。油は同時に搾られて床下の溝にどろどろに流れ込む。豆は全くの糟だけになってしまう。すべてが約二三分の仕事である。
この油が喞筒の力で一丈四方もあろうという大きな鉄の桶に吸上げられて、静に深そうに淀んでいるところを、二階へ上がって三つも四つも覗き込んだときには、恐ろしくなった。この中に落ちて死ぬ事がありますかと、案内に聞いたら、案内は平気な顔をして、まあ滅多に落ちるような事はありませんねと答えたが、余はどうしても落ちそうな気がしてならなかった。
クーリーは実にみごとに働きますね、かつ非常に静粛だ。と出がけに感心すると、案内は、とても日本人には真似もできません。あれで一日五六銭で食っているんですからね。どうしてああ強いのだか全く分りませんと、さも呆れたように云って聞かせた。
十八
股野が先生私の宅へ来なさらんか、八畳の間が空いています、夜具も蒲団もあります。ホテルにいるより呑気で好いでしょうと親切に云ってくれる。何でも股野の家の座敷からは、大連が一目に見渡されるのみならず、海が手に取るように眺められるのみならず、海の向うに連なる突兀極まる山脈さえ、坐っていると、窓の中に向うから這入って来てくれるという重宝な家なんだそうである。
始めのうちは股野の自慢を好加減に聞き流して、そうかそうかと答えていたが、せっかくの好意ではあるし、もともと気の多い男だから、都合によっては少し厄介になっても好いぐらいに思って、ついでの時是公にこの話をすると、そんな所へ行っちゃいかんとたちまち叱られてしまった。もしホテルが厭なら、おれの宅へ来い、あの部屋へ入れてやるからと云うんで、書斎の次の畳の敷いてある間を見せてくれるんだが、別に西洋流の宿屋に愛想をつかした訳でもないんだから、じゃ厄介になろうとも云わなかった。
是公は書斎の大きな椅子の上に胡坐をかいて、河豚の干物を噛って酒を呑んでいる。どうして、あんな堅いものが胃に収容できるかと思うと、実に恐ろしくなる。そうこうする内に、おいゼムを持っているなら少しくれ、何だかおれも胃が悪くなったようだと手を出した。そうして、胃が悪いときは、河豚の干物でも何でも、ぐんぐん喰って、胃病を驚かしてやらなければ駄目だ。そうすればきっと癒ると云った。酔っていたに違ない。
余はポッケットから注文の薬を出して相手にあてがった。これは二三日前是公といっしょに馬車に乗って、市中を乗り廻した時、是公の御者から二十銭借りて大連の薬屋で買ったものである。その時は是公の御者に対する態度のすこぶる叮嚀なのに気がついて少しく驚かされた。君ちょっとそこいらの薬屋へ寄って、ゼムを買ってやって下さいと云うんだから非凡である。
君は御者に対して叮嚀過ぎるよと忠告してやったら、うんあの時の二十銭をまだ払わなかったっけと思い出したように河豚の干物をまた噛っていた。
是公の御者には廿銭借があるだけだが、その別当に至っては全く奇抜である。第一日本人じゃない。辮髪を自慢そうに垂らして、黄色の洋袴に羅紗の長靴を穿いて、手に三尺ほどの払子をぶら下げている。そうして馬の先へ立って駆ける。よくあんな紳士的な服装をして汗も出さずに走られる事だと思うくらいに早く走ける。もっとも足も長かった。身の丈は六尺近くある。
別当と御者はこのくらいにしてまた股野にかえるが、余は是公に叱られたため、とうとう股野の家へは移らなかった。けれども遊びには行った。なるほど小山の上に建てられた好い社宅である。もっとも一軒立ではない。長い棟がいくつも灰色に並んでいるうちの一番はずれの棟の、一番最後の番号のその二階が彼の家族の領分であった。岡の下から見ると、まるで英国の避暑地へ行ったようだとある西洋人が評したほど、外部は厚い壁で洋式にできているが、中には日本の香がする奇麗な畳が敷いてあった。なるほど景色が好い。大連の市街が見える、大連の海が見える、大連の向うの山が見える。股野の家にはもったいないくらいである。余はそこで村井君に逢って、股野の細君に逢って、手厚い御馳走になって帰った。
十九
支那の宿屋を一つ見ましょうと云いながら、股野は路の左側にある戸を開けて中へ這入った。そこには日本人が三人ほど机を並べて事務を執っていた。股野はそのうちの紺の洋服を着た人を捕まえて、話を始めた。君ここは宿屋だろうと聞いている。宿屋じゃないよと立ちながら返事をしている。何だか様子が変になって来た。やがて余はこの紺服の人に紹介された。紹介されて見ると、これは商業学校出の谷村君で、無論旅屋の亭主ではなかった。谷村君はこの地で支那人と組んで豆の商売を営んでいる。したがって取引上の必要があって、奥の方から大連へ出て来る豆の荷主と接触しなければならないのだが、こっちの習慣として、こう云う荷主はけっして普通の旅籠を取らない。出て来ればきっと取引先へ宿って、用の済むまではいつまででもそこに滞在している。しかもその数は一人や二人ではない。したがって谷村君の奥座敷は一種の宿屋みたような組織にできている。
じゃその奥座敷をちょっと拝見できますかと云うと、谷村君はさあさあと自分から席を離れて、快よく案内に立たれる。余は谷村君の後へ追いて事務室の裏へ出た。股野も食付いて出た。裏は真四角な庭になっている。無論樹も草も花も見当らない、ただの平たい場所である。そこを突き抜けた正面の座敷が応接間であった。応接間の入口は低い板間で、突当りの高い所に蒲団が敷いてある。その上に腰をかけて談判をするのだそうだが、横着な事には大きな括枕さえ備えつけてある。しかし肱を突くためか、頭を載せるためかは聞き糺して見なかった。彼等は談判をしながら阿片を飲む。でなければ煙草を吸う。その煙管は煙管と云うよりも一種の器械と評した方が好いくらいである。錫の胴に水を盛って雁首から洩れる煙がこの水の中を通って吸口まで登ってくる仕掛なのだから、慣れないうちは水を吸い上げて口中へ入れる恐れがある。一服やって御覧なさいと勧められたから、やって見たが、ごぼごぼ音がしてまるで脂を呑むような心持がした。
二階が荷主の室だと云うんで、二階へ上って見ると、なるほど室がたくさん並んでいる。その中の一つでは四人で博奕を打っていた。博奕の道具はすこぶる雅なものであった。厚みも大きさも将棋の飛車角ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。その札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合せに接いだもので、その象牙の方にはいろいろの模様が彫刻してあった。この模様の揃った札を何枚か並べて出すと勝になるようにも思われたが、要するに、竹と象牙がぱちぱち触れて鳴るばかりで、どこが博奕なんだか、実はいっこう解らなかった。ただこの象牙と竹を接ぎ合わした札を二三枚貰って来たかった。
一つの室では五六人寄って、そのうちの一人が笛を吹くのを聞いていた。幕を開けて首を出したら、ぱたりと笛を歇めてしまった。また吹き始めるかと思って、しばらく室の中に立っていたが、とうとう吹かなかった。室の中には妙な書が麗々と壁に貼りつけてある。いずれも下手いものだのに、何々先生のために何々書すと云ったようにもったいぶったのばかりであった。股野が何か云うと、向うの支那人も何か云う。しかし両方の云う事は両方へ通じないようである。
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