您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 夏目 漱石 >> 正文

創作家の態度(そうさくかのたいど)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 8:58:26  点击:  切换到繁體中文

演題は「創作家の態度」と云うのであります。態度と云うのは心の持ち方、物の観方みかたくらいに解釈しておいて下さればよろしい。この、心の持ち方、物の観方で十人、十色さまざまの世界ができまたさまざまの世界観が成り立つのは申すまでもない。一例を上げて申すと、もし諸君が私に向って月の形はどんなだと聞かれれば、私はすぐに丸いと答える。諸君も定めし御異存はなかろうと思う。ところがこの間ある西洋人の書いたものを見たら、我々は普通月を半円形のものと解しているとあったのみか、なぜまんまるなものと思っていぬかと云う訳までが二三行つけ加えてあったんで、少し驚いたくらいであります。我々は教育の結果、習慣の結果、ある眼識で外界を観、ある態度で世相を眺め、そうしてそれがしんの外界で、また真の世相と思っている。ところが何かの拍子ひょうしで全然種類の違った人――商人でも、政事家でもあるいは宗教家でも何でもよろしい。なるべく縁の遠い関係の薄い先生方にって、その人々の意見を聞いて見ると驚ろく事があります。それらの人の世界観に誤謬ごびゅうがあるので驚くと云うよりも、世の中はこうも観られるものかと感心する方の驚ろき方であります。ちょうど前に述べた我々が月の恰好かっこうに対する考えの差と同じであります。こう云うと人間がばらばらになって、相互の心に統一がない、きわめて不安な心持になりますが、その代り、誰がどう見ても変らない立場におって、申し合せたように一致した態度に出る事もたくさんあるから、そう苦になるほどの混雑も起らないのであります。(少なくとも実際上)ジェームスと云う人が吾人の意識するところの現象は皆撰択せんたくたものだと云う事を論じているうちに、こんな例をげています。――撰択の議論はとにかく、その例がここの説明にはもっとも適切だと思いますから、ちょっと借用して弁じます。今ここに四角があるとする。するとこの四角を見る立場はいろいろである。横からも、たてからも、筋違すじかいからも、眼の位置と、角度を少し変えれば千差万別に見る事ができる。そうしてそのたびたびに四角の恰好が違う。けれども我々が四角に対する考は申し合せたように一致している。あらゆる見方、あらゆる恰好のうちで、たった一つ。――すなわち吾人の視線が四角形の面に直角に落ちる時に映じた形を正当な四角形だと心得ている。これを私の都合の好いように言い換えると、吾人は四角形を観る態度においてことごとく一致しているのであります。また別の例を申しますと彫刻などで云う foreshortening と云う事があります。誰でも心得ている事でありますが、人が手でも足でも前の方に出している姿勢を、こちらから眺めると、実際の手や足よりも短かく見えます。けれども本来はあれより長いものだと思って見ています。だから画心のない吾々われわれが手や足を描こうとすると本来そのままの足や手を、方向のいかんにかかわらず、紙の上にあらわしたくなる。あらわして見るとどうも釣合がわるい。悪いけれども腹が承知をしないで妙な矛盾を感ずる。小供のかいた画を見るとこの心持ちが思い切って正直に出ています。これもこの際都合のいいように翻訳して云いますと、吾々が手や足の長さに対する態度はちゃんと申し合せたように一致していると云う事になります。
 してみると世界は観様みようでいろいろに見られる。極端に云えば人々にんにん個々別々の世界を持っていると云っても差支さしつかえない。同時にその世界のある部分は誰が見ても一様である。始めから相談して、こう見ようじゃありませんかと、規約の束縛を冥々めいめいのうちに受けている。そこで人間の頭が複雑になればなるほど、観察される事物も複雑になって来る。複雑になるんではないが、単純なものを複雑な頭でいろいろに見るから、つまりは物自身が複雑に変化すると同様の結果におちいるのであります。これを前の言葉に戻して云うと、世が進むに従って、複雑な世界と複雑な世界観ができて、そうして一方ではこの複雑なものが統一される区域もひろがって来るのであります。
