三
檜の扉に銀のような瓦を載せた門を這入ると、御影の敷石に水を打って、斜めに十歩ばかり歩ませる。敷石の尽きた所に擦り硝子の開き戸が左右から寂然と鎖されて、秋の更くるに任すがごとく邸内は物静かである。
磨き上げた、柾の柱に象牙の臍をちょっと押すと、しばらくして奥の方から足音が近づいてくる。がちゃと鍵をひねる。玄関の扉は左右に開かれて、下は鏡のようなたたきとなる。右の方に周囲一尺余の朱泥まがいの鉢があって、鉢のなかには棕梠竹が二三本靡くべき風も受けずに、ひそやかに控えている。正面には高さ四尺の金屏に、三条の小鍛冶が、異形のものを相槌に、霊夢に叶う、御門の太刀を丁と打ち、丁と打っている。
取次に出たのは十八九のしとやかな下女である。白井道也と云う名刺を受取ったまま、あの若旦那様で? と聞く。道也先生は首を傾けてちょっと考えた。若旦那にも大旦那にも中野と云う人に逢うのは今が始めてである。ことによるとまるで逢えないで帰るかも計られん。若旦那か大旦那かは逢って始めてわかるのである。あるいは分らないで生涯それぎりになるかも知れない。今まで訪問に出懸けて、年寄か、小供か、跛か、眼っかちか、要領を得る前に門前から追い還された事は何遍もある。追い還されさえしなければ大旦那か若旦那かは問うところでない。しかし聞かれた以上はどっちか片づけなければならん。どうでもいい事を、どうでもよくないように決断しろと逼らるる事は賢者が愚物に対して払う租税である。
「大学を御卒業になった方の……」とまで云ったが、ことによると、おやじも大学を卒業しているかも知れんと心づいたから
「あの文学をおやりになる」と訂正した。下女は何とも云わずに御辞儀をして立って行く。白足袋の裏だけが目立ってよごれて見える。道也先生の頭の上には丸く鉄を鋳抜いた、かな灯籠がぶら下がっている。波に千鳥をすかして、すかした所に紙が張ってある。このなかへ、どうしたら灯がつけられるのかと、先生は仰向いて長い鎖りを眺めながら考えた。
下女がまた出てくる。どうぞこちらへと云う。道也先生は親指の凹んで、前緒のゆるんだ下駄を立派な沓脱へ残して、ひょろ長い糸瓜のようなからだを下女の後ろから運んで行く。
応接間は西洋式に出来ている。丸い卓には、薔薇の花を模様に崩した五六輪を、淡い色で織り出したテーブル掛を、雑作もなく引き被せて、末は同じ色合の絨毯と、続づくがごとく、切れたるがごとく、波を描いて床の上に落ちている。暖炉は塞いだままの一尺前に、二枚折の小屏風を穴隠しに立ててある。窓掛は緞子の海老茶色だから少々全体の装飾上調和を破るようだが、そんな事は道也先生の眼には入らない。先生は生れてからいまだかつてこんな奇麗な室へ這入った事はないのである。
先生は仰いで壁間の額を見た。京の舞子が友禅の振袖に鼓を調べている。今打って、鼓から、白い指が弾き返されたばかりの姿が、小指の先までよくあらわれている。しかし、そんな事に気のつく道也先生ではない。先生はただ気品のない画を掛けたものだと思ったばかりである。向の隅にヌーボー式の書棚があって、美しい洋書の一部が、窓掛の隙間から洩れて射す光線に、金文字の甲羅を干している。なかなか立派である。しかし道也先生これには毫も辟易しなかった。
ところへ中野君が出てくる。紬の綿入に縮緬の兵子帯をぐるぐる巻きつけて、金縁の眼鏡越に、道也先生をまぼしそうに見て、「や、御待たせ申しまして」と椅子へ腰をおろす。
道也先生は、あやしげな、銘仙の上を蔽うに黒木綿の紋付をもってして、嘉平次平の下へ両手を入れたまま、
「どうも御邪魔をします」と挨拶をする。泰然たるものだ。
中野君は挨拶が済んでからも、依然としてまぼしそうにしていたが、やがて思い切った調子で
「あなたが、白井道也とおっしゃるんで」と大なる好奇心をもって聞いた。聞かんでも名刺を見ればわかるはずだ。それをかように聞くのは世馴れぬ文学士だからである。
