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二百十日(にひゃくとおか)
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一
ぶらりと両手を垂げたまま、圭さんがどこからか帰って来る。 「どこへ行ったね」 「ちょっと、町を歩行いて来た」 「何か観るものがあるかい」 「寺が一軒あった」 「それから」 「銀杏の樹が一本、門前にあった」 「それから」 「銀杏の樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった」 「這入って見たかい」 「やめて来た」 「そのほかに何もないかね」 「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」 「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」 「なるほどそうだね」と圭さん、首を捻る。圭さんは時々妙な事に感心する。しばらくして、捻ねった首を真直にして、圭さんがこう云った。 「それから鍛冶屋の前で、馬の沓を替えるところを見て来たが実に巧みなものだね」 「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそんなに珍しいかい」 「珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う」 「幾通りあるかな」 「あてて見たまえ」 「あてなくっても好いから教えるさ」 「何でも七つばかりある」 「そんなにあるかい。何と何だい」 「何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがす鑿と、鑿を敲く槌と、それから爪を削る小刀と、爪を刳る妙なものと、それから……」 「それから何があるかい」 「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしいには驚ろいた。あんなに、削られても、刳られても平気でいるぜ」 「爪だもの。人間だって、平気で爪を剪るじゃないか」 「人間はそうだが馬だぜ、君」 「馬だって、人間だって爪に変りはないやね。君はよっぽど呑気だよ」 「呑気だから見ていたのさ。しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗だね。ぴちぴち火花が出る」 「出るさ、東京の真中でも出る」 「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。そら、ここまで聞えるぜ」 初秋の日脚は、うそ寒く、遠い国の方へ傾いて、淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促がすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。 「聞えるだろう」と圭さんが云う。 「うん」と碌さんは答えたぎり黙然としている。隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている。 「そこで、その、相手が竹刀を落したんだあね。すると、その、ちょいと、小手を取ったんだあね」 「ふうん。とうとう小手を取られたのかい」 「とうとう小手を取られたんだあね。ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、竹刀を落したものだから、どうにも、こうにもしようがないやあね」 「ふうん。竹刀を落したのかい」 「竹刀は、そら、さっき、落してしまったあね」 「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」 「困らああね。竹刀も小手も取られたんだから」 二人の話しはどこまで行っても竹刀と小手で持ち切っている。黙然として、対坐していた圭さんと碌さんは顔を見合わして、にやりと笑った。 かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。癇走った上に何だか心細い。 「まだ馬の沓を打ってる。何だか寒いね、君」と圭さんは白い浴衣の下で堅くなる。碌さんも同じく白地の単衣の襟をかき合せて、だらしのない膝頭を行儀よく揃える。やがて圭さんが云う。 「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋があってね」 「豆腐屋があって?」 「豆腐屋があって、その豆腐屋の角から一丁ばかり爪先上がりに上がると寒磬寺と云う御寺があってね」 「寒磬寺と云う御寺がある?」 「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪ばかり見えて、本堂も庫裏もないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だか鉦を敲く」 「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」 「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんと幽かに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜が強く降って、布団のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮ぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃と、倒れかかった山門と、山門を埋め尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかを覗いた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の裏で海老のようになるのさ」 「海老のようになるって?」 