 そこで創作家も一種の人間でありますから各々めいめい勝手な世界観を持って、勝手な世界を眺めているに違ない。しかしながらすでに創作家と云う名を受けて、官吏とか商人とか、法律家とかから区別される以上は、この名称は単に鈴木とか、山田とか云う空名と見る訳には行かない。内実においてそれ相当の特性があって他の職業と区別されているのかも知れない。だから、この人々の立場を研究して見たらば、多少の御参考になりはすまいかと思ってこの演題を掲げた訳であります。
 そこで、この問題を研究するの方法について述べますと、第一には歴史的の研究があります。これは創作家の世界観のまとまってあらわれた著作そのものを比較して、その特性を綜合そうごうした上で、これに一種の名称(自然派とか浪漫派とか)を与えて、それから年代を追ってその発展をあとづけるのであります。いわゆる文学史であります。この間中からして、日本で大分自然派の論が盛になりましていろいろの雑誌にその説明などがたくさん出て、私なども大分利益を受けました。我々日本人が仏蘭西フランスの自然派はこう発達したの、独乙ドイツの自然派は今こんな具合だのという事を承知したのは、全くこの歴史研究の御蔭おかげ至極しごく結構な事と思います。
 ただこの種の研究について私の飽き足らないところを云うと、あるいは下のような弊がありはすまいかと思われます。
 (一)[#(一)は縦中横] 歴史の研究によって、自家を律せんとすると、相当の根拠こんきょを見出す前に、現在すなわち新という事と、価値という事を同一視するかたむきが生じやすくはないかと思われます。すべての心的現象は過程であるからして、Bという現象は、Aという現象に次いで起るのはもちろんであります。したがってBの価値はBの性質のみによって定まらない、Bの前に起ったAと云う現象のために支配せられている事ももちろんであります。腹が減るという現象が心に起ればこそめしうまいという現象が次いで起るので、必ずしも料理が上等だから旨かったとばかりは断言できにくいのであります。そこで吾々はAと云う現象を心裡しんりに認めると、これに次いで起るべきBについては、その性質やら、強度やら、いろいろな条件について出来得る限りの撰択せんたくをする、またせねばならぬ訳であります。ちょうど車を引いて坂を下りかけたようなもので前の一歩は後の一歩を支配する。後の一歩は前の一歩の趨勢すうせいに応ずるような調子で出て行かなければうまく行かない。人間の歴史はこう云う連鎖で結びつけられているのだから、けっして切り放して見てもその価値は分りません。仰山ぎょうさんに言うと一時間の意識はその人の生涯しょうがいの意識を包含していると云っても不条理ではありません。したがって人には現在が一番価値があるように思われる。一番意味があるごとく感ぜられる。現在がすべての標準として適当だと信じられる。だから明日あしたになると何だ馬鹿馬鹿しい、どうして、あんな気になれたかと思う事がよくあります。むかし恋をした女を十年たって考えると、なぜまあ、あれほど逆上のぼせられたものかなあと感心するが、当時はその逆上がもっともで、理の当然で、実に自然で、絶対に価値のある事としか思われなかったのであります。一国の歴史で申しても、一国内の文学だけの歴史で申してもこれと同様の因果いんがに束縛されているのはもちろんであります。現代の仏蘭西フランス人が革命当時の事を考えたら無茶だと思うかも知れず。また浪漫派の勝利を奏したエルナニ事件を想像しても、ああ熱中しないでもよかろうくらいには感ずるだろうと思います。がこれが因果であって見れば致し方がない。ただ気をつけてしかるべき事は、自分の心的状態がまだそんな廻り合せにならないのに、人の因果を身に引き受けて、やきもきあせるのは、多少ひと疝気せんきを頭痛に病むのかたむきがあるように思います。ところが歴史的研究だけを根本義として自己の立脚地を定めようとすると、わるくするとこの弊に陥り安いようであります。