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琴のそら音(ことのそらね)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 8:45:49  点击:  切换到繁體中文


 どこをどう歩行あるいたとも知らず流星のごとく吾家わがやへ飛び込んだのは十二時近くであろう。三分心さんぶしんの薄暗いランプを片手に奥から駆け出して来た婆さんが頓狂とんきょうな声を張り上げて「旦那様! どうなさいました」と云う。見ると婆さんはあおい顔をしている。
「婆さん! どうかしたか」と余も大きな声を出す。婆さんも余から何か聞くのがおそろしく、余は婆さんから何か聞くのが怖しいので御互にどうかしたかと問い掛けながら、その返答は両方とも云わずに双方とも暫時ざんじにらみ合っている。
「水が――水が垂れます」これは婆さんの注意である。なるほど充分に雨を含んだ外套がいとうすそと、中折帽のひさしから用捨なく冷たい点滴てんてきが畳の上に垂れる。折目おれめをつまんでほうり出すと、婆さんの膝のそば白繻子しろじゅすの裏を天井に向けて帽がころがる。灰色のチェスターフィールドを脱いで、一振り振って投げた時はいつもよりよほど重く感じた。日本服に着換えて、身顫みぶるいをしてようやくわれに帰った頃を見計みはからって婆さんはまた「どうなさいました」と尋ねる。今度は先方も少しは落ついている。
「どうするって、別段どうもせんさ。ただ雨に濡れただけの事さ」となるべく弱身を見せまいとする。
「いえあの御顔色はただの御色では御座いません」と伝通院でんずういんの坊主を信仰するだけあって、うまく人相を見る。
「御前の方がどうかしたんだろう。ッきは少し歯の根が合わないようだったぜ」
「私は何と旦那様から冷かされても構いません。――しかし旦那様雑談事じょうだんごとじゃ御座いませんよ」
「え?」と思わず心臓が縮みあがる。「どうした。留守中何かあったのか。四谷から病人の事でもなんか云って来たのか」
「それ御覧遊ばせ、そんなに御嬢様の事を心配していらっしゃる癖に」
「何と云って来た。手紙が来たのか、使が来たのか」
「手紙も使も参りは致しません」
「それじゃ電報か」
「電報なんて参りは致しません」
「それじゃ、どうした――早く聞かせろ」
「今夜は鳴き方が違いますよ」
「何が?」
「何がって、あなた、どうもよいから心配でたまりませんでした。どうしてもただごとじゃ御座いません」
「何がさ。それだから早く聞かせろと云ってるじゃないか」
「せんだってじゅうから申し上げた犬で御座います」
「犬?」
「ええ、遠吠とおぼえで御座います。私が申し上げた通りに遊ばせば、こんな事にはならないで済んだんで御座いますのに、あなたが婆さんの迷信だなんて、あんまり人を馬鹿に遊ばすものですから……」
「こんな事にもあんな事にも、まだ何にも起らないじゃないか」
「いえ、そうでは御座いません、旦那様も御帰り遊ばす途中御嬢様の御病気の事を考えていらしったに相違御座いません」と婆さんずばと図星ずぼしを刺す。寒いが闇にひらめいてひやりと胸打むねうちを喰わせられたような心持がする。
「それは心配して来たに相違ないさ」
「それ御覧遊ばせ、やっぱり虫が知らせるので御座います」
「婆さん虫が知らせるなんて事が本当にあるものかな、御前そんな経験をした事があるのかい」
「あるだんじゃ御座いません。昔しから人がからすきが悪いとか何とかく申すじゃ御座いませんか」
「なるほど烏鳴きは聞いたようだが、犬の遠吠は御前一人のようだが――」
「いいえ、あなた」と婆さんは大軽蔑だいけいべつ口調くちょうで余のうたがいを否定する。「同じ事で御座いますよ。ばあやなどは犬の遠吠でよく分ります。論より証拠これは何かあるなと思うとはずれた事が御座いませんもの」
「そうかい」
「年寄の云う事は馬鹿に出来ません」
「そりゃ無論馬鹿には出来んさ。馬鹿に出来んのは僕もよく知っているさ。だから何も御前を――しかし遠吠がそんなに、よく当るものかな」
「まだ婆やの申す事をうたぐっていらっしゃる。何でもよろしゅう御座いますから明朝みょうあさ四谷へ行って御覧遊ばせ、きっと何か御座いますよ、婆やが受合いますから」
「きっと何かあっちゃいやだな。どうか工夫はあるまいか」
「それだから早く御越し遊ばせと申し上げるのに、あなたが余り剛情を御張り遊ばすものだから――」
「これから剛情はやめるよ。――ともかくあした早く四谷へ行って見る事にしよう。今夜これから行っても好いが……」
「今夜いらしっちゃ、婆やは御留守居は出来ません」