「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」 「妙だね」 「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼で挽く音がする。ざあざあと豆腐の水を易える音がする」 「君の家は全体どこにある訳だね」 「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」 「だから、どこにある訳だね」 「すぐ傍さ」 「豆腐屋の向か、隣りかい」 「なに二階さ」 「どこの」 「豆腐屋の二階さ」 「へええ。そいつは……」と碌さん驚ろいた。 「僕は豆腐屋の子だよ」 「へええ。豆腐屋かい」と碌さんは再び驚ろいた。 「それから垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引っ張るとがらがら鳴る時分、白い靄が一面に降りて、町の外れの瓦斯灯に灯がちらちらすると思うとまた鉦が鳴る。かんかん竹の奥で冴えて鳴る。それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、腰障子をはめる」 「門前の豆腐屋と云うが、それが君のうちじゃないか」 「僕のうち、すなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。かんかんと云う声を聞きながら僕は二階へ上がって布団を敷いて寝る。――僕のうちの吉原揚は旨かった。近所で評判だった」 隣り座敷の小手と竹刀は双方ともおとなしくなって、向うの椽側では、六十余りの肥った爺さんが、丸い背を柱にもたして、胡坐のまま、毛抜きで顋の髯を一本一本に抜いている。髯の根をうんと抑えて、ぐいと抜くと、毛抜は下へ弾ね返り、顋は上へ反り返る。まるで器械のように見える。 「あれは何日掛ったら抜けるだろう」と碌さんが圭さんに質問をかける。 「一生懸命にやったら半日くらいで済むだろう」 「そうは行くまい」と碌さんが反対する。 「そうかな。じゃ一日かな」 「一日や二日で奇麗に抜けるなら訳はない」 「そうさ、ことによると一週間もかかるかね。見たまえ、あの丁寧に顋を撫で廻しながら抜いてるのを」 「あれじゃ。古いのを抜いちまわないうちに、新しいのが生えるかも知れないね」 「とにかく痛い事だろう」と圭さんは話頭を転じた。 「痛いに違いないね。忠告してやろうか」 「なんて」 「よせってさ」 「余計な事だ。それより幾日掛ったら、みんな抜けるか聞いて見ようじゃないか」 「うん、よかろう。君が聞くんだよ」 「僕はいやだ、君が聞くのさ」 「聞いても好いがつまらないじゃないか」 「だから、まあ、よそうよ」と圭さんは自己の申し出しを惜気もなし撤回した。 一度途切れた村鍛冶の音は、今日山里に立つ秋を、幾重の稲妻に砕くつもりか、かあんかあんと澄み切った空の底に響き渡る。 「あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の音が思い出される」と圭さんが腕組をしながら云う。 「全体豆腐屋の子がどうして、そんなになったもんだね」 「豆腐屋の子がどんなになったのさ」 「だって豆腐屋らしくないじゃないか」 「豆腐屋だって、肴屋だって――なろうと思えば、何にでもなれるさ」 「そうさな、つまり頭だからね」 「頭ばかりじゃない。世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも生涯豆腐屋さ。気の毒なものだ」 「それじゃ何だい」と碌さんが小供らしく質問する。 「何だって君、やっぱりなろうと思うのさ」 「なろうと思ったって、世の中がしてくれないのがだいぶあるだろう」 「だから気の毒だと云うのさ。不公平な世の中に生れれば仕方がないから、世の中がしてくれなくても何でも、自分でなろうと思うのさ」 「思って、なれなければ?」 「なれなくっても何でも思うんだ。思ってるうちに、世の中が、してくれるようになるんだ」と圭さんは横着を云う。 「そう注文通りに行けば結構だ。ハハハハ」 「だって僕は今日までそうして来たんだもの」 「だから君は豆腐屋らしくないと云うのだよ」 「これから先、また豆腐屋らしくなってしまうかも知れないかな。厄介だな。ハハハハ」 「なったら、どうするつもりだい」 「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに、世の中が云う事をきかなければ、向の方が悪いのだろう」 「しかし世の中も何だね、君、豆腐屋がえらくなるようなら、自然えらい者が豆腐屋になる訳だね」 「えらい者た、どんな者だい」 「えらい者って云うのは、何さ。例えば華族とか金持とか云うものさ」と碌さんはすぐ様えらい者を説明してしまう。 「うん華族や金持か、ありゃ今でも豆腐屋じゃないか、君」 「その豆腐屋連が馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中のような顔をしているから駄目だよ」 「だから、そんなのは、本当の豆腐屋にしてしまうのさ」 「こっちがする気でも向がならないやね」 「ならないのをさせるから、世の中が公平になるんだよ」 「公平に出来れば結構だ。大いにやりたまえ」 「やりたまえじゃいけない。君もやらなくっちゃあ。――ただ、馬車へ乗ったり、別荘を建てたりするだけならいいが、むやみに人を圧逼するぜ、ああ云う豆腐屋は。自分が豆腐屋の癖に」と圭さんはそろそろ慷慨し始める。 「君はそんな目に逢った事があるのかい」 圭さんは腕組をしたままふふんと云った。村鍛冶の音は不相変かあんかあんと鳴る。 「まだ、かんかん遣ってる。――おい僕の腕は太いだろう」と圭さんは突然腕まくりをして、黒い奴を碌さんの前に圧しつけた。 「君の腕は昔から太いよ。そうして、いやに黒いね。豆を磨いた事があるのかい」 「豆も磨いた、水も汲んだ。――おい、君粗忽で人の足を踏んだらどっちが謝まるものだろう」 「踏んだ方が謝まるのが通則のようだな」 「突然、人の頭を張りつけたら?」 「そりゃ気違だろう」 「気狂なら謝まらないでもいいものかな」 「そうさな。