というものは現に研究している事が自分の歴史ならかろうが人の歴史である。人はそれぞれ勝手な因をいて果を得て、現在を標準として得意である。それを遠くから研究して、彼の現在が、こうだから自分の現在もそうしなければならないとなると、少し無理ができます。自己の傾向がそこへ向いていないのに、向いていると同様の仕事をしなければならなくなる。云わば御付合になる。酷評を加えると自分から出た行為動作もしくは立場でなくって、模傚もこうになる。物真似ものまねに帰着する。もとより我々は物真似が好きに出来上っているから、しても構わない。時と場合によると物真似をする方がその間の手数と手続と、煩瑣はんさな過程を抜きにして、すぐさま結局だけを応用する事ができるから非常に調法で便利であります。現に電信、電話、汽車、汽船を始めとして、およそ我国に行われるいわゆる文明の利器というものはことごとく物真似から出来上ったものであります。至極しごくよろしい。人にもちかして、自分が寝ながらにしてこれを平げるの観があって、すこぶる痛快であります。がこの現象をすぐ応用して、文学などにも持って行ける、また持って行かなければならないと結論しては、少し寸法が違ってるように思います。と云うものは理学工学その他の科学もしくはその応用は研究の年代を重ねるに従って、一定の方向に向って発達するもので、どの国民がやり出しても、同程度の頭で同程度の勉強をする以上は一日早くやれば早くやった方が勝になるような学問で、しかも一日後れたものは、必ず、一日早く進んだもののあとを(一筋道である)通過しなければならない性質のものであります。歩く道が一筋で、さきが進んでいる以上は、こっちの到着点も明らかに分っているんだから、できるだけ早くかぶとを脱いで降参する方が得策であります。真似をすると云うと人聞ひとぎきが悪いが骨を折らないで、うまい汁を吸うほど結構な事はない。この点において私は模傚に至極しごく賛成である。しかし人間の内部の歴史になると、またその内部の歴史が外面にあらわれた現象になると、そう簡単には行きませんようです。風俗でも習慣でも、情操でも、西洋の歴史にあらわれたものだけが風俗と習慣と情操であって、外に風俗も習慣も情操もないとは申されない。また西洋人が自己の歴史で幾多の変遷を経て今日に至った最後の到着点が必ずしも標準にはならない。(彼らには標準であろうが)ことに文学にってはそうは参りません。多くの人は日本の文学を幼稚だと云います。情けない事に私もそう思っています。しかしながら、自国の文学が幼稚だと自白するのは、今日の西洋文学が標準だと云う意味とは違います。幼稚なる今日の日本文学が発達すれば必ず現代の露西亜ロシア文学にならねばならぬものだとは断言できないと信じます。または必ずユーゴーからバルザック、バルザックからゾラと云う順序を経て今日の仏蘭西フランス文学と一様な性質のものに発展しなければならないと云う理由も認められないのであります。幼稚な文学が発達するのは必ず一本道で、そうして落ちつく先は必ず一点であると云う事を理論的に証明しない以上は現代の西洋文学の傾向が、幼稚なる日本文学の傾向とならねばならんとは速断であります。またこの傾向が絶体に正しいとも論結はできにくいと思います。一本道の科学では新すなわち正と云う事が、ある程度において言われるかも知れませんが、発展の道が入り組んでいろいろ分れる以上はまた分れ得る以上は西洋人の新が必ずしも日本人に正しいとは申しようがない。しかしてその文学が一本道に発達しないものであると云う事は、理窟りくつはさておいて、現に当代各国の文学――もっとも進歩している文学――を比較して見たら一番よく分るだろうと思います。近頃のように交通機関の備った時代ですら、露西亜文学は依然として露西亜風で、仏蘭西文学はやはり仏蘭西流で、独乙ドイツ英吉利イギリスもまたそれぞれに独乙英吉利的な特長があるだろうと思います。したがって文学は汽車や電車と違って、現今の西洋の真似をしたって、さほど痛快な事はないと思います。それよりも自分の心的状態に相当して、自然と無理をしないで胸中に起って来る現象を表現する方がかえって、自分のものらしくって生命があるかも知れません。