「はい」と道也先生は落ちついている。中野君のあては外れた。中野君は名刺を見た時はっと思って、頭のなかは追い出された中学校の教師だけになっている。可哀想だと云う念頭に尾羽うち枯らした姿を目前に見て、あなたが、あの中学校で生徒からいじめられた白井さんですかと聞き糺したくてならない。いくら気の毒でも白井違いで気の毒がったのでは役に立たない。気の毒がるためには、聞き糺すためには「あなたが白井道也とおっしゃるんで」と切り出さなくってはならなかった。しかしせっかくの切り出しようも泰然たる「はい」のために無駄死をしてしまった。初心なる文学士は二の句をつぐ元気も作略もないのである。人に同情を寄せたいと思うとき、向が泰然の具足で身を固めていては芝居にはならん。器用なものはこの泰然の一角を針で突き透しても思を遂げる。中野君は好人物ながらそれほどに人を取り扱い得るほど世の中を知らない。
「実は今日御邪魔に上がったのは、少々御願があって参ったのですが」と今度は道也先生の方から打って出る。御願は同情の好敵手である。御願を持たない人には同情する張り合がない。
「はあ、何でも出来ます事なら」と中野君は快く承知した。
「実は今度江湖雑誌で現代青年の煩悶に対する解決と云う題で諸先生方の御高説を発表する計画がありまして、それで普通の大家ばかりでは面白くないと云うので、なるべく新しい方もそれぞれ訪問する訳になりましたので――そこで実はちょっと往って来てくれと頼まれて来たのですが、御差支がなければ、御話を筆記して参りたいと思います」
道也先生は静かに懐から手帳と鉛筆を取り出した。取り出しはしたものの別に筆記したい様子もなければ強いて話させたい景色も見えない。彼はかかる愚な問題を、かかる青年の口から解決して貰いたいとは考えていない。
「なるほど」と青年は、耀やく眼を挙げて、道也先生を見たが、先生は宵越の麦酒のごとく気の抜けた顔をしているので、今度は「さよう」と長く引っ張って下を向いてしまった。
「どうでしょう、何か御説はありますまいか」と催促を義理ずくめにする。ありませんと云ったら、すぐ帰る気かも知れない。
「そうですね。あったって、僕のようなものの云う事は雑誌へ載せる価値はありませんよ」
「いえ結構です」
「全体どこから、聞いていらしったんです。あまり突然じゃ纏った話の出来るはずがないですから」
「御名前は社主が折々雑誌の上で拝見するそうで」
「いえ、どうしまして」と中野君は横を向いた。
「何でもよいですから、少し御話し下さい」
「そうですね」と青年は窓の外を見て躊躇している。
「せっかく来たものですから」
「じゃ何か話しましょう」
「はあ、どうぞ」と道也先生鉛筆を取り上げた。
「いったい煩悶と云う言葉は近頃だいぶはやるようだが、大抵は当座のもので、いわゆる三日坊主のものが多い。そんな種類の煩悶は世の中が始まってから、世の中がなくなるまで続くので、ちっとも問題にはならないでしょう」
「ふん」と道也先生は下を向いたなり、鉛筆を動かしている。紙の上を滑らす音が耳立って聞える。
「しかし多くの青年が一度は必ず陥る、また必ず陥るべく自然から要求せられている深刻な煩悶が一つある。……」
鉛筆の音がする。
「それは何だと云うと――恋である……」
道也先生はぴたりと筆記をやめて、妙な顔をして、相手を見た。中野君は、今さら気がついたようにちょっとしょげ返ったが、すぐ気を取り直して、あとをつづけた。
「ただ恋と云うと妙に御聞きになるかも知れない。また近頃はあまり恋愛呼ばりをするのを人が遠慮するようであるが、この種の煩悶は大なる事実であって、事実の前にはいかなるものも頭を下げねばならぬ訳だからどうする事も出来ないのである」
道也先生はまた顔をあげた。しかし彼の長い蒼白い相貌の一微塵だも動いておらんから、彼の心のうちは無論わからない。
「我々が生涯を通じて受ける煩悶のうちで、もっとも痛切なもっとも深刻な、またもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一度びこの煩悶の炎火のうちに入ると非常な変形をうけるのです」