謝まらさす事が出来れば、謝まらさす方がいいだろう」 「それを気違の方で謝まれって云うのは驚ろくじゃないか」 「そんな気違があるのかい」 「今の豆腐屋連はみんな、そう云う気違ばかりだよ。人を圧迫した上に、人に頭を下げさせようとするんだぜ。本来なら向が恐れ入るのが人間だろうじゃないか、君」 「無論それが人間さ。しかし気違の豆腐屋なら、うっちゃって置くよりほかに仕方があるまい」 圭さんは再びふふんと云った。しばらくして、 「そんな気違を増長させるくらいなら、世の中に生れて来ない方がいい」と独り言のようにつけた。 村鍛冶の音は、会話が切れるたびに静かな里の端から端までかあんかあんと響く。 「しきりにかんかんやるな。どうも、あの音は寒磬寺の鉦に似ている」 「妙に気に掛るんだね。その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。――全体君が豆腐屋の伜から、今日までに変化した因縁はどう云う筋道なんだい。少し話して聞かせないか」 「聞かせてもいいが、何だか寒いじゃないか。ちょいと夕飯前に温泉に這入ろう。君いやか」 「うん這入ろう」 圭さんと碌さんは手拭をぶら下げて、庭へ降りる。棕梠緒の貸下駄には都らしく宿の焼印が押してある。
二
「この湯は何に利くんだろう」と豆腐屋の圭さんが湯槽のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。 「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、臍ばかりざぶざぶ洗ったって、出臍は癒らないぜ」 「純透明だね」と出臍の先生は、両手に温泉を掬んで、口へ入れて見る。やがて、 「味も何もない」と云いながら、流しへ吐き出した。 「飲んでもいいんだよ」と碌さんはがぶがぶ飲む。 圭さんは臍を洗うのをやめて、湯槽の縁へ肘をかけて漫然と、硝子越しに外を眺めている。碌さんは首だけ湯に漬かって、相手の臍から上を見上げた。 「どうも、いい体格だ。全く野生のままだね」 「豆腐屋出身だからなあ。体格が悪るいと華族や金持ちと喧嘩は出来ない。こっちは一人向は大勢だから」 「さも喧嘩の相手があるような口振だね。当の敵は誰だい」 「誰でも構わないさ」 「ハハハ呑気なもんだ。喧嘩にも強そうだが、足の強いのには驚いたよ。君といっしょでなければ、きのうここまでくる勇気はなかったよ。実は途中で御免蒙ろうかと思った」 「実際少し気の毒だったね。あれでも僕はよほど加減して、歩行いたつもりだ」 「本当かい? はたして本当ならえらいものだ。――何だか怪しいな。すぐ付け上がるからいやだ」 「ハハハ付け上がるものか。付け上がるのは華族と金持ばかりだ」 「また華族と金持ちか。眼の敵だね」 「金はなくっても、こっちは天下の豆腐屋だ」 「そうだ、いやしくも天下の豆腐屋だ。野生の腕力家だ」 「君、あの窓の外に咲いている黄色い花は何だろう」 碌さんは湯の中で首を捩じ向ける。 「かぼちゃさ」 「馬鹿あ云ってる。かぼちゃは地の上を這ってるものだ。あれは竹へからまって、風呂場の屋根へあがっているぜ」 「屋根へ上がっちゃ、かぼちゃになれないかな」 「だっておかしいじゃないか、今頃花が咲くのは」 「構うものかね、おかしいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」 「そりゃ唄かい」 「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半に至って、つい唄になってしまったようだ」 「屋根にかぼちゃが生るようだから、豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ。不都合千万だよ」 「また慷慨か、こんな山の中へ来て慷慨したって始まらないさ。それより早く阿蘇へ登って噴火口から、赤い岩が飛び出すところでも見るさ。――しかし飛び込んじゃ困るぜ。――何だか少し心配だな」 「噴火口は実際猛烈なものだろうな。何でも、沢庵石のような岩が真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。それが三四町四方一面に吹き出すのだから壮んに違ない。――あしたは早く起きなくっちゃ、いけないよ」 「うん、起きる事は起きるが山へかかってから、あんなに早く歩行いちゃ、御免だ」と碌さんはすぐ予防線を張った。 「ともかくも六時に起きて……」 「六時に起きる?」 「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社へ参詣して、十二時から登るのだ」 「へえ、誰が」 「僕と君がさ」 「何だか君一人りで登るようだぜ」 「なに構わない」 「ありがたい仕合せだ。まるで御供のようだね」 「うふん。時に昼は何を食うかな。やっぱり饂飩にして置くか」と圭さんが、あすの昼飯の相談をする。 「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで杉箸を食うようで腹が突張ってたまらない」 「では蕎麦か」 「蕎麦も御免だ。僕は麺類じゃ、とても凌げない男だから」 「じゃ何を食うつもりだい」 「何でも御馳走が食いたい」 「阿蘇の山の中に御馳走があるはずがないよ。だからこの際、ともかくも饂飩で間に合せて置いて……」 「この際は少し変だぜ。この際た、どんな際なんだい」 「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」 「そんな旅行なのかい。ちっとも知らなかったぜ。剛健はいいが饂飩は平に不賛成だ。こう見えても僕は身分が好いんだからね」 「だから柔弱でいけない。僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」 「痩せたろう」と碌さんが気の毒な事を聞く。 「そんなに痩せもしなかったがただ虱が湧いたには困った。――君、虱が湧いた事があるかい」 「僕はないよ。身分が違わあ」 「まあ経験して見たまえ。そりゃ容易に猟り尽せるもんじゃないぜ」 「煮え湯で洗濯したらよかろう」 「煮え湯? 