 もっとも日本だって孤立して生存している国柄くにがらではない。やっぱり西洋と御付合をして大分ばたくさくなりつつある際だから、西洋の現代文学を研究して、その歴史的の由来を視て、ははあ西洋人は、今こんな立場で書いてるなくらいは心得ておかなくっちゃなりません。たとえ夢中に真似まねをするのが悪いと云っても、先方の立場その他を参考にするのはもちろん必要であります。文学はぜん申したような特色のものではありますが、その特色のうちには一本調子に発達する科学の影響がたくさん流れ込んで来ますから、定数として動かすべからざるこの要素が、いかに科学の進歩に連れて文学の各局部をおかしているかを見るのは、科学思想の発達しない日本人が、いたずらに自己の傾向ばかりふり廻していては、分らないので、そう頑張がんばっていてはついには正宗の名刀で速射砲と立合をするような奇観を呈出するかも知れません。
 して見ると歴史的研究は前のような弊もあるが、けっして閑却すべからざるものでありますから、私の希望を云うと、歴史を研究するならばその研究の結果して、綜合的そうごうてきに現代精神とはこんなもので、この精神がないものはほとんど文学として通用しないものだと云う事を指摘して事実の上に証明したいのであります。私の現代精神と云うのは、今月もしくは先月新らしくできた作物そのものについて、この作物は現代精神をあらわしている云々というような論じ方ではありません。過去一二世紀に渡って、(もしくはもっとさかのぼっても、よろしい)、人の心を動かした有名な傑作を通覧してその特性(一つでなくてもよろしい。また矛盾併立へいりつしていても差支さしつかえない)を見出して行く事であります。そうすると一年や十年の流行以上に比較的永久な創作の要素がざっと明暸めいりょうになるだろうと思います。少なくとも吾々の子もしくは孫時代までは変らない特性が出てくるだろうと思います。もし標準が必要とあるならば、これでこそ多少の標準ができるとも云い得るでしょう。こう云う手数をして現代精神を極めたからと云って、それより以前に出たものには現代精神がないと云う訳にはならない。たとえばダンテの神曲に見えるような考を持っている人は今の世にはたくさんない。また神曲の真似まねをした作物を出そうと云う男もありますまい。しかしあの神曲のうちから、現代精神を引き出せばいくらでも出て来るにきまっている。今の人の心に訴える箇所はすなわち現代精神であります。デカメロンそのままを春陽堂から出版したって読み手はないにきまっている。しかしあの中に現代精神すなわち種々な点において吾人を動かす自然派のような所はいくらでもあります。ずっと昔にさかのぼってホーマーはどうです。全体から云うとむしろ馬鹿気ている。誰もイリアッドが書いて見たいと云う人もあるまいが、そのイリアッドがやはり現代の人に読み得るところ、読んで面白いところ、読んで拍案の概があるところ、浪漫的ロマンチックなところ、が少なくはなかろうと思う。こう考えて見ると作物は時代の新旧ばかりで評をするよりも現代精神にリファーして評価すべき事となります。そうしてこの現代精神は実を云うと、読者がめいめい胸の中にもっている。ただ茫乎漠然ぼうこばくぜんたるある標準になって這入はいっているのだから、私の申出しはこの茫乎漠然たるものを歴史的の研究で、もっと明暸に、もっと一般に通用するものにしたいと云う動議にほかならんのであります。諸君の御存じのブランデスと云う人の書いた十九世紀文学の潮流という書物があります。読んで見るとなかなか面白い。独乙ドイツの浪漫派だとか、英吉利イギリスの自然派だとか表題をつけて、その表題の下に、いくたりも人間の頭数を並べて論じてあります。これで面白いのでありますが、私が読んで妙に思ったのは、こう一題目の下にくくられてしまっては括られた本人が押し込められたなり出る事ができないような気がした事です。英吉利の自然派はけっして独乙の浪漫派と一致する事は許さぬ。一点も共通なところがあってはならぬと云わぬばかりの書き方のように感じられました。無論ブランデスの評した作家はかくのごとく水と油のように区別のあったものかも知れない。しかしながら、こう書かれると自然派へ属するものは浪漫派をのぞいちゃならない。