「変形? ですか」
「ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明瞭になるんです」
「自分が明瞭とは?」
「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯悟る事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋の苦みを甞めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾人をして煩悶せしめて、また吾人をして解脱せしむるのである。……」
「そのくらいなところで」と道也先生は三度目に顔を挙げた。
「まだ少しあるんですが……」
「承るのはいいですが、だいぶ多人数の意見を載せるつもりですから、かえってあとから削除すると失礼になりますから」
「そうですか、それじゃそのくらいにして置きましょう。何だかこんな話をするのは始めてですから、さぞ筆記しにくかったでしょう」
「いいえ」と道也先生は手帳を懐へ入れた。
青年は筆記者が自分の説を聴いて、感心の余り少しは賛辞でも呈するかと思ったが、相手は例のごとく泰然としてただいいえと云ったのみである。
「いやこれは御邪魔をしました」と客は立ちかける。
「まあいいでしょう」と中野君はとめた。せめて自分の説を少々でも批評して行って貰いたいのである。それでなくても、せんだって日比谷で聞いた高柳君の事をちょっと好奇心から、あたって見たいのである。一言にして云えば中野君はひまなのである。
「いえ、せっかくですが少々急ぎますから」と客はもう椅子を離れて、一歩テーブルを退いた。いかにひまな中野君も「それでは」とついに降参して御辞儀をする。玄関まで送って出た時思い切って
「あなたは、もしや高柳周作と云う男を御存じじゃないですか」と念晴らしのため聞いて見る。
「高柳? どうも知らんようです」と沓脱から片足をタタキへおろして、高い背を半分後ろへ捩じ向けた。
「ことし大学を卒業した……」
「それじゃ知らん訳だ」と両足ともタタキの上へ運んだ。
中野君はまだ何か云おうとした時、敷石をがらがらと車の軋る音がして梶棒は硝子の扉の前にとまった。道也先生が扉を開く途端に車上の人はひらり厚い雪駄を御影の上に落した。五色の雲がわが眼を掠めて過ぎた心持ちで往来へ出る。
時計はもう四時過ぎである。深い碧りの上へ薄いセピヤを流した空のなかに、はっきりせぬ鳶が一羽舞っている。雁はまだ渡って来ぬ。向から袴の股立ちを取った小供が唱歌を謡いながら愉快そうにあるいて来た。肩に担いだ笹の枝には草の穂で作った梟が踊りながらぶら下がって行く。おおかた雑子ヶ谷へでも行ったのだろう。軒の深い菓物屋の奥の方に柿ばかりがあかるく見える。夕暮に近づくと何となくうそ寒い。
薬王寺前に来たのは、帽子の庇の下から往来の人の顔がしかと見分けのつかぬ頃である。三十三所と彫ってある石標を右に見て、紺屋の横町を半丁ほど西へ這入るとわが家の門口へ出る、家のなかは暗い。
「おや御帰り」と細君が台所で云う。台所も玄関も大した相違のないほど小さな家である。
「下女はどっかへ行ったのか」と二畳の玄関から、六畳の座敷へ通る。
「ちょっと、柳町まで使に行きました」と細君はまた台所へ引き返す。
道也先生は正面の床の片隅に寄せてあった、洋灯を取って、椽側へ出て、手ずから掃除を始めた。何か原稿用紙のようなもので、油壺を拭き、ほやを拭き、最後に心の黒い所を好い加減になすくって、丸めた紙は庭へ棄てた。庭は暗くなって様子が頓とわからない。