煮え湯ならいいかも知れない。しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな」 「なあるほど、銭が一文もないんだね」 「一文もないのさ」 「君どうした」 「仕方がないから、襯衣を敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ叩いた。そうしたら虱が死なないうちに、襯衣が破れてしまった」 「おやおや」 「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」 「さぞ困ったろうね」 「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。滅多に困っちゃ仕方がない」 「すると僕なんぞも、今に、とおふい、油揚、がんもどきと怒鳴って、あるかなくっちゃならないかね」 「華族でもない癖に」 「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」 「あってもそのくらいじゃ駄目だ」 「このくらいじゃ豆腐いと云う資格はないのかな。大に僕の財産を見縊ったね」 「時に君、背中を流してくれないか」 「僕のも流すのかい」 「流してもいいさ。隣りの部屋の男も流しくらをやってたぜ、君」 「隣りの男の背中は似たり寄ったりだから公平だが、君の背中と、僕の背中とはだいぶ面積が違うから損だ」 「そんな面倒な事を云うなら一人で洗うばかりだ」と圭さんは、両足を湯壺の中にうんと踏ん張って、ぎゅうと手拭をしごいたと思ったら、両端を握ったまま、ぴしゃりと、音を立てて斜に膏切った背中へあてがった。やがて二の腕へ力瘤が急に出来上がると、水を含んだ手拭は、岡のように肉づいた背中をぎちぎち磨り始める。 手拭の運動につれて、圭さんの太い眉がくしゃりと寄って来る。鼻の穴が三角形に膨脹して、小鼻が勃として左右に展開する。口は腹を切る時のように堅く喰締ったまま、両耳の方まで割けてくる。 「まるで仁王のようだね。仁王の行水だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」 圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦る。擦っては時々、手拭を温泉に漬けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗と膏と垢と温泉の交ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。 「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽を飛び出した。飛び出しはしたものの、感心の極、流しへ突っ立ったまま、茫然として、仁王の行水を眺めている。 「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが槽のなかから質問する。 「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」 「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の一端を放すや否や、ざぶんと温泉の中へ、石のように大きな背中を落す。満槽の湯は一度に面喰って、槽の底から大恐惶を持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへ溢れだす。 「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。 「なるほどそう遠慮なしに振舞ったら、好い心持に相違ない。君は豪傑だよ」 「あの隣りの客は竹刀と小手の事ばかり云ってるじゃないか。全体何者だい」と圭さんは呑気なものだ。 「君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう」 「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか訳が分らない」 「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね――」と碌さんが隣りの真似をする。 「ハハハハそこでそら竹刀を落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似して見る。 「なにあれでも、実は慷慨家かも知れない。そらよく草双紙にあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊の張本毛剃九右衛門て」 「海賊らしくもないぜ。さっき温泉に這入りに来る時、覗いて見たら、二人共木枕をして、ぐうぐう寝ていたよ」 「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。 「竹刀も取られるんだあねか。ハハハハ。何でも赤い表紙の本を胸の上へ載せたまんま寝ていたよ」 「その赤い本が、何でもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。 「何だろう、あの本は」 「伊賀の水月さ」と碌さんは、躊躇なく答えた。 「伊賀の水月? 伊賀の水月た何だい」 「伊賀の水月を知らないのかい」 「知らない。知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首を捻った。 「恥じゃないが話せないよ」 「話せない? なぜ」 「なぜって、君、荒木又右衛門を知らないか」 「うん、又右衛門か」 「知ってるのかい」と碌さんまた湯の中へ這入る。圭さんはまた槽のなかへ突立った。 「もう仁王の行水は御免だよ」 「もう大丈夫、背中はあらわない。あまり這入ってると逆上るから、時々こう立つのさ」 「ただ立つばかりなら、安心だ。――それで、その、荒木又右衛門を知ってるかい」 「又右衛門? そうさ、どこかで聞いたようだね。