浪漫派へ押し込めたものは自然派へ足を出しちゃ駄目だと、あたかも先天的にこんな区別のあるごとく感ぜられて、後世の筆をって文壇に立つものも截然せつぜんとどっちかに片づけなければならんかのごとき心持がしますからして、ちょっと誤解を生じやすくなります。さればといってこの二派が先天的に哲理上こう違うから微塵みじんも一致するものでないという理窟りくつも書いてなし、また理論上文芸の流派は是非こう分化するものだとも教えてくれない。ただ著者が諸家の詩歌文章を説明するくだりを、そうですかそうですかと聞いているようなものでありました。しかしこれは少し困る。たとえば学派を分けてあれは早稲田派だ、これは大学派だとしてすましているようなものであります。それほど判然たる区別があるかないか分らないが、よしあったにしても早稲田派と大学派は或る点において同じ説を吐いてはならないとしつけるのみか、たとい実際は同じ説でも、なに違ってるよ。早稲田だもの、大学だものとただ名前だけできめてしまう弊が起りやすい。私の現代精神の綜合そうごうと云うのは、この弊を救うためで、一方ではこの窮窟な束縛を解くと同時に、名にかのうたる実を有する主義主張を並立せしめようとするためであります。
 けれども、こういう研究は私にはちょっと臆劫おっくうでなかなかできないから、歴史的に行くと自然現代の西洋作家を実価以上にかぶへいが起りやすいだろうと思います。そこで歴史的研究以外の立場から創作家の態度を御話する事にしました。
 (二)[#(二)は縦中横] もう一つ歴史的研究に対して非難したいのは、ちと哲学者じみますが、こう云う事であります。すべての歴史は与えられた事実であります。すでに事実である以上は人間の力でどうする事もできない。げんとして存在しているから、この点において争うべからざる真であります。しかしながらこれが唯一ゆいいつの真であるかと云うのが問題なのであります。言葉を改めて云うと人類発展の痕迹こんせきはみんな一筋道に伸びて来るものだろうかとの疑問であります。もしそうだと云う断定ができれば日本の歴史すなわち西洋の歴史、西洋の歴史すなわち希臘ギリシャの歴史と云う事に帰着します。けれども多数の人は、これら各国の歴史を皆事実と首肯すると共に、ことごとく差違あるものと見傚みなすだろうと考えます。もっともこの各国の歴史から共通の径路を抽象して人類の発展の方向は必ず、こういう筋を通るものだとは云われましょう。しかしそれだからといって日本も、支那も、英吉利イギリスも、独乙ドイツも、同じ現象を同じ順序に過去でかえしているとは参らんのであります。あまり雲をつかむような議論になりますから、もう少し小さな領分で例を引いて御話を致しますが、日本の絵画のある派は西洋へ渡って向うの画家にはなはだ珍重されているし、また日本からはわざわざ留学生を海外に出して西洋の画を稽古けいこしています。そうして御互に敬服しあっています。両方で及ばないところがあるからでしょう。それは、どうでも善いが、日本の画を元のままでなげうっておいて、西洋の画を今の通っておいたら、両方の歴史がいつか一度は、どこかで出逢であう事があるでしょうか。日本にラファエルとかヴェラスケスのような人間が出て、西洋に歌麿うたまろや北斎のごとき豪傑があらわれるでしょうか。ちと無理なようであります。それよりも適当な解釈は、西洋にラファエルやヴェラスケスが出たればこそ今日のような歴史が成立し、また歌麿や北斎が日本に生れたから、浮世絵の歴史がああ云う風になったと逆に論じて行く方がよくはないかと存じます。したがってラファエルが一人出なかったら、西洋の絵画史はそれだけ変化を受けるし、歌麿がいなかったら、風俗画の様子もよほど趣が異なっているでしょう。すると同じ絵の歴史でもラファエルが出ると出ないとで二通り出来上ります。(事実が一通り、想像が一通り)風俗画の方もその通り、歌麿のあるなしで事実の歴史以外にもう一つ想像史が成立する訳であります。ところでこのラファエルや歌麿は必ず出て来なければならない人間であろうか。神の思召おぼしめしだと云えばそれまでだが、もしそう云う御幣ごへいかつがずに考えて見ると、三分の二は僥倖ぎょうこうで生れたと云っても差支さしつかえない。