机の前へ坐った先生は燐寸を擦って、しゅっと云う間に火をランプに移した。室はたちまち明かになる。道也先生のために云えばむしろ明かるくならぬ方が増しである。床はあるが、言訳ばかりで、現に幅も何も懸っておらん。その代り累々と書物やら、原稿紙やら、手帳やらが積んである。机は白木の三宝を大きくしたくらいな単簡なもので、インキ壺と粗末な筆硯のほかには何物をも載せておらぬ。装飾は道也先生にとって不必要であるのか、または必要でもこれに耽る余裕がないのかは疑問である。ただ道也先生がこの一点の温気なき陋室に、晏如として筆硯を呵するの勇気あるは、外部より見て争うべからざる事実である。ことによると先生は装飾以外のあるものを目的にして、生活しているのかも知れない。ただこの争うべからざる事実を確めれば、確かめるほど細君は不愉快である。女は装飾をもって生れ、装飾をもって死ぬ。多数の女はわが運命を支配する恋さえも装飾視して憚からぬものだ。恋が装飾ならば恋の本尊たる愛人は無論装飾品である。否、自己自身すら装飾品をもって甘んずるのみならず、装飾品をもって自己を目してくれぬ人を評して馬鹿と云う。しかし多数の女はしかく人世を観ずるにもかかわらず、しかく観ずるとはけっして思わない。ただ自己の周囲を纏綿する事物や人間がこの装飾用の目的に叶わぬを発見するとき、何となく不愉快を受ける。不愉快を受けると云うのに周囲の事物人間が依然として旧態をあらためぬ時、わが眼に映ずる不愉快を左右前後に反射して、これでも改めぬかと云う。ついにはこれでもか、これでもかと念入りの不愉快を反射する。道也の細君がここまで進歩しているかは疑問である。しかし普通一般の女性であるからには装飾気なきこの空気のうちに生息する結果として、自然この方向に進行するのが順当であろう。現に進行しつつあるかも知れぬ。
道也先生はやがて懐から例の筆記帳を出して、原稿紙の上へ写し始めた。袴を着けたままである。かしこまったままである。袴を着けたまま、かしこまったままで、中野輝一の恋愛論を筆記している。恋とこの室、恋とこの道也とはとうてい調和しない。道也は何と思って浄書しているかしらん。人は様々である、世も様々である。様々の世に、様々の人が動くのもまた自然の理である。ただ大きく動くものが勝ち、深く動くものが勝たねばならぬ。道也は、あの金縁の眼鏡を掛けた恋愛論よりも、小さくかつ浅いと自覚して、かく慎重に筆記を写し直しているのであろうか。床の後ろで
が鳴いている。
細君が襖をすうと開けた。道也は振り向きもしない。「まあ」と云ったなり細君の顔は隠れた。
下女は帰ったようである。煮豆が切れたから、てっか味噌を買って来たと云っている。豆腐が五厘高くなったと云っている。裏の専念寺で夕の御務めをかあんかあんやっている。
細君の顔がまた襖の後ろから出た。
「あなた」
道也先生は、いつの間にやら、筆記帳を閉じて、今度はまた別の紙へ、何か熱心に認めている。
「あなた」と妻君は二度呼んだ。
「何だい」
「御飯です」
「そうか、今行くよ」
道也先生はちょっと細君と顔を合せたぎり、すぐ机へ向った。細君の顔もすぐ消えた。台所の方でくすくす笑う声がする。道也先生はこの一節をかき終るまでは飯も食いたくないのだろう。やがて句切りのよい所へ来たと見えて、ちょっと筆を擱いて、傍へ積んだ草稿をはぐって見て「二百三十一頁」と独語した。著述でもしていると見える。
立って次の間へ這入る。小さな長火鉢に平鍋がかかって、白い豆腐が煙りを吐いて、ぷるぷる顫えている。
「湯豆腐かい」
「はあ、何にもなくて、御気の毒ですが……」
「何、なんでもいい。食ってさえいれば何でも構わない」と、膳にして重箱をかねたるごとき四角なものの前へ坐って箸を執る。
「あら、まだ袴を御脱ぎなさらないの、随分ね」と細君は飯を盛った茶碗を出す。
「忙がしいものだから、つい忘れた」
「求めて、忙がしい思をしていらっしゃるのだから、……」と云ったぎり、細君は、湯豆腐の鍋と鉄瓶とを懸け換える。
「そう見えるかい」と道也先生は存外平気である。
「だって、楽で御金の取れる口は断っておしまいなすって、忙がしくって、一文にもならない事ばかりなさるんですもの、誰だって酔興と思いますわ」
「思われてもしようがない。これがおれの主義なんだから」
「あなたは主義だからそれでいいでしょうさ。しかし私は……」
「御前は主義が嫌だと云うのかね」