「なぜ?」
「なぜって、気味きびが悪くっていてもってもいられませんもの」
「それでも御前が四谷の事を心配しているんじゃないか」
「心配は致しておりますが、私だって怖しゅう御座いますから」
 折から軒をめぐる雨の響に和して、いずくよりともなく何物か地をうてうなり廻るような声が聞える。
「ああ、あれで御座います」と婆さんがひとみえて小声で云う。なるほど陰気な声である。今夜はここへ寝る事にきめる。
 余は例のごとく蒲団ふとんの中へもぐり込んだがこの唸り声が気になってまぶたさえ合わせる事が出来ない。
 普通犬の鳴き声というものは、後も先も鉈刀なたち切った薪雑木まきざつぼうを長くいだ直線的の声である。今聞く唸り声はそんなに簡単な無造作むぞうさの者ではない。声の幅に絶えざる変化があって、曲りが見えて、丸みを帯びている。蝋燭ろうそくの細きより始まって次第に福やかに広がってまた油の尽きた灯心とうしんの花と漸次ぜんじに消えて行く。どこで吠えるか分らぬ。百里の遠きほかから、吹く風に乗せられてかすかに響くと思うに、近づけば軒端のきばれて、枕にふさぐ耳にもせまる。ウウウウと云う音が丸い段落をいくつもつらねて家の周囲を二三度めぐると、いつしかその音がワワワワに変化する拍子、き風に吹きけられてはるか向うに尻尾しっぽはンンンと化して闇の世界にる。陽気な声を無理に圧迫して陰欝いんうつにしたのがこの遠吠である。躁狂そうきょうな響を権柄けんぺいずくで沈痛ならしめているのがこの遠吠である。自由でない。圧制されてやむをえずに出す声であるところが本来の陰欝、天然の沈痛よりも一層いやである、聞き苦しい。余は夜着よぎの中に耳の根まで隠した。夜着の中でも聞える。しかも耳を出しているより一層聞き苦しい。また顔を出す。
 しばらくすると遠吠がはたとやむ。この夜半やはんの世界から犬の遠吠を引き去ると動いているものは一つもない。吾家わがやが海の底へ沈んだと思うくらい静かになる。静まらぬは吾心のみである。吾心のみはこの静かな中から何事かを予期しつつある。されどもその何事なるかは寸分すんぶんの観念だにない。しょうの知れぬ者がこの闇の世からちょっと顔を出しはせまいかという掛念けねんが猛烈に神経を鼓舞こぶするのみである。今出るか、今出るかと考えている。髪の毛の間へ五本の指を差し込んでむちゃくちゃにいて見る。一週間ほど湯にはいって頭を洗わんので指のまたが油でニチャニチャする。この静かな世界が変化したら――どうも変化しそうだ。今夜のうち、夜の明けぬうち何かあるに相違ない。この一秒を待って過ごす。この一秒もまた待ちつつ暮らす。何を待っているかと云われては困る。何を待っているか自分に分らんから一層の苦痛である。頭から抜き取った手を顔の前に出して無意味にながめる。爪の裏があかで薄黒く三日月形に見える。同時に胃嚢いぶくろが運動を停止して、雨に逢った鹿皮を天日てんぴし堅めたように腹の中が窮窟きゅうくつになる。犬がえればいと思う。吠えているうちはいやでも、厭な度合が分る。こう静かになっては、どんな厭な事が背後に起りつつあるのか、知らぬかもされつつあるか見当けんとうがつかぬ。遠吠なら我慢する。どうか吠えてくれればいいと寝返りを打って仰向あおむけになる。天井に丸くランプの影がかすかに写る。見るとその丸い影が動いているようだ。いよいよ不思議になって来たと思うと、蒲団ふとんの上で脊髄せきずいが急にぐにゃりとする。ただ眼だけを見張って、たしかに動いておるか、おらぬかを確める。――確かに動いている。平常ふだんから動いているのだが気がつかずに今日きょうまで過したのか、または今夜に限って動くのかしらん。――もし今夜だけ動くのなら、ただごとではない。しかしあるいは腹工合はらぐあいのせいかも知れまい。今日会社の帰りにいけはたの西洋料理屋で海老えびのフライを食ったが、ことによるとあれがたたっているかもしれん。詰らん物を食って、ぜにをとられて馬鹿馬鹿しいせばよかった。何しろこんな時は気を落ちつけて寝るのが肝心かんじんだと堅く眼を閉じて見る。すると虹霓にじにして振りくように、眼の前が五色の斑点でちらちらする。これは駄目だと眼をくとまたランプの影が気になる。仕方がないからまた横向になって大病人のごとく、じっとして夜の明けるのを待とうと決心した。