もしラファエルの母が、ラファエルの父の所へ嫁に行く代りにほかの男へとついだら、もうラファエルは生れっこない。ラファエルが小さい時腕でもくじいたら、もう画工にはなれない。父母が坊主にでもしてしまったら、やはりあれだけの事業はできない。よしあれだけの事業をしても生涯人に知らせなかったらけっして後世には残らない。して見ると西洋の絵画史が今日の有様になっているのは、まことに危うい、綱渡りと同じような芸当をして来た結果と云わなければならないのでしょう。少しでも金合かねあいが狂えばすぐほかの歴史になってしまう。議論としてはまだ不充分かも知れませんが実際的には、前に云ったような意味から帰納して絵画の歴史は無数無限にある、西洋の絵画史はその一筋である、日本の風俗画の歴史も単にその一筋に過ぎないという事が云われるように思います。これは単に絵画だけを例に引いて御話をしたのでありますが、必ずしも絵画には限りますまい。文学でも同じ事でありましょう。同じ事であるとすると、与えられた西洋の文学史を唯一の真と認めて、万事これに訴えて決しようとするのは少し狭くなり過ぎるかも知れません。歴史だから事実には相違ない。しかし与えられない歴史はいく通りも頭の中で組み立てる事ができて、条件さえ具足すれば、いつでもこれを実現する事は可能だとまで主張しても差支ないくらいだと私は信じております。
 そこで西洋の文学史を唯一の真と認めてかかるのは誤っていると、私は申したいのでありますが、ただそれだけなら別にここに述べ立てる必要もない。いざとなると西洋の歴史に支配されるかも知れませんが、普通頭の中で判断すれば西洋の文学史と日本の文学史とは現に二筋であって、両方とも事実で両方とも真であるのは誰が見ても分りやすい事でありますから、その辺はどうでも構いません。また一般に申して西洋の方が進んでいるから万事手本にするんだと言う人があっても構いません。私も至極しごく御同感であります。ただ歴史の解釈を私のようにした上で、西洋を手本にしたら間違が少なかろうと思うのであります。そうしないと弊が出てくる。そうしてその弊におちいって悟らずにいる事があります。
 たとえば十九世紀の前半に英国にスコットなる人があらわれて、たくさん小説をかきました。この人の作が一時期を画するような新現象であるために世人はこれをロマンチシズムの代表者と見傚みなしました。それで差し支ないのですけれども、一度こういう風にし立てられると、スコットは浪漫主義で浪漫主義はスコットであると云う風にアイデンチファイされるようになります。アイデンチファイされると、スコットの作にあらわれた要素はことごとく浪漫主義を構成するに必要でかつ充分(necessary and sufficient)なものと認められます。なるほどスコットの作中には中世主義もあります、冒険談もあります。種々な意味に解釈される浪漫主義の特色を含んでおりますが、困る事には多少の写実的分子も交っているのです。ところが写実主義というものは別に旗幟きしひるがえして浪漫派のむこうを張ってるんだから、両々対立の勢のためにせっかくスコットのもっている写実的分子を引き抜いて写実派の中へ入れてやる事ができなくなってしまう。また写実派の中に散見し得る浪漫的分子を切り放して、浪漫派の中に入れる事も困難になってしまう。そこでこの名称のために誤まられて彼らの作品は精製した金や銀のように純粋な性質で自然に存在していると思うようになります。ところが実際は大概まざりものなのであります。だから本来を云うなら、ここに浪漫主義なら浪漫主義、自然主義なら自然主義の定義があって、何人の作物でも構わないからして、この定義にかなっただけを持って来てこの主義のうちへち込むのが当然であろうと思われます。例えば白なら白と云う属性の概念があって、白墨、白紙、白旗、雪などという出来上ったもののうちから白と云う属性だけを引き抜いてこの概念の下に詰め込むのが至当でありましょう。しかるにただ色だけが白いからと云って、色の白いものは形や質や温度その他のいかんに関せずことごとく白のうちへ入れて、しかも外へ出る事を許さなかったら、統一のできるのは白という属性だけであるにも関せず、人はすべての点において統一されているかのごとく誤解をいだくのであります。