「嫌も好もないんですけれども、せめて――人並には――なんぼ私だって……」
「食えさえすればいいじゃないか、贅沢を云や誰だって際限はない」
「どうせ、そうでしょう。私なんざどんなになっても御構いなすっちゃ下さらないのでしょう」
「このてっか味噌は非常に辛いな。どこで買って来たのだ」
「どこですか」
道也先生は頭をあげて向の壁を見た。鼠色の寒い色の上に大きな細君の影が写っている。その影と妻君とは同じように無意義に道也の眼に映じた。
影の隣りに糸織かとも思われる、女の晴衣が衣紋竹につるしてかけてある。細君のものにしては少し派出過ぎるが、これは多少景気のいい時、田舎で買ってやったものだと今だに記憶している。あの時分は今とはだいぶ考えも違っていた。己れと同じような思想やら、感情やら持っているものは珍らしくあるまいと信じていた。したがって文筆の力で自分から卒先して世間を警醒しようと云う気にもならなかった。
今はまるで反対だ。世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する、世は博士、学士までをも謳歌する。しかし公正な人格に逢うて、位地を無にし、金銭を無にし、もしくはその学力、才芸を無にして、人格そのものを尊敬する事を解しておらん。人間の根本義たる人格に批判の標準を置かずして、その上皮たる附属物をもってすべてを律しようとする。この附属物と、公正なる人格と戦うとき世間は必ず、この附属物に雷同して他の人格を蹂躙せんと試みる。天下一人の公正なる人格を失うとき、天下一段の光明を失う。公正なる人格は百の華族、百の紳商、百の博士をもってするも償いがたきほど貴きものである。われはこの人格を維持せんがために生れたるのほか、人世において何らの意義をも認め得ぬ。寒に衣し、餓に食するはこの人格を維持するの一便法に過ぎぬ。筆を呵し硯を磨するのもまたこの人格を他の面上に貫徹するの方策に過ぎぬ。――これが今の道也の信念である。この信念を抱いて世に処する道也は細君の御機嫌ばかり取ってはおれぬ。
壁に掛けてあった小袖を眺めていた道也はしばらくして、夕飯を済ましながら、
「どこぞへ行ったのかい」と聞く。
「ええ」と細君は二字の返事を与えた。道也は黙って、茶を飲んでいる。末枯るる秋の時節だけにすこぶる閑静な問答である。
「そう、べんべんと真田の方を引っ張っとく訳にも行きませず、家主の方もどうかしなければならず、今月の末になると米薪の払でまた心配しなくっちゃなりませんから、算段に出掛けたんです」と今度は細君の方から切り出した。
「そうか、質屋へでも行ったのかい」
「質に入れるようなものは、もうありゃしませんわ」と細君は恨めしそうに夫の顔を見る。
「じゃ、どこへ行ったんだい」
「どこって、別に行く所もありませんから、御兄さんの所へ行きました」
「兄の所? 駄目だよ。兄の所なんぞへ行ったって、何になるものか」
「そう、あなたは、何でも始から、けなしておしまいなさるから、よくないんです。いくら教育が違うからって、気性が合わないからって、血を分けた兄弟じゃありませんか」
「兄弟は兄弟さ。兄弟でないとは云わん」
「だからさ、膝とも談合と云うじゃありませんか。こんな時には、ちっと相談にいらっしゃるがいいじゃありませんか」
「おれは、行かんよ」
「それが痩我慢ですよ。あなたはそれが癖なんですよ。損じゃあ、ありませんか、好んで人に嫌われて……」
道也先生は空然として壁に動く細君の影を見ている。
「それで才覚が出来たのかい」
「あなたは何でも一足飛ね」
「なにが」
「だって、才覚が出来る前にはそれぞれ魂胆もあれば工面もあるじゃありませんか」
「そうか、それじゃ最初から聞き直そう。で、御前が兄のうちへ行ったんだね。おれに内所で」
「内所だって、あなたのためじゃありませんか」
「いいよ、ためでいいよ。それから」
「で御兄さんに、御目に懸っていろいろ今までの御無沙汰の御詫やら、何やらして、それから一部始終の御話をしたんです」