 横を向いてふと目に入ったのは、ふすまの陰に婆さんが叮嚀ていねいに畳んで置いた秩父銘仙ちちぶめいせんの不断着である。この前四谷に行って露子の枕元で例の通り他愛たわいもない話をしておった時、病人がそで口のほころびから綿が出懸でかかっているのを気にして、よせと云うのを無理に蒲団の上へ起き直って縫ってくれた事をすぐ聯想れんそうする。あの時は顔色が少し悪いばかりで笑い声さえ常とは変らなかったのに――当人ももうだいぶくなったから明日あしたあたりからとこを上げましょうとさえ言ったのに――今、眼の前に露子の姿を浮べて見ると――浮べて見るのではない、自然に浮んで来るのだが――頭へ氷嚢ひょうのうせて、長い髪を半分らして、うんうんうめきながら、枕の上へのり出してくる。――いよいよ肺炎かしらと思う。しかし肺炎にでもなったら何とか知らせが来るはずだ。使も手紙も来ない所をもって見るとやっぱり病気は全快したに相違ない、大丈夫だ、と断定して眠ろうとする。合わすひとみの底に露子の青白い肉の落ちた頬と、くぼんで硝子張ガラスばりのようにすごい眼がありありと写る。どうも病気はなおっておらぬらしい。しらせはまだ来ぬが、来ぬと云う事が安心にはならん。今に来るかも知れん、どうせ来るなら早く来ればい、来ないか知らんと寝返りを打つ。寒いとは云え四月と云う時節に、厚夜着あつよぎを二枚も重ねて掛けているから、ただでさえ寝苦しいほど暑い訳であるが、手足と胸のうちは全く血の通わぬように重く冷たい。手で身のうちをでて見るとあぶらと汗で湿しめっている。皮膚の上に冷たい指がさわるのが、青大将にでもわれるように厭な気持である。ことによると今夜のうちに使でも来るかも知れん。
 突然何者か表の雨戸をれるほどたたく。そら来たと心臓が飛び上ってあばらの四枚目をる。何か云うようだが叩く音と共に耳を襲うので、よく聞き取れぬ。「婆さん、何か来たぜ」と云う声の下から「旦那様、何か参りました」と答える。余と婆さんは同時に表口へ出て雨戸を開ける。――巡査が赤い火を持って立っている。
「今しがた何かありはしませんか」と巡査は不審な顔をして、挨拶もせぬ先から突然尋ねる。余と婆さんは云い合したように顔を見合せる。両方共何とも答をしない。
「実は今ここを巡行するとね、何だか黒い影が御門から出て行きましたから……」
 婆さんの顔は土のようである。何か云おうとするが息がはずんで云えない。巡査は余の方を見て返答をうながす。余は化石のごとく茫然ぼうぜんと立っている。
「いやこれは夜中やちゅうはなはだ失礼で……実は近頃この界隈かいわいが非常に物騒なので、警察でも非常に厳重に警戒をしますので――ちょうど御門が開いておって、何か出て行ったような按排あんばいでしたから、もしやと思ってちょっと御注意をしたのですが……」
 余はようやくほっと息をつく。咽喉のどつかえている鉛のたまが下りたような気持ちがする。
「これは御親切に、どうも、――いえ別に何も盗難にかかった覚はないようです」
「それならよろしゅう御座います。毎晩犬が吠えておやかましいでしょう。どう云うものか賊がこのへんばかり徘徊はいかいしますんで」
「どうも御苦労様」と景気よく答えたのは遠吠が泥棒のためであるとも解釈が出来るからである。巡査は帰る。余は夜が明け次第四谷に行くつもりで、六時が鳴るまでまんじりともせず待ち明した。
 雨はようやく上ったが道は非常に悪い。足駄あしだをと云うと歯入屋へ持って行ったぎり、つい取ってくるのを忘れたと云う。靴は昨夜ゆうべの雨でとうてい穿けそうにない。構うものかと薩摩下駄さつまげたを引掛けて全速力で四谷坂町までけつける。門はいているが玄関はまだ戸閉りがしてある。書生はまだ起きんのかしらと勝手口へ廻る。清と云う下総しもうさ生れのほっペタの赤い下女がまないたの上で糠味噌ぬかみそから出し立ての細根大根ほそねだいこんを切っている。「御早よう、何はどうだ」と聞くと驚いた顔をして、たすきを半分はずしながら「へえ」と云う。へえではらちがあかん。構わず飛び上って、茶の間へつかつか這入り込む。見ると御母おっかさんが、今起き立の顔をして叮嚀ていねい如鱗木じょりんもくの長火鉢をいている。
「あら靖雄やすおさん!」と布巾ふきんを持ったままあっけに取られたと云う風をする。あら靖雄さんでもらちがあかん。
「どうです、よほど悪いですか」と口早に聞く。
 犬の遠吠が泥棒のせいときまるくらいなら、ことによると病気もなおっているかも知れない。癒っていてくれればいがと御母さんの顔を見て息を呑み込む。
「ええ悪いでしょう、昨日きのうは大変降りましたからね。さぞ御困りでしたろう」これでは少々見当けんとうが違う。御母さんのようすを見ると何だか驚いているようだが、別に心配そうにも見えない。余は何となく落ちついて来る。
「なかなか悪い道です」とハンケチを出して汗をいたが、やはり気掛りだから「あの露子さんは――」と聞いて見た。

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