豊臣秀吉の家来じゃないか」と圭さん、飛んでもない事を云う。 「ハハハハこいつはあきれた。華族や金持ちを豆腐屋にするだなんて、えらい事を云うが、どうも何も知らないね」 「じゃ待った。少し考えるから。又右衛門だね。又右衛門、荒木又右衛門だね。待ちたまえよ、荒木の又右衛門と。うん分った」 「何だい」 「相撲取だ」 「ハハハハ荒木、ハハハハ荒木、又ハハハハ又右衛門が、相撲取り。いよいよ、あきれてしまった。実に無識だね。ハハハハ」と碌さんは大恐悦である。 「そんなにおかしいか」 「おかしいって、誰に聞かしたって笑うぜ」 「そんなに有名な男か」 「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」 「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」 「そら、落ち行く先きは九州相良って云うじゃないか」 「云うかも知れんが、その句は聞いた事がないようだ」 「困った男だな」 「ちっとも困りゃしない。荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、毫も僕の人格には関係はしまい。それよりも五里の山路が苦になって、やたらに不平を並べるような人が困った男なんだ」 「腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。とうてい叶いっこない。そこへ行くと、どうしても豆腐屋出身の天下だ。僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった」 「君は第一平生から惰弱でいけない。ちっとも意志がない」 「これでよっぽど有るつもりなんだがな。ただ饂飩に逢った時ばかりは全く意志が薄弱だと、自分ながら思うね」 「ハハハハつまらん事を云っていらあ」 「しかし豆腐屋にしちゃ、君のからだは奇麗過ぎるね」 「こんなに黒くってもかい」 「黒い白いは別として、豆腐屋は大概箚青があるじゃないか」 「なぜ」 「なぜか知らないが、箚青があるもんだよ。君、なぜほらなかった」 「馬鹿あ云ってらあ。僕のような高尚な男が、そんな愚な真似をするものか。華族や金持がほれば似合うかも知れないが、僕にはそんなものは向かない。荒木又右衛門だって、ほっちゃいまい」 「荒木又右衛門か。そいつは困ったな。まだそこまでは調べが届いていないからね」 「そりゃどうでもいいが、ともかくもあしたは六時に起きるんだよ」 「そうして、ともかくも饂飩を食うんだろう。僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが、君の意志の強固なのにも辟易するよ。うちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。全く唯々諾々として命令に服しているんだ。豆腐屋主義はきびしいもんだね」 「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」 「僕がかい」 「なあに世の中の奴らがさ。金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」 「しかしそりゃ見当違だぜ。そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」 「なあに構わんさ」 「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。その上旅費は奇麗に折半されるんだから、愚の極だ」 「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる阿蘇の噴火口を見る事ができるだろう」 「可愛想に。一人だって阿蘇ぐらい登れるよ」 「しかし華族や金持なんて存外意気地がないもんで……」 「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら」 「いずれ、その内持ってくつもりだがね。――意気地がなくって、理窟がわからなくって、個人としちゃあ三文の価値もないもんだ」 「だから、どしどし豆腐屋にしてしまうさ」 「その内、してやろうと思ってるのさ」 「思ってるだけじゃ剣呑なものだ」 「なあに年が年中思っていりゃ、どうにかなるもんだ」 「随分気が長いね。もっとも僕の知ったものにね。虎列拉になるなると思っていたら、とうとう虎列拉になったものがあるがね。君のもそう、うまく行くと好いけれども」 「時にあの髯を抜いてた爺さんが手拭をさげてやって来たぜ」 「ちょうど好いから君一つ聞いて見たまえ」 「僕はもう湯気に上がりそうだから、出るよ」 「まあ、いいさ、出ないでも。君がいやなら僕が聞いて見るから、もう少し這入っていたまえ」 「おや、あとから竹刀と小手がいっしょに来たぜ」 「どれ。なるほど、揃って来た。あとから、まだ来るぜ。やあ婆さんが来た。婆さんも、この湯槽へ這入るのかな」 「僕はともかくも出るよ」 「婆さんが這入るなら、僕もともかくも出よう」 風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、素肌を臍のあたりまで吹き抜けた。出臍の圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥を無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向では阿蘇の山がごううごううと遠くながら鳴っている。 「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。 「鳴ってるぜ。愉快だな」と圭さんが云う。
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作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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