「それから」
「すると御兄さんが、そりゃ御前には大変気の毒だって大変私に同情して下さって……」
「御前に同情した。ふうん。――ちょっとその炭取を取れ。炭をつがないと火種が切れる」
「で、そりゃ早く整理しなくっちゃ駄目だ。全体なぜ今まで抛って置いたんだっておっしゃるんです」
「旨い事を云わあ」
「まだ、あなたは御兄さんを疑っていらっしゃるのね。罰があたりますよ」
「それで、金でも貸したのかい」
「ほらまた一足飛びをなさる」
道也先生は少々おかしくなったと見えて、にやりと下を向きながら、黒く積んだ炭を吹き出した。
「まあどのくらいあれば、これまでの穴が奇麗に埋るのかと御聞きになるから、――よっぽど言い悪かったんですけれども――とうとう思い切ってね……」でちょっと留めた。道也はしきりに吹いている。
「ねえ、あなた。とうとう思い切ってね――あなた。聞いていらっしゃらないの」
「聞いてるよ」と赫気で赤くなった顔をあげた。
「思い切って百円ばかりと云ったの」
「そうか。兄は驚ろいたろう」
「そうしたらね。ふうんて考えて、百円と云う金は、なかなか容易に都合がつく訳のものじゃない……」
「兄の云いそうな事だ」
「まあ聞いていらっしゃい。まだ、あとが有るんです。――しかし、ほかの事とは違うから、是非なければ困ると云うならおれが保証人になって、人から借りてやってもいいって仰しゃるんです」
「あやしいものだ」
「まあさ、しまいまで御聞きなさい。――それで、ともかくも本人に逢って篤と了簡を聞いた上にしようと云うところまでに漕ぎつけて来たのです」
細君は大功名をしたように頬骨の高い顔を持ち上げて、夫を覗き込んだ。細君の眼つきが云う。夫は意気地なしである。終日終夜、机と首っ引をして、兀々と出精しながら、妻と自分を安らかに養うほどの働きもない。
「そうか」と道也は云ったぎり、この手腕に対して、別段に感謝の意を表しようともせぬ。
「そうかじゃ困りますわ。私がここまで拵えたのだから、あとは、あなたが、どうとも為さらなくっちゃあ。あなたの楫のとりようでせっかくの私の苦心も何の役にも立たなくなりますわ」
「いいさ、そう心配するな。もう一ヵ月もすれば百や弐百の金は手に這入る見込があるから」と道也先生は何の苦もなく云って退けた。
江湖雑誌の編輯で二十円、英和字典の編纂で十五円、これが道也のきまった収入である。但しこのほかに仕事はいくらでもする。新聞にかく、雑誌にかく。かく事においては毎日毎夜筆を休ませた事はないくらいである。しかし金にはならない。たまさか二円、三円の報酬が彼の懐に落つる時、彼はかえって不思議に思うのみである。
この物質的に何らの功能もない述作的労力の裡には彼の生命がある。彼の気魄が滴々の墨汁と化して、一字一画に満腔の精神が飛動している。この断篇が読者の眼に映じた時、瞳裏に一道の電流を呼び起して、全身の骨肉が刹那に震えかしと念じて、道也は筆を執る。吾輩は道を載す。道を遮ぎるものは神といえども許さずと誓って紙に向う。誠は指頭より迸って、尖る毛穎の端に紙を焼く熱気あるがごとき心地にて句を綴る。白紙が人格と化して、淋漓として飛騰する文章があるとすれば道也の文章はまさにこれである。されども世は華族、紳商、博士、学士の世である。附属物が本体を踏み潰す世である。道也の文章は出るたびに黙殺せられている。妻君は金にならぬ文章を道楽文章と云う。道楽文章を作るものを意気地なしと云う。
道也の言葉を聞いた妻君は、火箸を灰のなかに刺したまま、
「今でも、そんな御金が這入る見込があるんですか」と不思議そうに尋ねた。
「今は昔より下落したと云うのかい。ハハハハハ」と道也先生は大きな声を出して笑った。妻君は毒気を抜かれて口をあける。
「どうりゃ一勉強やろうか」と道也は立ち上がる。その夜彼は彼の著述人格論を二百五十頁までかいた。寝たのは二時過である。
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