白いものは白で区別してもつかえないから、これと同時に、形や質の点においても区別して、一個の具体を二重にも三重にも融通のくように取り扱わなくっては真相には達せられんはずであります。また一例を云うと、ここに一人の男がある。この人は学校へ出る。その時には教師の仲間へ入れて見なければなりません。筆をる。その時には著作家のむれするものと認めるのが至当であります。家へ帰る。すると夫とも親ともして種類別をしなければならない。この人は一人であるけれどもこれほどの種類へ編入される資格があるのであります。作物もその通りであります。これを分解し、これを綜合そうごうして、同一物のある部分を各適当な主義に編入するのが穏当おんとうであります。そんな錯雑した作物がないと云うのは過去の歴史だけを眼中に置いた議論でこれから先に作物の性質が、どのくらいに複雑な性質をかねてくるかをきわめない早計の議論かと思います。よし過去の作物だけについて検して見てもその作全体もしくはその人の作物総体をある一主義のもとに一括し得て妥当と認めらるるほどの単調なものばかりはないはずであります。しかるに歴史に束縛されるとこの分類がうまく行かない。なぜと云うと文学史で云う何々主義と云うのは理論から出たのでなくして、個人の作物から出たのであって、その作物の大体を鷲攫わしづかみにして、そうしてもっとも顕著に見える特性だけを目懸めがけて名を下したまでであります。元祖がすでにそうであるからして、継いで起るものの分類も、みんなこの格で何主義のもとに押し込められてしまう。厳正な類別でなくって、人別になってしまう。厳正な類別をやるには人を離れて、作をほごして、出来上ったものを取りくずしてかからなければなりません。因襲の結果歴史的の研究はこの方法を吾人に教えないのであります。つまりは幾通りとなく成立し得べき歴史のうちで実際に発展した歴史だけに重きを置いて、しかもほとんど偶然に出現した人間の作そのものをまったき成体で取りくずす事のできないものと見傚みなした上でその特色の著るしきものだけに何主義の名をもってする弊であります。だからこの際理論の方から這入はいれば成立し得るあらゆる歴史に通用する議論が立てられますし、またはユーゴーとか、バルザックとか云う名前で代表している作物を、一塊ひとかたまりの堅牢体で、塊まりとして取り扱うよりほかに手のつけられないものだと云う観念を脱する便宜もあり、また従来実際に発展した歴史から出て来た何々主義より以外には主義は存在し得べからざるものであるとの誤解もなくなるだろうと思います。
 (三)[#(三)は縦中横] もう一つ歴史的研究についての危険を一言単簡に述べておきたいと思います。主義を本位にして動かすべからざるものと見ますと、ぜん申した通り作家(すなわち作物さくぶつ)を取り崩してかからんと不都合が生ずるごとく、作家(すなわち作物)を本位として動かすべからざるものとすると、今度は主義の方にもって融通をつけなければなりますまい。融通をつけると云うと、一つの作物のうちには同時にいろいろな主義を含んでいる場合が多い、少なくとも含んでいる場合があり得るのですから、かような作物を批評したり分解したり説明したりする際には、一主義のもとに窮窟きゅうくつに律し去る習慣を改めて、歴史的には矛盾するごとくに見傚されている主義でも構わないから、これを併立せしめて、いやしくもその作物のある部分を説明するに足る以上はこれを列挙してはばからんようにしなければ、やはり前段同様の不都合に陥る訳であります。しかし歴史的関係から作物はそれ自身に whole なものとして取り扱われておりますし、何主義と云う名はこの whole な作物をおおう名称として用いられておりますから、妙な現象が起って参ります。ここに甲の人があってAと云う作物を出す。するとこの作物にB主義と云う名がつく。(多くの場合においてはこう一言にまとめられないにもかかわらず)次に乙なる人が出て来てA′[#「A′」は縦中横]と云う作物を公けにする。すると批評家がAとA′[#「A′」は縦中横]の類似の点を認めて、やはりB主義に入れてしまう。あるいは作家自身が自らB主義と名乗る場合もありましょう。どちらでも同じ事であります。第三にへいと云う男が出てA″[#「A″」は縦中横]を書く。A′[#「A′」は縦中横]とA″[#「A″」は縦中横]と似ているところからやはりB主義に纏められる。こう云う風にして、漸次ぜんじにAn[#「An」は縦中横、「n」は上付き小書き]まで行ったとすると、どんなものでありましょう。甲と乙とは別人であります。乙と丙とも別人であります。別人である以上はいくら真似まねを仕合ったところで全然同性質のものができる訳がない。いわんや各自が本来の傾向に従って、個性を発揮してかかった日には、どこかに異分子が混入して来る訳になります。しかもこの異分子もまたB主義の名におおわれてしだいしだいに流転るてんして行くうちには、B主義の意味が一歩ごとにれて、摺れるたびに定義が変化して、変化の極は空名に帰着するか、それでなければいたずらに紛々たる擾乱じょうらんを文壇に喚起する道具に過ぎなくなります。芭蕉ばしょうが死んでから弟子共が正風しょうふうの本家はおれだ我だと争った話があります。なるほど正風の旗をひるがえすのは、天下をはさんで事を成すようなもので当時にあって実利上大切であったかも知れませんがその争奪の渦中かちゅうから一歩退いて眺めたら全く無意味としか思われません。今私の申す弊は全く理知的の事で実利問題とは全く没交渉ではありますが、転々承継した主義を一徹に主張すると、少なくともその形迹けいせきだけは芭蕉以後の正風争いと同価値に終るようになりはせぬかと思われます。もっともこんな事は我々の日常よくある事で、友人と一時間も議論をしているといつの間にか出立地を忘れて、飛んでもない無関係の問題に火花を散らしながらごうも気がつかない場合は珍しくないようです。AとA′[#「A′」は縦中横]とは似ている。だから双方共B主義でもまあよろしい。A′[#「A′」は縦中横]とA″[#「A″」は縦中横]とも似ている。だから双方共まあB主義でよろしい。くだってAn-1[#「An-1」は縦中横、「n-1」は上付き小書き]とAn[#「An」は縦中横、「n」は上付き小書き]とを比較するとやはり似ている。だから双方とも依然としてB主義で差支さしつかえないようなものの、最初のAと最終のAn[#「An」は縦中横、「n」は上付き小書き]を対照した時に始めて困る。何だかB主義では足りないような心持がします。スコットの浪漫趣味とモリスの浪漫趣味とは大分違うようです。モリスはチョーサーに似ていると云います。そのチョーサーは詩人ではあるが写実派と云う方が適当であります。すると浪漫主義を中世主義と解釈せぬ以上はスコットとモリスとを同じ浪漫派に入れるのが妙になって来ます。今度はモリスとゴーチェを比較する。誰が見ても同じ範疇はんちゅうでは律せられそうもない。それでも双方共浪漫家で通用しています。ある人の説によると仏蘭西フランスの自然派は浪漫派を極端まで発展させたもので、けっして別途の径路をたどるものではないと申します。そうなると自然派は浪漫派の出店みたようなものになってしまいます。イブセンをつらまえて自然派だと云う人があります。どうもイブセンとモーパサンとはいっしょにならないように思われます。そうかと思うとイブセンを浪漫派だと申す人があります。しかしイブセンとユーゴーとはとうてい同じはたけのものじゃないようであります。要するに二三の主義をどこまでも押し通して、あらゆる作物をどっちかへ片づけようとする無理から起ったものじゃないかと考えられます。イブセンならイブセンを本位として、説明するには、在来の何々主義(しかもそのうちの一つ)で足りると思うのは、また足りなければならないと思い定めてかかるのは、やはり歴史的研究の弊を受けたものではなかろうかと愚考致します。それで少々出立地を変えて見たら、この窮屈を破ると同時にこの曖昧あいまいをも幾分か避けられるだろうと思います。

[1] [2] [3] [4] 下一页  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告